翌日の昼休み、美彩季は、パソコンでTスポーツクラブの場所を調べていた。 「あっ、なんだ、桂子のオフィスの方なんだ」 Tスポーツクラブは、美彩季の会社から桂子のオフィスへ行く途中にあり、距離でいえばちょうど両者の中間くらいの所にあった。美彩季は、以前に桂子のオフィスを訪れたことがあったので、その場所は簡単に分かった。 「ひょっとしたら、目の前を通っていたのかもしれないな。まあいいわ、運動のできる服装は用意してきたから、今日帰りに行ってみよう」 美彩季は、紗耶香の言っていた『いいこと』が何であるのかを考えると、胸がわくわくして仕方がなかった。 やがて、17時となり、終業のチャイムが鳴った。美彩季は、期待に胸躍らせながら、10分ほど歩いてTスポーツクラブへとやって来た。 入口の自動ドアを通ると、右手にもう一つ自動ドアがあり、その奥が受付であった。 美彩季が、受付の前まで行くと、「いらっしゃいませ。こんばんは」と受付の女性職員が、明るく美彩季を迎えてくれた。 「すみません、ホームページで施設の体験利用ができることを知ってお邪魔しました」 「ありがとうございます。本日は、運動のできるウェアーとシューズをお持ちですか」 「はい、用意してきました」 「承知いたしました。それでは、施設をご利用いただく前に、こちらの申込用紙にご記入をお願いいたします」 「はい」 美彩季は、差し出された申込用紙に、住所、氏名、連絡先を記入し、運動に関する簡単なアンケートにも答えを記入して、受付の女性に用紙を渡した。 「ありがとうございました。それでは、副島様、着替えをしていただいて、もう一度こちらまでおいでください。インストラクターが、運動の目的についてお聞きしたうえで、プランニングやトレーニング器具の使い方などをご説明いたします。更衣室はこちらになります」 「ありがとうございます」 美彩季は、教えられた更衣室でフィットネスパンツとTシャツに着替え、ランニングシューズを履いて再び受付の前にやって来た。そして、しばらく待っていると後ろから男性に声をかけられた。 「こんばんは、副島様ですね」 「はっ、はい」振り返った美彩季の前に、上下とも紺色のトレーニングウェアに身を包んだ長身の男性が笑顔で立っていた。 その男性を見た瞬間、美彩季は、体に強烈な電流が走り、思わずその場に立ち尽くしてしまった。理屈抜きに、美彩季は、一瞬でハートを射抜かれてしまったのだった。 「インストラクターの岩見と申します。よろしくお願いいたします」 「そっ、そっ、副島です。よっ、よろしく、おっ、お願いします」美彩季は、しどろもどろでそう答えるのがやっとだった。 岩見と名乗ったインストラクターは、美彩季が緊張していることを察すると、次のように切り出した。 「それでは、副島様、実際に体を動かしていただく前に、少しお話をお聞きしてもよろしいでしょうか?」 「はっ、はい」 「ありがとうございます。それでは、そちらの椅子にお掛け下さい」そう言って岩見は、受付の左端にある椅子に美彩季を座らせ、自らは、受付の中に入って美彩季と相対した。 「ようこそ私どものスポーツクラブへお越しくださいました。副島様は、お仕事のお帰りですか?」 「はっ、はい」 「この近くにお勤めですか?」 「そっ、そうです。歩いて10分程のところです」 「そうですか。それでは、以前から私どものスポーツクラブのことは、ご存じだったのでしょうか」 「いっ、いいえ、昨日、職場の同僚から聞いて初めて知りました」 「あっ、そうですか。昨日お知りになって、すぐ翌日に来てくださったのですね」 「そうです。その同僚のお友達が、こちらでインストラクターをされているそうです」 「えっ!・・ひょっ、ひょっとして、健一の会社の方ですか?」 「あっ!そっ、そうです。涌井君のお友達って、岩見さんなんですか?」 「そうです。あいつとは、大学の同窓生なんですよ」 「はい、そう聞いています」 2人は、共通の知人がいたことがわかり、距離がやや縮まって、少し打ち解けて話せるようになった。 「いや、あいつには、冗談半分で、宣伝をしておいてくれって言っていたんですが、本当に宣伝してくれていたんだなあ!感謝感謝、コップクンクラッ」 そう言って、岩見は、目の前で手を合わせて軽くお辞儀をするしぐさを見せた。 「岩見さんもタイ語を専攻されていたんですね」 「そうです。実は、去年まで2年間タイに住んでいたんですよ」 「ええっ!そうなんですか!」 「はい。タイはいいところですよ。あっ、失礼しました。私のことを話している場合ではありませんでした」 美彩季は、もっと岩見のことについて知りたかったのだが、初対面でいきなりあれこれ聞くのも失礼だと思ったので、あえて黙っていた。 「副島さんは、運動をされるにあたって、何か具体的な目的や目標と言ったものはおありなのですか?」 「いいえ。特にこれといったものはありません」 「そうですか。それでは、総合的に体を鍛えて体力アップを図るプランを体験していただこうと思います」 「よろしくお願いします」 「それでは、こちらへどうぞ」 岩見は、美彩季をマットの敷いてある一角へ案内した。 「まず、こちらでストレッチをしていただきます。モニターに模範のVTRが流れていますので、その通りに体を伸ばしてください。2分程で一通り終わります。そのころにまた戻って参りますので、よろしくお願いいたします」 「はい」 美彩季は、言われた通り、VTRに沿ってストレッチを始めた。室内は、空調がよく効いていて適温に保たれており、敷いてあるビニール製のマットもひんやりとして心地よかった。 そして、ちょうどモニターの模範ストレッチが一回りした頃に、岩見が戻ってきた。 「はい、お疲れ様でした。それでは、副島さん、次は、ランニングマシーンでウォーミングアップをしていただきます。こちらへどうぞ」 「はい」 岩見は、美彩季をランニングマシーンの前まで案内し、マシーンの操作方法を説明し始めた。 「このボタンを押すとスタートします。そして、このボタンで速度の調節をしてください。時速7キロから8キロくらいを目安にしていただいて、自分に合ったスピードに調整をお願いします。ウォーミングアップですから、目いっぱい走っていただく必要はありません。体をほぐす程度で10分間お願いいたします。私は、10分経ちましたらまた戻って参りますので、それでは、スタートしてください」 「はい」 美彩季は、言われた通り、時速8キロにメモリを合わせて走りだした。岩見は、美彩季のもとを離れて行った。 美彩季は、しばらく走っていて、時速8キロではあまりにも遅く感じたため、次第にメモリを上げ始めた。そして、時速14キロまで上げたところで一番快適に走れる感触を掴んだ。 『このくらいが、一番いい感じだな。やっぱり走るのは、気持ちがいいわ』 美彩季がそんなことを考えながら走り始めてから3分程経った頃、にわかに回りが、ざわつき始めた。 身長150センチほどの小柄な美彩季が、顔色一つ変えず、時速14キロという猛スピードのマシーン上を楽々と走っているからである。中には、トレーニング器具の手を止めて美彩季の走りに見入る者もいた。 美彩季は、中学高校を通じでバスケットボール部に所属していて、走ることに関しては、絶対の自信を持っていた。 特に、長距離走に関しては、他の追随を全く許さない盤石の強さを誇っており、最近運動をしていないとはいえ、その走力は健在で、すこしも錆びついてはいなかったのである。 そして、10分が経過し、岩見が再び美彩季のもとに戻ってきた。 「うわ―――!そっ、副島さん、10分経ちました。マシーンを止めてください」 「はい」 美彩季は言われた通り、スイッチをオフにし、マシーンは徐々にスピードを落とし停止した。 「だっ、大丈夫ですか?副島さん!」 「はっ?」 振り返った美彩季は、汗はかいていたものの、息ひとつ切らしていなかった。 「なっ、何か?」 美彩季としては、アドバイス通りに一番快適に走れるスピードで走っていただけであり、岩見が何を心配しているのかが全く分からなかったのである。 一方の岩見は、美彩季が、猛スピードで10分間走った後も全く疲れていないことに気が付き、驚きの表情であった。 「いや――、ウォーミングアップでこんなものすごい走り方をされた方は、初めてです。マラソンか駅伝でもされていたのですか?」 「いっ、いいえ。中学高校とバスケットボールをやっていました」 ようやく事情を察した美彩季は、少し恥ずかしさ感じるとともに、僅かでも、岩見に自分をアピールできたことをうれしく思った。その後、美彩季は、岩見から各トレーニング器具の使用方法と、どの部分の筋肉を鍛えることができるのかを教わり、1時間程で体験利用のコースを終えた。 「それでは総合体力アップのプランは、以上でございます。副島さん、長時間に渡りお疲れ様でした」 「いろいろおと世話になりました。ありがとうございました」 「最後に、簡単なアンケートにお答えいただいてからお帰り下さい」 「あっ、あの」 「はい」 「涌井君から平日コースのことを聞いています。是非入会したいのですが」 「あっ、そうですか。ありがとうございます」 岩見は、美彩季の体験利用直後の入会希望に少し驚きながらも、笑顔で謝意を表した。 「しかし、あいつ、そんなところまで宣伝してくれたんですね〜!」 「はい」 「いや〜、本当に感謝だな。どうですか、あいつ、ちゃんと仕事してますか?」 「ええ。しっかり仕事してますよ」 「そうですか。立派な社会人になって、私も一安心です。実は、あいつ卒業が危なかったんですよ」 「ええっ!本当ですか?」 「はい。語学はしっかりやっていたんですけど、それ以外の科目は全く勉強をしていなくて、よくノートを見せてやりましたよ。だから、これくらいはしてもらってもいいのかな?」 「ハハハハハ」 2人は、談笑しながら受付の前までやって来た。 「それでは、こちらで入会の手続きをお願いいたします。明日からまたいい汗をかきましょう。本日は、どうもありがとうございました」 「こちらこそ、ありがとうございました」 美彩季は、岩見と受付カウンターの前で別れの挨拶を交わし、入会の手続きをしてTスポーツクラブを後にした。 帰り道、美彩季は、夢見心地であった。 『紗耶ちゃんが言っていたいいことって、このことだったんだ。確かにいいことだな〜💛』とニヤニヤ笑いながら歩いていて、前から来る人と2度ぶつかってしまった。そして、心ここにあらずの体で、いつもの地下鉄駅の階段を上り、気が付くと神社の前にいた。 「あっ、もうこんなところまで帰ってきてたんだ・・・そっ、そうだ!」美彩季は、神社の境内に入り、いつもの腰掛のところまでやってきて紗耶香を呼んだ。 「紗耶ちゃん、紗耶ちゃん!」 「はい、はい、ここにいるよ」と紗耶香は、美彩季の正面の暗がりから近づいてきた。 「ねっ、言った通り、いいことがあったでしょ!」 「そうね〜!まさかこんなことだとは思わなかったわ〜💛」 「でも、なぜ、このことが事前に分かったの?」 「さあ?理由は、私にもわからないの。でももうすぐ人が恋愛することは、感じることができるの」 「へえ〜!それは、発作で倒れる前からそうだったの?」 「うんん。倒れる前は、全くそんなことは感じなかったよ」 「そうなの!・・でもそれって、よくわからないけど、すごい能力だね〜!」 「そう?」 「そうよ。それでさ〜、私と彼ってこれからどうなるのかな?」 「さあ?そこまでは、私にもわからないよ。人が恋愛することは分かっても、その恋愛がうまくいくかどうかまでは、わからないのよ」 「そっか!・・でも、この場でうまくいかないって言われるよりは、楽しみがあっていいのかな?」 「美彩季ちゃんって、いつもポジティブシンキングね。それに、本当〜に嬉しそう!」 「そっ、そっ、そんなことは、ないわよ〜」 「でも、鼻の下が伸びてるよ」 「えっ!」 思わず美彩季は、鼻を手で押さえた。 「うそ!」 「こらっ!大人をからかうんじゃな――い!」 「きゃはははは!」 「本当に、しょうがないんだから、もう」 「でも、美彩季ちゃん、前より元気になってよかったわ」 「そうね。もし、紗耶ちゃんが、後押ししてくれてなかったら、スポーツクラブへ行っていなかったかもしれないしね。ありがとうね」 「いいのよ」 「あっ、それから、一つ大事なことを言うのを忘れていたわ」 「なに?」 「美彩季ちゃん、私のことは、誰にも言わないでね。もし、私のことを他の誰かに話してしまったら、もうこうやってお話ができなくなっちゃうから」 「えっ!そっ、そうなの」 「うん。昨日話した怖い顔をした門番のおじさんが、確かそう言っていたのを今思い出したの」 「よし、わかったわ。それは、大丈夫よ」 美彩季も、生霊の友人がいるなどと言おうものなら、頭がおかしいと思われかねないので、紗耶香のことを誰かに話そうと考えたことは一度もなかった。 「それで、その彼ってどんな人なの?」 「スポーツクラブでインストラクターをしているの。背が高くて、髪が短くて、心優しい爽やかなスポーツマンっていう感じね」 「ふ〜ん」 「タイに2年間住んでいたって言ってたわ」 「へ〜、ちょっと変わった感じなのね。それで、タイで何をしていた人なの?」 「さあ?今のところ分かっているのは、岩見という苗字とそれだけなの」 「まあ、明日からまた色々とわかってくるよ」 「そうね、また何かわかったら報告するね」 「うん。楽しみにしてるわ」 その後も2人は、時の経つのも忘れて、夜遅くまでいろいろと話し込んでしまい、11時を過ぎた頃に、ようやく、美彩季は、アパートに戻って行った。
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