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作品名:運命の赤い糸 作者:箕輪久美

第1回   4月1日
 その朝、健一は、普段より少し早く目を覚ました。しばらくの間、布団の中でぼんやりとしていたが、やがで、いつもの起床時間となり、眠い目をこすりながら体を起こして洗面所で顔を洗った。そして、朝食を取って歯を磨き、出勤するための身支度を整え始めた。ワイシャツのボタンを留めながら、何とはなしに昨日の送別会のことを考えていた。
 昨日3月31日をもって、同僚の副島(そえじま)美(み)彩(さ)季(き)は、K株式会社を退社した。健一の親友である岩見剛志との結婚を控えての寿退社であった。

「それでは、副島美彩季さんの新たなる門出を祝しまして、かんぱ−い!」
「かんぱ−い!」
「皆さん、どうもありがとうございます。そして、6年間本当にお世話になりました」
美彩季は、営業第2課の上司や同僚から晴れの門出を祝福され、一人一人にビールを注ぎながら挨拶をしていた。
 その様子を末席で見ていた健一は、なんとも言えない複雑な思いであった。
健一にとって美彩季は、1つ年下であるが、会社では3年先輩にあたり、ずっと思いを寄せていた女性であった。皮肉なことに、自分が、親友である剛志の勤めるTスポーツクラブを美彩季に紹介したことから、2人は結ばれることになったのである。
 健一には、今でも不思議に思うことがある。それは、美彩季が、犯罪に巻き込まれようとしていた剛志の状況をいち早く察知して自分に助けを求め、2人で剛志を救い出したのだが、その際に、どのようにして彼女がその情報を得ていたのかということである。また、美彩季と自分の行動が、美彩季は何も語らなかったにもかかわらず、剛志に筒抜けになっていたことについても、なぜだかは、未だに想像さえつかない。
 しかし、いずれにせよ、美彩季は、自分とではなく剛志と必ず結ばれる運命にあったので、何か自分には思いもよらないような特別な力が働いたのだろうと健一は感じていた。
そして、失恋の直後には胸が痛んだ健一であったが、今では、剛志なら、美彩季にふさわしい人生の伴侶であると自信を持って言えると同時に、2人の晴れの門出を心から祝福したい気持ちになっていた。
 ただ、その一方で、今日を境に会社で美彩季の顔がもう見られなくなることに、健一は、なんとも言えない寂しさも感じていたのだった。下を向いてビールを飲んでいると、美彩季が隣にやって来た。
 「涌井君、本当にいろいろとお世話になりました。あなたには、どれだけ感謝してもしきれないわ。言葉で私の気持ちを伝えることなど、とてもできないほどよ」
「いえ、いえ、とんでもありません。でも、明日からは美彩季さんの顔が見れなくなると思うと、何だがとても寂しいですね〜」
「何言ってるの。別に、今生の別れという訳ではないわ。会おうと思えばいつでも会えるじゃない」
「それに、明日からは主任さんでしょ。私の後任の新人さんの指導をよろしくお願いね」
「ええ、まあ、それはね・・・」
健一は、1週間前に内示を受け、4月1日付で主任に昇格することになっていた。そして、美彩季の後任者は、明日入社予定の新入社員であることも決まっていた。
 「あっ、それから、私たちの結婚式のことなんだけど、身内だけで簡単にやりたいと思っているの。でも、涌井君には、どうしても出席してほしい。これは、私だけではなくて、剛志さんの強い希望でもあるわ。どうだろう?出てもらえるかな・・・」
「ええ、僕でよければ」
「ほっ、本当!!よかった――!これで、剛志さんもきっと安心すると思うわ」
「安心?」
「うん、剛志さんは、涌井君が私を思ってくれていたことを気にしていて、出席をお願いするべきがどうか、仮にお願いしても来てもらえるかどうか、ずっと心配していたの」
「ああ、それは別に気にしてもらうことはないですけど、人前で話をするのはあまり得意ではないので、飲みながら見守るだけにさせてください」
「いいわ。それが涌井君の希望なら」
「そうですか。それじゃあ、喜んで出席させてもらいますよ」
「よかった――!!来てもらえるだけで本当にうれしいわ!」
美彩季は、健一が、式への出席を承諾してくれたことを心から喜んでいる様子であった。
 やがて、送別会は、滞りなく終了し、数人の有志で2次会が行われた。そして、終電前には2次会もお開きとなり、全員が帰宅の途についた。同じ地下鉄駅から電車に乗る美彩季と健一も、肩を並べて駅への道を急いでいた。もう春とはいえ、夜中ともなれば空気はまだ冷たく、とても肌寒く感じられた。
「ああ、これで本当に会社勤めが終わっちゃうんだな〜」
「名残惜しいですか?」
「そうね。入社したての頃は失敗ばかりしていて、会社に行くのが嫌で嫌でたまらなかったけど、今となっては、すべてが懐かしいわ」
「へえ〜、そうだったんですか!」
「あっ、そうか。涌井君は、4年目以降の私しか知らないから、その頃のことを知らないんだ」
「ええ」
「自分で言うのもなんだけど、そりゃ〜ひどかったのよ!」
「ははははは」
「だから、今度の新人さんも長い目で見てあげてね」
「ええ」
 やがて、右前方にあるコンビニの手前に地下鉄駅の入り口が見えてきた。2人は、ゆっくりと階段を下りて改札を通り、ホームへと到着した。美彩季と健一は、ここから互いに逆方向の電車に乗って帰宅する。しばらくすると、美彩季が乗車する側のホームに電車が入ってきた。
「涌井君、3年間本当にお世話になりました。ありきたりな事しか言えなくてすごくもどかしいけど、あなたには、心から感謝しています。それと、結婚式への出席を承諾してくれて本当にありがとう」
そう言うと、美彩季は、徐に両手を前に差し出した。健一も、両手で美彩季の両手を包み込み、2人は固く握手を交わした。電車の扉が開き、人々が乗車を始めた。
「それじゃあ、体に気を付けてね。案内状を送るから・・・」
その言葉を残して美彩季が最後に乗車すると、扉が閉まって電車はゆっくりと動き出した。扉の窓越しに、美彩季が笑顔で手を振っていた。
健一にとって、多くの思い出深い出来事に彩られた、かけがえのない3年の時が今まさに終焉を迎え、目の前を過ぎ去っていった瞬間だった。

 健一は、ネクタイを締め、上着を羽織って玄関で靴を履いた。
「行って来ます」
「行ってらっしゃい」
母が、玄関で見送ってくれた。
「さあ、今日から新しい生活のスタートだな――!はりきっていかなきゃ――!!」
健一は、ひとつ大きな伸びをして、家の門を出た。
最寄りの地下鉄駅までは、徒歩で10分程の道のりであるが、今日は、風もなくいい天気になりそうである。また、川沿いの歩道に植えられている桜が、今まさに満開を迎えていて、上を向いて歩いているといつにも増してとても心地がよかった。
「俺が主任ね〜、さて、どうなることやら」
営業第2課には、過去3年間、職員の異動がなかった。つまり、健一は、この3年間課内で最も新しい社員であり、いつも仕事を教えてもらう立場であった。それが、今日からは、主任として新入社員に仕事を教える立場になったのである。
なんだか少し妙な気分になった健一ではあったが、土日にサークルでバドミントンを教えている関係で、人に物を教えることについては慣れているため、特に不安は感じていなかった。
 健一は、いつもと同じ時刻に電車に乗って会社へと向かった。約30分で会社から最寄りのB駅に到着し、5分ほど歩いてK株式会社本社オフィスビルの玄関前までやってきた。
エントランスの自動ドアを抜けて受付の前を横切った時、前方に前任者の松田の姿が目に入った。
「松田さん。おはようございます」
「おお、涌井か。おはよう」
健一の前の主任である松田は、振り返って挨拶をし、健一と肩を並べて歩き始めた。
「今日から主任だな。頑張れよ」
「はい、ありがとうございます。松田さんこそご昇格おめでとうございます」
「ありがとう。しかし、俺の場合は他課への異動だから、しばらくは大変そうだ」
「な〜に、松田さんなら大丈夫ですよ。って、人に太鼓判を押している場合じゃないか!」
「そのとおりだ!」
「ははははははは」
「ところで、今日は、9時から大会議室でよかったですね」
「そうだ」
「配属予定の新人が、直前に大学を卒業できなくなったっていう話でしたけど、代わりの新人は、大丈夫なんですか?」
「おお、それは、課長が人事に掛け合って、他の課に配属される予定だった新人を、当課(うち)にまわしてもらうことになったと聞いたぞ」
「そうですか。それは、よかった。名前は何というんですか?」
「確か、高梨という名前だったな」
2人は、エレベーターに乗り込み、7階にある営業第2課の執務室へ向かった。
 4月1日付人事異動対象者への辞令交付式は、10階にある大会議室で午前9時から行われる予定になっていた。K株式会社の辞令の交付は、社長が直々に辞令を社員に手渡すやり方で、今時では、大変珍しいものであった。健一も、3年前に社長から直接辞令を手渡されて、営業第2課に配属されたのである。
 やがて、9時15分前となり、辞令の交付を受ける社員が10階の大会議室に集まりだした。営業第2課からは、新入社員を除けば健一と松田が辞令の交付を受けることになっており、2人も8時50分には、大会議室に入った。人事課の担当者が、辞令を受ける順に社員を整列させていた。そして、定刻の9時になり社長から辞令の交付が開始された。
役職の高い社員から順に辞令が交付されていく。係長全員が交付を受け、主任の順番となった。
「涌井健一。営業第2課、主任を命ずる。頑張ってください」
「はい」
健一は、辞令を両手で受け取り、一礼して列に戻った。しばらくして、主任への交付が終わり、新入社員への交付が始まった。そして、5人目に営業第2課に配属される社員に辞令が交付された。
「小鳥遊(たかなし)悟。営業第2課勤務を命ずる。頑張ってください」
「はい」
健一は、課に戻る際に新人社員を連れて行ってやろうと思い、顔をよく覚えておいた。
 ほどなくして、辞令の交付はすべて終わり、社長の訓話をもって辞令交付式は終了した。辞令を受けた社員は、三々五々に辞令を持って各々の配属先のフロアーへと向かっていった。
しかし、新入社員だけは、自分の配属先のフロアーを確認するために、エレベーター横に掲示されている課名とその所在フロアーを表示したパネルの前に集まっていた。
ゆっくりとその新入社員の一団に近づいた健一は、その内の一人に後ろから声をかけた。
「高梨君」
「はっ、はい」
名前を呼ばれた新入社員は、少し驚いて、振り返りざまに返事をした。
「営業第2課の涌井です」
「あっ、小鳥遊悟です。よろしくお願いします」
小鳥遊悟は、そう言うと丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくね。僕も辞令の交付があったので式に出席していたんだ。課まで一緒に行こうか」
「ありがとうございます。7階でよかったですね」
「そう。エレベーターを使う必要もないから階段で行こう」 
「はい」
2人は、7階の執務室に向かって、通路の端にある階段を下りていった。
「実は、君の前任者は昨日付けで退職したんだ。それで、仕事内容については僕が聞いておいたので、引継ぎは僕がするよ」
「ああ、そうですか。ありがとうございます。どのような仕事なんですか?」
「庶務、経理関係だね。ひと通りこなせるようになったら、営業にも回ることになるんじゃないかな」
「わかりました。なんだか、楽しみですね〜!」
「へえ〜、不安なんかは感じない?」
「いや、それよりもわくわくする気持ちのほうが大きいです」
「ふ〜ん、それは頼もしいね〜」
「早く一人前になれるようにがんばります」
 そんなことを話しているうちに、2人は、7階の営業第2課の執務室前までやって来た。
「よし、それじゃあ、まず課長に挨拶に行こう」
「はい」
健一は、悟を課長のデスクの前まで連れて行って課長に紹介した。
「課長、今日から、当課(うち)に配属となった高梨悟君です」
「小鳥遊悟です。よろしくお願いいたします」
「おお!ようこそ営業第2課へ。課長の平山です。こちらこそよろしくね〜!よ―し、それでは、みんなにも紹介しちゃおう!」
「みんな、ちょっといいかな〜。今日から副島君に代わって当課(うち)に配属になった小鳥遊君だ。よ〜くかわいがってやってちょうだいね!」
平山は、悟に挨拶をするよう小さく目配せをした。
「小鳥遊悟と申します。今日からこちらでお世話になります。1日も早く仕事を覚えて業績を伸ばしていきたいと考えています。よろしくお願いします」
悟は、課長席を取り囲んだ課員の前で、はっきりとした大きな声で挨拶をして一礼した。課員からは、暖かい拍手が送られた。
「それから、松田君が営業第1課に異動となって、その後を涌井君にやってもらうことになりました―。こちらも引き続きよろしくね〜!」
「皆様、毎度おなじみの涌井健一でございます。ご家庭でご不要となりました・・・もとい。引き続きご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます―!」
平山と健一の絶妙な掛け合いで、課内にどっと笑いが巻き起こった。
「じゃあ、涌井君、後は頼むな」
「はい」
 健一は、悟を美彩季が使っていたデスクに連れて行って、仕事の説明を始めた。
まずは仕事全体の概略について話をして、早急に対応をしなければならない案件の処理方法を教えていった。
悟は、メモを取りながら、集中して健一の説明に耳を傾け、疑問があればすぐさま質問をして内容を理解していった。
その後、2時間程でひと通りの説明が終って、2人は一息ついていた。
「まあ、大体こんな感じだね。一回聞いただけですべてを理解するのは無理なので、やりながら分からないところがあったらまた聞いてください」
「はい。ありがとうございました」
「どう、リラックスしてる?」
「ええ、普段と変わらないですよ。しかし、課長さんって、面白い人ですね〜」
「一見アホに見えるだろ!実は、そうなんだ。いや、いや、あれで、結構なやり手なんだ!」
「ははははははは!」
「本当は、君とは別の人が当課(うち)に配属される予定だったんだけど、直前に大学を卒業できなくなって採用が取り消されてしまったんだ。欠員もやむなしの状況だったんだけど、人事に交渉して強引に君を獲得したらしいよ」
「へえ〜、僕は、この課にご縁があるんですね〜!」
「そうだね。まあ、これも何かのめぐり合わせだ。一緒に頑張っていこうよ」
「はい。よろしくお願いします」
「あっ、そうだ!通勤届と身上調書を書いてもらうのを忘れていた」
健一は、そう言うと、自分のデスクの引き出しから2種類の書類を取り出した。
「今日中に人事に提出しなきゃいけなかったんだ。悪いけど、今書いてくれる?」
「はい、わかりました」
悟は、通勤届に住所と名前を記入して、通勤方法を書き込もうとした。
「えっ!タカナシってそんな字を書くの!」
「あっ、はい。いつも、高い低いの高いに果物の梨という字だと思われるんです」
「普通はそうだよ。逆に字を最初に見て、読めた人もいないんじゃないの?」
「そうですね。今のところは、いないです」
「ふ〜ん、これでタカナシね〜!何か由緒のありそうな名字だね〜」
「はっきりとは分からないんですが、ご先祖は、源氏の流れを引く氏族で、井上盛光という人だったそうです。そして、この盛光が、信州の高梨村に領地をもらって高梨盛光となって、高梨姓が始まったと聞いています」
「だから、始まりは、普通に高い梨という字だったんです。そして、この高梨姓は、家督とともに、盛光の長男に引き継がれました。家督については、長男が引き継ぐのが普通で、盛光の場合も例外ではなかった訳です。それから、盛光には、長男の他にも3人の男の子がいて、家督を継がなかったその3人の兄弟についても、姓に関して言えば、同じ高い梨を名乗ることに何の支障もなかったんです。ところが、盛光は、三男に高梨姓を与える際に、『小鳥が遊ぶところに鷹はいない』という遊び心のこじつけで、高い梨を小鳥遊という字に変えてしまったんだそうです」
「へえ―っ!それは、すごい話だね―!初めて聞いたよ」
「真偽のほどはわかりません。でも、自分の名字の由来については、そう聞いています」
「これさ、営業に行くようになったら、絶対に役に立つよ!」
「えっ!そうなんですか!?」
「うん、間違いないよ。まず、名刺を交換して挨拶をするだろ。名刺を見た人は、何でこの字でタカナシと読むんだろうって、誰もが疑問に思うよ。そこで、今の説明をすると、相手は絶対に君のことは忘れないはずだ」
「なるほど!それはいいことを聞きました」


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