1ヵ月余りが過ぎた。悟は、仕事の飲み込みが大変早く、僅かひと月でたいがいの事務処理はこなせるようになっていた。最初のうちは、マンツーマンで教えていた健一であったが、2、3日もすると、その必要はないことがよく分かった。とにかく理解するスピードが非常に速い上に、健一の指示を待つことなく、どんどん書類を見ながら仕事を進めていく。そして、分からない部分に行き当たると、遠慮なく健一に質問して、次々と迅速に仕事を仕上げていったのである。 「涌井君、どうだ。小鳥遊君は?」 「いや、優秀ですね。ポイントを教えるだけで、後は、ほとんど見ているだけでいいです。しばらくしたら、営業に出てもいいくらいの速さで仕事をこなしています」 「そうか。彼を取って正解だったな」 「はい、そう思います」 健一は、昼休みに、偶然課長と喫茶店で出会った際に、このような会話を交わしていた。 そして、悟の仕事ぶりは、健一自身にとっても、うれしい誤算であった。 巷では、すでにゴールデンウィークに入っていたが、今年は、新人の面倒を見なければならないため、土日以外はすべて出勤しなければならないと健一は、覚悟していたからである。しかし、予想に反して、悟にほとんど手がかからなかったおかげで、ゴールデンウィークの大半は休みを取ることができたのだった。 「もしもし、健一?」 「おう、どうした?」 「今日は来れるのか?」 「おう、大丈夫だ」 「ゴールデンウィークは仕事じゃなかったのか?」 「いや、それが休めることになったんだ」 「そうか、それはよかった。実は今日、急遽新人が1人来ることになったんだ。また、頼むよ」 「ああ、わかった。で、初心者なの?」 「いや、一応経験者らしい」 「そう、男なの女なの?」 「23歳の女の子だって!」 「おお!そうか、俄然やる気になってきたぞ!」 「バッカヤロ−!問題起こしやがったら除名だぞ!」 「おう、望むところだ!」 「はっはははははは!」 「じゃあ、頼んだぞ」 「ああ、じゃあ、コートでな」 健一は、休暇には、所属するバドミントンのサークルでコーチをして過ごすことが多い。 今日も、サークルに行こうと思っていたところに、代表者の桑田友造(ともぞう)から電話がかかってきたのだった。 健一は、高校時代にバドミントン部に所属し、ダブルスで県大会に出場して準優勝を飾ったほどの実力の持ち主であった。大学時代は、タイ語の習得に本腰を入れていたため、4年間はバドミントンから完全に離れていたが、就職してからは、休日にもう一度バドミントンがやりたくなって、ネットでサークルを見つけては練習に参加するようになっていた。 しかし、健一は、もう高校時代のように勝負に徹するバドミントンをする気は全くなく、これからは、楽しんでバドミントンがしたいと思っていたので、競技を目的としないサークルで、大いにリラックスしてプレイがしたかった。 そして、いくつかのサークルを巡る中で出会った今のサークルは、まさに健一の希望を最大限に満たしてくれるものだった。 まず、メンバーの年齢層が非常に幅広く、下は20代から、上は60代にまで及んでおり、まさに、老若男女、青年から年配者まで、多士済々な顔ぶれで構成されていること。 男女の比率もほぼ半々で、練習やゲームをする際にも偏りがなく、活動がたいへんスムーズであること。 そして、なによりも、メンバー全員が、和気あいあいの雰囲気の中で本当に楽しそうにバドミントンをしていることが、最も強く健一の印象に残った。 これは、メンバーの協力もさることながら、代表者である桑田友造の優れた統率力と巧みな人心把握術によるところが大きかった。 友造は、健一と同い年の25歳で年齢は若いが、強いリーダーシップを発揮してサークルを統括する反面、メンバーに対する非常に細やかな心配りをいつも忘れなかった。また、大変ユーモアにあふれた性格で、サークルに初めて参加した人の緊張を解きほぐすくらいのことは、赤子の手を捻るほど容易にやってのけた。 健一が始めて練習に参加した際にも、ウォーミングアップをする健一を見ていて、いきなりシングルスのゲームを挑んできた友造は、コテンパンにやられた後で大きく胸を張ってこう言った。 「よ〜し、今日はこれくらいにしといたるわ!」 健一は、手加減をしながらゲームをしていたのだが、それにもかかわらず、自信満々で挑んできた友造があまりにも弱くて全く勝負にならないので、いったい、友造が何を考えているのかさっぱり分からなかった。 しかし、ゲーム直後のこの一言を聞いて、思わず腹を抱えて大爆笑してしまった。これこそが、まさに、友造の狙いだったのである。 一方の友造は、ウォーミングアップを見ただけで、健一が自分たちとは段違いの実力の持ち主であることにすぐ気が付き、ゲーム後健一に、是非コーチになってほしいと懇願したのだった。 健一たちのサークルは、通常は隣町の体育館に2面のコートを借りて午後1時から5時まで4時間の練習を行っていた。健一は、いつも、車で20分ほどかけて練習コートのある隣町の体育館へ通っていた。 そして、この日も、家で昼食を取って12時30分ごろには、いつもどおり車でコートへと向かった。ところがこの日は、たいへん道がすいており、信号でもほとんど停車することなく、10分少しで体育館に到着してしまった。 練習開始時間の約20分も前にコートにやって来た健一であったが、喫茶店等で時間をつぶすには中途半端なので、コートでメンバーを待つことにした。受付の前を通って通路を歩き、屋内運動施設の入り口まで来ると、ドアがすでに開いており、コートには、もう7、8人のメンバーが集まっていた。友造は、まだ来ていなかった。 「こんにちは―」 健一が挨拶をすると、メンバーは、全員健一のほうを振り返って同じように「こんにちは―」と挨拶を返した。 ふと見ると、メンバーの中に1人だけ初対面の若い女性がいることに健一は気が付いた。友造の言っていた初参加の女性が、時間よりかなり早くコートに来ていたのである。 「はじめまして、コーチの涌井です。よろしくお願いします」 健一は、彼女に近づいて笑顔で自己紹介をした。すると、彼女は、目を潤ませながら満面の笑みを浮かべて意外なことを言い出した。 「おひさしぶりです!」 「えっ!どっ、どこかでお会いしましたか?」 「はい、涌井先輩!」 「せっ、先輩?・・・ひょっとして・・・S高校のバドミントン部出身の方ですか?」 「はい、そうです」 健一は、女子の後輩部員の顔を思い返してみたが、彼女のことは全く記憶になかった。 「すみません。申し訳ありませんが、どうしても、思い出すことができません」 「はい、それは、仕方ないと思います。私、課外クラブの部員ではなくて、必須クラブの部員として週に1度しかクラブ活動に参加していなかったので、覚えておられないのは無理もありません。」 「でも、私は、県大会の決勝戦の応援にも行きましたし、送別会にも出席していましたので、先輩のことはよく覚えています。また、こうしてお会いできて本当にうれしいです!」 「あっ、すみません!あまりにもうれしかったので、名乗りもせずに自分1人でしゃべってしまいました。私は、小鳥遊(たかなし)奏(かなで)と申します。よろしくお願いします」 「タッ、タカナシさん!!!・・・すみません・・タカナシさんというのはどういう字を書きますか?」 「えっ!?・・・よく高い低いの高いという字と果物の梨という字だと思われるんですが、私の場合は少し変わっていて、小鳥が遊ぶと書くんです」 「嗚呼!!やっぱり!」 「やっぱり??」 「はい、悟君のお姉さんですね!」 「え―――っ!!!さ、悟をご存知なんですか!!!」 「ええ、知っているもなにも、同じ職場で働いていますよ」 「せ、先輩、K株式会社にお勤めなんですか!!」 「そうです。それも、悟君と同じ部署で働いています」 「そっ、そうだったんですか・・・・・・」 奏は、あまりの驚きに言葉を失ってしまった。 「こんにちは――!」 この時、友造がいつもどおりのハイテンションでコートに入ってきた。 「おお、健一、早いな」 「ああ、道がすごくすいててな。あっ、こちら、今日初参加の小鳥遊さん」 「小鳥遊奏と申します。今日は、急な申し出を受けていただきまして、本当にありがとうございます。よろしくお願いいたします」 「代表の桑田友造(ともぞう)です。こちらこそよろしくお願いします。ご経験があるとのことですが」 「ええ、でも、高校時代に必須クラブで週に1度やっていた程度ですので、初心者と変わりません」 「そうですか、でも、うちには優秀なコーチがいますからご安心ください」 「はい、涌井先輩がどれほどお上手なのかは、よく知っています」 「先輩?」 「そう、さっき話してたんだけど、高校の時のバドミントン部の後輩なんだって」 「だってって、お前、覚えてなかったのか?」 「そう、失礼ながら、全く覚えていなかった」 「そうか。相変わらず、お前は、薄情なやつだな〜」 「俺は、お前のように、一度すれ違っただけの女性でもすべて顔を覚えているなんてことはできないんだよ!」 「おう、バドミントンに関しては、どう逆立ちしたってお前にはかなわねーが、それだったら、俺は、ぜ――ったい誰にも負けね―ぞ!」 「バ―カ、誰もそんなことで勝とうなんて思っちゃいね―よ!だいたい、お前は、いったい何のサークルの代表なんだ?」 「女の子顔は何があっても絶対忘れないぞサークルだ!」 「あほか――!まんまやないかい!もう、やめさせてもらうわ」 「どうもありがとうございました〜」 「あっはははははは!せっ、先輩、漫才もやるようになったんですか〜?」 「いや、いつもこいつに引きずりこまれるんだ」 「すっごく面白いです!」 「やった―、受けたな!!」 「あのなあ、もう、練習をはじめるぞ!はい、集合――!」 この日、練習に参加したメンバーは、奏を含んで15人。いつもどおりのメニューで練習を開始したが、5年間バドミントンをやっていなかった奏は、本人も言うとおり初心者のレベルであり、健一は、奏に合わせて基本を中心としたメニューを取り入れながら練習を進めていった。そして、後半は、実践練習としてダブルスのゲーム行って、いつもどおり17時に練習は終了した。 「はい、今日の練習はこれで終了です。お疲れ様でした―」 「お疲れ様でした―」 奏は、久しぶりのバドミントンで、上手くはプレイできなかったものの、たいへん充実した時間を過ごすことができて、大いに満足であった。 「代表さん、先輩、今日は本当にありがとうございました。とても楽しくて、あっという間に時間が過ぎてしまいました。これからも、参加させていただきますので、どうぞよろしくお願いします。」 「はい、はい、是非どうぞ。また、爆笑トークでお待ちしております」 (俺を巻き込むなよ) 「やはり、人間笑いが大事。笑っていなければ、元気が出ません」 (いいから、俺を巻き込むなよ) 「何をごちゃごちゃ言っとんだ――!」 「爆笑トークは、1人でやれって言ってんだ!」 「バカヤロ――、1人で漫才ができるか!」 「俺は、漫才なんかやりたかね――!」 「あっはははははは!おっ、面白すぎます〜〜!」 奏は、あまりの面白さに、込み上げてくる笑いを抑えることができず、久しぶりに大爆笑してしまった。 帰り道、奏とともに体育館を出た健一は、彼女を車の助手席に乗せてエンジンを掛けた。奏は、運転免許を持っていないので電車でコートまで来ていたことと、奏の家が体育館から健一の家へ向かう途中にあるので、彼女を送っていくことにしたのだった。 「代表さんって、本当に面白い人ですね」 「ああ、あいつは生まれついてのアホなので、特に意識して面白くしているわけじゃないんですよ」 「フフフ、そうなんですか。でも、先輩も面白い人なんですね」 「いや、僕は、やつに引きずり込まれているだけなので、やつのような天然のアホではないんです」 「先輩」 「はい」 奏は、運転する健一の横顔を潤んだ目で見つめながら言った。 「今日お会いできて、本当に嬉しかったです。高校時代、先輩は、憧れの人でした。颯爽としていて、すごく素敵でした。週に1度だけしかお目にかかれなかったけど、いつもクラブの日には、ワクワクドキドキしていました」 「先輩が3年生の時に、私、1年生だったので、半年もしないうちに先輩がクラブを引退されて、それからは、送別会の時にお会いしたのが最後でした。 卒業されてからは、どうされたのか全く分からなかったので、もうこれで一生お会いできないと諦めていたんです」 「ところが、昨日たまたまネットでこのサークルのホームページを見ていたら、コーチとして先輩の写真が載っているのを見つけて本当に驚きました。すぐに代表さんにメールをして、無理を言って特別に今日参加させていただいたんです。 そして、今日お会いできて、先輩が、悟と同じ会社にお勤めだとわかりました。一昨日までは、もう二度とお会いできないと思っていたのに、2日経ったら急に身近な人になって、私、本当に、本当に感無量です!」 「いや、いや、そこまで言ってもらうと恐縮してしまいす。僕は、今のサークルを辞めるつもりもないし、小鳥遊さんもこれからサークルに参加するのなら、いつでも会えますよ」 「そうですね。本当によかった・・・・・」 「ところで、先輩、私の名前を聞いただけで、なぜすぐに悟の姉だとわかったんですか?」 「まず、とても珍しい名字であること。そして、身上調書といって、家族構成等を書き込む書類を悟君に提出してもらったんですけど、その中に、一つ年上で彼と同じ一文字の名前のお姉さんがいることを覚えていたんです」 「そうだったんですか・・・悟、しっかり働いていますか?」 「ええ、彼は、とても優秀ですよ。ひと月でたいていの事務処理はできるようになりました。そう遠くない時期に、営業にも出ることになると思います。」 「そうですか。それを聞いて安心しました」 そんなことを話しているうちに、2人は、奏の家に到着した。それは、健一の家の何倍もあるような大邸宅であった。 「すっ、すごいお宅ですね!」 「いえ、いえ、とんでもありません。先輩、よかったら寄っていかれませんか?悟も喜ぶと思います」 「いや、今日は、シャワーも浴びていないし、突然お邪魔するのもご迷惑だと思うのでやめておきます。また、機会がありましたら寄らしていただきます」 「そうですか・・・」 奏は、残念そうであったが、気を取り直して別れの挨拶をした。 「先輩、今日は、色々とどうもありがとうございました。今後とも、どうぞよろしくお願いします」 「こちらこそ、よろしくお願いします。それでは、今日はこれで失礼します。悟君にもよろしくお伝えください。さようなら」
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