2人は、南に向かって再び歩き始めた。すると正面に、番所のような小屋が道の左右の端に1つずつある場所が目に留まった。右側の小屋には、人のよさそうな老人が1人座っている。そして、その向こう側に木でできた柵のような門がある。門の内側両端の2本の木だけは、他の柵よりも少し背が高かった。 「あれは何?」 「木戸番さんよ」 「木戸番さん?」 「そう、明け六つになると門を開けて、夜四つになると門を閉めて閂(かんぬき)をかけるの」 『不審者の出入りを監視する門番ってところか』 「何か売ってるけど」 「うん、お菓子とか、海苔とか、草履とかいろいろ売ってるよ。冬になると焼き芋を売ってるの。これがまた、おいし〜いんだ!」 「アッハッハハハハ――!」 特に通行人に検問を行っているわけではなく、2人は、何の問題もなく門を通って中に入ることができた。 「うわ〜〜、すごい賑わいね〜!」 目の前に広がる光景に汐織は、驚嘆の声を上げた。 道幅は、20メートルほどもあり、左右には、屋号を染めた巨大な暖簾で軒先を上から地面まですべて覆った大きな店がずっと向こうまで立ち並んでいる。 その大通りを行き交う人々の数は、またいちだんと多くなって、大変な活気を生みだしている。そして、呉服問屋、醤油問屋、荒物問屋、塗り物、水油などの看板を掲げた店々にもひっきりなしにお客さんが出入していて空前の賑わいをみせており、その様子は、さながら、多くの人々が年の瀬に買い物を楽しむ巨大なショッピングモールのようである。 「塗り物屋って何のお店?」 「漆塗りの物を売ってるお店よ」 「ふ〜ん、じゃあ、荒物は?」 「箒(ほうき)とかちりとりとか鍋、釜なんかを売ってるお店よ」 「へ〜、荒物っていうの。あっ!あの看板に書いてある水油ってどんな油?」 「行灯用の菜種油のことよ」 「行灯・・・?そっ、そうか!!電気がないんだ!!!」 「電気・・・?電気ってなあに?」 「さっきのスマホを覚えているでしょ」 「うん」 「あのスマホも電気で動いているの」 「平成にも行灯の代わりになる電灯というものはあるけど、それも電気を使って明かりを灯しているの。つまり、すべての物を動かしたりする時の力の源のことを電気というのよ」 「ふ〜ん、よくわんない」 「う〜ん、難しいわね、形のないものを説明するのは。まあ、どうやったらわかってもらえるのか、また考えるわ」 「うん」 「ねえ、さっきから気になってたんだけど、屋台のお店がすごく多いのね」 「うん、お蕎麦、お寿司、てんぷら、団子、水菓子・・・色々な屋台があるよ」 「そうだ、汐織ちゃん!」 「ん?」 「江戸に来てからまだ何も食べてないでしょ?」 「うん」 「なんか食べてみる?」 「そうね、何がいいかな?」 「今の時間ならお寿司が安いよ」 「そう、じゃあお寿司をいただこうかな」 『電気がないから物を冷やすことが難しいんだ。だから、この時間まで残ったネタは早くさばきたいから安くしているんだろう』 しばらく歩くと、右手にすし屋の屋台が見えてきた。この時間は、閉店間際らしく、屋台の前には誰も客はいなかった。汐織とサヨは、屋台の前に立ち止まって中をのぞき込んでみた。 「へいらっしゃい!お姉ちゃんお嬢ちゃん、もうすぐ店じまいだ。安くしとくよ!」 屋台の中には斜めに敷いた板の上にすでに握られた寿司が並べられていた。 その寿司を見た汐織は、一瞬目を疑った。なんとネタもシャリも平成の寿司の3倍はあろうかという大きさなのだ。本格的な寿司店ではないので、回転寿司のようにすでに握ってあることまでは予想していたが、寿司の大きさが尋常ではない。これではまるで、おにぎりである。 「江戸のお寿司は、大きいのね!!」 「平成のお寿司は、そんなに小さいの?」 「うん、これの3分の1くらいよ」 「へえ〜!小さいんだ〜!」 「じゃあ、どれにする?」 「あっ!そうだ、サヨちゃんお金を持ってるの?」 「うん」 「そう、じゃあちょっと貸しといてくれないかな?平成お金なら十分持ってるんだけど ここでは使えないし」 「いいよ。じゃあ、後で平成のお金を見せてね」 「いいわよ」 「じゃあ、どれ食べる?」 残っている寿司は、エビ、アナゴ、赤身の3種類である。 「じゃあ、赤身にするわ」 「うん。じゃあ、おじちゃん、赤身を1つちょうだい」 「へい、まいどあり」 「いくら〜?」 「う〜ん、そんじゃあ半値でいいや8文だ」 「はい」 サヨは穴の開いた小銭を2枚懐から取り出して、屋台の店主に渡した。 「はい、まいどあり〜!」 汐織は、サヨが買ってくれた赤身の寿司を手に取って、間近でマジマジと見てみた。 ネタはやはり生ではなく、醤油で漬けてあるようだ。そして、シャリの方は、一見しただけで平成の寿司とは完全に違っていた。色が、白ではなく淡い茶色なのである。 「ふ〜ん、お寿司全体の大きさだけじゃなくて、ご飯の方も平成のお寿司とちょっと違うわ〜」 「えっ、平成のお寿司のご飯はどんな感じなの?」 「色が白いのよ」 「えっ!真っ白なの?」 「そうよ」 「それでお寿司の味がするの?」 「うん、普通の白ご飯とは全然違ってお寿司の味よ」 「へえ〜、不思議〜!江戸のお寿司とは味も違うのかな?」 「どうかな?それじゃあ、いただくね」 汐織は、手に取った赤身の握りずしを一口ほおばってみた。 「あっ、味もやっぱり違うわ!」 「どう違うの?」 「う〜ん、何て言うのかな、混ぜご飯に近い感じね」 「混ぜご飯?」 「うん、あっ!こちらには、混ぜご飯がないのか。それだと説明が難しいな」 「平成お寿司はどんな味なの?」 「もっと、酸っぱい感じね」 「へえ〜、酸っぱいごはんなの!」 「うん、でも、これもおいしいね」 汐織はそう言うと、赤身の握り寿司の残りをうまそうにぺろりと平らげてしまった。 「ごちそうさま。おいしかったわ」 「そう、それはよかった」 寿司は、奈良時代に東南アジアから中国を経由して日本に入ってきた食べ物だが、当時の寿司は、馴れずしであり、この馴れずしが江戸時代後期までは一般的な寿司であった。馴れずしとは、魚を塩漬けにして蒸した米と一緒に漬け込み発酵させたもので、一種の発酵食品であり、現在でも滋賀県の名産品である鮒ずしにその名残を留めている。しかし、江戸時代の後期に、ある酢が普及したことによって、手間や時間のかかる馴れずしよりもはるかに早く作れて手軽に食べられる握りずしが登場したのである。 現在の寿司には、米から作った米酢が使われている。米酢は、生鮮食料品の鮮度を保つ上で非常に優れた調味料である。そして、ほぼ無色透明であるため、現在の寿司のシャリには色が付くことはない。江戸時代にもこの米酢は存在したが、非常に高価であり簡単に手に入るような代物ではなかった。庶民が寿司に使うことなどは、到底できるはずもないような高級品であったのだ。 ここで江戸の寿司に革命を起こしたのが、ミツカン酢でお馴染の愛知県半田市に本社を置くミツカングループの創業者中野又左衛門である。 又左衛門は、米からではなく酒粕から酢をつくることを思いつき、見事にこれを成功させる。こうして作られた粕酢は、大変に安価である上に寿司との相性も非常によく、寿司の鮮度を保てる利点においても米酢と比べて何ら遜色のないすぐれものであった。この粕酢が江戸に出回って爆発的に大ヒットをし、従来の馴れずしに取って代わって握りずしが登場したのであった。ちなみに、粕酢は、米酢と違って醤油に似た色をしているため江戸時代の寿司のシャリは、混ぜご飯のような淡い茶色をしているのである。 「さあ、もう四半刻(とき)(約30分)ほどで暮れ六つになるからそろそろお家へ帰ろうよ」 「えっ、大体の時間がわかるの?」 「うん、お日様の高さで大体わかるよ」 「へえ〜、すごいわね!」 汐織は、こんな年端もいかない子供が、1年の内で今の時期の太陽の位置を見て大体の時刻がわかることに大変な驚きを感じたが、これについては、とあるからくりがあることに後に気が付くのである。 「お家はどちらなの?」 「橋の北側だよ」 「あっ、じゃあ、戻るんだ」 「うん」 2人は、踵を返して今来た道を日本橋に向かって歩き始めた。
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