再び日本橋を渡った汐織とサヨは、日本橋通りをまっすぐ北に向かって歩いて行った。そして、2つ目の四つ角まで来ると、サヨが左手を指さして言った。 「ここが有名な呉服屋の越後屋さんよ」 「えっ、ここが越後屋さん!」 「うん、平成にも越後屋さんはまだあるの?」 「あるわよ。ただ、名前が三越と変わっていて、呉服だけではなくて食べ物、荒物、家具、履物、化粧品、何でも売っているわ」 「へえ〜、すご〜い!」 越後屋は、江戸の従来の商習慣を打ち破ったことで成功を収めた豪商であった。当時は、十分な量の貨幣が市場に出回っていなかったこともあって、買い物をした際には、その金額を帳面につけてもらって、月末、年末などの区切りのいいところでまとめて支払いをするのが一般的な商いの習慣であった。ちなみに、現在、後払いのことをツケというのはこれが語源となっている。 ところが、越後屋は、その場で現金払いをすると代金を割引きサービスするという、当時の江戸ではあり得ない「現金掛け値なし」の商売を展開して、確固たる商人としての地位を築き上げていったのである。最初は、本町1丁目で営業をしていた越後屋であったが、あまりの人気ぶりに同業者から嫌がらせを受けて、日本橋に店舗を移したのであった。 「お天気が良かったら、ここから富士山が見えるんだよ。だから、ここは駿河町というの」 越後屋の店舗は、四つ角の北西と南西とに2つあってその間を通って西に伸びる道路の方向に、晴天時には富士山が見えるらしい。 「ああ、駿河の国だから駿河町か、な〜るほど」 「うん、そんでね、お家は、あっちなの」 サヨは、そう言うと、越後屋とは反対の方向、つまり、日本橋から見ると四つ角の右の方向である東の方角へ向かって歩き出した。そして、最初の四つ辻をもう一度右に曲がって、左側にある2つの瀬戸物問屋のうちの奥の店舗を指さして言った。 「あそこがお家なの」 建物の2階に掲げてある看板には古川屋の文字があった。 「へえ〜、古川屋さんっていうの」 「うん」 「あっ、帰ってきた!ふたりともお帰り」 2人の声を聞きつけたフミが、店から出できて汐織とサヨを迎えた。 「ただいま」 「ただいま。姉さん」 「どうだった?汐織ちゃん」 「いや〜、たった一刻ほど歩いてきただけだけど、色んなことがあって驚きの連続だった わ!それに、まだまだわからないことだらけで、江戸って本当に面白いわ!」 「そう、それはよかった」 「あのね、あのね、姉さん、平成のお寿司ってすごく小さいんだよ!江戸のお寿司の3分の1くらいしかないんだよ。そんでね、そんでね、ご飯が真っ白で酸っぱい味なんだって!」 「へえ〜、そうなの!」 サヨは、汐織から聞いた平成の知識を姉に披露したくてたまらない様子である。 「それからね、それからね、越後屋さんなんだけどね、」 「サヨ!話は後から聞くわ。それより先にやらなければならないことがあるでしょ」 「は〜い」 「さあ、汐織ちゃん、一緒に来て」 「うん」 いよいよ2人の両親と顔を合わせる時がやって来た。汐織は緊張の面持ちで、フミとサヨの後から店に足を踏み入れた。 「ただいま帰りました」 「おかえり、サヨ、遅かったね。あれ、お友達?」 「はい、汐織ちゃんといいます」 「お邪魔いたします」 「いらっしゃい。見慣れない顔だけど、このあたりの子?」 「いっ、いえ・・・」 「母上、実は、汐織ちゃんのことで、ご相談がございます。間もなく、父上もお帰りかと思いますゆえ、夕餉の前に少しお時間をいただきとうございます」 「そっ、相談って、フミもこの子のことを知っているのかい?でも、もうすぐ日が暮れちまうよ。このあたりに住んでいるのならいいんだけど」 この時、ちょうど2人の父親が、外売りから店に帰ってきた。 「ただいま帰った」 「父上、おかえりなさいませ」 「おかえりなさい、お前さん。お前さん、ちょっといい」 「ん?どうした」 母親は、父親を3人から少し離れたところに連れて行って小声で話し始めた。 「今日、サヨが八つ半ごろに戻ってきて、何やら持ってもう一度出かけて行ったんだよ。それで、あの女の子を連れてたった今帰ってきたんだけど、どうもフミもあの子のことを知っているみたいで、夕餉の前にあの子のことで何か相談がしたいって言ってるんだ。この辺りの子じゃないみたいだし、どうする?お前さん」 「うむ、確かに見たことのない顔だな・・・・・まあ、とにかく話を聞いてみないことには何とも言えないだろう。取りあえず、今日はこれ以上お客さんも来ないようだし、早めに店じまいをして話だけでも聞いてみよう。あの子、何ていうんだい?」 「汐織というらしいわ」 「そうか」 「汐織ちゃん、もうすぐ店を閉めるから、サヨと2階で待っててくんないか?」 「はい、ありがとうございます」 「じゃあ、サヨ、2階に案内して」 「はい」 「フミは、店じまいを手伝ってくれ」 「はい」 2階に通された汐織は、しばらく、サヨと話しをしながらフミと両親が店じまいを終えて階上にやって来るのを待っていた。 「もうすぐ暮れ六つなのかな?」 「そうね。もうすぐ鐘が鳴るよ」 「でも、まだ、結構明るいね」 「うん、暮れ六つの鐘が鳴って四半刻経ってから日が沈むのよ」 「へ〜え、そうなの!じゃあ、明け六つも同じなの?」 「そうよ、明け六つの鐘が鳴って四半刻経ってから日が昇るの」 「ふ〜ん、面白〜い。じゃあ、これからは、日が長くなるから鐘が鳴ってから日が暮れるまでがもっと長くなるのね」 「えっ!どういうこと?」 「だって、今の時期に鐘が鳴ってから四半刻後に日が沈むのなら、日が長くなってくれば、鐘が鳴ってから日が沈むまでにもっと時間がかかるじゃない」 「ん〜ん、鐘が鳴って四半刻後に日が沈むのは年中一緒だよ」 「ええっ!!!」 汐織は、この時、江戸の時間の計り方についても自分が誤解をしていたことに初めて気が付いた。考えをまとめようとしていると。階段を上る足音が聞こえてきた。 「あっ、いらっしゃったわ!」 ほどなくして、父親母親フミの順で3人が部屋に入ってきた。 「やあ、お待たせ、お待たせ」 父親は、そう言うと、母親とともに汐織とサヨの正面に、フミは汐織の右横に静かに座って話が始まった。 「私が2人の父親で、弥兵衛、こちらが母親のサト、どうぞよろしくね」 「美谷汐織と申します。本日は、お忙しいなか貴重なお時間を頂戴してしまい誠に申し訳ございません。どうぞよろしくお願いいたします」 汐織は、正座をしながら両手をついて頭を下げた。 「ほう、お家は美谷屋さんというのか。あまり聴き慣れない屋号だね。何を扱っていらっしゃるのかな?」 「父上、それについては、私がお話しいたします」 「うむ」 「本日、お琴のお稽古が早く終わりましたゆえ、サヨを手習いに迎えに行きまして、2人で箱崎橋を渡り小網神社の前を通りかかった時でございます。サヨが、境内の桜の木の下に人が倒れているのを見つけたのでございます」 「ほう」 「それが、この汐織ちゃんだったのでございますが、彼女は髪も結っておらず、実に不思議な着物を着ておりました」 「汐織ちゃん、手拭いを・・・」 「はい」 汐織は、頭を覆っていた手拭いを取って、髪をもとのように両肩まで下ろした。 「着物もご覧になりたければ、彼女の持っている風呂敷の中にございますが・・」 「いや、それはよかろう。続けてくれ」 「はい、そして、彼女を介抱したのでございますが、話をしているうちに、彼女がとても信じられないようなことを言い出したのでございます」 「ほう、それはどんな?」 「彼女は、160年先の時代から江戸に迷い込んできたと」 「なっ、何だと!!フミ、お前、ふざけているのか!!」 「いえ、めっそうもございません!しかし、父上がそうおっしゃるのも全くごもっともでございます。私も、始めは到底信じることができませんでした」 「しかしながら、彼女の言ったことには、しっかりと証を立てることができるのでございます」 「あっ、証を・・・?」 「はい」 「汐織ちゃん、スマホを」 「はい」 汐織は、風呂敷をほどいてバッグの中らからスマホを取り出し説明を始めた。 「これは、スマホと申しまして、私どもの住んでおります平成の時代におきましては、誰でも手軽に買うことができ、ほとんどの人が持っているものでございます」 「このスマホは、電話と申しまして、持っている者同士の間でどれほど距離が離れていようとも話ができる機能を有しております。それが、江戸と大阪であれどこであれ、異国にいる者とさえ話をすることができるのでございます」 「なっ、何と!・・・少し、見せてはくれないか?」 「はい、どうぞ」 汐織は、持っていたスマホを弥兵衛に手渡した。受け取った弥兵衛はサトとともに、小さな板状の金属をいぶかしげな表情で様々な角度からしばらくの間見回していたが、依然として合点のいかない表情で、汐織のもとに返した。 「しかしながら、今江戸には、このスマホ1台しかありませんゆえ、その機能をお見せすることは残念ながらかないません。ただ、このスマホにはその他にも様々な機能が備えられております。例えば」 汐織はそう言うと、スマホを持っていた右手の親指で、側面にある電源のスイッチを押した。 次の瞬間ディスプレイに明かりが点いたが、暮れ六つ近くで薄暗くなってきた部屋の中であったため、その明るさは汐織以外の4人には想像以上であったらしく、全員が驚嘆の声を上げた。 「おおっ!!!」 フミとサヨは、昼間に一度スマホを見ているが、ディスプレイがこれほどの明るさだとは思わなかったらしく、その表情は両親のそれと全く変わらなかった。 「そっ、それは、何ゆえにそれほどの明かりを放つことができるのだ?」 「このスマホは、電気というもので動いております。江戸にはないものでございますが、電気は、平成のほとんどすべての物を動かす大きな力の源でございます。平成の行灯は電灯と申しますが、電気を使って明かりを灯すため昼間と同じほどの明かりを放つことができます。明かりを放つことが目的ではないこのスマホの明かりをたいへん明るいとお感じになるのであれば、電灯がどれ程の明かりを放つものなのかを想像されるのは、たやすいことかと存じます」 「なっ、何と・・・・・!!」 「それでは、電話以外のスマホの機能をご紹介いたします。まずこちらは、私が、本日小網神社にてフミちゃんとサヨちゃんに助けてもらった時に写したものでございます」 汐織は、昼間撮ったフミとサヨの写真をディスプレイに写し出して、弥兵衛の方に向けた。 「こっ、これは!・・・よもや・・・しゃ、写真では・・・?」 「ち、父上、写真をご存じなのですか!?」 「ああ、昨年アメリカ国のペリー提督が、再度やって来た際に、浦賀奉行与力の田中光儀様の写真を撮ったとは聞き及んでおる。何でも、短時間のうちに絵を描くよりも正確に田中様を写し出したそうだ」 「その通りでございます。汐織ちゃんも、一瞬のうちにこの写真を撮ってくれました」 「もしよろしければ、今この場で旦那様をお撮りすることもできますが・・・?」 「おお、そうか!それでは、お願いしようか」 「承知いたしました。少々眩しゅうございますが、我慢してくださいませ」 「相分かった」 汐織は、弥兵衛に向かって静止画のシャッターを切った。カシャッという音と同時にフラシュがたかれた。 「あっ!」 眩しいと聞いていたにもかかわらず、4人は、思わず声を上げた。 汐織は、今撮ったばかりの写真をディスプレイ上に取り出して弥兵衛に見せた。やや驚いたような表情の弥兵衛の顔が写し出されていた。 「なっ、何という速さだ!・・・・・」 「それでは、旦那様、今度は少し動いてくださいませ」 「う、動く?どのようにだ?」 「いかようでも構いません」 「これでよいのか?」 弥兵衛はそう言って、右手を上にあげた。 「結構でございます」 「なっ、何をやっておったのだ?」 「これでございます」 汐織は、三度(みたび)弥兵衛にディスプレイを向けて、今撮った動画を再生してみせた。 『それでは、旦那様、今度は少し動いてくださいませ』 『う、動く?どのようにだ?』 『いかようでも構いません』 『これでよいのか?』 『結構でございます』 「なっ、何――――――――!!!」 「これは、動画と申します。写真が、静止したものを写し出すのに対し、動画は、動いている場面を写し出すのでございます」 「・・・・・・・・・・・・・」 この時、暮れ六つを告げる鐘が、一斉に江戸中に鳴り始めた。言葉を失った部屋の中にカーン、カーンと夕暮れを告げる物悲しい鐘の音が一つ一つ大きく響き渡った。 「父上、これでお分かりいただけましたでしょうか?このようなものが、果たして、今の江戸にございましょうか?」 「・・・・・・・・・・・・・」 「汐織ちゃんは、まぎれもなく、160年先の時代から江戸に迷い込んで来たのでございます!」 「・・・・・・・・・・・・・」 「彼女が暮らす平成というのは、私どもには想像もつかないような便利な物に溢れた時代のようでございます」 彼女は、時計もそのスマホの中に組み込まれていると申しておりましたし、信じられないほど映りの良い鏡や、墨を付けずして書けるペンなる筆も持っておりました。彼女は、我々が思いも及ばないような進んだ時代から江戸にやって来たのでございます」 「しかしながら、どれほど便利な物や進んだ知恵を持っておりましても、この江戸におきましては、汐織ちゃんは右も左も全くわからぬ無宿者にございます。放っておいては、間違いなく野垂れ死んでしまうでありましょう。そう思いましたゆえ、サヨに着物を取りに行かせここまで連れてくるよう命じたのでございます」 「汐織ちゃんの身の回りの世話につきましては、私とサヨで責任を持って行いますゆえ、どうか、ここで一緒に暮らすことをお許しいただきとうございます」 フミはそう言うと、両手を前について深々と頭を下げた。これを見た汐織とサヨもフミと同じ様に平伏して、汐織がここで暮らせるよう両親に懇願した。 「3人とも面(おもて)を上げなさい」 「フミ、お前の判断は、誤ってはおらぬ。彼女をここへ連れて来たのは、困っている人を見過ごしてはならぬとの教えを守った上でのこと。ようやった」 「そっ、それでは・・・」 「汐織ちゃん、江戸にいる間は、遠慮なくここで暮らしていかれるがよい」 「あっ、ありがとうございます!」 汐織は、もう一度両手をついて深々と頭を下げ謝意を表した。 「父上、ありがとうございます」 フミとサヨも汐織と同様に再び平身して、父親からの許しに感謝の言葉を返した。 「よかったね、汐織ちゃん!また、あちきが、江戸の町を色々と案内してあげるからね」 「ありがとう、サヨちゃん」
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