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作品名:月下氷人 作者:箕輪久美

第9回   放心
 週が明けた。美彩季は、先週までとは違って、しっかりと気持ちが落ち着いて、体に力があふれているのを感じていた。剛志との関係に進展があったわけではないが、剛志が犯罪に巻き込まれる恐れがなくなって、ウイークデイに必ず剛志に会えることが嬉しかった。
 午前中の仕事が終わり、美彩季は、健一と屋上で話していた。
「剛志のやつ、その後どうですか?」
「弘子の逮捕直後は、ひどく落ち込んでいたわ。でも、今は、以前と同じように、元気になったようね」
「そうですか」
「うん、これもすべて涌井君のおかげだわ。本当にありがとうね」
「いいえ、すべて美彩季さんの超能力のおがけですよ!」
「も〜、また〜」
「ハッハハハハ」
「美彩季さん。とりあえず、今回の件は一段落したようなので、週末に少し時間をつくってもらえませんか?」
「えっ?なっ、何か?」
「いや、一緒に食事でもと思ったんです」
「あっ、いっ、いいわよ」
「土曜日と日曜日、どちらがいいですか?」
「そっ、そうね、日曜日かな」
「分かりました。じゃあ、日曜日に夕食をご馳走しますよ」
「あっ、ありがとう」
この時、美彩季の脳裏をよぎったのは、もしかすると日曜日に、健一から自分に対する気持ちを打ち明けられるのではないか。そして、もしもそうなった時に、自分はどのように返事をしたらよいのかということであった。
「どうしました?あまり気が進まないように見えますが」
「いっ、いいえ、そんなことはないわ。とても楽しみよ」
 午後の仕事を終えて、美彩季は、Tスポーツクラブへ向かっていた。
『日曜日、もし本当に、涌井君から彼の気持ちを打ち明けられたらどうしよう。剛志さんに対する、私の気持ちを明かさねばならないのか。しかし、彼は、剛志さんと出会うきっかけを作ってくれた人だし、身を挺して剛志さんを救ってくれた人。さらに、剛志さんとは親友でもある。その人に対して、そんなことができるのか。どうすればいい・・・わからない』道すがら美彩季は、何度も何度も同じことを考えていた。当然、答えが出るはずもなかった。
 着替えを済ませ、トレーニングルームに入った美彩季は、剛志を探したが、その姿は、どこにも見当たらなかった。近くにいたインストラクターに聞いたところ、今日は週休日であるとのことだった。三日ぶりに剛志の顔が見れると期待していた美彩季であったが、週休日では仕方がないと気持ちを切り替えて、いつもどおりのトレーニングメニューを消化していった。しかし、その間も、日曜日の健一との食事のことだけは、どうしても頭から離れることはなかった。
 トレーニングを終え、シャワーを浴びた美彩季は、クラブを出て、帰宅すべく地下鉄のB駅へ向かおうとしていた。そして、駐車場の脇に植えられている杉の木の前を通り過ぎたところで、後ろから不意に呼び止められた。
「美彩季さん」
「えっ!」
よく見ると美彩季を呼び止めたのは、なんと、剛志だった。先週は、美彩季が、剛志の帰宅を待ち伏せていたのだが、今日は逆に剛志が、美彩季の帰宅を待ち伏せていたのだった。
「あっ!きょ、今日は、お休みだと・・・」
「ええ、すこしだけ美彩季さんとお話がしたかったので待っていました」
「わっ、私と?」
「はい」
美彩季は、完全に動揺していた。なぜなら、今まで剛志に声をかけられる時は、いつも苗字で呼ばれてきたのに、なぜか今日、突然名前で呼ばれて、一気に距離が縮まったように感じたからである。そして、剛志が次に発した一言で、美彩季は、完全に意識を失ってしまった。
「美彩季さん。僕と、結婚を前提にお付き合いをしていただけませんか!」
「エッ??????????」
美彩季は、口を開けたまま、その場に茫然と立ち尽くしてしまった。
「突然に、驚かせるようなことを言いだしてしまってすみません。でも、僕は、本気です。ゆっくりと考えていただいてからお返事をください。それでは、今日はこれで失礼します。おやすみなさい」
そう言い残して、剛志は、美彩季のもとを去っていった。美彩季は、何一つ答えることも、何のリアクションを取ることもできなかった。口を開けたまま、頭の中が真っ白になって、思考が停止してしまっていた。
 ふと、気が付くと、美彩季は、アパート近くの神社の前をフラフラと歩いていた。
「あっ!かっ、帰ってきたのか」
「そっ、そうだ!」
そういうと美彩季は、一目散に神社の中に入っていった。
「紗耶ちゃん!紗耶ちゃん!」
いつもはすぐに姿を見せる紗耶香だが、今日は、何度呼んでも美彩季の前に現れることはなかった。こんなことは今までに一度もなかったため、不安になった美彩季であったが、先週紗耶香に、しばらく、スポーツクラブへ一緒について来てほしいと頼んでいたことを思いだした。
もしかしたらと思い、美彩季は、もう一度クラブへ戻って、クラブ近くのお寺で紗耶香を呼んでみたが、やはり、紗耶香に会うことはできなかった。
 翌日、美彩季はいつも通りに出勤したが、一日中昼行灯状態であった。近くで電話が鳴っていても全く気が付かなかったり、とんでもないところに書類を持って行ってしまったりと、考えられないような間違えばかりを繰り返していたため、健一をはじめとする同僚が心配して、何度となく声をかけてきた。その都度正気には戻るのだが、しばらくすると、昨夜の剛志の言葉が再び頭に浮かんできて、まともにものが考えられなくなってしまい、また、ぼんやりとしてしまうのだった。


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