いつものように、プラットホームに電車が入ってきた。ここは、とある大都市のオフィス街にある地下鉄の駅である。今が帰宅ラッシュの時間帯であるため、朝ほどではないが、ホームには多くの乗降客があふれている。彼女にとっては、毎日目にする代わり映えのしない光景であるが、いつまでたっても慣れることができない辟易とする眺めでもあった。 電車のドアが開き、車両から乗客が降りると、帰宅を急ぐ人々が、一斉に列をなしてドアに飲み込まれていく。 彼女も、いつものように小さな体を列に滑り込ませ、流れに乗って満員の車両の中に乗り込んだ。 「これからも、ずっとこれが続くんだろうか」 ため息とともに、彼女は、思わず独り言を漏らしてしまった。 彼女は、副島美彩季(そえじまみさき)。24歳独身のオフィスワーカーである。この地下鉄の駅から歩いて5分程の所に彼女の会社のオフィスビルがある。仕事が終わると毎晩満員電車に揺られて、7駅先にある自分のアパートに帰る毎日であった。高校卒業後今の会社に入社して最初の3年間は、自宅から通勤していたのだが、時間がかかるのと、一人暮らしへの好奇心から今のアパートで暮らし始めて3年が過ぎた。最初のうちは、何もかもすべてがもの珍しく、十分に好奇心を満たしてくれた。しかし、暮らしが軌道に乗ってしまうと、いつも同じ時間に満員電車に揺られて出勤し、仕事が終わると、また同じように満員電車に乗って帰宅するという毎日に、次第に新鮮さを感じなくなってしまった。 『このままじゃいけないな。ピアノ以外に何か始めようかな』 そんなことを彼女は、最近よく考えるようになっていた。 美彩季には、一つの目標があった。それは、将来ピアノの講師になって、子供たちにピアノの楽しさを教えることであった。そのため、土曜と日曜は、著名なピアノ講師の下で個人レッスンを受けていた。1回のレッスンが2、3時間にも及ぶため、ウイークデイでは、なかなか講師の時間が取れないことと、レッスンの費用をこれ以上捻出することが難しいので、週末2日のレッスンで妥協せざるを得なかった。条件さえ許せば、美彩季本人は、もっとレッスンを受けて、さらにピアノが上達したいと考えていた。 いつものように、満員電車に揺られてウイークデイが終わり、土曜日となった。 本来今日はレッスンの日なのだが、昨日の昼休みに講師から連絡が入り、今日のレッスンは都合により休講になることを知らされた。急にやることがなくなってしまった美彩季は、昨日、友人の橘桂子に電話をしたところ、彼女もまたオフで暇だというので、久しぶりに2人で食事をすることにした。 美彩季と桂子は、高校の同級生で、現在でも最も親しい友人同士である。桂子は、今、美彩季の勤務先からそれほど遠くない、とあるモデル事務所に勤務し、数人のモデルのマネージメントの仕事をしていた。 このマネージャー業は、桂子にとって、まさに天職という言葉がピッタリの職業であった。勝気で何でもテキパキと仕切りたがる桂子は、高校の学園祭でも、企画立案から、出し物の演出、人員配置、備品の選定発注に至るまで全てを一手に引き受けて、いつも八面六臂の大活躍であった。桂子は、この適性を今の仕事の中でいかんなく発揮して、喜々として仕事に打ち込んでいた。性格も姉御肌で、非常に人の面倒見がよく、美彩季も本当に頼りにできる大の親友なのである。 2人は、12時半に駅前にある巨大人形のオブジェの下に集合し、食事をすることを約束していた。 美彩季は、約束の時間の5分ほど前にオブジェの下に到着したが、桂子はすでに集合場所に来ていて何やら電話をしていた。 しばらくして、電話を終えると、桂子は、「よう、久しぶり〜。何食べる?」と美彩季に訊いてきた。 「別に何でもいいよ」と美彩季。 「そう言うと思って、近くのカフェを予約したのよ」 「今、その電話だったの?」 「そう、さあ、行こう」 いつも桂子は、この調子であった。自分で仕切って、勝手に先へ先へと話を進めていってしまう。人によっては、不快に感じるかもしれないが、美彩季は、不快感どころか、『ほんとに楽で助かるわ〜』と、桂子の仕切りに異論を唱えることは全くなかった。 5分程で、カフェに到着した2人は、予約席に腰を下ろし、コースのランチを注文した。ここのコースランチは、数種類のメインディシュから一品を選び、後は、サラダ、デザート、ドリンクがすべてバイキング形式になっている。そして、メインディシュ以外は、90分間でどれだけでも自由に選ぶことができた。 美彩季は、メインディシュの中からロコモコを、桂子は、温野菜カレーを選び、2人ともサラダコーナーから山盛りのサラダを運んできて食事を始めた。 「それで、最近どうなのよ?」と桂子。 「どうって、特別変わったことなんて何もないわ。いつも同じような毎日の連続よ。あんたこそ、どうなの」 「あたしゃ、いつもおかしなことばっかりよ。この商売やってると、本当に面白いわ〜!」 「何が面白いのよ?」 「この前、他のモデル事務所と共同のイベントがあったのよ。私の担当してるモデルと他の事務所のモデルが、一緒にショーをすることになったんだけどさぁ、その事務所のモデルが、なんと、あんた、ニューハーフだったのよ!」 「こっちは、そんなこと聞いてないもんだから、控室で着替えを手伝ってたら、ウッソ――!何で股間がモッコリなの―――!! 本当に、思いっきり蹴り上げてやろうかと思ったわ!」 「アッハッハハハハハ――!あんた、相変わらず傑作ね――!」 「いや〜、それ程でも――!」 「バ―カ、褒めてなんかいないわよ」 「それでさ、そのニューハーフが、驚いている私を見てニヤリと笑うのよ。そこで、思わず言ってやったわ」 「なんて?」 「おまえも蝋人形にしてやろうか!ドゥハハハハハハ――って!」 「アッハッハハハハハハハ――!あっ、あんた、なんて懐かしいギャグをかましてるのよ アッハハハ――!」 「ところが、あんた、これがまた大ウケしたのよ!」 「アッハッハハハハハハハハハハハ――!あっ、あんたが蝋人形になりなさいよ!ハッハハハハハ――!もっ、もうだめ・・ヒッ、ヒッ、ヒッ・・・ヒ――ハ――!!!」 美彩季は、とうとう悶絶してしまった。 こんな調子で、2人は、昼食を終え、その後、ショッピングを楽しみ、映画を観てから、それぞれのアパートに帰って行った。美彩季にとっては、最もリラックスできるひと時であった。
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