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作品名:部屋の隅から甘い香りが流れてきて 作者:あきら

第1回   1
部屋の片隅から甘い香りが流れてきて、人間の優しさや思いやりに
触れる思いで、進はそれを嗅いでいた。ベッドに横たわり、曖昧な
意識はその中で現実に引き戻されてきた。眠りから覚める時のよう
に周りがはっきりとしてくる中で、いつもの面会時間の始め、午後
2時過ぎに「夕子、夕子」と呼ぶ男性の声を思い出した。その父親が
娘のために置いていった花の香りなのだろう。その優しい声の印象
と違い、大柄の初老の男性とその傍に影のように寄り添う、これも
小太りの小さな母親を、思い出した。この病棟なので、精神の病の
はずだか、その名前の女性も母親似なのかなと進は思っていた。そ
の両親が持ってきた、白い百合の濃い匂いで進は午後の眠りから
目覚めたのだった。それからいつものように部屋の天井を隅から隅
まで、目で追いかけた。新しい染みひとつない綺麗な白色に塗り込め
られた、両端の平行な線を追いながら、進は安心感に浸っていた。目
覚めた後の不安が消えていくのを、穏やかな気分になりながら、ベッド
の背後、目で追えない大きな窓を見ようとした。そこから差し込む光の
具合に、すっきりとしに四角の窓を確認すると、進はずいぶんと落ち着いた
気持ちになり、再び、目を閉じた。人間を連想させるものがなにもない
病室だったので、進はその甘い香りを警戒心なしに受け入れることができ
たのかもしれない。長方形の天井の、四隅の直角を確認しながら、進は
やはり死ななかったと確認をした。体中の痛さと熱の引かない頭の痛さが、
焼身自殺に失敗をしたことを教えていた。灯油を服にかけ、ライターで火を
つけても死ななかったと、そのときの恐怖と炎の色、その後、意識が
途切れてから、もう一月以上経っていることには気がつかなかったが、
まだ、確かに生きているのはわかった。火傷を負った上半身への皮膚の
移植、何度かそれを繰り返し、最初は死人の皮膚、それから、自身の
太腿の皮膚、剥がれた部分にはもう一度移植と、無菌室の病室にいなが
意識のない状態でつづいていた。毎朝、一時間以上をかけて石鹸を全身に
つけて、ビニールの手袋での洗浄は、感染症の予防ということだった。
身体はもちろん、動かせなかったが、声も人工呼吸器の設置のために
出せない中で、その甘い香りにほっとして、身勝手なことだったが、
人の暖かさを感じて、目じりからひとすじ、恥ずかしくも涙から落ちるのを
止められなかった。それを自分で拭き取れないので、恥ずかしかったのだ。
 次に目が覚めたのは、反対側からのベッドから激しい叫び声でだった
驚くほどの強い口調で、「ダメだよ、お母さん死んじゃ」と女性の甲高い、
緊張感のこもった声が、熱風の中に響いた。「この前は元気に歩いていたじゃ
ないの、まだ、死んじゃだめだよ。美味しいものを食べたいって言ってた
じゃない」と、その女性の声だけが矢継ぎ早に、空気を切り裂くように響いてきた。
病床の母親に抱き着いているのだろうか、押しつぶされた声がだんだんと高くなり、
涙声になってきた。周りにも人がいるだろうになと、進は死の恐怖を思い出しながら、
そんなにも取り乱して、叫んでくれるものなのだと思った。火照った体と痛みの止まらない頭で、また、気恥ずかしい思いになった。一歩、一歩を踏みしめる靴音を聞きながら
それてたぶん医師のものだったろうが、その冷たい響きのほうが進を落ち着かせた。
幼馴染の透は、進の隣の家、とは言っても、屋敷畑を挟み、道も間にあったので
百メートルほど離れていたかもしれないが、2つ年上の、頼もしい存在だった。
大人しい進と違い、ガサツなくらいの性格の透は、羨ましく感じていた。ただ、
旧家の一人息子の進とちがい、その家は、青いトタン屋根の、その凹凸さえもみじめに
見える小さな家だった。まわりの林のなかで、柱が傾いているように見えるその家は
いつも、街路灯がついても、いつまでも明かりのつかない家だった。庭というか、林
というか区別のつかない気に、小さな毛の抜けた犬が縛り付けられて、いつもしゃがんでいた。透に似たその母親は、大きな声で、すぐに子供たちを𠮟りつけるような明るい
女性だった。囲いもない、斜めになった家の前の小さな庭もそのために、明るい逞しさを見せつけていた。また、透には3歳年上の、母親に似て丸い太った、肌のつややかな
姉がいた。縮れ気味の髪を短くして、頬はいつも寒風にただれように赤味を帯びているのに、進はなにか、彼女を見ると気軽に話しかけるのが憚れるような気持ちになった。学校から戻ると、まっすぐにその家に行き、日が暮れるまで遊んでいるのが常だった。
戸を開けると、薄暗い中にその真ん中にいつも、初老の男性、透の父親なのでそんな
年でもなかったと思うが、肌が干からびたようになりその色のひどく悪い男性が座っていた。最初、それを勢いよく駆け込んだ時には、驚いたが、透から「父ちゃんは死に損なって、こうなっちゃったんだよ。死にたい、死にたいってのが口癖で、ある日、はたりと
いなくなったんだ。それで戻ってきたらこんなになってた」あっけらかんとしたその言い方に、進もそんなものかと思った。よく見ると、痩せてはいたが、彫の深い端正な
顔立ちで、長身を折りたたむようにして、座っていた。いつしか、そのなにもしゃべらない透の父親を気に掛けなくなっていたが、干からびた肌の奥の目は、いつも半分開いてて
黒目が、意識とは無関係に動き続けているので、進と目が合う時があった。そんなとき、
人の目が、眼球というように球形になっているのがよくわかり、その滑らかな丸みの上を
黒い目が漂っていた。ずいぶんと綺麗な球面をそれは丁寧になぞっていた。「父ちゃん、ただいま」と勢いよく駆け上がっていく透の後を、進も、いつも人と接するときに感じる
怖気を気にせずに、小さく頭を下げていた。その声に、土間の方から弟が「兄ちゃん、お
帰り」と肉厚の頬を嬉しそうに膨らませながら、駆け寄ってくる。この家の人は、みんな
肉の厚い健康的な肌をしている。坊主頭ごと、日焼けして黒光りをする身体を兄にとぶつけていった。転びそうになりながら、透はそれを受け止めると、「今日も裏山に行くぞ」と
進と弟に叫んでいた。すばやく、彼らの父親を盗み見て、自分のほうが幸せなんだと言い聞かせてから、進も走り出していた。それから、3人は密かに秘密基地と呼んでいる
木の上の粗末な基地に向かった。幹の中腹の枝に、木を組み合わせただけのものだったがそこに腰を下ろして、放課後を過ごすのが彼らの楽しみだった。太い枝に作ったその
見晴らし台から、何時間でも辺りを見回していた。目の前に広がる田んぼとその向こうの
紙を張り付けたような利根川の堤防の小さな連なり、そして、この林から延びた小高い木々と、なんの変哲もない平凡な眺めだったが、その空の向こうに違う世界を夢見ていたのだ。。広すぎるその青空を飛ぶに鷹に驚いて、透の弟がずり落ちそうになった時もあったが、丸い方を膨らませて、すぐにこにこしながら昇ってきた。その日は、その裏山に入るとすぐに、先頭を駆け上がっていた弟で、地面の上に動くものを見つけた。枝と落ち葉と草むらででこぼことしたうえをそれが、ゆっくりと這うように動いている。ぱたりと足を止めると、それを指さして、あれなんだろうと、兄の透と進のほうを振り向いた。落ち葉をすりつぶす、細かな音を響かせて移動しているそれは、明らかに蛇、青大将だったが、その
腹の部分、頭と尻尾を異様に細く見えるほど、膨らんでいたのだ。歪んだ球形のそこに、
肌がいっぱいに引き伸ばされたそこに、薄い空間を忍ばせたような透明な肌は、青い縞模様の肌を内側から照らされたように浮きただせていた。「何かを飲み込んだんだろうな」、
ゆっくりと這い進む、その尻尾を踏みつけて、透が言うと、蛇は頭をもたげて、苦しそうに舌を宙に突き出した。怒りの表情で目を見開いていたが、それは、ひどく緩慢な動作に見えた。ゆっくり首を捻り、透を睨みつける、草とおなじ色のその肌に黒の模様が際立ち、
怒気を含んだ瞳を丸くむき出しにした。2mともありそうな、その丸くて太い身体が光って
いた。「澄、太い枝を探してこい」、弟に透はそう叫んでいた。何が入っているか、取り出してみる、蛇のからだを尻尾ほうから押しつぶすのに都合よい枝を進も急いで、探し始めた、太くて、コブのあるのを差し出すと、蛇を踏みつけたままの透と、気持ちを高めように一瞬、険しい表情になった。足に力が入ったのか、縞模様の中で、細く切れ長の舌が、丸みを帯びながら口から出てきた。赤い切り絵のような舌とぬめり毛を増した肌、その中で赤い目が強い怒気を含んで、睨み返してきた。逃げ出したい思いなのに、進はそこから自然を外すことができなかった。尻尾の先にそれを押し付けようとしたときに、兄ちゃんと澄の甲高い、女の子のような声が響いてきた。辺りを引き裂くように届いたその声に、透も進も一緒に振り向くと、太い枝を嬉しそうに頭上に掲げながら、嬉しそうに、顔を揺らしながら澄が駆けてきた。あの肉付きのよい頬が、まわりの空気を擦るようにして微笑んでいた。林のなかの薄暗さがそこだけ明るくなったように見えた。こっちの方がいいかな、とあっけなく、変更をしてしまった。枯れ枝にしては黒光りするそれは確かに、透のものより丈夫そうに見えたし、ずっと太かった。よし、澄、向こうを押さえろや、50cm
と程棒を転がし、その腹の膨らみ、獲物のところまで来ると進が声をかけた。興奮して顔を火照らせ澄は、飛び跳ねる様にしてその棒の端にしゃがむと目を光らせて、青大将の大きな腹を見つめた。肩を怒らせて、盛り上がった上に、太くて短い首が乗っていた。肥えた背中と丸い首、そして、頭の格好まで、大きさの違いはあったが、そっくりだった。その兄弟のそばから、気づかれないようにして、自分の枝を拾うと進は静かにそれを背後に投げ捨てた。枯れ葉を叩く乾いた音を確かめてから、華奢なからだ付きの細長い首を、ふたりの間に押し込んでいった。兄弟のくっついた頭の向こうに、蛇の腹の中を丸いものがゆっくりと動くのが見えた。蛇はもう一度、首を上げると苦しそうに舌を突き出した。その赤い切れ長の舌の向こうに、林の中のその空間だけが、この世の世界から向こうの世界へと空間が、瞬間、浮かび出たように、そこに首を押し進めるかのように、艶やかな肌の頭を、流線形のさきの丸まった頭を、数度、宙で揺らしした。貴重な獲物を飲み込んだ幸せのあとに、起きている悲劇が理解できないようにして、突き出した舌を赤い炎のように、草むらの緑色の向こうに上下に突き出している。青い肌のまだら模様のなかで、恐怖のためか、苦痛のためか、目だけが異様に力をおびで、鮮明に見えた。「きっと、野兎でも飲み込んだんだろうな」独り言にしては強すぎる口調で、透はつぶやいた。澄が無言で頷くのを、進も黙ったままで見ていた。棒に押されて、その獲物がゆっくりと動くたびに、蛇も左右に体を揺らしている。扁平になり地面に張り付いている後ろ側と丸みを持った環状の上半身と、それを境にして、蛇の姿は一変していた。それはあたかも死後の世界と生の世界の象徴のようだった。この大きさなら、子供かもしれないな、落ち着きを取り戻したのか冷静な口調になり、透がいう声が、ひどく遠くまでこの林の中を響き渡るように思えた。皮をいっぱいに伸ばして、身体の模様を歪めながら進むその部分に、白い、それが蛇のものか、獲物の色か分からなかったが、浮かび上がるのを見ながら、3人はその移動をかたずを飲んで見守っていた。首のところまで来た時、もう一度、蛇は異様に大きく口を開けると、はたりとそれまで、空間に立てていた顔を落とした。濁った、焦点の定まらない目にそれは変わっていた。白い、濁った液体のあとに、まだ毛がところどころに残ったこれも
白と赤の肉の塊が出てきた。その瞬間、わっと、澄は手を離し飛び跳ねてしまい、進もその溶け始めの肉の饐えた匂いに顔を背けた。透だけが、まだ棒を押し続けて、扁平に押しつぶされた蛇の過去から、その体から、溶けだした生き物を地面にと取り出そうとしていた。ソフトボールより、やや大きい野兎が、溶けだした体とそれに張り付いた、丸まった毛、それにところどころに赤い肉をまるで、まだら模様に様に写しだしながら出てきた。
それは、やはり、生き物ではなかった。丸いひとつの肉の塊にすぎなかった。薄い茶色の毛を数本張り付かせてそれは、目も口も鼻もわからなかったが、溶けて白いその塊全体に
淡いピンク色が広がり、それが生き物だったことを示していた。その前で、押しつぶされた体を地面にだらりと伸ばしている蛇も、目も口ももう惨めなほどに開いたままにして、横たわっていた。やっぱり、子供だな、上手く飲み込まれんだろうな、消化途中の嫌なにおいの広がりから、身を離す様にしながら、立ち上がると透は、つまらならそうにもう一度、呟いた。消化液につつまれ溶けた野兎の子供も押しつぶされた蛇の体も、進は興奮が急速に静まっていく中、目を離せないでいたが、その地面に伸びた鋭い赤い舌が、尖った歯先から放り投げられたように伸びている姿は、あの瞬間、最後の瞬間、宙に向けたその舌の先の現れた、向こう側の世界から投影された映像のようだった。宙に浮いた舌先に、
確かに表れた、その部分だけ光の具合を変えた空間、そこから見ている姿のように感じられた。林の中に現れた、あの一部分に現れた空間から送られた映像なんだから、それは惨めでも嫌なものでも、まして、醜いものでもなかった。こちらの世界から見た、ついその数時間、もしくは、数十分先の姿と違うのは、むしろ自然なことだった。兄ちゃん、もう行こうよ、また、女の子のような高い、細い声が、その情景を駆け抜けて行った。その響きが突き抜けると、一瞬現れたように思えた、空中の向こうの世界、その空間は閉じていた。そうだな、透は靴の先で、その白い塊にそうするのが礼儀のように、ひとかき、枯れ葉を押しかけると、もう走り出していた。蛇の上に現れた、強い光の屈折により現れたその不思議な空間が消えているのを確かめる、もういつも見ている林の姿しかどこにもなかった、透の去った後に、進み出て、おなじように枯れ葉をひとかき、蹴り上げると、進もあとを追いかけだした。ひどくつまらなそうだった、透のその声が気持ちを落ち着かせてくれた。緑の木々、その葉を突き抜けて、差し込んでくる太陽の光は、何本かの束に分かれていたが、確かにどこまでも真っ直ぐに伸びていた。
 進たちが秘密基地から戻ったのは、夕日が落ちて、辺りが色彩を失い、明かりも点く一時すべてが黒い線で縁取られる頃だった。西の空の雲が、夕焼けを背景にして、群青色、
濃い影となり、浮き立つのを見て、3人は地面にと降り始めたのだ。明かりの点くのが遅い、透の家の中は薄暗かった。その奥から、「透、澄、どこに行ってたんだ。まず、手さ洗ってこい来い」と、姉の太い、それでいて弾むような柔らかい声が聞こえてきた。芋さ、蒸かしたから食べろ、後に続く進の姿を見つけると、「進ちゃんも食べて行ったらいいよ」といつもの、太った頬を、その肉付きのよい肌を揺らすようにして笑顔を作った。土間から透の父親のいる小さな部屋を駆け抜けて、そちらの方に行こうとすると、方向の定まらない、いつもの眼球を滑るようにして動く瞳が、それは進の気のせいだったが、三人を追いかけている様に見えた。次の瞬間、苦しそうにして、開いた口から吐き出すような、呻き声を出した。姿勢を起こして、透の母親がなにか、管のようなものをそこに押し込んでいた。「痰を吸い取ってるんだよ、ああしないと父ちゃん、死んじゃうんだって」透が駆けながら、そう説明をしてくれた。驚いた表情をすぐに、ひっこめて、進もこの家ではそれが日常なんだと、その口調から、そっけない言い方から分かった。少し投げやりなその声が、父親の肌のしなびたような、それは木の肌のようにも見える、乾いた上にもかすかに届いたはずだ。開けた唇にも生気がなく、濁った赤い色と、いつもの異様な目の動き、抱えられたその体は、木の様にも、動物でもなく植物のようにも見えたが、体全体からは、あの押しつぶされた蛇の体のような気配を進には感じられた。まだこちら側にいるが、向こう側の世界に行く過程をゆっくりとスローモーションのように、それも時間をとめたスローモーションのように、その一瞬、一瞬を映し出しているように、その止まった場面がそこにあるように見えた。八畳間のそこは、すぐに子供の足でも通り抜けてしまい、その姿が消えてしまうと、そんな思いも消えていた。ほら、台所から蒸かしたサツマイモをひとつ、進の手の上に透が載せてくれた。それを、透が食べ始めるかどうかという時、澄がもう、お姉ちゃん、もうひとつと、天井の低い、それは斜めだったが、ビニールのテーブルカバーを乗せるともうそれだけでいっぱいになるような、台所の隅を縫うように駆けだしていた。
窓に向かい料理をしていた美也子は、振り返り、もう食べたのか、ごはんまで待ってろ、
あの太い、柔らかな声で弟を振り払おうとする。丸い血色のよい方が膨らんだり、萎んだりしている。その福与かな顔に、だって、俺の、小さかったよと不服を言うのを聞いて、透は自分のを半分に折ろうとした。一番、小さいんだからそれで、いいんだよ、また、母親のような口調で、なにか優しい響きだったが、そう返していた。澄、止めろ、透も止めようとするのを聞かず、掛け始めているその姿の向こうで、美也子、細かくウインナーソーセージを切っているのが見えた。「そうか、今日はカレーなんだ、それなら我慢するよ」と振り向いて、姉にそっくりの丸い、太った頬を揺らしながら、澄が笑っていた。肉じゃないんだと、二つに折ったそれを口に入れながら、その思いを気づかれないように進は急いで頬張りながら、いいなぁと口いっぱいに押し込んだままで、だれにともなく呟いた。見てはいけなかったという気まずさが、それは、進だけの思いだったかもしれないが、どうしてもその気配を消したくて、それは自分自身への嫌悪だったのかもしれないが、わざと口に出していた。透の母親が戻ってくると、「進ちゃん、それ食べたら、家に帰ったほうがいいよ」また、叱られるでしょと、いつものことを言ってきた。カレーの様子を見ようと太った、丸い背中に見せているところに、はい、これ全部、食べちゃいますねと、嫌に細く、曲がって見えたが、その薩摩芋の両手を突き出していた。
 銅板屋根の門をくぐると、夢中で進は庭を駆けだしていた。ちょうど、裏の畑から木戸を潜って戻ってくる母親を見つけると、その体に体当たりをするように、飛び込んでしまった。なになにと、両手に泥のついた長ネギを持った母親は、頬被りをした手ぬぐいの柔らかに膨らんだ頭を揺らしていたが、そのからだが、どの母親よりもふっくらした見え、歩くたびに風に揺れる様になるその姿が、子供ながら進の自慢だった。「ほら、また、何をしているの」まず、家に入って、手を洗いない、また、透の家に行っていたのを叱らたくないとくっつけた体を引き離そうとした。透と遊ぶのはいいが、決っして、中にまで入ってとダメだぞと、穏やかな母親が怖い顔で、言い聞かせていたのだ。そんな母親の像が飛び出ないように、そして、今見てきた、林の中の死体となった蛇の姿、いつでも薄暗い部屋座っている透の父親の姿、その不安をぶつける様にして、母親にしがみ付いた。暖かな体の感触とともに、畑だろう土の匂い、母親の肌にしがみつついた、その柔らかな肌にかすかに残る汗の匂いの中に進は、甘い香りが空気が広がっていく様に感じていた。その空間に包まれた安心感から、母親の身体から顔を離すと、頭上に、もう薄暮のなか、手ぬぐいで頬被りをしたその顔に、その手ぬぐいの色か肌の色か、ほんのりと白色に光照らされて、見えた。その母親の顔を確かめると、何か体の芯から力が抜けていくように感じながら、もう一度、透は母親の身体に頭を押し付けた。「さあ、早く、家に上がって、手を洗いなさい」母親の太くて、逞しい腕が、透を突き放した。うん、素直な返事とともに、笑顔を返すと、振り向いて、家へと駆けだしていた。戸の入り口にある、大きな松の木を見る透の心から、もう蛇の姿も透の父親の姿もそして、あの溶けた野兎の姿も整理して、しまい込むことができた。戸を開けると、いつもの元気な声で、ただいまと祖母に大声で伝えていた。
 透の家系は、一度、子供がなくて、明治の初めに鋭之助という男の子を養子として迎えたことがあった。そして、おなじく養女として迎え入れたヨネと夫婦にして、家を継がせることにした。鋭之助は、その名前と違い、大人しく真面目な、これといって特徴のない男子だったが、ヨネは近所でも評判の頭の良い女性だった。特に計算が得意で、鶴亀算をさせるとだれにも負けなかったと、父親が自慢げに言うのを、透も聞いたことがあった。その二人の子、父親の祖父に当たる要という男の子が、どこの腹から出たのかと思われるほど、やり手で、ごく平凡な村の農家だったその家を、村で一番の山持ち、田畑持ちの地主にしてしまった。昭和恐慌の折は、この地域でも、売り払いとして、家の障子一枚までを差し出して、借金をなしにしてもらう地主もでる程だったが、要はそんなに田畑を買い集め、増やしていった。それていて、ただの勤勉でなくて、人を惹きつける魅力もあったのだろう、この村の村長を晩年、務めていた。その要と妻のはるの間に生まれたのが、武雄で、ちょうど、日本が日清、日露、そして、第一次世界大戦と戦争に明け暮れていた時代がったので、その家系には珍しく勇ましい名前を付けられていた。それで、いて、この武雄は、男2人女5人の長男だったが、上に姉が3人もいたせいか、大人しい女の子のような性格の男子だった。親の期待というものは、得てして裏切られるものだが、この武雄の場合には、その祖父の性格を受け継いだのかもしれなかった。小柄で、極端に視力の悪い武雄は、幸い、戦争には行かずに済んだみたいだった。上三人の姉とまた、そのすぐ下が妹という、女性に囲まれて育ったのも、その優しい性格を作り出した要因かもしれなかった。次も妹で、ようやく、最後に弟いうことだったが、実は、その間に一人、男の子が生まれていた。ただ、もともと病弱だったのか一歳になるかならない年齢で亡くなってしまったのだ。母親のはるは、とても悲しんで、雨の降る日には、土葬にしたその小さな墓に雨が当たるのは可哀そうだと、村の共同墓地まで出かけて行き、その墓に傘をかざしにて佇んでいたという話だった。そして、武雄は大人になると、村の中でも、明るく健康的な、英子、こちらは名前の様に気の強い女性だった。私はこの気性だから、あの家に入って、しかも武雄を支えることができるんだというのが、彼女の口癖だった。その二人の子が、進の父親の秀だった。男ばかりの三兄弟の一番上だったが、男親の方に似たのか、大人しく、無口な、それでいて頑固な性格の父親だった。男の兄弟三人とも、皆、大人しくて静かなのを、もっとはきはきしなさいよ、男の子だろうと叱るのが英子の日課で、その歯がゆさを、ほんと男の子なのに兄弟喧嘩ひとつしないんだからと、近所に愚痴をこぼすことで解消しようとしていた。それでも、縁とはよくできたもので、同じ県の県北、山間の村から、おなじように大人しい、華奢な体つきの女性を貰うことができた。それが、進の母親、楓である。同じくらいの規模の地主、ちょうと釣り合った家柄ということで、その親戚筋に、秀の2番目の姉が嫁いでため、その縁談はすんなりと成立した。「ここの家も
農地解放がなければ、もっと楽に暮らせたのにね」と母親から愚痴を、何度か進も聞かされたことがあった。土地をあんなに安く買い取って、配っちゃうんだからと零すのを
ないものねだりのように感じていたが、それで、日本経済も発展することになったんだよと、小学校で学んだことの受け売りをするはなにか、憚られような、その口調だった。「あの瓦屋の家なんて、ほんと、ひどい小作だったんだからと」母親が透の家のことを言い出すと、逃げる様に、僕、宿題をしなくちゃと勉強部屋に駆け込むしかなかった。結局、二人には一人の子供進しか、出来なかった。自分が産湯に浸かっている白黒の写真、それ以前の母親が幸せそうなに父親の形に顔を寄せている写真を見つけた時、母親のそんな姿は一度も実際に見たことはなかったが、急いでアルバムを閉じながら、それは見てはいけない姿だと感じた。小柄のところは両親から受け継いでいた進だったが、父親の秀はどちらかというと色黒の小麦色の乾いた肌をしていたので、ふっくらした頬と白い肌は、母親の方、楓から受け継いだものだった。どちらかというと女の子的な華奢な体つきも、細身で、歩くときも体を揺らすような動作をする母親に似ていたかもしれない。ただ、後ろから見た姿、小さな体に首が押し込まれて、肩のやや張った丸い形の背中は、祖母の英子にそっくりだった。そのせいか、親類の叔母さんたちからは、「進ちゃん、性格もおぱあちゃんにそっくりなら、よかったね」と、お彼岸やお盆の時にからかわれることがあった。お土産のお菓子を小さな声で、ありがとうとお礼を言って受け取ると、奥の部屋に引き込んでしまう、その様子を心配したのだ。おなじ小柄でも、骨太の、亀の甲羅のような背中をした英子の姿は、男勝りで、我の強い、頑強な心をそのまま映し出していたので、その扱いに閉口していた分、陰でそんなことを言って、憂さを晴らしていた。実は、武夫の末の弟が
結婚に失敗をして、同居していたのだ。不甲斐なさを受け継がないようにという、願いもそこには加わっていた。勝気な英子の、その義理の弟に向かっての遠慮のない非難を聞いていると、それ自体は自然な態度だったかもしれないし、武夫の方も黙って制止することもなかったが、心の弱さの不幸を寂しさを、ほかの親族は受け継がないようにという願いも籠っていた。武夫の弟の満は、進の大きな家の二階の一室を使っていた。食事も二階で
済ませていたので、進はめったに、その祖父の弟と顔を合わせることはなかったが、時折外出した帰りには、その家に住む家族とは異質の、大きながっしりした体躯を黒いマントに包み、その丸顔の小さな目を一層細めながら、それは、血色のよい肌についた皺になかに紛れ込んでしまいそうだ買ったが、丸い剥げた頭とともに、とても優しく進には見えた。いつも、「ほれ、お土産だ」と近所の駄菓子屋では、小さな袋でしか買えないチョコボールを、大きな袋のをひとつ、進に買ってきてくれた。その黒いマントは黴臭く、よれよれだったが、そのおじさんの身体は逞しく、心強い存在だった。早く向こうに行って、喰え、でもお母さんには内緒だぞと、片道4キロある駅までの道を歩いてきた汚れを神経質そうに、丁寧に手で払いながら、進を突き放した。そのおじさんは鉄道の終着駅の町の、質屋に婿養子として入ったのだったが、数年で家に戻ってきてしまったそうだった。祖母の英子ばかりか、母親の楓までが、辛抱が足りないからだとか意気地がないからだと陰て、詰ったが、進にはよいおじさんにしか見えなかった。ただ、ときどき一人で歩いている姿は寂しげで、進に見せる表情とは一変していて、その家の中で一番丈夫な体つきのおじさんの心の中の貧しさが子供心にも感じ取れるようだった。兄に武夫は、女性たちと違いそれについてはそんな弟に何も言わなかった。進が小学校の高学年になったとき、満おじさんは、顔に瘤ができ、次に片方の頬が、つい数年前までは年取って皺はあるが血色の張りもあったその皮膚に、ぽっかりの梅干し大の穴が開き、二階で寝込むようになった。進を見ると、「坊主、元気かい」とあの細い目を懸命に細めようとして、弱々しく声を掛けてきた。どのくらい、寝込んでいたのだろう、そのまま、満は二階で死んでしまった。白い布をかけられたその顔を見た、進はその血色よくつやつやしていた肌が、しなびて、その顔がひどく小さくなってしまっているのは驚いた。そして、あの頬に開いた穴の場所には白いガーゼが絆創膏で、几帳面に正方形に折りたたんで張り付いていた。皺の中に折りたたまれた目が、そのとても年取ってしまった顔、それは数か月で十年以上も年取ったように見えたが、おなじように優しく見え、進は顔を背けて、母親の方を向いた。「満おじさんは、やっと幸せな場所にいけたのよ」と、進もそして、おじさんの顔も見ずに、静かにそう呟いた。おじさんの部屋の天井の木の節目にできた、濃い脂の塊をその目は眺めていた。進にはおじさんの顔でも天井でもなく、宙に浮いたその視線が死を教えているように思えた。
視線を真正面に向けたその母親の顔の中で、それから、その唇が少しだけ緩んだ。
 満おじさんの葬儀の日は、その人生と対照的に快晴だった。雲一つない青空が海の色を思い出させるような濃さだったので、その日は夏だったのかもしれない。いつも見慣れた近所におじさんたちが、白の襷を斜めにかけて、それはずいぶんと長めで肩から腰の下、太腿のあたりまで届き、歩くとゆったりと風を孕むように揺れていた。進にも、いつもと違う神妙な表情から、そしてその姿から、今日は特別な時間が流れているのがわかった。頑丈な体のその男たちは、地類として葬儀を手伝う六道の人たちだった。玄関で、満の兄、武夫夫妻に挨拶をすますと、屋敷に上がり、まずはお茶を飲みながらの休憩を始めた。
 その姿を見て、進は昨日のことを思い出した。白い衣装を着た満おじさんの納棺の時にも、やはり、その地類の男たちが手伝いに来てくれていたのだ。ただ、その時には普段のシャツ姿だったのが、その白いさらしの襷をかけただけで、その表情まで違って、子供の進にも見えた。いつもの座敷にふと、違う空間が忍び込んでくるかのようだった。実はおなじように感じる瞬間が昨日もあった。白い衣装の満おじさんを木の棺に入れると、それでは蓋を締めましようかと、地類の大将が、ひどく気を使った優しい口調で、そう行った。一枚の大きな板がその棺を閉じようとしたとき、進の眼には、いつものおじさんの優しい目が、少しはにかんだような表情の顔が斜めに見えたのだが、薄暗い部屋の中で、その顔に接する木の角が、鋭く一瞬光ったのだ。大きく庇の突き出し、廊下を挟んだ座敷の、また奥にそれは置かれていたはずなのに、確かにどこからか切れ開かれた空間から、もしくは蓋が反射した光がそこに当たったのを進が取り違えたのもかもしれなったが、頭上に覆おうとする蓋の下が、その部分が光、おじさんの小さな目、閉じられたそのすぐ下の頬を照らしたように見えた。その後で、おじさんのその顔は隠れしまった。そして、その蓋を釘で打ち付けるために、順番に石をわたしていている、その時だった。女の兄弟で、ただ一人その場にいた5女の靖代おばさんが、わっと体を震わせで、泣き出したのだ。満と叫ぶと押さえきれない感情が関を切ったように溢れてくる姿を、進は、そのときにもうおばさんも80近い老婆だったと思うが、なにか幼い女の子のような抑制のきかない衝動的な様子を、ただ驚きとともに見ていた。一番年の近い姉ということがそうさせたのかもしれない。兄である武夫に体を抱きかえ、起こされると、それから靖代おばさんは、満、満とだんだんと声を小さくしながら、釘を打ち続けた。釘の頭がしっかりと押し込まれるのを見て、次に打つ武夫が、妹からその石を受け取った。「満さんは火葬は熱くて嫌だから、土葬にしてくれだなんて、そんな意気地なしだから、養子先でも、続かなかったのよ」と英子が蔑むのを聞いていたし、普段、人のことを悪く言わない母親までは、まるでやっとその機会を許されたかのように、「満おじさんも、我慢が足りないというか、優しいところはあるのにそういう性格だったんでしようね」と話しを合わせていた。今時、火葬が嫌なんて言っている人はいなわよと、聞かされていたので、余計に靖代おばさんの行動は意外だった。そのおばさんから石を受け取った武夫は、弟の棺を最後に閉じ込める釘を、硬い表情で、怒りを含んだような顔で打ち終えた。「甕棺みたいに、身体を折りたたまれて入れられるのも、やはり、嫌だっていうんだから」と続ける声に、あの優しさは臆病の影なのかと思うと、そして、それが受ける評価の辛さを思うと、なにか恐ろしさが進の心に広がった。
 一枚の板の蓋がしっかりと打ち付けられると、その棺には白い布が掛けられ、それに包まれて、満の姿は白い長方形の形になった。その白い布に包まれたおじさんが、葬儀の後、六道に担がれることになるのだった。
 小学校時代から、口数の多い方ではなかった透だが、中学に入るとますます、その傾向が強くなり、休み時間も一人で過ごすことが多くなった。その日も、窓から見える利根川の堤防に見える梅が白い、くすんだ花をいっぱいに咲かせているのを一人、見ていた。二月の春の嵐のような強風の吹き荒れた前日で代わり、穏やかな日に、白いほこりのような花を無数につけた様子を見ていると、英次が、「いつもひとりでいるね」と声を掛けてきた。田んぼの中に立つ中学校は、透の家から自転車で30分程の距離だったが、まわりの4つの小学校から生徒が集まり、村の中で特別に裕福だった透を特別扱いするようなこともなくなっていた。1学年が300人と多い中で、一日、誰とも話さないで終わってしまう日もある程だった。英次はあばたのある顔に、縮れ髪、その浅黒い肌に黒ぶちの眼鏡をかけた、やはりクラスで、浮いた存在の生徒だった。特に女子からは、その強い度の眼鏡の奥で、斜視気味の瞳を濁った白目から見せながら近づくと、「嫌だ、英次はあっちに行ってよ」話していると、私まで嫌われるわと言われるような生徒だった。なにか反論しようと、どもり気味に口を動かそうとすると、もう女子は離れて、なにあれと仲間と笑う、高すぎる声にかき消されていた。実際、不健康な肌の色と、笑うと歯頚がひどく剝き出しになり、しかも黄色い歯が目立つので、透も嫌ってはいたのだが、「透くん、今日、これを捕まえたんだ」
と、定年に四つ折りにした鼻紙を、机の上に差し出した。意外なほど良く伸びた、そして爪の綺麗な指で、それを開くと中から、五角形をした平べったい虫が3匹出てきた。緑がかったその虫を指さして、「カメ虫だよ、透くんも知っているだろう」と笑顔を見せた。昨日、学校の帰りに見つけたんだ、机の上で、細い枝のような足を、まるで松葉杖のようにして、左右にきれいに折り曲げていた。もう少し大きいのがいるかと思ったんだけという英次が、田んぼのわきの草むらで探している姿が思うたんだ。透が黙ってそれを見ているのに勇気を得たように、最初の大仰な笑顔は消えて、英次の表情は親しみを持った、自然なものに変わっていた。ちり紙の上に、その3匹を丁寧に並べると、「これって、触ると指が臭くなるんだよね」と笑うその目は、黄色みがかった白目と対照的にとても綺麗だった。「昨日は午前中で終わりだったろう、あの風の中、歩いていたら一匹が急に、僕の顔にぶつかってきたんだ、何だろうと思って自転車を止めたら、カメムシが落ちてて、それで近くを探してみたんだ。そうしたら、後2匹も見つかったってわけ」急に英次は関を切ったようにしゃべり始めてきた。少し、その顔から距離を作りながら、春の青空の下でそんなことを楽しける幼さを羨ましくも思いながら、透も笑みを返した。「この体の緑がかった具合はやはり、緑の葉を食べてるからなのかな」と続ける英次に、いつも哲夫を中心にしてつくるんでいる3人が近づいてきた。からかいに来たのがすぐ、分かった。「次は理科の時間ではなく、保険だよ」と一番ひょうきんな竹一が、甲高い声で話しかけてきた。小柄で痩せた細長い顔の奥で、目が小動物のように抜け目ない感じがして、透の嫌いな一人だった。その顔の骨に直接皮膚が張り付いたような、しなびた頬を緩めて、「あらあら、カメムシじゃん、そんな臭い虫を並べて、楽しんでたんだ、目の形や角なんかを観察して立ったわけね」何にでも同調する道夫が「二人で、くさ虫を相手に遊んで至ったわけね、いい友達が見つかったね」といつもひとりでいる、透と英次をからかった。悲しそうな表情を向けは英次に、「なんだよ、その顔、怒ったんだったら、はっきりと言えよ。中途半端なんだよ、馬鹿」というと、さっとちり紙の上の虫を指で払った。床に落ちたそれを拾おうとする英次にさらになにか言おうとするのを、「時間の無駄だから、いくぞ」とそれまで、にこにこして見ていた、哲夫がそれを制した。そうだな、休み時間は短いし、その腕をひっぱって竹一が行こうよと道夫の体の向きを変えてしまった。ちり紙にしまうと、英次も黙って自分の席に戻っていった。確かに、学校の休み時間は10分なので短いものだと、いつもはその時間を持て余しているのに、透も変に納得がいった。
 次の日は、もう親しい友達に話しかけるような態度で、カメムシを包んだ鼻紙を英次は
透に差し出してきた。その柔和な表情がとても近距離に感じられて、顔を離したのに合わせたように、机に、「今度は、大きいだろう、今朝、登校の途中で探したんだ」というその
虫は、白い紙の上をゆっくりと、細い足を折りながら、動き始めていた。ねえ、まだ、生きているだろう、そう笑う英次に黙ってうなずきながら、その黄色い歯と剥き出しになった歯頚から、目を反らしていた。英次は笑うと、唇が異様にめくれるためか、歯頚がその濡れた肌色とともに大きく見え、血の色がなぜか、内臓を連想させた。そのとき、さっと横から手が伸びて、目敏くその様子を見つけた道夫が今日はひとりで近づいてきて、「
また、理科の勉強かい」と言うのと、同時にそれを払った。足の形や羽の様子を観察するんだろうと、昨日とおなじことを繰り返して、つまらないことに同じ行動を取ったのだ。生きているカメムシは、柔らかく宙を舞い、緑がかった体に光を集めて、ゆっくりと上がったかと思うと、羽を広げて、少し飛び立ってしまった。あっと声を上げた、英次が振り返ると、それは女子生徒の袖に張り付いていた。なに、これ、話相手の女子が教室中に響くように大きな声で、叫んでいた。カメムシじゃんというと、三人一度に、その目が英次に向けられた。なにしてんよね、それを叩き落としながら、その女子が英次を𠮟りつけていた。教室に丸い豊かな空間を引き出した先ほどと違い、今度は一直線にそれは床に叩きつけられていた。丁寧に包みなおそうとするしゃがんだその背中に、馬鹿じゃないのと、もう一人が言った、そんなよれよれの毎日も洗濯してないようなワイシャツを着て、だからカメムシが好きなのね、と笑うと、三人一度に、笑い声をあげた。臭いが同類だものね、くさいからあっちに行こうと、逃げていくのを見て、道夫のほうが、そんなの持ってくるなよととりなす様に声を掛けていた。顔を上げて、なにか言いたそうにその唇が動いた瞬間に、透は、「ちょっと、図書室に行ってくる」とそれを遮った。うん、と小さく頷くと、自分の席に戻るその姿を見て、数学の本でも少しの時間でも見て来ようと思った。ガウスの小学校に上がった時の1から100までの足し算の話やガロアの生涯、それに、オイラーの分母に二乗の整数を足していくと、π分の6 に行きつくという世界の方がずいぶんと爽やかなものに映った。すると、黙ったまま、小さくなって座る英次に笑顔を送る余裕が透には生まれていた。綺麗にたたんだちり紙を前にしたその姿を、おなじように好きな世界があるのだと認めることができた。


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