その日の夜、健一は、権造と弘子を入国管理局に告発するため、以前に美彩季と打ち合わせをした居酒屋に来ていた。到着後個室に通され、席に座ってしばらくすると、入口の引き戸がノックされ、ゆっくりと開いた。 「よう、久しぶり」 入ってきたのは、剛志だった。 「おう、なんだよ。藪からスティックに」 この夜、健一は、剛志から話がしたいとの連絡を受けたので、この居酒屋を指定して会うことにしたのであった。 「まあ、まずは、オーダーをしようぜ」 剛志はそう言うと、店員を呼び、飲み物と食べ物を適当に注文した。店員が部屋を出ていくと、剛志は、健一の方に向き直り、いきなりその場で土下座をして頭を下げた。 「今回のことでは、本当に迷惑をかけた!すまなかった、許してくれ!」 健一は、突然、剛志が土下座をして謝りだしたため、すっかり度肝を抜かれてしまった。 「おっ、お前、なっ、何をしているんだ!そっ、そして、いったい何の話をしているんだ?とっ、とにかく頭を上げろ!」 剛志は、言われたとおり頭を上げて、上着の内ポケットを探りながら言った。 「隠さなくてもいいよ。すべてわかっているんだ」 そう言って、剛志がポケットから取り出したものは、以前、剛志が健一に土産として買ってきた、タイの民族衣装を着た女性がプリントされたライターだった。 「あっ!そっ、そのライター!」 「そう、お前がやくざに殴り倒された場所に落ちていたよ」 「おっ、お前、そこまで・・・」 「お前と美彩季さんが、俺を助けてくれた話を聞いた時、どうしてもそのことが信じられなかった。自分の身に、本当にあんなことが起こっていたとは、とても思えなかったんだ。それで、何かそのことを裏付けるものがないかと考えてみて、お前がやくざに殴られた時に失くしたこのライターが唯一の物証だと思ったんだ。日曜日に、現場に行ってみたら、この通り落ちていたよ」 「俺が、あんな女にうつつを抜かしていたばっかりに、2人には大変な迷惑をかけてしまった。本当にすまなかった!そして、2人のおかげで、俺は、犯罪に巻き込まれる前に救われた!心から礼を言う。ありがとう!」 剛志は、再び土下座をして頭を下げた。 「そっ、そうか、すべてわかっているのか。まあ、いいさ。全部終わったことだ。頭を上げろよ」 剛志が、ゆっくりと頭を上げたところで、健一は、切り出した。 「美彩季さんから話を聞いたんだな」 「いや、それは違う!彼女は、俺を励ましてくれたが、今回のことについては、一言も話してはくれなかった!第一お前にこのことを口止めした彼女が、自分から話しをするはずがないだろう」 「そっ、そんな馬鹿な!!今お前が話したことは、俺と彼女以外は、誰も知らないことだぞ!それなら、お前は、誰からこのことを聞いたんだ?」 「すまない。それは言うことができないんだ」 「えっ、どういうことだ?」 「情報の入手方法については、話す事ができないんだ。許してくれ。しかし、天地神明に誓っても、彼女から聞いた話でない!」 「お前といい、美彩季さんといい、いったいどうなっているんだ!俺には全く理解不能だ」 健一は、ため息をつきながら、首を傾げ、手のひらを両方上に向けて、お手上げのジェスチャーをして見せた。 しばらく間をおいて、剛志が言った。 「それと、一つだけ頼みがあるんだが、今までの話を、俺が知っていることは、彼女には伏せておいてくれ。頼む」 「わかったよ」 この時、注文していた料理と飲み物が、ちょうど運ばれてきたので、二人は、一時話を中断した。そして、店員が再度部屋を出ていくと、飲み物でのどを潤した剛志が、徐に口を開いた。 「実は、お前が、美彩季さんを愛しているという話を聞いた。それは、本当のことなのか?」 「えっ!い、いったい誰がそんなことを?」 「すまん、それも言うことができないんだ。しかし、その話が、本当でないことを望みたいんだが、確認するには、本人であるお前に尋ねるしか方法がない。それは、本当のことなのか?」 「本当だ!しかし、お前はどうやってそのことを知ったんだ!俺は、誰にもそのことを話してはいない。美彩季さんにさえだ!それなのに、なぜお前がそのことを知っている?お前は、人が考えていることがわかるのか?」 「いや、そういう訳ではないんだが、この際そう思ってもらってもいい。問題は、お前が、美彩季さんに思いを寄せているかどうかだ。やはり、その話は本当なんだな」 「そうだ。今週末に、自分の気持ちを美彩季さんに打ち明けようと思っている」 「やっ、やはり、そうか・・・また、お前に謝らなければならない」 「お、俺は、自分の気持ちをどうしても抑えることができなかった。実は、昨日、彼女に、結婚を前提とした交際を申し込んだ」 「え―――っ!!なっ、なんだって―――!!!」 健一は、その話を聞いて愕然とした。 「お前の気持ちを確かめてから、すべきことだったが、どうしても我慢することができなかった。許してくれ」 三たび剛志は、健一に頭を下げた。しばらくの間、2人に沈黙の時間が流れた。 健一は、頭を整理していた。 『誰からかは、わからないが、剛志が、美彩季さんの献身的な行動について知らされて心を動かされ、彼女を愛するようになったことは、ごく自然な成り行きだ。それよりも、一番重要なのは、彼女が誰に思いを寄せているかということ。それを考えれば、思いを伝える順番などは、それほど大した問題ではないのだろう。そして、残念ながら、美彩季さんが、剛志を愛していることは、明白だ。さもなければ、泣いて助けを乞うようなまねなど、絶対にするまい。つまり、剛志の気持ちが、美彩季さんに向いた時点で、勝負は・・あったのだ・・・むしろ、自分が先に思いを伝えてしまったら・・彼女のことだ、無下に断ることができなくなり、苦しむことになっていたに違いない。これで・・・よかったの・・・だろう』 「そんなことは、関係ね−よ。頭を上げろ。そうか、それで彼女、今日おかしかったんだな」 「彼女に、何かあったのか?」 「朝からずっと上の空で、ボ−としていたんだよ」 「そ、そうだったのか。俺は、自分のことしか考えていなかった。彼女のことを思えば、いきなりあんな言い方をすべきではなかったんだな。嗚呼、回りのことに考えが及ばない自分が情けない」 剛志は、そう言うと、力なくうなだれた。 「バ−カ、うなだれている場合か。それよりも、これからのことをよく考えてみろ。本当に、お前は、何も知らないことにしておいていいのか?それだと、彼女は、状況が全く理解できないままになるぞ」 「それは、そのままにしておいてくれ。なぜなら、彼女がそう望んだことだからだ。俺が、結婚を前提とした交際を申し込んだ理由については、なんとか、時間をかけて彼女に説明するよ」 「ああ、くれぐれも、彼女を傷つけないように慎重にやってくれ。くそう、こんなまずい酒は、久しぶりだぜ!」 「何から何まで、本当に、すまない」 剛志は、また、健一に頭を下げた。
翌日の昼休み、健一は、話したいことがあると言って、美彩季を屋上に誘い出していた。 「私に話って、どんなこと?」 「実は、日曜日の食事をキャンセルしたので、その時に話そうと思っていたことを聞いてもらおうと思ったんです」 「えっ!」 「昨日の夜、剛志と会いました」 「つ、剛志さんと!」 「はい、そして、剛志が、美彩季さんに、結婚を前提とした交際を申し込んだことを聞きました・・・気付いていたとは思いますが、僕も、以前から美彩季さんのことが好きでした。」 「明るくて、元気で、気遣いができて、こんな人と暮らしていければ、どんなにいいだろうとずっと思っていました。でも、残念ながら、美彩季さんの気持ちが、剛志の方に向いていることはわかっていました」 「ただ、剛志が、美彩季さんをどう思っているのかが、全くわからなかったので、自分にもまだチャンスはあるのだろうと思っていたんです。しかし、剛志が、美彩季さんに結婚を前提とした交際を申し込んだとなれば、もう完全に白旗です。僕は、美彩季さんをきっぱりと諦めます」 「わ、涌井君・・・」 「じっ、実は・・・あなたの気持ちは、よくわかっていたわ・・・無理な相談に乗ってもらった上に、怪我までさせてしまった。それでも、最後まで私を見捨てずに、ずっと協力してくれた。それなのに、この私は、あなたの気持ちに応えることができなかった・・・ご、ごめんね・・・堪忍して」 美彩季は、涙を浮かべて下を向いてしまった。 「美彩季さん、泣かないで下さい。こうなったからには、しっかり、剛志と仲良くやっていって下さいよ」 「あっ、ありがとう」 美彩季は、涙をぬぐって上を向いた。そして、しばらく間をおいてから言った。 「ねえ、涌井君。偽造パスポートのコピーを入管に送ったこと、剛志さんに話してないよね?」 「話してませんよ」 「やはり・・・じゃあ、なぜ?」 「どうしました?」 「いや、なんでもないの」
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