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作品名:時の彼方 作者:箕輪久美

第7回   第7話
 「それでは、そろそろ夕餉としよう。支度を頼む」
「はい、サヨ手伝っとくれ」
「はい」
サトとサヨは、よどみのない動作で階下へと降りて行った。
「フミ、お膳をもう1つ用意してくれ。それから、行灯に火を頼む」
「はい」
フミは、隣の部屋から40センチ四方ぐらいの木の箱を持ってきて、それを汐織の前に置いた。
「はい、これが汐織ちゃんのお膳よ」
「えっ!1人1人にお膳があるの?」
「そうよ、蓋を開けてみて」
「あっ!」
蓋を開けてみると、中に茶碗と箸そしてお椀と小皿が入っている。
「蓋を裏返して中身を全部蓋の裏側に乗せて、それを箱の上に置いて食べるのよ」
「なっ、なるほど」
「平成の時代では、銘々膳で食べないのかい?」
「はい、テーブルという大きな台の上に食べ物をすべて乗せて食べております」
「へ〜え、160年も経つとずいぶん食べ方も変わるもんなんだな〜」
 「う〜ん、今日はなかなか火口(ほくち)に上手く火種が落ちないわ」
フミは、先程から火打石を使って火を起こそうと懸命になっているが、湿度が高いせいか、なかなか上手くいかず苦戦している。何度も火打金と火打ち石を打ち合わせる、カチカチという音がしている。
 火打石で火をつけるには、まず、火打金と火打ち石を打ち合わせて、火口(ほくち)と呼ばれる、もぐさなどを蒸し焼きにして真っ黒な炭状にした物の上に火花を落とす。次に、火口(ほくち)の上に落ちた火花が赤く燃えたら口で息を吹きかけて火を大きくする。最後に、一ミリくらいの厚さにそいだ木の切れ端の先に、溶かした硫黄を塗った付(つけ)木(ぎ)と呼ばれるものを火に押し当てると、その付(つけ)木(ぎ)に火がつくという具合である。手順としてはこれだけで簡単そうであるが、実際に上手く火がつくかどうかは、気候や天候に左右されることが多く、それほど簡単な作業ではない。
 汐織は、火をつけるのに懸命になっているフミを見て、バッグの中に友達からもらった喫茶店のマッチがあることを思い出した。
「フミちゃん、マッチならあるわよ」
「まっ、まっちってなあに?」
「火をつける道具よ」
「えっ!そっ、それは、どんなもの?」
フミは、火打ち金を火打石に打ち付ける手を止めて、汐織の方を振り向いた。
汐織は、バッグの中からマッチ箱を取り出して親指と人差し指でつまんでフミの前に示して見せた。
「これよ」
「こっ、この箱で火を・・・?」
「箱と中身と両方とも使うわ。どこに火をつけるの?」
フミは、行灯の四方を覆っている障子状の囲いの前の部分を上の方にスライドさせて、中にある火を受ける皿を指さして言った。
「ここよ」
皿の中には油が注がれており、油の中に芯が浸してあって陶器の小物でその芯が押さえられている。この皿のことを油皿、芯のことを灯芯、灯芯を押さえる小物のことを掻(かき)立(たて)と呼ぶ。掻立は、灯芯が燃えて短くなってきた時に、文字通り芯を掻き立てて押し出すために使用した。
 「これがサヨちゃんの言っていた水油か!この芯に火をつければいいのね」
「そうよ」
汐織は、箱を開けてマッチ棒を取り出した。
「あっ、付木に似ているのね!それで、どうやって火をつけるの?」
「まあ、見てて」
汐織は、箱の側面の側薬(茶色の部分)にマッチ棒を押し当てて、素早く擦り合わせた。
すると、一度でマッチの頭に勢いよく火がついた。
「えっ、ええっ――――――!!」
「なっ、何と・・・・!!!軽く紙の箱と付木をこすり合わせただけでそのように大きな火がおこるとは・・・」
弥兵衛とフミは、スマホの時に勝るとも劣らぬ大変な驚きようであった。それを尻目に、
汐織は、灯芯に火をつけると手首を振ってマッチの火を消した。
「すっ、少し、そのマッチとやらも見せてくれぬか?」
「はい、どうぞ」
汐織からマッチ箱を受け取った弥兵衛は、マッチ棒と側薬をまじまじと見ている。
「何ゆえあのように簡単に火がおきるのだ!?」
「さあ、それは、私にもわかりません」
「もしよろしければ、そのマッチは差し上げます」
「おお、そうか」
「ただし、処分時には、くれぐれもお気を付けくださいませ」
「相分かった。かたじけない」
 この時、サトとサヨが階段を上がって部屋に戻ってきた。サトは鉄瓶と陶器製の入れ物を持って、サヨは米櫃を両手で抱えていた。
「おまたせしました」
2人は、各々の茶碗にご飯をよそってお茶を上からかけ、小皿にたくあん漬けを入れていった。
「よし、それでは準備ができたので、いただきます」
「いただきます」
弥兵衛の掛け声とともに残りの4人も食前の挨拶をして夕食が始まった。
お茶漬けとたくあんという夕食は、汐織にとってあまりにも物足りない質素なものであった。
これで本当に満腹になるのだろうかと思っていると、驚くような光景を目の当たりにすることになった。
4人とも次々にご飯をおかわりするのだ。夕食には、炭水化物をあまり取らない汐織にとっては、信じられないような食事の場面であった。
 「どうしたの汐織ちゃん?どんどんおかわりしてよ」
「えっ、ええ」
「江戸のお米は、口に合わないかい?」
「いえ、そうではありません。夕餉には、あまりお米はたくさん食べませんゆえ・・・」
「へえ〜、それではどんなものを食べているの?」
「野菜を中心にした食事にしております」
「野菜って、こんな時間に売りに来てくれるのかい?」
「いえ、朝のうちに買っておいたものを冷やしておいて食べております」
「冷やす!?どうやって?」
「先ほどお話しいたしました電気で動く冷蔵庫なるものがございます。真夏でも真冬以下の温度で物を冷やせますし、氷も年中作れます」
「ほっ、本当〜〜!!」
「本当でございます」
「はぁ〜〜!平成ってのはすごい時代みたいだね、お前さん」
「ふむ、先程フミが言ったように、我々の思いなどはるかに及ばぬ進んだ時代のようだ」
「おお、そうだ!汐織ちゃん」
「汐織とお呼び下さいませ」
「そうか、では、汐織」
「はい」
「今まで、色々と便利な物を我々に紹介してくれたが、それとは別に、お前さんにもう1つ是非聞いておきたいことがある」
「はい、何でございましょう?私の知っていることであれば、何なりとお答えいたします」
「うむ、それは、お前さんにとっては歴史、我々にとっては未来のことだ!」
「ああっ!」
サトとフミは思わず唸った。
「すでに知ってのこととは思うが、一昨年6月の黒船来航以来、泰平の世の中にあった江戸もにわかに慌ただしくなってきておる」
「そこで、これから先、この江戸はどのようになるのかを聞きたいのだ。異国の勢力を追い払って元の江戸に戻るのか、はたまた、新しい時代が訪れるのか。その点について教えてほしいのだ」
「はい、承知いたしました」
「・・・・・あと12年余りで将軍様の時代は、終わります」
「なっ、何だって―――――――――――!!!」
 この情報が4人に与えた衝撃は、今まで汐織から紹介された平成の物を見たり聞いたりした時をはるかに上回り、しばらくの間、部屋は完全に静寂に包まれた。それ程、将軍の時代の終焉、つまり、江戸という時代が終わってしまうことに対する4人の驚きは大きかったようである。
「そっ、それは・・・・いっ、いかようにしてだ?」
「第15代の将軍様、徳川慶喜様が、政(まつりごと)を為すお役目を朝廷に返されるのでございます。慶喜様が最後の将軍様でございます」
「なっ、何と・・・・!」
「これを大政奉還と申します」
「すっ、すると、それ以降は、帝(みかど)様が政を・・・?」
「そうでございます。お侍様の時代は、終わるのでございます」
「・・・・・・・」
「みっ、帝様は、平成の時代も政を為されておるのか?」
「いいえ、帝様が政を為されるのも90年程でございます。アメリカ国との戦(いくさ)に敗れ、全く新しい世の中が始まります」
「みっ、帝様までいらっしゃらなくなるのか!?」
「いいえ、帝様はいらっしゃいますが、政に関わってはおられません。日本国の象徴として活躍をされております」
「そっ、それでは、一体誰が政をやっておるのだ!?」
「我々の中から代表者を選び、選ばれたものが政をするのでございます。その者が、民意にそぐわぬ政を行えば、再度民衆の中から新しい代表を選び直すのでございます。つまり、民衆の意思を最優先に政が為されますゆえ、これを、民主主義と申します」
「・・・・・・・・・・・・・」
 すでに、暮れ六つから四半刻以上が過ぎて日は完全に沈んだ。部屋を照らすのは、汐織の灯した行灯の明かりだけである。行灯の明かりは、恐ろしく暗い。60ワットの電球の50分の1から100分の1くらいの明るさしかなく、明るさよりも暗さのほうが間違いなく際立っている。昼間と変わらない明るさの中で夕食を取るのが当り前であった汐織にとって、このような暗闇の中で食事をすることはもちろん初体験であり、本当に異様な感覚である。一緒に食事をしている人の顔さえもはっきりとは見えない。しかし、サヨ以外の3人が、想像をはるかに超えた驚きで絶句してしまっている様子は、手に取るようによく分かった。
「まっ、誠にそのような世の中が来るとは・・・・・・・・」
「浅学菲才(せんがくひさい)の身ゆえ、あまり上手くはご説明できませんでしたが、今申し上げたことは、すべて本当のことでございます」
「うむ、なにもお前さんを疑っておるという訳ではないのだ。にわかにはとても信じられないほど驚きが大きいということだ」
「今から160年前というと、元禄年間か・・・元禄から今までの160年間と今から160年後の変わり様が、あまりにも違い過ぎるゆえにな」
 「さて、夕餉が終わったなら湯屋へ行ってくるがいい」
「ゆっ、ゆやとは、なんでございますか?」
「お風呂屋さんのことよ、汐織ちゃん」
「あっ、銭湯のことね」
「平成ではせんとうというのか。まだ、湯屋が残っておるのだな」
「はい、しかしながら、数は年々減っております。自宅に風呂があれば銭湯に行く必要はなくなりますゆえ」
「風呂のある家は、どれ程の割合なのだ?」
「ほとんどの家には、大なり小なり風呂はございます。全く風呂のない家は、ごく僅かでございます」
「ほ〜〜!ほとんどの家に・・・それでは、風呂も電気を使って沸かしているのか?」
「いえ、電気とは別のガスという力を使います。火を起こす際には、主にガスを用います」
「先程のマッチは使わないのか?」
「大きな火が必要な際には、使いません。マッチを使うのは、煙草に火をつける時くらいでございます。しかも、何度でも火が点けられるライターというものがございますゆえ、点火が1回きりのマッチは、あまり使われなくなりました」
「ふ〜む、やはり我々の知識の範囲で平成の暮らしを思い描くことは、とても無理なようだ」
「おっと、話し込んでいては時間が無くなってしまうな。私たち2人は、今日はもう湯屋に行ってきたゆえ、フミとサヨと3人で行っておいで」
「はい、ありがとうございます。ご馳走様でした」


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