翌日、健一は、体調不良を理由に会社を休んだ。心配した美彩季は、昼休みに健一に電話を入れた。 「あっ、もしもし、涌井君。美彩季です。どうしたの?あれからどこか痛み出したの?」 「いいえ、帰るまで冷却シートで顎を冷やしていたし、帰ってからも氷で冷やしていたので腫れは完全に引いたんですよ。でも、あざができちゃって、これじゃあ営業に行けないんで今日だけ休んだんです。明日には、絆創膏を貼っていきますよ」 「そう、よかった。でも、ごめんね。私が、こんなことをお願いしたばっかりに、そんな酷い目にあってしまって」 「いいえ、剛志を救うためなので、気にしないでください。それから、コピーはどうしました?」 「昨日作った告発文に同封して、今から速達で出しに行くところよ」 「そうですか。とにかく早い方がいいのでそれでいいと思います。それと、万一の時のために控えは取ってありますね?」 「それは、大丈夫よ。昨日近くのコンビニでコピーはしておいたわ。あっ、それから、今度の私たちの行動については、絶対に、剛志さんには言わないでね。お願い」 「わかってますよ。そんなことを奴に話してどうなるものでもありません。とにかく、奴が事件に巻き込まれなければそれでいいんです」 「ありがとう。じゃあ、また明日ね」 「ええ、それじゃあ、今日はこれで」 健一が無事であったので、愁眉を開いた美彩季であった。 それから、美彩季は、パスポートのコピーを同封した告発文を入国管理局に送るために、郵便局へと急いでいた。 告発文には、今回、偽パスポートにビザが偽造された経緯や理由、背後の関係組織、犯罪にかかわった人物たちや、その利害関係などが詳細に、実名入りで記載してある。また、実際のパスポートの隠し場所も紗耶香の情報通りに記載し、その内の1冊を証拠としてコピーして同封したと記した。そして、一刻も早く関係者を逮捕しなければ、罪もない人間が犯罪に巻き込まれるため是非とも迅速に対応してもらいたいと結んだ。 郵便局に到着した美彩季は、差出人を記入せず、速達で入国管理局宛に告発文を送付した。 これで、美彩季にできるすべてのことはやり尽した。それでも、入国管理局が動いてくれなければ、もはや手の打ちようがない。人事を尽くして天命を待つ思いの美彩季であったが、なんとか入国管理局が動いてくれることを、天に祈るばかりであった。 その後、何事もなく一週間が過ぎた。火曜日の昼休み、美彩季は、いつものように持参した弁当を食べた後、珍しく、近くの電気店に来ていた。長年使っていた電気スタンドが壊れてしまったため、新しいものを購入しようと品定めに来たのだった。 美彩季は、照明器具売り場に行く途中に、テレビ売り場の前を通り過ぎたのだが、数多く並べられているテレビになにげなく目をやっていて、その内の数台の前で、思わず体が釘付けになってしまった。 その数台のテレビは、某局のお昼のニュースを放送していて、風俗店の違法営業摘発のニュースを伝えていた。 「市内○○区3丁目にある風俗店の経営者が、逮捕されました。逮捕されたのは、川田権造56歳で、経営する風俗店に18歳未満の少女を雇用し、客と性的交渉を強要させたことによる、風営法違反及び売春防止法違反の疑いです。また、18歳未満の少女の中には、川田が、偽造旅券でタイから入国させた者が3名含まれ、その旅券に日本のビザを偽造して所持させており、旅券法違反、有印公文書偽造の疑いも持たれています。また、共犯者として川田の知人の鈴木弘子24歳と、広域暴力団H組の中野猛32歳も逮捕されました。 3名のタイ人は、変造旅券行使による不法入国の罪で、タイに強制送還される模様です」 ニュースを聴き終えた美彩季は、ワナワナと体の震えが止まらず、しばらく言葉を失ってその場に立ち尽くしてしまった。しかし、ハッとして、我に返ると、すかさず健一に電話を入れた。 「わっ、涌井君、今どこにいるの?」 「今ですか?屋上で、タバコを吸っていますよ」 「つっ、捕まったのよ」 「えっ?」 「権造と弘子が、逮捕されたのよ」 「え――っ!」 「今、ニュースでやっていたの。すぐ、そっちに行くわ、待っていて」 美彩季は、たった今やって来た方向へ全速力で駆け出して、会社へと向かった。 美彩季が、息を切らして屋上に到着すると、健一は、スマホですでにニュースを確認していた。 「涌井君、やったわ!やったわよ!」 「ええ、今、ネットで見ていたところです」 「どっ、どうしたの。あまり嬉しそうじゃないけど」 「川田と鈴木、そして、暴力団員が捕まったのは、いいんですよ。でも、タイに送り返される3人のことを考えると、手放しでは喜べないんです」 「確かにあの3人は、悪い子ではなかったわ。そして、言葉は分からないけど、あの子たちが、日本での生活を楽しみにしていることはよく分かった。それでも・・」 「実はね、美彩季さんが、パスポートのコピーに出かけている間にいろいろと話をしていたんですよ。彼女たちは、地方の貧しい農村出身で、13歳から15歳。日本で言えば、ちょうど中学生なんです。家が貧しく子沢山だったために、親に捨てられて、バンコクで体を売って生きていたそうなんです。そんな時、日本で働く話を持ちかけられて、一も二もなくその話に飛びついたそうです」 「このまま、国で生きていてもまともな暮らしができるはずもなく、日本へ行けば、何か未来が開けるかもしれないと思ったそうです」 「しかし、日本へ来ても・・・」 「そうです、結局は、国でやっていたことと同じことをやらされて、搾取され続けていたでしょう」 「でもね、教育も受けられずに育った上、言葉もわからない国で不法滞在をしようとしている彼女たちにとって、他にできることなど何もないというのは、自分たちが、いちばんよく分かっていたんじゃないかと思うんです。それでも、タイで暮らすよりは、ずっとまともな暮らしができること、今まで見たこともない世界で新しい体験ができることに期待をして、3人はやって来たんです。そして、その希望を、我々が、打ち壊してしまった」 「でも、彼女たちが関わっていたことは、明らかな違法行為よ。それと、それを見過ごしてしまったら、剛志さんが犯罪に巻き込まれてしまっていたわ」 「そうです。我々のやったことが、正しかったことに疑いの余地はありません。これ以上の成功はないというほど、思い通りに事が運びました。すべては、あれでよかったんです。でも、あの3人のことを思うと、どうしても手放しでは喜べないんですよ」 美彩季は、3人が車で連れ去られた時に、健一が、敢然と車の前に立ちふさがった理由が、分かった気がした。 健一は、ポケットからタバコを取り出し、そのうちの1本にライタ−で火をつけた。そのライタ−は、剛志から土産にもらったものではなくて、普通の100円ライタ−だった。 「あっ、そのライタ―!」 「ええ、あの時に、倒れて落っことしちゃったみたいなんですよ」 「ごめんね。大事なものをなくさせてしまって」 「いいえ、うちは商売柄、あんなのは、いつでも手に入るので気にしないでください」 「あっ、もうこんな時間だ。そろそろ戻りましょうか」 「そうね」 2人は、その後、ほとんど言葉を交わすこともなく、事務室に戻って行った。
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