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作品名:月下氷人 作者:箕輪久美

第8回   待ち伏せ
 終業の時刻がやって来た。美彩季には、ひとつ大きな気がかりがあった。
それは、取りも直さず、剛志のことであった。弘子は、スポーツクラブ内でも非常に目立っていたため、今日のニュースは間違いなく剛志の耳にも入っているに違いない。
弘子が、共犯者として、密入国させたタイ人に売春を強要していたことを剛志が知ったらどう思うだろうか。弘子が自分に近づいた目的は、どんな形であれ、自分を利用するためであったということが明らかになり、大きなショックを受けていることは想像に難くない。
美彩季は、タイ人のアパートで弘子に顔を見られて以来、スポーツクラブへは行っていなかった。しかし、弘子が逮捕された今、クラブへ行くことを躊躇する理由はなくなった。何よりも、剛志のことが心配であった。
 久しぶりにスポーツクラブへやってきた美彩季は、トレーニングルーム内で剛志を探したが、その姿はどこにも見当たらなかった。近くにいた他のインストラクターに尋ねてみたところ、午後から体調を崩して帰っていったとのことだった。美彩季は、ますます、剛志のことが心配になり、ほとんどトレーニングらしいトレーニングもせずにクラブを後にした。
 アパート前まで帰ってきた美彩季は、いつもの神社で紗耶香と話していた。
「沙耶ちゃん、やったわよ!」
「どうしたの?」
「権造と弘子が、ついに、逮捕されたのよ!」
「え――っ!ほっ、本当――!」
「本当よ。お昼のニュースでやっていたの。色々と、本当に、ありがとうね」
「いいのよ。でも、よかったね―」
「よかったわ〜、本当に。沙耶ちゃんの助けがなかったら、絶対に無理だったわ・・・でもね・・・」
「どうしたの?」
「剛志さんが、心配なのよ。さっきスポーツクラブへ行ってきたんだけど、お昼から体の具合を悪くして早退していたのよ。よほど、ショックだったんだろうな・・・」
「そう」
「ねえ、沙耶ちゃん。お願いがあるんだけど」
「なあに?」
「しばらく、私がスポーツクラブへ行く時に、ついて来てくれないかな」
「それはいいけど、どうするの?」
「いっしょに、剛志さんの様子を見ていてほしいのよ」
「いいけど、私、人の考えていることがすべてわかるわけではないのよ」
「ええ、わかっているわ。でも、何か気が付いたことがあったら教えてほしいのよ。沙耶ちゃんは、私たちが気が付かないようなことを感じ取れるから、どんな些細なことでもいいから教えてほしいの」
「わかったわ」
「あっ、それと、涌井君にもお願いしたんだけど、今回の私たちの行動については、剛志さんには絶対にしゃべらないでね」
「それは、大丈夫よ。剛志さんには、私の姿は見えないし、声も聞こえないから、伝えたくても、伝えようがないわ」
「あっ、そうだったわね」
 翌日、仕事を終えた美彩季は、紗耶香とともにスポーツクラブの更衣室にいた。
『剛志さん、今日は、来ているのだろうか?』
着替えを終え、不安を胸にトレーニングルームに入った美彩季は、部屋の北側にあるランニングマシーンの近くに、剛志の姿を見つけた。そして、その様子を伺うため、やや遠目から「こんばんは−」と挨拶をしてみたが、振り返った剛志の表情は、明らかに憔悴しており、無理に笑顔を作って挨拶を返してくれたが、逆にその笑顔が、たいそう痛々しかった。
 いたたまれなくなった美彩季は、2階に上がり、トラックを走りながら、引き続き剛志の様子を見ていたが、いつもの様な覇気は感じられず、見ている美彩季のほうも、気が滅入ってしまうほどであった。
 早々にトレーニングを切り上げた美彩季は、クラブ近くのお寺にやってきた。ここは、以前に、紗耶香が弘子の悪意を見抜いて美彩季に伝えてくれた場所である。
「どんな感じだった?紗耶ちゃん」
「どんなもなにも、見てのとおりよ。ただ、弘子に対する思いは、まるで感じなかったわ。たぶん、自分は、利用されようとしていただけなのに、弘子に愛されていると思い込んでいた。そんな自分に対する落胆じゃないかな」
「やはりそう・・・」
美彩季は、深いため息をついて、しばらく、何事かを思案していた。
 23時を回り、Tスポーツクラブの営業時間は終了した。出入口から、職員が、まばらに出てくる。ある者は、駐車場に止めてある車に乗り込み、ある者は、歩いて地下鉄の駅に向かう。
 美彩季は、駐車場の脇に植えられている杉の木の木陰から出入口を窺っていた。
しばらくすると、剛志が、数人の職員とともに出入口に現れた。別れの挨拶をした後、剛志は、1人で、美彩季の隠れている杉の木の方向へ歩いてくる。おそらく、地下鉄のA駅かB駅へ向かうのだろう。美彩季は、しめたと思い、杉の木の陰に身を潜め、剛志が通り過ぎるのを待った。そして、剛志が通り過ぎて、しばらくして、徐に後ろから声をかけた。
 「岩見さん」
「えっ!あっ、ああ、副島さんですか。あれっ?ずいぶん前に、お帰りになったんじゃあなかったですか?」
「いえ、少しお話がしたかったので、待っていたんです」
「僕をですか?」
「はい、どちらまで行かれますか?」
「地下鉄のA駅です」
「私は、B駅まで行くので、途中までご一緒してもいいですか?」
「ええ、もちろん、かまいません」
「岩見さん・・・元気を出してくださいね」
「えっ!ああ、顔に出ちゃってましたか。面目ないです。お客さんに心配してもらっているようじゃ、プロとして失格です」
「いいえ、どんな事があったかは知りませんが、人間なら、落ち込んだり、挫けたりする時があるのは、当たり前ですよ」
「ただ、私、岩見さんより年下ではあるけど、そういうことについては、大ベテランと言うか、間違いなく岩見さんより数多く経験しているので、私の話を聞いてもらえば、少しは楽になってもらえるかなと思って、待っていたんです」
「大ベテランですか」
剛志は、僅かに微笑んだ。
美彩季は、剛志が、少しでも微笑んでくれたことに気をよくして話を始めた。
 「私、今の会社に入社して6年目なんですけど、とにかく、そそっかしいので最初の年はミスばかりしていたんです。初めのうちは、入ったばかりだから仕方がないと思ってもらえたんですけど、それでも、毎日のように間違えを繰り返しているので、そのうちにみんなに完全に引かれてしまいました。いつも、またやっちゃうんじゃないかと、びくびくしながら過ごしていて本当に辛かったです」
「ある時、代金の振込先を書き間違えてしまい、チェックを怠ったまま、違う取引先に振り込んでしまったんです。しばらくして、本来振り込まなければならない取引先から連絡があって、そこで、はじめて間違いに気が付きました。お金に関わることだから、後処理が大変でした。さすがにこの時は、簡単に許してはもらえず、始末書を書くことになりました。
もう、目の前が真っ暗でした。何で、自分はいつもこうなんだろう。ため息ばかりついていました」
「そんな時、祖母が亡くなったんです。73歳でした。私は、おばあちゃん子だったので本当に悲しくて、おまけに落ち込んでいる時だったので、もう、すべてが嫌になって、何もする気になりませんでした。そして、しばらくして少し落ち着いてから、ふと思ったんです。おばあちゃんも、若い頃、今の私のような気持ちになった事があったのかなあと。そう考えたとき、ハッとしました」
「おばあちゃんは、亡くなる前まで、いつもニコニコしていて、本当に楽しそうでした。悩みや心配なんか、かけらもなさそうに見えました。でも、そんなおばあちゃんでも、過去には、間違いなく、落ち込んだり挫けたりしたことはあったはずなんです。しかし、亡くなる前に、そんなことを考えていたはずはありません。最後の最後まで笑顔を絶やすことなく旅立って行きました」
「そのことに気が付いてからは、こんなふうに考えられるようになったんです。今、自分はとても辛いことに直面しているのだけど、これは、何十年経った後でも、同じように辛い思いをするような取り返しの付かないことなのだろうか?とです」
「それからは、肩の力が抜けて、間違えの数は徐々に減りだしました。間違えの原因を探って、次に、どうすれば間違えずにできるのかを考える余裕ができたんです」
「今、目の前にある問題から目をそらさず、正面から取り組むことは絶対に必要です。しかし、それだけではなくて、未来の視点から、今の自分と自分の抱えている問題を見直してみると、リラックスできて、決してマイナスにはなりませんよ」
「未来の視点から、今の自分と自分の抱えている問題を見直してみる・・・か」
剛志は、美彩季のアドバイスをかみしめるように、ゆっくりと繰り返して口にした。そして、しばらく間をおいてから言った。
「ありがとうございます。目からうろこが落ちるような、すばらしいお話でした」
「すこしでも、楽になってもらえればうれしいです」
「しかし、副島さん、いいことを言いますね〜」
「ええ、大ベテランですから!」
「ハッハハハハ」
剛志は、今日一番の笑顔を見せた。
その後、2人は、談笑をしながらしばらく歩き、大きな交差点までやって来た。
「それでは、私は、B駅から地下鉄に乗りますから、ここで失礼します。おやすみなさい」
「今日は、いいお話を聞かしていただきました。ありがとうございました。おやすみなさい」
こうして2人は、それぞれの帰路についた。美彩季は、剛志が、自分の話を聞いて笑顔を見せてくれたことに大きな安堵感を覚えていた。
 翌日、美彩季は、いつもよりやや遅くスポーツクラブへ到着し、建物に入ろうとすると、偶然にも、ちょうど、剛志が出入口から出てきて、バッタリと玄関前で出会った。
「あっ、こんばんは、副島さん。昨日はどうもありがとうございました」
「あっ、いいえ、こちらこそ。あれっ、もうお帰りですか?」
「ええ、今日は、早番なのでこれで帰ります。それでは、失礼します」
「お疲れ様でした」
 剛志の様子は、昨日とは明らかに違っていた。顔を合わせた時間は短かったが、美彩季は、それをハッキリと感じることができた。そして、さらに、その翌日には、顔色も良くなって完全にいつもの剛志に戻っていた。
 トレーニングを終えた美彩季は、アパート前の神社で紗耶香と話していた。
「紗耶ちゃん、剛志さん、元気になったみたいだけど、どう感じた?」
「そうね、元気になったようね。一昨日とは、まるで違うわ」
「そう、よかった」
「きっと、美彩季ちゃんのアドバイスが効いたんだよ」
「それならいいんだけど・・・何か、他に感じたことなんかは?」
紗耶香は、一瞬迷ったような表情を見せた後で、「特には、なかったわ」と答えた。美彩季は、その表情には気が付かなかった。
「そう、これで少し安心できたわ」
「でも、本当に上手くいったね」
「そうね。権造と弘子は逮捕されたし、剛志さんも元気になったし、すべて紗耶ちゃんのおかげだわ。ありがとうね」
「いや、私だけじゃないでしょ。涌井さんがいなければ、どうすることもできなかったじゃない」
「そう。今回のことで怪我までさせてしまって、本当に申し訳ないことをしたわ。よくお礼を言っておかないと」
「前にも言ったとおり、彼、美彩季ちゃんに気があるわよ。美彩季ちゃんは、どうなの?」
「彼は、まっすぐな心を持った、信頼のできる人よ。だから今回、こんな、普通ならとても信じてもらえないようなことを相談することができたの」
「もし、彼に交際を申し込まれたら?」
「う〜ん、困るわ。私は、気持ちが剛志さんに行ってしまっている。でも、その剛志さんを救ってくれた親友の涌井君に交際を申し込まれてしまったら、私は、どう答えたらいいの」
「難しいね」
そう言いながらも、紗耶香は、やや安心したかのような表情を見せた。
「涌井君は、どれくらい私のことを思ってくれているんだろう?」
「さあ、そこまでは、彼に聞いてみないとわからないよ」
「少し気になる、というくらいであればいいんだけど」
 美彩季は、剛志が自分をどう思っているのかを紗耶香に聞いてみたかった。しかし、先ほど、剛志が元通り元気になったこと以外、紗耶香は特に何も感じなかったと言っていたため、それ以上のことを聞くのが怖かった。
「まあ、あまり考えすぎないほうがいいんじゃないかな」
「そうね。今は、剛志さんが犯罪に巻き込まれなかったこと、以前のように元気になってくれたことが、とにかく嬉しいわ」
 翌日の土曜日と翌々日の日曜日、美彩季は、久々にピアノのレッスンに出かけた。剛志と弘子のデートの現場を目撃して以来、美彩季は、ずっと体調不良を理由にピアノのレッスンを休んでいたのであった。
 今まで苛まれていた不安感や焦燥感から解き放たれ、久しぶりに臨んだレッスンは、美彩季のピアノに対するほとばしるような情熱を、再び呼び覚ましてくれた。一切の雑念を捨て去り、美彩季は、ただただ一心不乱に、鬼気迫るほどの集中力でピアノを引き続けた。そして、レッスンを終えると、以前と同じように、身体中が熱くなるような達成感と充実感をまた味わうことができた。土曜日曜の夜、美彩季は、数週間ぶりにぐっすりと眠ることができた。


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