食事を終えた汐織とフミ、サヨの3人は、行灯の火から蝋燭に火を点けて提灯を灯し、階下へ降りて湯屋へ行く準備をしていた。汐織は、2人に簡単に髪を結ってもらった。 「どうもありがとう。これでもう手拭いはいらないわね」 「うん」 「ところで、提灯には蝋燭を使うのね」 「うん、菜種油だとこぼれちゃうからね」 「行灯にはなぜ使わないの?」 「蝋燭は、すごく高いのよ」 「へえ〜、高級品なんだ」 「うん」 「湯屋は遠いの?」 「ん〜ん、そんなに遠くはないわ」 「それなら提灯を持たずに行っちゃえばいいじゃない」 「そっ、そんなことをしたらえらいことになるわ!!」 「えっ、どっ、どうして?」 「明かりを持たずに夜間に外出すると、夜盗と見做されるのよ。捕まっても文句は言えないわ」 「えっ!!そっ、そうなの―――!」 「それに提灯なしでは、足元も見えないから怖くて外には行けないわ」 「本当に!」 夜でも常夜灯や、何かしらの明かりに囲まれて生活してきた汐織は、夜の本当の暗さを経験したことがなく、恐怖心や警戒心があまりない。しかし、電気のない江戸では、基本的に夜は漆黒の暗闇で、目的もなくむやみに出歩くことは大きな危険と隣り合わせの無謀な行為なのである。外出などせずに眠ることが最良の時間帯なのだ。 「じゃあ、行きましょうか」 準備ができた3人は、表通りに出て北に向かって歩き出した。この時汐織は、フミの言った言葉の意味を身をもって知ることになった。 とにかく、回りが真っ暗で何も見えないのだ。昼間通ってきた日本橋通りのような大通りならいざ知らず、汐織たちが今歩いている通りには全く明かりが見当たらない。 「ほっ、本当に真っ暗なのね!」 「そうよ」 何かしらの明かりはあるのだろうと高をくくっていた汐織は、その暗さに心底驚いた。ただし、夜は日が照っていないのだから暗いのは当たり前で、こちらの方がより自然なのである。 何の明かりも持たずに自由に外出ができる平成の夜の方が明らかに不自然ではあるのだが、汐織は、そのありがたみを江戸に来て初めて知ったのであった。 そして、汐織は、しばらくの間、心を落ち着けてサヨの手を握りながらフミの後を目を凝らしてゆっくりとついていった。やがて、橋をひとつ渡り、さらに歩き続けていくと、徐々にではあるが、目が周りの暗さに慣れ始めてきた。フミの持つ提灯の明かりでも通り過ぎる建物の輪郭が、ぼんやりとではあるが判別できるようになってきたのだ。 「少し目が慣れて来たわ」 「そう、もうすぐよ」 この時、右手に男湯と女湯の暖簾のかかった建物が汐織の目に入った。フミとサヨは見向きもせずにそこを通り過ぎようとした 「あれ、ここじゃあないの?」 「あっ、だめよそこは、混浴なのよ」 「こっ、混浴―――――――!!!湯屋って混浴なの――――――!!!」 「形の上では禁止されているのよ。でも、そのままの所がまだけっこうあるの。そこは、入口は別々なんだけど、中は混浴のままだから行かないことにしているの」 「はあ〜〜〜、江戸に来てから一番驚いたわ〜〜〜!!」 「安心して、今から行くところは、男女がちゃんと分かれているから」 江戸時代初期の湯屋は、混浴が普通であった。当然のことながら、多くの性的なトラブルが発生したため、寛政3年(1791年)と天保12年(1841年)に混浴に対し禁止令が出され、浴室を男女別々に分るように定められた。しかし、これらの禁止令は徹底されることはなく、それ以降も混浴は見過ごされて続けられていた。最終的に完全に混浴が禁止されたのは、なんと、明治12年のことであった。 「あっ、あそこよ」 今度は左手に、提灯の明かりが出入する建物が見えて来た。近くで見ると、その建物の外観は先程の湯屋と変わらないが、引かれた弓に矢が取り付けられている飾り物が上の方にぶら下がっていた。 「あの弓矢は何なの?」 「あれは、弓(ゆみ)射(い)るを湯入ると掛けた洒落なのよ。湯屋にはどこにもかかっているわ。さっきの所にもあったじゃない」 「えっ、そうだった?気が付かなかったわ」 3人は、女湯の暖簾をくぐって湯屋に入っていった。 入り口を入ると左側に番台があり、天井には四角い電灯のような照明がつりさげてあるが、こちらも行灯の一種のようで油皿に入れた灯芯に火がともされている。とにかく、建物の中は暗いの一言である。 フミは、番台に3人分の代金を支払い、その他に、何やら袋状のものを1つ購入した。 「その袋は何?」 「糠袋よ」 「糠袋?何に使うの?」 「これで体を洗うのよ」 「ああっ、石鹸の代わりか」 「平成では石鹸っていうの?」 「そうね。ちょっと形は違うけどね」 「どんな形なの?」 「もっと小さくて四角い石のような形で硬いの、そして、それをこすると体を洗う泡が出てくるのよ」 「へ〜え、すごく変わっているのね!どんなものか一度見てみたいわ」 「残念ながら、石鹸は持ってきていないわね」 「そう」 脱衣場の方に目をやった汐織は、少し驚いた。脱衣場と洗い場の間に何の仕切りもないのである。そして、洗い場には湯船が見当たらなかった。 「洗い場が、仕切りなしで脱衣場と繋がっているのね!」 「そうよ」 「それに、湯船はないのね!」 「いや、あるわよ」 「えっ、どこに?」 「石榴(ざくろ)口(ぐち)の向こうだよ、汐織ちゃん」 「ざっ、ざくろぐちってなあに?」 「あの赤いところよ。その向こう側に湯船があるの」 サヨが指さしたのは、汐織の真正面に見えている赤く塗られた門のような部分である。汐織は、ただの壁の装飾だと思っていたのだが、確かに人が入っていくのが見える。ただし、入口が1メートルほどの高さしかないため、みんな屈み込んで中に入っていく。 「なんであの中に湯船があるの?」 「湯を冷まさないためよ」 「あっ、そういうことか!」 「平成の銭湯には湯船はどこにあるの?」 「洗い場の真ん中にあるわ」 「それで、湯が冷めないの?」 「冷めないわ」 「どうして」 「さっき話したガスでいつでも温度を調節しているからよ」 「へ〜え!やっぱり進んでる〜!」 3人は、脱衣場で着物を脱いで衣装棚に入れ、洗い場に入っていった。 洗い場は、中央に樋のような溝があり、溝に向かって左右の床がわずかに傾斜している。これは、体を流したお湯を中央に集めて排水するための作りである。 体を洗うためのお湯は、洗い場の端にある湯槽から汲んでくる。この湯槽のことを岡湯という。しかし、時間が経つとかなり温度が下がってしまうため、熱い湯がほしければ、石榴口の隣にいる係の人に頼んで桶に湯を入れてもらう。 3人は、岡湯から湯を組んできて、代わる代わる糠袋を回して体を洗い始めた。 「糠袋で体を洗うのは初めてだけど、結構気持ちがいいね」 「そう、それはよかった」 「ところで汐織ちゃん、何であそこを石榴口って言うか知ってる?」 「さあ、全く想像もつかないわ」 「江戸の鏡は、昼間見せてもらった平成の鏡のようにはきれいに映らないわ。おまけに、時間が経つと曇ってしまって、磨かなければよく映らなくなってしまうの」 「その鏡を磨くために必要なのが石榴の実なのよ。つまり、鏡に要るのが石榴なの。そして、あそこに入る人たちは、みんな屈んで中に入るでしょ。屈み入る入口が、鏡に要る入口となって、鏡に要るものは石榴だから石榴口となったのよ」 「へえ〜!さっきの弓射ると湯入るといい、石榴口といい江戸の人は、洒落好きなのね〜」 「そうよ、じゃあ、湯船に入ってみる?」 「うん」 体を洗い終わった3人は、石榴口をくぐって湯船のある浴室に入っていった。 「うわ!中は真っ暗なのね!」 「そうよ、湿気があるから行灯もつけられないの。昼間は、まだ明かりが入るけれど夜は真っ暗なのよ」 「汐織ちゃん、一段高くなっているから気を付けて」 「うん」 3人は、真っ暗な湯船に身体を浸けてゆっくりと温まっていた。湯船には他に誰も入っていない様子である。 「ああ、これで記念すべき江戸の第1日目が終わるのね〜」 「ちょっと疲れたんじゃない?」 「いや、それよりも、驚きがいっぱいであっという間だったわ!」 「また、あちきが、明日からもあちこち案内したげるね」 「ありがとう。楽しみにしてるわ」 「う〜ん、それにしても今日だけで結構いろんなことがあったな〜・・・・・」 「んっ!?・・・でも私・・まだ三刻も江戸にいないんだけど」 「アッハッハハハハ――!」 3人の笑い声が真っ暗な浴室の中にこだました。
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