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作品名:時の彼方 作者:箕輪久美

第9回   第9話
 遠くの方で何かが鳴っている。次第に音がはっきりと耳に響いてくる。カ〜ン、カ〜ン、カ〜ン。
「ん!?・・何だ?・・・鐘の音・・・?」
「あっ!!そうだ、私、江戸にいるんだった!!」
「おはよう、汐織ちゃん」
「あっ、おはよう。フミちゃん」
昨日湯屋から戻って来た汐織は、2階のフミとサヨの部屋で布団を借りて3人で眠ったのであった。昨日夕食を取った部屋は、この部屋の右隣りで、両親の使っている部屋である。
「よく眠れた?」
「うん、江戸にいることをすっかり忘れるくらい熟睡してたわ」
「ん?明け六つ・・・?」
「あっ、サヨちゃんも目を覚ましたみたい。おはよう、サヨちゃん」
「あっ、おはよう。汐織ちゃん」
「汐織ちゃん、よく眠ってたね〜。すっごくおっきないびきかいてたよ」
「え――っ、本当――!」
「ハッハハハハ」
「やっぱりまだ薄暗いのね!」
「えっ?」
「明け六つの鐘が鳴ってから、四半刻後に日が昇るんでしょ」
「そうよ。よく知っているわね」
「昨日サヨちゃんに教えてもらったのよ」
「そう」
「どうも、時間の計り方も江戸と平成では違うみたい」
「えっ、どういうこと?」
「私は、これからは日が長くなるから、明け六つの鐘が鳴ってから日が出るまでの時間がどんどん短くなっていくと思っていたの」
「でも、日が出るまでの時間は、年中変わらず鐘の四半刻後で、暮れ六つも鐘の四半刻後に日が沈むんでしょ?」
「そうよ」
「日が出ている時間が違う夏と冬、ともに、明け六つの四半刻後に日が昇り、暮れ六つの四半刻後に日が沈むのなら、一刻の長さが季節によって違うとしか考えられないわ」
「そのとおりよ。夏には昼間の一刻は長く、夜の一刻は短い。冬はその逆よ。それが、どうかしたの?」
「やっぱり!だから昨日サヨちゃんは、太陽の位置で大体の時間がわかるって言ってたんだ。確かにその時間の決め方なら、夏でも冬でも高さこそ変われ、年中同じ時間にほぼ同じ位置に太陽が来るわ」
「平成では、そのように時間を決めていないの?」
「そう、江戸とは違うのよ。平成では、1日を24等分して時間を測っているの。だから、江戸のおおよそ半刻が1時間に相当する。でも、大きく違うのは、1時間の長さは年中変わらないのよ」
「ええっ!そっ、それじゃあ・・・・」
「そう、明け六つに当たる朝の6時は、夏ならとうの昔に日が出ているけど、冬なら真っ暗よ」
「そっ、そんなことをしたら、眠る時間を調整して合わせるしか・・・あっ、そうか!電灯が・・・」
「そうよ、電灯があるから冬は朝暗くても特に不便はないのよ」
「なっ、なるほど・・・電気って本当にすごいものね!暮らしを完全に変えてしまうのね」
「そう・・・でもそれって、本当に人にとっていいことと言えるのかな?」
「どういうこと?」
「電気のおかげで、昼夜が全く逆転した生活を送っている人は、かなりいるわ。でも、そんな暮らし方が人にとって自然だとはとても思えない。平成では確かにすべてが便利だけど、その代わりに人がすごく不自然な生き方をしているように感じるのよ」
「う〜ん、そんな暮らし方をしたことのない私たちには、そのあたりのことはよくわからないなあ〜」
「あっ、そうだ、姉さん!」
「なあに?」
「平成では桜が、3月の終わりから4月の始めに咲くんだって!」
「へえ〜!」
「どうして?」
「さあ、どうしてかねえ?」
「きっとそれも、何かからくりがあると思うのよ。わずか160年で気候が変わるはずはないからね」
 この時、部屋の右手にある階段を下りて行く音がかすかに聞こえた。
「あっ、母上が朝餉の支度に行かれる。サヨ、行くよ」
「はい」
「私も行くわ」
3人は、布団をたたみ、着物に着替えて髪を結い直し、階下へ降りて行った。
「母上、おはようございます」
「ああ、おはよう」
「あら、汐織も起きたのね。おはよう」
「おはようございます」
「よく眠れた?」
「はい、奥様。おかげさまで、大変よく眠れました」
「おっ、奥様!!平成では、私たち町人の嫁のことも奥様って呼ぶのかい?」
「はっ、はい」
「へえ〜!何だか偉くなったような気になるね〜」
「???」
「汐織ちゃん、奥様っていうのは、旗本以上のお侍さんのお嫁さんに使う言葉なのよ」
「えっ、そっ、そうなの!!・・・それでは、何とお呼びすれば・・?」
「私たち町人は、おかみさんって呼び合っているよ」
「なるほど。それでは、おかみさん、私にも何か手伝わせてください」
「そうだね、それじゃあ、フミが火を起こすからカマドに火を入れておくれ」
「はい」
「汐織ちゃん、まず、火打石で火を起こすからワラに火を移して。それから、細い木の枝を入れて徐々に火を大きくしていくの。そして、最後に薪を入れるのよ。薪に火がつくまでこの火吹き竹でカマドに息を送り込んで」
「わかったわ」
汐織は、フミが火打石を使って付木に点けた火をワラに移して細かい木の枝をカマドにくべていった。そして、しばらくして火が大きくなってきたところで、薪を入れ火吹き竹を手にした。
火吹き竹は、竹を50センチほどに切ったもので中の節がくり抜いてある。火に向ける側の節だけは残しておいて中心に小さな穴が開けてあるので、息を吹きかけると勢いよく穴から息が出る仕組みになっている。薪に火がつくまで間、火の勢いを保つための道具である。
汐織は、火吹き竹でカマドに息を送り込みながら思った。
『毎朝これをしないと食事が作れないとは、本当に大変だ。この家は女手が3人あるからまだいいけれど、男ばかりの家のおかみさんは、本当に毎日が重労働なんだろうなあ』
しばらくすると、2つあるカマドの内の1つに十分な火が起きた。
「あら、はじめてにしちゃあ上手だね。その調子でもう1つのカマドの方も頼むよ」
「はい」
汐織が、もう1つのカマドに火を移そうとしていると、フミとサトは研いだ米を入れたカマを2人がかりで持ってきて、火の起きている方のカマドの上に乗せた。
「すっ、すごい量のお米を炊くのでございますね」
「1日分だからね」
『そうか、こんなことを1日に2度も3度もやっていては、手間がかかりすぎるし燃料代もかさんでしまうからそれも当然だ。夜にお茶漬けを食べるのもこういう事情からか』
「豆腐、豆腐〜、豆腐はいかが〜」
「サヨ、頼むよ」
「はい」
「あっ、あれは、棒手振りさんでしょ!」
「よく知ってわるね」
「昨日サヨちゃんに教わったのよ」
汐織が、もう1つのカマドに火を起こすと、今度はフミが先程より一回り小さいカマを調理場から持ってきてカマドの上に乗せた。
「これは?」
フミはカマの蓋を開けてみせた。
「お味噌汁よ」
「ああ、そうか。でもそれほどは作らないのね」
「うん、お米は1日置いといても食べられるけど、お味噌汁は温め直さなきゃならないから朝の分しか作らないのよ」
「なるほど」
「姉さん、買ってきたよ」
「ご苦労さん」
サヨが豆腐を1丁買って表から戻ってきた。桶に入っているその豆腐は、平成の豆腐の4倍ほどもある。
「うわ、お豆腐も江戸のものは大きいのね〜!」
「そう?平成のお豆腐はこれのどのくらい?」
「4分の1ほどよ」
「へえ〜!すごく小さいのね〜」
フミは、桶の中の豆腐を手際よく切ると次々に味噌汁の中に入れて行った。
 朝食の準備が整ったところで、弥兵衛が2階から降りて来た。
「父上、おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます。旦那様」
「おはよう、汐織、昨夜はよく眠れたかい?」
「はい、江戸にいることを忘れてしまうほど、ぐっすりと眠ってしまいました」
「ハハハ、そいつぁいい」
「みんな〜、朝餉の用意ができたよ〜!」
サトの一言で、4人は、台所の隣の部屋の真ん中に置かれた各自のお膳の方へ集まってきた。昨夜は、2階で汐織のことについて相談がされたので、そのままその部屋で夕食を済ましたのだが、いつもは、店舗に隣接する1階のこの部屋で食事をするのが常のようである。
「それでは、いただきます」
「いただきます」
昨夜同様、弥兵衛の掛け声とともに残りの4人も食前の挨拶をして朝食が始まった。
朝食は、温かいごはんと豆腐の味噌汁そして、梅干しである。
やはり、汐織にとっては、寂しい朝食と言えた。そして、昨夜同様4人は、次々とご飯をおかわりしていった。汐織も、朝食には炭水化物を多めに取ることにしているので、今度は気兼ねをせずにおかわりをしながら食事を続けた。
「カマドで炊いたご飯っておいしいわ〜!」
「平成では、どうやってお米を炊くんだい?」
「炊飯器というものを使います」
「それも、ガスで動くのかい?」
「いえ、ご飯を炊く際には火は使いません。それゆえ、炊飯器は電気で動きます。お米を研いでカマのような容器に入れるところまでは同じでございますが、後は、炊飯と書いた部分を指で押すだけで自動でお米が炊けます。また、1日くらいは保温ができますゆえ、いつでも温かいご飯が食べられます」
「はあ〜〜!!なんと便利な物なんだろうね〜〜、お前さん!!」
「うむ、本当に電気とはすごいものだな!!」
「しかし、味は、カマドで炊いたご飯には到底かないません。これほどおいしいご飯は、初めてでございます」
「手間暇をかけている分だけ味がいいのなら、私たちも浮かばれるってもんだよ」
「でも、母上、もしここに炊飯器があったらカマドとどっちを選ぶ?」
「そりゃ決まってるわよ、サヨ」
「どっち?」
「炊飯器よ」
「アッハッハハハハ―!」
「ところで旦那様、あの、大小と書いてその下に漢数字が書いてある縦長の貼り紙は何でございますか?」
汐織は、先程から気になっていた、神棚の下に貼ってある貼り紙に付いて訊ねてみた。
「ああ、あれは、暦だよ」
「こっ、暦!?あっ、あれが、暦なのでございますか!!」
「そうだよ」
確かに一番上に右から左へ『安政二乙(きの)卯(とう)略暦』と書いてある。乙(きの)卯(とう)というのは、十干十二支の52番目の年である。
「どのようにして読むのでございますか?」
「上から二段目の左右に大小と書いてあるだろう」
「はい」
「大は大の月、つまり、ひと月が30日の月、小は小の月、つまり、ひと月が29日の月という意味だよ」
「そして、大と小の真ん中に書いてある三百五十四日というのが1年の日数の合計だ」
「えっ!1年が354日・・・あっ、そうか!月の暦を使っているわけでございますね」
「そのとおり」
「しかし、そのままでは、毎年11日ほど太陽の1年との間に食い違いが出て、月と季節が合わなくなってしまいます」
「そう、だから、およそ3年に1度閏月を入れて調整をしているんだ。去年は確か、7月が閏月で2度あったはずだ」
「なるほど」
「平成では、月の暦は使わないのかい?」
「はい、太陽の暦を使っております。1、3、5、7、8、10、12月が31日。4、6、9、11月が30日で2月のみ28日でございます。そして、4年に1度だけ2月が29日となります」
「ほう!月とその日数が確定しているのだな」
「そうでございます。月の暦の場合は、年によってある月が、大の月となったり小の月となったりするのでございますか?」
「そうだ。例えば、今年の4月は小の月だが、去年は確か大の月だった」
「なるほど・・・・・あっ!!!」
「ん!?どうしたのだ?」
「いえ、先程フミちゃんとサヨちゃんとで話していたことの、謎が解けたのでございます!」
「ほう、それはどんな?」
「江戸では、今桜が見ごろでございます。しかし、平成の桜が満開になるのは4月の始めで、なぜひと月からひと月半もずれが出るのかがわからないと3人で話していたのでございます」
「なるほど、それで?」
「月の暦は太陽の暦より11日ほど短こうございますゆえ、平成と比べて江戸での桜の満開の時期が徐々に早くなるのは自明の理でございます。しかしながら、閏月を入れて調整をした直後においても、なおひと月のずれが出ているというのであれば、理由はただ一つしかございません」
「それは?」
「太陽の暦への移行の時期でございます」
「ほう!?」
「おそらく、これから15年から20年後のいずれかの時点で、月の暦は太陽の暦へと移行するものと思われます。普通に考えれば移行の時期は、ある年の月の暦の1月1日を太陽の暦の1月1日とするのが当然でありましょう」
「しかしながら、何らかの理由で、ひと月早く太陽の暦へと移行してしまったのではないでしょうか。つまり、ある年の12月1日を太陽暦の1月1日としたのでございます」
「もしこれが正しいとすれば、江戸の12月は平成では1月となり、季節が江戸よりひと月遅れることとなって、江戸で3月に満開となる桜が平成では4月に満開となるということで説明がつきます」
「・・・なるほど・・・確かにお前さんの言うことは、的を射ておるな」
 汐織の推理は当たっていた。江戸で使用されていた太陰暦が廃止され、太陽暦が導入されたのは、明治5年12月3日。明治新政府は、この日を新暦の明治6年1月1日としたのであった。しかし、そこには実に意外な理由が隠されていた。
それは、なんと、財政難であった。明治新政府は慢性的な財政難に苦しめられていた。官僚への給与の支払いにも窮する有様で、なんとかしようと必死に打開策を探っていた。そこで起死回生の方策として打ち出したのが改暦であったのだ。
明治6年は、旧暦では6月に閏月があり1年が13か月あった。そこで、12月に改暦をして1月としてしまえば、明治5年の12月分と明治6年閏6月分の2か月間の給与を支払わなくて済むと考えたのだ。新暦への移行日が12月3日というのも、この改暦が計画性を持って行われたものではなく、場当たり的に打ちだされた方策だったことを容易に窺わせる点だ。とにかく、明治新政府は、出費を控えて財政を立て直すことになりふりを構っていられない状況にあったのである。
「すごい!汐織ちゃん、確かにそれなら平成で4月に桜が咲いても何の不思議もないわ!見事にからくりを見破ったわね」
「気候の変動とか桜の種類の変化とかは考えにくいから、まずそれで間違いないと思うわ」
「うむ、なかなか面白い話を聞くことができた。これからも、疑問に思うことがあれば何なりと訊ねてくれよ」
「はい、ありがとうございます」
「ところで、汐織のこれからだが、店の掃除や商品の陳列から始めて、地理を覚えた後は配達にも加わってもらおうと思う。よろしく頼むぞ」
「はい、何なりとやらせていただきます」


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