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作品名:月下氷人 作者:箕輪久美

第4回   失意の時
 翌日は、1月にしては非常に温かく、風もない穏やかな一日であった。美彩季は、珍しく昼休みを屋上で過ごしていた。ぼんやりと、Tスポーツクラブの方角を眺めていると、後ろから健一に声をかけられた。
「美彩季さん、珍しいですね。こんなところで時間をつぶしているなんて」
「ああっ、涌井君。今日はいい天気だから、外にいた方が気持ちがいいじゃない」
「昨日、剛志から電話がありましたよ」
「剛志?ああっ、岩見さんのこと?」
「そうです。なんでも、ランニングマシーンで爆走したそうじゃないですか。あいつ、ぶったまげてましたよ。あの人は、すごいって言ってました」
「へえ〜、そんな風に私のことを・・・あっ、そうだ。私も聞いたわよ。あなた、落第しそうになったところを、岩見さんに助けてもらったそうじゃない」
「えっ、あいつそんなこと言ったんですか?確かに、ノートは見せてもらったけど、ノートがなかったら必ず落第したかと言えば、そうとは言えないじゃないですか。恩着せがましい奴だな、あの野郎」
「何言ってるの。感謝しなきゃいけないでしょ。あっ、そう言えば、岩見さんって去年まで2年間タイに住んでいたんですってね」
「そうです。お父さんが病気で、長期入院することになったんで帰ってきたんですよ。その時にもらった土産がこれです」
そう言って、健一は内ポケットから小さなライターを取り出した。表面にはタイの民族衣装を着た美しい女性がプリントされていた。
「へえ〜、綺麗なデザインじゃない」
「でも、これね、こうすると」そう言いながら健一はライターを逆さにした。すると、女性の衣装がすべて上の方に消えて行って、丸裸になってしまった。
「なに、それ――!」
「いや、あいつは、こういう奴なんですよ」
「どういう奴よ?」
「助平ってことですよ」
「それは、助平なあなたに喜んでもらうために買ってきてくれたんでしょ」
「なんでそうなるんですか――?」
「そりゃ、お土産って、もらう人が一番喜ぶものを選ぶからよ」
「それじゃ、俺が、まるで助平みたいじゃないですか――!」
「正解!さあ、そろそろ戻らないと始業のベルに間に合わなくなっちゃうよ」
美彩季は、踵を返すと、そそくさと屋上の出入り口に向かって歩き出した。
「待ってくださいよ〜。美彩季さ〜ん」
 午後の始業のベルが鳴った。いつものように仕事にとりかかった美彩季であったが、先ほどの健一との会話で、また少し、彼についての情報が増えたことを嬉しく思っていた。
名前が剛志であること。昨日の自分の走りが、インパクトを与えていたこと。
友人にあんなお土産を買うおちゃめな一面があることなどである。そして、今日もスポーツクラブへ行く予定の美彩季は、さらに何か新しい情報を得ることができるのではないかと、仕事も手につかないほどワクワクしていたのであった。
 やがて、17時の終業時間となった。美彩季は、足早に会社を後にし、喜び勇んでTスポーツクラブへやってきた。今日からは、インストラクターが付きっきりではなく、基本的に自分でトレーニングをしなければならない。しかし、質問をしたり、補助をしてもらう事は自由にできるので、何かにかこつけて剛志と接触を持ちたいと美彩季は考えていた。
 着替えを終えてトレーニングルームに入ってくると、数人のインストラクターが元気よく挨拶をして美彩季を迎えてくれた。剛志は、奥のほうにあるトレーニング器具で一人の女性を指導していた。
美彩季は、何食わぬ顔で剛志に近づき「こんばんは〜」と挨拶をした。
「あっ、副島さん、こんばんは。昨日は、どうもありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ、ありがとうございました」
「昨日、健一にお礼の電話を入れておきましたよ」
「ええ、今日聞きました。涌井君、卒業試験で、あまり、岩見さんにお世話になったとは思っていないみたいでしたよ」
「あっ、そうですか。まあ、別に、恩を売ったとも思っていないし、それでいいですよ」
そんなことを話していた時、剛志の指導している女性が、何か剛志に話しかけた。よく見ると、彼女は20歳くらいの若さであったが、日本人ではなく、東南アジア系の女性であった。剛志も、女性の言葉に対して何か言葉を返しているのだが、美彩季には全く話しの内容はわからなかった。おそらく2人は、タイ語で会話をしているのだろうと、美彩季は察した。しかし、自分にはタイ語は全くわからないし、剛志の仕事の邪魔をしては悪いと思ったので、美彩季はその場を離れ、ウォーミングアップのために、2階部分にある200メートルのトラックへと向かっていった。
 Tスポーツクラブは、2階に相当する部分が、3メートルほどせり出しており、1周200メートルのランニング用のトラックになっている。美彩季は、屈伸運動をした後アキレス腱をよく伸ばし、軽く走り出した。トラックからは、トレーニング用のスペースが一望できる。ここでは、男性のインストラクターが女性会員の、女性のインストラクターが男性会員の指導をするルールになっている。希望すれば同性のインストラクターに指導を受けられるが、多くの場合は、異性の指導を希望するようである。美彩季は、走りながら、剛志の手が空く瞬間を窺っていたが、今日の剛志は、大変忙しいらしく、先ほどのタイ人と思われる女性以外に、もう一人の女性の指導も担当していた。その女性は、派手な色のトレーニングウェアを身にまとい、長身ですばらしいプロポーションであった。顔も大変美しく、一見しただけで、一般人とは明らかに一線を画しているかのように感じられた。今日、剛志は、2人の女性会員の指導で手一杯の様子であるため、美彩季が入り込む余地はなさそうであった。
 仕方がないので、美彩季は、トラックを20周走った後、1回の別室でエアロビクスのレッスンを受けて、シャワーを浴びた。そして、更衣室で着替えをしていた時、先ほどのタイ人と思われる女性が、思いがけず、美彩季の隣のロッカーにやってきた。美彩季は、一瞬ためらったが、思い切って話しかけてみた。
「こんばんは」
「こんばんは」
「どちらの国の方ですか?」
「私、タイ人の留学生です」
「日本語、お上手ですね」
「ありがとございます。でも、まだまだね」
「さっきは、岩見インストラクターと、どんなお話しをされていたんですか」
「練習の仕方、いろいろ聞きました。彼、タイ語とても上手い。VERY NATURAL。私の日本語、比較ならないね」
「そんなことはないですよ。とてもお上手です」
「そですか。ありがとございます。とてもうれしね。でも、彼のタイ語、ほとんどタイ人と同じ。すごいね。モデルの女の人驚いてたね」
「モデルの女の人?」
「そう、彼教えてた、きれい人」
「ああ!あの人モデルさんなんですか。そりゃあ、きれいな筈ですね。でもね、女は、見た目がすべてじゃないんですよ」
「そのとおりね。私もそ思う。気が合うね」
「ハハハハハ」
二人は、顔を見合わせて笑ってしまった。
「私、チュラポーン・ホンタイいいます。よろしくお願いします」
「私は、副島美彩季です。よろしくお願いします。それでは、今日は、これで失礼します。さようなら」
「さよなら。また、会いましょう」
 美彩季は、上着を羽織ると、更衣室を出た。そして、通路を通って出入口に向かう途中で、トレーニングルームの中を覗くと、剛志は、先ほどのモデルの女性となにやら談笑しており、美彩季に気がつく気配はなかった。しかたなく、美彩季は、そのままスポーツクラブを出て帰宅の途についた。今日は、金曜日なので平日会員の美彩季は、明日と明後日は、クラブに来ることはできない。次に、剛志に会えるのは、週明けであった。
 翌日、美彩季は、いつもよりやや早めに目を覚ました。そして、今日がピアノのレッスンの日であるにもかかわらず、まったく気分が乗らないことに気がついた。普段であれば、ともすれば、気合が入りすぎるくらいなのだが、どうにも、レッスンに向かうエネルギーが沸いてこなかった。案の定というべきか、レッスン中に集中力を欠いて度々ミスを繰り返し、何度も講師から注意を受けた。レッスンが終了し、いつもなら漲る充実感とともにアパートに戻る美彩季であったが、その日は、まったく覇気がなかった。
 原因は、はっきりしていた。剛志である。とにかく、剛志のことが、四六時中頭から離れない。こんなことではいけないと思っても、こればかりはどうすることもできず、胸が苦しくてしかたがなかった。肉体を酷使する際の苦しみであれば、美彩季は、どれだけでも耐えられる自信がある。しかし、胸が張り裂けそうなこの苦しみは、今まで味わったことのないもので、とても耐えることができそうになかった。翌日、美彩季は、体調不良を理由にピアノのレッスンを休んだ。自らレッスンを休むのは、これが、初めてのことだった。
 部屋でじっとしていても、苦しさが募るだけなので、美彩季は、桂子と食事でもしようと連絡をしてみたが、その日、桂子は、地方に出張中で美彩季と会うことはできなかった。
しかたがないので、人が多く集まる繁華街に出てみれば、少しでも気がまぎれると考えた美彩季は、市の中心部にあるデパートのレストランで、昼食を取ることにした。
晴天で休日の繁華街は、思ったとおり多くの人で溢れかえっていた。そんな中、1人で食事に行くのは寂しかったが、部屋でじっとしているよりは、ずっと気が紛れた。
 レストランのカウンター席に案内された美彩季は、ランチセットを注文し食事を始めた。周りを見ると、カップルや家族連れがほとんどで、1人で食事をしている人はあまりいなかった。
美彩季は、『いつか、自分も剛志と2人で食事ができる日が来るのだろうか』と考えながら食事を続けた。そして、食後しばらくして、セットのコーヒーが運ばれてきた。美彩季は、コーヒーを飲みながら、この後どうするのかをぼんやりと考えていたが、すぐ近くに映画館があることを思い出した。
『そうだ、映画でも観に行ってみようか。特に観たいものもないけど、時間をつぶすのにはちょうどいいわ』
 美彩季は、レジで代金を支払い、デパートを出て映画館の方へと歩き出した。5分ほど歩くと、左側に小さな映画館が見えてきた。美彩季が、館内に入り、上映予定の映画とその上映の時間を確認していた時だった。ある映画の上映が終わり、ひとつのシアタールームから、映画を観終わった観客が一斉に受付前のロビーに出てきた。美彩季は、映画館を出る観客の波に飲み込まれないように、柱の陰に移って、観客が立ち去るのをじっと待っていた。そして、なにげなく出口に向かう人々を眺めていたまさにその時、自らの目を疑うような、信じられない程ショッキングな光景に遭遇してしまったのだった。
 なんと、剛志が、例のモデルの女性と腕を組みながら、目の前を通り過ぎて行ったのである。2人は、美彩季には全く気が付かず、なにやら楽しそうに談笑しながら、出口から館外へ出て行った。あっという間に目の前が真っ暗になった。
 それ以降のことについて、美彩季には、全く記憶がなかった。気が付いた時には、いつもの神社の石の腰掛に座り、肩より低く頭をたれてうなだれていた。


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