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作品名:月下氷人 作者:箕輪久美

第6回   獲得
 翌日、美彩季は、仕事を終えると、昨日紗耶香と約束したとおり、地下鉄とバスを使い、弘子のマンション近くの神社にやってきた。
「紗耶ちゃ〜ん」
「あっ、美彩季ちゃん」
「どうだった?何かわかった?」
「実は、昨日、あれから、権造がマンションにきたのよ!」
「えっ!」
「昨日のうちに手を打っておいて、本当によかった!一日遅かったら、本当に手遅れになるところだったわ!」
「美彩季ちゃん、あいつら、本当に、とんでもないことを企んでいるわ!」
 紗耶香は、昨日自分が見聞きした事を、順を追って美彩季に話していった。
話が進むにつれて、美彩季は、自分の顔から次第に血の気が引いていくのを感じた。
そして、紗耶香の話をすべて聞き終わると、あまりの驚きに茫然自失してしまい、しばらくの間、完全に言葉を失ってしまった。
「なっ、なんということを・・・」
「美彩季ちゃん、早く、早く何とかしないと!」
「そっ、そうね!でっ、でも、どうすれば・・・」美彩季は、その場で、頭を抱えてしまった。
 翌日、出勤した美彩季は、始業前に健一の席に近づき、小声で健一に耳打ちした。
「涌井君、相談があるの。お昼を食べたら、屋上まで来てくれない?」
美彩季に、いきなり耳打ちされた健一は、少し驚いて美彩季の方を見たが、美彩季の真剣な顔つきを見て、小さく頷いただけで何も言わなかった。
 午前中の仕事が終わり、美彩季は、持参した弁当を食べるとすぐに屋上へ向かった。
今日は、風が強く気温も低いので屋上には誰もいなかった。5分ほど待つと、健一が、出入口から現れた。
「どうしたんですか、美彩季さん。風が強すぎて寒いから、場所を変えませんか?」
「いいえ、誰もいないからここの方が都合がいいの」
「それで、相談ってなんですか?」
「涌井君、お願い、剛志さんを、剛志さんを助けてあげて!」
そう言うと、美彩季は、健一の胸に飛び込み、声を上げて泣き始めた。
「どっ、どうしたんですか美彩季さん!」
いきなり美彩季に抱きつかれた健一は、突然の事で大いに驚いたが、すぐに冷静さを取り戻し、泣き続けている美彩季の両肩をつかみ、体をゆすりながら問いかけた。
「美彩季さん、美彩季さん、しっかりしてください。泣いていては分かりません。事情を、事情を説明してください。」
「あっ、ご、ごめんなさい。つい、取り乱してしまって。」
 美彩季は、ひとしきり泣いたことで、少し落ち着きを取り戻した。そして、健一から紹介を受けて、先週Tスポーツクラブを訪れてから、昨日までの出来事を、事細かに健一に説明していった。
静かに話を聞いていた健一は、途中から驚きの表情を浮かべていたが、話の腰を折ることなく、最後まで美彩季の話を聞き終えた。
「そっ、それは、本当のことなんですか!」
「本当よ!冗談でもなんでもない。今、本当に起こっていることなのよ!」
「しかし、よくそんな情報を手に入れられましたね!」
「情報の入手方法については、話す事ができないの。でも、お願い、信じて。このまま放っておいたら、剛志さんが危ないの!」
 健一にとって、美彩季の話は、にわかには、とても信じられるような内容ではなかった。しかし、美彩季のこれまでの様子を見ていると、嘘や冗談を言っていようにも到底思えなかった。
そして、何と言っても、惚れた女が泣きながら救ってほしいと懇願している人物とは、他ならぬ自分自身の親友でもあり、このまま見過ごすことなどできるはずもなかった。
「わかりました。それじゃあ、美彩季さん、今晩、少し時間をつくってもらえませんか?」
「ええ、もちろんいいわ」
「それまでに、今聞いた話を整理して、どう対処するのがいいのかを考えてみます」
「あっ、ありがとう」
美彩季は、安堵のため、片手で胸を押さえて、その場にしゃがみ込んでしまった。
 18時半になった。美彩季は、月曜日と火曜日に桂子と会った居酒屋の個室で、健一を待っていた。そして、待ち合わせ時間から10分ほどして、息を切らせて、健一がやって来た。
「すみません。遅くなりました」
「いいのよ。ごめんね、いそがしいのに」
「申し訳ないです」
そういいながら健一は、座敷に上がって美彩季の正面に腰を下ろした。
「何か、適当にオーダーしてから話しましょう」
「そうね」
健一は、呼び鈴を鳴らして、店員を呼び、美彩季の意向を聞きながら、思いつくものを注文していった。そして、注文を取り終えた店員が、部屋を出ていくと、健一は、ゆっくりと話しを始めた。
「いろいろ考えてみたんですけどね。やはり、入国管理局に動いてもらうのが、一番だと思うんですよ」
「入国管理局?」
「そうです、この件は、自分たち素人が手を出すには、危険すぎると思うんです」
「しかし、入国管理局に対して、今の状況を文書で告発するだけでは、不十分で、まず、管理局は、動いてくれません」
「それでは、どうすれば?」
「証拠が必要なんですよ」
「証拠?・・例えばどんな?」
「一番いいのは、偽造したパスポートを送ることです。しかし、さすがに、これは無理なので、コピーが取れればいいんですが、よく考えてみると、これもけっこう難しいですね」
「どこが難しいの?」
「その3人のタイ人の住まいが、どこか、わかるんですか?」
「いいえ、わからないわ。でも、明日の午後3時半の便でK空港に着くことはわかっているから、後をつけてみたらどうかしら?」
「やってみますか」
「しかし、仮に住まいがわかったとして、いつビザが偽造されるのか、そして、部屋のどこにパスポートがあるのか、また、どうやって部屋に入り込むのかを考えると、かなり難しいですね」
「そう・・・」
「ビザの偽造時期とパスポートの場所については、なんとか調べられると思うわ」
「ええっ!!どっ、どうやってですか?」
「ごめん、方法については、言うことができないの。でも、それは、私が、必ず何とかするわ。そうすると、後はどうやって部屋に入るかだけね」
「そうですね。もし、その2つがクリヤーできるのであれば、可能性が出てきますよ」
健一は、しばらく思案していたが、突然妙案がひらめいたらしく、美彩季の方を向き直ると、にっこりと笑いながら言った。
「いい方法があります!」
 健一と別れて、美彩季は、また、弘子のマンション近くの神社に来ていた。
「沙耶ちゃん、沙耶ちゃん」
「ここよ、美彩季ちゃん」
「今日はどうだった?」
「今日は、これといった動きはなかったわ」
「そう、それじゃあ、今から一緒に帰ってほしいの」
「えっ、どうして?」
「実は、明日、来日する3人のタイ人の後を、空港からつけることになったのよ」
「どうするつもりなの?」
「3人の住まいを突き止めたいの。そして、ビザが偽造されたパスポートをコピーしたいのよ」
「それをどうするの?」
「入国管理局に告発する文書に添付するのよ」
「なるほど。いいアイデアね。美彩季ちゃんが考えたの?」
「いいえ、協力してくれてる会社の友達が考えてくれたの」
「そう、でもそれは、すごくいいアイデアだわ。それで、私はどうすればいいの?」
「明日、私と一緒に、3人の住まいを突き止めたら、そこにいてもらって、3人が、ビザの偽造されたパスポートを受け取った後、どこにそのパスポートをしまうかを教えてほしいのよ」
「なるほど、わかったわ。じゃあ、明日、アパートの前の神社で待っているわね」
「うん。お願いね」
 翌日、美彩季と健一は、午後から会社を休み、健一の車でK空港に向かっていた。紗耶香は、約束どおり美彩季に同行していた。
「この車一台で後を追うと、見失う恐れがあります。だから、美彩季さんは、別に、タクシーで彼女たちの車を追ってください」
「そうね。じゃあ、涌井君は、この車を空港の出入口近くに着けて待っていて。電話で合図を送るわ」
「わかりました」
美彩季は、健一の車を降り、大きなマスクとサングラスをして、入国ロビーで弘子を待った。
 3時が過ぎた。柱にもたれて、出入口付近を窺っていた美彩季は、赤い派手なコートに白の帽子、サングラスにミンクのマフラーを身につけた女性を、視界に捉えた。弘子だった。
「涌井君、弘子が来たわよ。白の帽子に赤いコート、サングラスをしているわ」
「了解です。3人を連れて出入口付近まで来たら、また連絡をください」
「わかったわ」
 3時40分を回り、出国のゲートから乗客が出てきた。弘子は、懐からプラカードを取り出して、ゲートから出てくる乗客を目で追っている。すると、そのプラカードを見た3人の少女が、弘子の方に小走りで集まってきた。そして、4人は、なにやら身振り手振りを交えて話をした後、出入口に向かって歩き始めた。
「涌井君、今、4人が出入口に向かったわ。私もタクシーであとを追うわ」
「了解です」
美彩季は、4人が出入口から外へ出ると、自分も外へ出て、待たせていたタクシーに乗り込んだ。そして、4人の動きを追っていると、弘子も、美彩季のタクシーの100メートルほど前方に、タクシーを待たせていたらしく、3人を後部座席に乗せ、自分は助手席に乗って、タクシーは走り出した。
「運転手さん。今出たタクシーを追ってください」
「はっ、はい」運転手は、いきなり車の追跡を命じられて、少し驚いた様子であった。
「涌井君、今4人が、空港を出たわ」
「はい、見えています。こちらも後を追います」
 車2台で、タクシーの後を追ったのは正解であった。途中何度か信号で、1台が捕まる場面があったからである。その都度、並走していたもう一台から電話で連絡し、2人は、4人を乗せたタクシーを見失う事はなかった。そして、タクシーが郊外へさしかかったため、美彩季は、追跡を健一に任せて、パチンコ店の駐車場で連絡を待っていた。
「美彩季さん、アパートが分かりましたよ。今、地図を送ります。すぐ来てください」
「わかったわ。すぐ行く」
 美彩季は、地図の場所を運転手に伝え、その付近まで来ると代金を払ってタクシーを降りた。しばらく歩いて右に曲がると、健一の車が、路肩に止まっていた。美彩季は、右の後部座席に乗り込んだ。
「美彩季さん、あのアパートですよ」
健一が指し示したアパートは、木造2階建ての古いアパートで、閑静な住宅地の中の細い道路沿いに建っていた。
「2階の右から2番目の部屋に、電気がついているでしょう。4人が到着して、しばらくしてから電気がついたので、あの部屋で間違いないと思います」
「やったわね!それじゃあ、私たちは、いったんこの場を離れましょう」
「えっ!し、しかし、本当にこれで、部屋の中のことが調べられるんですか?」
「だいじょうぶよ、任せて。あっ、それから、ここから一番近いお寺か神社へ行ってほしいの」
「えっ!いっ、いったい何のために?」
「お願い。何も聞かないで連れて行って」
「・・・わっ、わかりました」
 アパートから車で2、3分のところに小さなお寺があった。健一は、車をお寺の脇の道路に止めて美彩季を待っていた。
「紗耶ちゃん、見てた?」
「ええ、見ていたわ」
「それじゃあ、弘子が、パスポートを返しに来たら、3人が、それをどこにしまうかを見ていてね」
「わかったわ」
「じゃあ、仕事が終わったら毎日会いにくるからね」
「うん。あっ、それから、これは余計なことだけど」
「ん?」
「涌井さん、美彩季ちゃんに気があるわよ!」
「えっ、本当!」
「私は、嘘はつかないわ。じゃあね」
紗耶香は、アパートのほうへ消えていった。
 「お待たせ、ごめんね」
「いや、それはいいんですけど、いったい、何をしてたんですか?」
「ごめんね、それは、言えないのよ。許して」
美彩季は、顔の前に両手を合わせ、目をつむって、許しを請うしぐさを見せた。
「そうですか。まあ、いいですけど・・・」
そう言いながら、健一は、車のエンジンを掛けた。
「じゃあ、次は、スーパーを下見していきましょうか」
「そうね」
「いや〜、形の上とはいえ、美彩季さんと夫婦になれるなんて、パッピーですね〜」
「はい、はい」
 実は、これは、健一が思いついた計略であった。3人は、必ず近くのスーパーに買い物に来るはずだから、そこで、健一と美彩季の仮想の夫婦が、偶然を装って3人のタイ人と出会い、健一の語学力を生かして3人に近づこうというものであった。明日の土曜日か明後日の日曜日のどちらかで関係を作り、ビザの偽造後に、もう一度、偶然の出会いを装って、部屋へ入り込む機会を窺うという方法であった。
 3人のアパートから最も近いこのスーパーは、市内に十数店舗を展開するチェーン店のうちのひとつであった。駐車場に車を止めて、2人は、店内をゆっくり見回してから、また、車に戻ってきた。
「明日か、明後日のどちらかで、必ずここに来ると思いますよ」
「そうだといいわね」
「歩くと少し距離がありますが、自転車くらいは持っているでしょうから、食料の調達にはここがベストのはずです。店に出る時間を考えると、お昼のやや遅い時間帯が、一番可能性が高いと思います」
「涌井君、あなた、見かけによらず頼りになるのね〜」
「え―!いつも僕は、どういうふうに見えているんですか――?」
 翌日、美彩季と健一は、前日のスーパーの駐車場に、健一の車で11時30分に到着し、車内で、美彩季の作ってきた弁当を食べながら、3人が現れるのを待っていた。
「やあ、美彩季さんの作ってくれた弁当が食べられるなんて、協力してよかったなあ〜」
「また、うまいこと言っちゃって」
「本当ですよ。ああ美味いなあ」
「ありがとう」
「あっ、そうだ。実は、大学時代のサークルの友人が、風俗のルポライターをやってるんですよ。それで、昨日電話してみて、権造の店のことを聞いてみたんですけど、どうやら、奴らのやろうとしていることが、わかってきましたよ」
「そう!どんなことなの?」
「権造の経営している風俗店は、ピンサロなんですが、どうも、客と本番行為をさせているみたいなんです。そして、女の子が受け取る金の中から、手数料としていくらか抜いているようなんですが、あまりにあくどく抜くと、女の子たちが騒ぎ出すんですよ。そこで目をつけたのが外国人というわけです。密入国させた外国人であれば、弱みを握っているし、言葉の壁もあるので、日本人の倍以上は抜けるそうです。」
「それで、その密入国者たちの管理と、行く行くは、密入国までも剛志さんに任せようとしているの?」
「そのとおりです」
「なっ、なんということを・・・」
「そうです。なんとしても阻止しなければなりません」
 美彩季と健一が、駐車場で待機し始めてから2時間が過ぎた。すると、スーパーの南東側にある自転車置き場に、昨日空港で見た3人のタイ人少女が、2台の自転車に分乗してやってきた。1台に1人が乗り、もう1台には2人乗りをして、3人は、自転車置き場に到着した。
「あっ、来ましたよ!」
「やったわね!」
「じゃあ、3人が店内に入ったら、行きますよ」
「了解」
 美彩季と健一は、タイ人の少女3人を追って、スーパー内に入った。
店内に入った3人のタイ人少女は、もの珍しそうに、あちらこちらを歩き回り、目に付いた商品を手にとっては、何やら3人で話し合っていた。
健一と美彩季は、インスタントラーメンの棚の前で品定めをしている3人の横を、何食わぬ顔をして通りかかった。そこで、3人の会話に気が付いたふりをした健一が、タイ語で何かを話しかけた。
 その瞬間、振り返った3人は、驚きの表情を浮かべて健一を凝視した。そして、その直後に、一斉にすごい勢いで、健一と美彩季にタイ語で話しかけてきた。
美彩季は、手を振って言葉が分からない事を伝えたため、3人は、健一を猛烈な勢いで質問攻めにしている様子である。それから、その他の売り場を回って、さまざまな商品についての疑問を一通り健一にぶつけた後、手を振って、とても和やかな様子でレジのほうへ向かって歩いていった。
 「やりましたよ。美彩季さん!」
「どっ、どうだったの?」
「見たこともない物がたくさん売っていると言うので、いろいろと説明をしたんですが、ぜひうちに来て、料理の方法などを教えてほしいと言ってきたんです」
「そっ、そう!それで?」
「今日と明日は無理だけど、その次の日曜日なら大丈夫だと言ったら、ぜひお願いしたいと言ってました」
「やっ、やったわね!」
「ええ、8日後の日曜日、この時間に、またここで待ち合わせです」
「それまでに、なんとかパスポートが返ってきてほしいわね」
 翌日から、美彩季は、紗耶香に会うために、タイ人たちのアパート近くのお寺を毎日訪れた。市の中心部にある美彩季のアパートや会社からは、かなり離れた郊外にあるので、地下鉄とバスを使い1時間以上はかかるのだが、美彩季は、根気よく毎日通い続けた。そして、金曜日の夜。
「美彩季ちゃん。とうとう、昨日の夜、弘子がパスポートを届けに来たわよ!」
「そう!やったわね!それで、どこにパスポートをしまったの?」
「それがね、少し、厄介なのよ」
「えっ、どういうこと?」
「3冊とも、同じ場所にしまうもんだと思ってたんだけど、個人個人で管理しているのよ」
「そうなの。それで、どこにしまっているの?」
「2人は、押入れの奥に入れてあるそれぞれの荷物の一番底にしまったわ。そして、残りの一人が、箪笥の一番下の引き出しの左端の服の下にしまったのよ」
「う〜ん、そうか、全部をコピーするのは難しそうね。まあ、一度、涌井君と相談してみるわ。ありがとう、紗耶ちゃん」
 翌日の土曜日、美彩季は、先週の木曜日に健一と話し合った居酒屋で、再び健一と会っていた。2人は、明日決行する、部屋への侵入について打ち合わせを行っていた。
「これが、部屋の見取り図よ。そして、3人が、それぞれにパスポートをしまっている場所がこの3箇所。ビザの偽造は、木曜日に完了しているわ」
「しっ、しかし、どうやったら、これほど詳しく調べられるんですか!?まるで、部屋に入って、見て来たみたいじゃないですか!!これができるのなら、他の人の助けなんか要らないように思うんですが」
「ごめんね、何度も言うけど、情報の入手方法は明かすことができないのよ。許して。それと、私一人ではどうにもならないの。お願い、助けて」
「ええ、それは、いいんですけど、不思議なのは、入手方法が全く想像もつかないような情報が、恐ろしく正確なことなんですよ。美彩季さん、ひょっとして、超能力者だったりするんじゃないですか?」
「そんなことはない、いや、そう思ってもらってもいいわ。とにかく、この情報に基づいて明日のことを考えましょう」
「ええ、入手方法がどうであれ、情報が正確であれば、やりようがあります」
「まず、コピーですが、全部は諦めて、箪笥の中のひとつに絞りましょう。3冊の内の1冊であっても、証拠としては十分です」
「それから、方法なんですが、僕はこんなふうにやったらどうかと思うんです」
2人は、入念に打ち合わせを行って、明日に備えた。
 日曜日、2人は、1時15分にスーパーの駐車場に車を止め、3人のタイ人を待っていた。20分ほどが過ぎた頃、先週と同様に、2台の自転車に分乗して、3人はやって来た。3人が店内に入ったのを確認して、美彩季と健一も後を追って、店の内に入っていった。
 健一は、3人が、鮮魚コーナーで品定めをしているところに、後ろから声をかけた。
3人は、健一と美彩季との再会をたいそう喜んでいる様子であった。そして、健一は、山田俊明、美彩季は、梨香と名乗って、打ち合わせどおり、今日は、お好み焼きの作り方を教えると伝えて、その材料を買い込んだ。
その後、タイ人3人も買い物を終えて、いよいよ、美彩季、健一とともに、アパートに向かうことになった。美彩季と健一は、当然、アパートまでの道は分かっているのだが、今日初めてアパートを訪れる体であるため、3人のうちの1人を車に同乗させ、道案内をしてもらってアパートに向かうことにし、残りの2人は、自転車で後から合流することとした。
 先にアパートに到着した美彩季と健一は、車に同乗してきたタイ人の少女に、2階の一室に案内された。そして、程なくして、他の2名も部屋に戻ってきて、美彩季は、料理教室を開始した。
 美彩季は、まず、キャベツを半分に切って、少し千切りにしてみたが、それを見ていた3人は、驚きの喚声をあげた。3人は、包丁もまともに使った経験がないらしく、機械のようにキャベツが刻まれていく様に大いに驚いて、自分たちにもやらせてほしいと、代わる代わる危なっかしい手つきで、キャベツを刻み始めた。
 健一は、通訳のためにそばにいたが、必要がなさそうなので奥の部屋へ行き、スマホをいじり始めた。実は、これも予定の行動で、いきなり4人を放っておいて奥の部屋へ行ってしまうと怪しまれるため、昨日考えた演技であった。
 少女たちは、キャベツの千切りに夢中で、美彩季の指導を受けながら、大きな声を上げて台所で奮闘しており、健一には全く注意を払っていなかった。今が、チャンスであった。健一は、箪笥の最下段の左端に隠されているパスポートを素早く取り出し、近くに置いておいた美彩季のバッグの中に忍ばせた。そして、すぐさま、美彩季のスマホに電話をかけ、美彩季が出た直後に電話を切った。
 一方、美彩季は、健一の電話を受けると、友人から電話がかかってきたことを装って通話をしているふりをした。そして、話し終わった後に健一を呼んで、急用ができたためしばらく外出しなければならないが、すぐ戻ってくると3人に伝えてもらい、パスポートの入ったバッグを持って部屋を出て、アパートの外に止めてある車に乗り込んだ。
 美彩季が向かった先は、アパートから一番近いコンビニであった。通常、コンビニには、コピー機が設置されており、硬貨を入れれば、誰でもコピーが可能である。美彩季が入ったコンビニにも、コピー機が設置されていて、幸いにも、カラーコピーを始め、様々なタイプのコピーに対応していた。美彩季は、カラーコピーで、画質に写真画質を選び、パスポートを表表紙から裏表紙まで丁寧にコピーしていった。特に、偽造されたビザの部分は、倍の大きさに拡大して再度コピーし直した。そして、コピーを終えた美彩季は、急いで車に戻り、バッグの今しがた取り出した場所にパスポートを戻し、コピーはダッシュボードにしまって車を発進させた。
 ほどなくして、アパート2階の1室に戻ってきた美彩季は、パスポートの入ったバッグを、何食わぬ顔で奥の部屋の元あった所に置き、健一と話をしていた3人を、奥の部屋から台所に連れ出して、お好み焼きの調理を再開した。
 薄力粉と少量のみりんを水に溶いて、先ほど千切りにしたキャベツを入れ、油を引いたフライパンの上で生地を作っていった。生地が焼きあがる前に、イカの切身と豚肉バラ肉を入れ、しっかりと焼き上げてオタフクソースを加え、最後に、青のりとマヨネーズをかけて、あっという間に一人前のお好み焼きが出来上がった。
 3人は、その手際のよさに、唖然としていたが、美彩季が、ジェスチャーで、自分と同じようにやってみるよう伝えると、俄然興味を示して、お好み焼き作りに取り組み始めた。
健一は、その様子を奥の部屋で見ていて、気づかれる恐れがないことを確信して、美彩季のバッグからパスポートを取り出し、素早く箪笥の元の場所に戻した。
 約20分後、5人は、奥の部屋で、出来上がったお好み焼きと飲み物を乗せたテーブルを囲んでいた。3人のタイ人少女は、初めて食べるお好み焼きのおいしさに大いに感激した様子で、食材と調味料について詳しく美彩季に尋ねてきた。美彩季は、健一に通訳してもらい、丁寧に質問に答えていったが、3人とも素直ないい子であり、憎むべきは、権造と弘子なのだと改めて思った。
 そして、食事が終わり、美彩季と健一が、そろそろ退散しようと思っていたその時だった。
突然、ドアをノックする音が部屋に響いた。室内にいた5人に緊張が走った。セールスでもない限り、来日間もないタイ人の少女たちを訪れる人間は、限られている。5人が黙っていると、もう1度ドアがノックされ、美彩季と健一が凍りつくような一言が発せられた。
「弘子よ。開けなさい」
弘子と聞いて、3人は、居留守を使うわけには行かない。ドアの一番近くにいた1人が、恐る恐るドアを開けると、濃紺のカシミヤコートとニット帽、ブルーのサングラス姿の弘子と、その後ろに、明らかにその筋の人間と分かる、黒いサングラスをかけた角刈りの男が立っていた。
「あら、お客さんなの」
「ああ、今ちょうど食事が終わったところなので、我々は、そろそろ、帰ろうと思っていたところだったんです」
 健一は、一刻も早くこの場を離れなければと必死だった。なぜなら、タイ語ができることを知られると、ここを訪れた目的を詮索される恐れがあるし、通訳として拉致される可能性も考えられるからだ。健一に促されて、美彩季もバッグを持って立ち上がり、2人とも即座にその場を立ち去ろうとした。
「あなた方は、どなたなの?」
玄関で、靴を履いていた2人に、弘子が質問した。
「私たちは、この近所に住んでいる者なのですが、近くのスーパーで何度か彼女たちに会って、顔見知りになったものですから、今日、彼女たちがこちらに招待してくれたんです。それで、せっかくなんで、お好み焼きを作って食べていたんです」
「そう」
その時、3人のうちの1人が、タイ語で何か健一に話しかけた。健一は、何を言われたのかわからないような表情をして、日本語で「ありがとう。じゃあ、またね」と答えた。
「それでは、失礼します」
そう言って、健一と美彩季は、玄関を出て2人の横をすり抜け、足早に階段を駆け下りて行った。
 アパートに面した道には、黒のキャデラックXTSが、止められていた
2人は、少し離れたところに止めていた健一の車まで、早足で歩きながら、小声で話をしていた。
「あのやくざ風の男は、H組の組員に違いないわ」
「たぶん、そうでしょうね」
「でも、何で、弘子について来たんだろう?」
「おそらく、組長が、あのタイ人3人に会いたがっているんじゃないですかね」
「えっ!でも、会わせてしまって大丈夫なの?」
「さあ、わかりません。でも、あの3人は、お客である権造の店の人間なので、手荒な真似はしないとは思うんですが・・・」
 健一と美彩季が、健一の車に乗り込もうとしたその時だった。後方から「トシアキ−、リカ−」と叫ぶ声が聞こえた。2人が振り返ると、先ほどのキャデラックに3人のタイ人が、無理やり乗せられているところだった。
次の瞬間、健一は、猛然とキャデラックに向かって走り出した。
「あっ、涌井君!危ない!」
突然のことで、美彩季は健一を制止することができなかった。
健一は、走り出したキャデラックの前に仁王立ちになり、車は急停車した。そして、運転席から、先ほどのサングラスをかけたやくざ風の男が、すごい勢いで降りて来た。
「なんじゃいワレ!」
「何をするんだ。嫌がっているじゃないか。放してやれ!」
「やかましいわい!ワレに何の関係があるんじゃい!」
やくざ風の男は、健一の胸ぐらを捕まえて、右拳で一撃を食らわせた。左顎にパンチを食らった健一は、後方に吹っ飛んで倒れ込んだ。そして、男は、運転席に戻って、車を猛スピードで走らせてその場から立ち去った。
 「わっ、涌井君、大丈夫!!!」美彩季は、倒された健一に慌てて駆け寄った。
「だっ、大丈夫です」
健一は、口の中を切って血を流していたが、幸い、頭は打っていなかった。
「全くもう、本当に無茶するんだから!」
美彩季は、健一を抱き起こし、ハンカチを取り出して、口の周りの血を拭いてやった。
「ハハ、幸せ💛」
「ばか、こんな時に何を言ってるのよ。立ち上がれる?」
「ええ、もちろんです」
「車は私が、運転するわ。ドラッグストアに寄って、冷却シートを買ってくるから、それまでそのハンカチで傷口を押さえていて」
美彩季は、助手席に健一を乗せて、エンジンをかけ、車を発進させた。


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