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作品名:月下氷人 作者:箕輪久美

最終回  
 五年の歳月が流れた。とある集合住宅の一室。
「きゃ―、おかあちゃ―ん、康太がおしっこした―!」
「今、おかあちゃん手が離せないから、この前言ったとおり康太のおしめを換えてあげて―!」
「は〜い」
「あなた、早く支度してくださいよ。早く行かないと、場所がなくなっちゃうから」
「はい、はい、はい」
「紗耶香、おしめは交換できたの―?」
「は〜い、終わったよ」
「ありがと―う。よ〜し、お弁当も準備できたよ」
今日は、年に一度、一家そろっての花見の日であった。美彩季は、早朝から花見用の弁当作りに精を出していたのだった。
「よし、それじゃあ、出かけましょう」美彩季の掛け声と共に4人は、足早にアパートを後にした。
剛志は、弁当と荷物を片手に持ち、もう一方の手で紗耶香と手をつないで、美彩季は、両手で康太を抱いて、駐車場に向かって歩いていく。
「ねえ、おとうちゃん、何でみんなお花見をするの?」
「そりゃ、桜がきれいだからだろう」
「でも、ほかのお花もみんなきれいだよ」
「んっ?そう言われれば、そうだな・・・それは・・・まあ、昔からの習慣だね」
「習慣ってなあに?」
「習慣っていうのは、昔々から守ってきたならわしのことだよ」
「ならわしってなあに?」
「ず―と好きでやってきたことだよ」
「ふ〜ん、ほかのお花もみんな、ならわしになったらいいのに」
 美彩季は、苦笑しながら2人のやり取りを聞いていた。そして、ふと、なぜ我々は、桜を愛し、花見を楽しむのかを考えた。
 それは、おそらく、桜の花が持つ儚さにあるのではないだろうか。長い冬が終わり、生きとし生けるものすべてがその活動を開始する、躍動の季節である春に、生命の息吹の象徴ともいえる鮮やかな花を咲かせる一方、わずか2週間ほどの短い期間で、静かに、そして、また、潔く散っていく美しい様。人は、その切ないほどの儚さに心引かれ、千年以上にわたって桜を愛し続けてきたのではないだろうか。
 そして、人の命も桜の花のごとく、いとも儚いものである。今ある自分が、明日そのままの自分であるとは誰にもわからない。人は、桜の花の儚さに己の命の儚さを重ね合わせ、ほんの短いひと時の間、懸命に咲いている桜の花を愛でながら、今を生きている実感を心から味わうことで大きな喜びを感じるのではないだろうか。
 一度は潰えかけた2つの命に導かれ、契りを結んだ美彩季と剛志。そして、その2人に新たな命を授かった紗耶香と康太。この4つの命も、桜の花と同様に限りある儚いものであることに変わりはない。
五年前に紗耶香と出会って以来、美彩季は、桜が咲く頃になると、いつも自分たちの命の儚さに思いを馳せる。そして、いつ命が潰えても、桜の花のように、潔く美しく終わりを迎えたい。何の後悔もなく、すべてを全うしてその命を終えるような生き方がしたい。その思いを、毎年強く胸に抱いてきた。
今年も桜の季節がやって来た。剛志、紗耶香、康太と4人で迎える初めての桜の季節である。泥臭くてもいいから、悔いを残さぬよう懸命に4人で生きて行こうと、決意を新たにする美彩季であった。
 やがて、美彩季たち一家を乗せた車は、10分ほど走って花見の場所に到着した。そこは、川の沿道のすぐ隣に作られた広い公園であった。公園内、沿道、また、河川敷にまで数百本の桜が植えられた、まさに、『究極の桜の名所』と言う呼び名に相応しい場所であった。そして、すべての桜の花が、今この時とばかりに、一斉に見ごろを迎え、美しいピンク色の花を惜しげもなく人々に披露していた。それは、まるで、大きな桜の迷路の中に人々が迷い込んでしまい、誰もが、迷路を彩る桜のあまりの美しさに我を忘れ、時の経つのも忘れ、うっとりと見とれてしまって、その場に佇んでいるかのような光景であった。
 そして、今日は、非常に天気もよく、風もほとんどないので、格好の花見日和でもあった。
美彩季たち一家は、河川敷の一角にある桜の木の近くに場所を確保し、シートを広げて座り、持参した弁当を食べながら花見を始めた。
「おとうちゃん、おかあちゃん、桜のお花がとてもきれいだよ〜」
紗耶香は、頭上を取り囲むようにして咲く桜の花の美しさに、まさに、有頂天であった。
「桜のお屋根みた〜い!」
「桜のお屋根か。うまいこと言うな」
剛志は、その場に寝転がり、空に向かって広がる桜の花をしみじみと眺めている。
「ねえ、おかあちゃん、この桜のお屋根いつまであるの?」
「そうね、一週間くらいかな」
「え〜!そんなに短いの―。ず―と咲いていたらいいのに」
昨年は、美彩季が出産直前であったため、紗耶香は、花見に来てはいない。2年前に、花見に来た時には、まだ、2歳になったばかりだったので、その時のことはあまり覚えていないようである。その時も、同じことを言って、残念がっていたのを美彩季は思い出した。
「何にでも終わりがあるのよ。桜のお花も同じなの。それに、いつでもず〜とお花が咲いていたら、誰もわざわざお花見なんかしやしないわ。短い期間にだけ、きれいなお花が咲くから、みんな、それを楽しみたくてお花見をするのよ」
「ふ〜ん。よくわかんな〜い」
「まあ、そのうちわかるようになるわ」
「ねえ、おとうちゃん、もっと桜のお花を見に行こ〜よ」
「ああ、じゃあ、そのあたりを一緒に歩いてくるわ」
「うん、でも、迷子にならないでよ」
「大丈夫だよ。紗耶香がついてるから」
「たわけい、それは、お父ちゃんのセリフだろ」
「だって、お父ちゃん、方向音痴なんだも〜ん」
「ハッハハハハ」
剛志と紗耶香は、手をつないで楽しそうに公園の方へ歩いて行った。
 美彩季は、康太をあやしながら、改めて、ピークを迎えている桜の花に目をやった。
もう一週間もすれば、ここにある桜の花も多くは散ってしまう。しかし、今はそんなことを考えなくてもいいのだろう。
まさに、今、盛りを迎えている桜の花の中にいだかれて、心行くまでその美しさを堪能しながら、生きている喜びを存分に味わえばそれでよいのである。
美彩季も、康太を抱きながら、ゆっくりと桜の木の幹に背を預け、静かに上を向いて桜の花の中にその身を任せた。
 今、桜の花は、持てるすべての花弁を開き、まさに満開の頂。心地よい日差しの中で、人々の命の躍動を称えるかのように、力強く、そして、眩しいばかりに咲き誇っていた。

                                                                             (完)


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