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作品名:時の彼方 作者:箕輪久美

第4回   第4話
 「さあ、サヨちゃん、どこへ行こうか?」
「汐織ちゃんの住んでいた時代は平成っていうの?」
「ええ、そうよ」
「汐織ちゃんは、平成のお江戸の人なの?」
「いいえ、私は、Y藩の人だから、お江戸のことは何も知らないの」
「ふ〜ん、じゃあ、日本橋の方へ行ってみる?お家の近くだし、道を覚えといたほうがいいし」
「そうね。それがいいわ」
2人は、境内の奥にあるお社の脇の木陰から、汐織が倒れていた鳥居近くの桜の木の辺りまでやって来た。
「本当に、満開の桜ね〜、きれいだわ〜〜!・・・・・さっ、桜―――!!」
「サヨちゃん!今日って、確か安政2年2月の17日って言ってなかったっけ???」
「そうよ」
「にっ、2月に桜が咲くの――!?」
「うん、毎年2月の真ん中くらいから3月の初めくらいに咲くよ」
「そっ、そんなに早く・・・」
「平成の桜は、いつ咲くの?」
「3月の終わりから4月の初めにかけてよ」
「え――、そんなに暖かくなってから〜!」
「そうよ、なぜかなあ?桜の種類が違うのかな?」
「わかんな〜い」
『なっ、何か変だわ!わずか160年で気候が1ヶ月も変わってしまうはずはないし、温度だけなら排出ガスのない江戸のほうが、平成よりも若干低いはずだ。それなのに、江戸のほうが1カ月も早く桜が咲くなんて・・・何かあるわ』
「う〜ん、私もわかんないわ」
「帰ったら、姉(あね)さんに聞いてみようか?」
「うん、そうしよ」
「え〜っと、どっちへ行くの?」
「左よ」
「あっ、そうか、お家の近くだったね」
「そうよ」
 汐織とサヨは、小網神社の前の道を左に折れて、日本橋に向かってゆっくりと歩き始めた。
道は、幅が4メートルほどで、当然アスファルトの舗装などはされていない。そして、ここのところ雨が降らなかったらしくひどく乾燥していて、たいそう埃っぽい。
そんな中を行き来する男たちは、時代劇そのままのいでたちで汐織の前を通り過ぎていった。
しかし、彼らは、まさにその着物で暮らしているため、作り物感のあふれるテレビや映画のそれとは一目瞭然の違いがあり、実にリアルな生活感を漂わせている。月代(さかやき)も明らかに被り物と分かる時代劇の鬘とは違って、本当にきれいに剃りあげているのが、少し離れていてもよく分かった。
『わっ、私、本当に江戸に来ちゃったんだ・・・』
フミとサヨは、特別の日に着物を着ていると思えば、それほどの違和感はなかったが、すれ違った男たちは、明らかに平成の男たちとは違っていた。皆一様に背が低く、やや前かがみになって足を引きずるようにして歩いて行った。剃りあげられた月代(さかやき)の青々とした生々しさが印象に残った。
 続いて、三十路ほどと思われる女性が2人、右前の方からやって来た。2人は、話に夢中の様子であったが、近くで顔を見た汐織はギョッとした。
眉毛がなくて、口の中が真っ黒なのである。2人が通り過ぎるのを見定めると、恐る恐る小声でサヨに訊いてみた。
「サヨちゃん、あの女の人たち、眉毛がなくて、口の中が真っ黒だったけど・・・」
「うん、祝言を挙げた女の人は、みんな鉄漿(おはぐろ)をするのよ。それで、子供ができると眉をそるの」
「そう!・・・みんなそうなの?」
「うん」
「それなら、サヨちゃんのお母さんも?」
「そうよ」
汐織の目から見ると、鉄漿(おはぐろ)をして眉を落としている女性は、異様であり不気味そのものである。あらかじめ、その習慣をサヨに確認する機会があって本当によかったと汐織は思った。もし、何も知らないままにフミとサヨの母親に会っていたなら、きっと度肝を抜かれていたに違いない。
 しばらく行ってT字路を左に曲がると、目の前に1つ、左の方に2つの橋が見えてきた。
「この橋が、思案橋。左の奥の橋が、荒布橋。手前の橋が、江戸橋よ」
「この川は?」
「日本橋川よ」
「隅田川は?」
「右手の方で、ここからは見えないよ」
「両国橋は、どちらの方向?」
「北東の方よ」
「歩いて行けるの?」
「行けるよ」
汐織は、以前に両国の花火を観に行ったことがあり、東京駅から隅田川に架かる両国橋までの位置関係については知っていた。次第に自分の居場所がわかってきた。
『両国橋が北東の方向でここから歩いて行けるのなら、たぶん今、東京駅の周辺にいるはずだ』
「両国の花火って江戸でもやってるの?」
「やってるよ。毎年5月28日からよ」
『5月・・・やはり、早い。平成では確か、7月の最終土曜日のはずだ』
 サヨと汐織が思案橋を渡ったところで、前方から、天秤棒の両端に桶のようなものをぶら下げた男が小走りでやって来て、2人の前を通り過ぎて行った。
「あっ、あれは、何!?」
「棒(ぼ)手振(てふ)りさんよ」
「ぼっ、棒(ぼ)手振(てふ)りさん!・・・あの桶の中は何が入っているの?」
「今のは、お豆腐屋さんね。夕餉(ゆうげ)のおかずを売っているのよ」
「お豆腐を売りに来るの?」
「お豆腐だけじゃないよ。お魚、お野菜、納豆、梅干し、唐辛子、海苔、塩・・・もう、数えきれないくらい、何でも売ってるよ」
「へえ〜〜!すごいわね!」
「食べ物の以外でも、おもちゃとか、下駄、はしご、ナスやキュウリの苗、金魚、風鈴とか・・・とにかく、何でも売りに来るよ」
「ほっ、本当!!!」
「うん」
「・・・そっ、それじゃあ、買い物なんか行かなくてもいいじゃない」
「そうね、たいていの物は家の前まで売りに来てくれるからね」
このシステムは、汐織にとって大変な驚きであった。当然のことながら、江戸時代には、車もバスも電車も地下鉄もない。最速の移動手段は馬であったが、庶民は馬に乗ることなどできない。
つまり、庶民にとって、自分の足が唯一の移動手段であったのだ。買い物など日常生活で移動が必要な際には、さぞや不便だったろうと汐織は思っていたのだが、なんのことはない、家で待っていれば必要な物の方から家にやって来てくれたのだ。
 思案橋の次に荒布橋を渡ってしばらくまっすぐ歩いていると、左手前の川沿いに市場らしきものが見えてきた。
「あっ、魚市場があるの?」
「うん、魚河岸よ」
「えっ、魚河岸って日本橋にあったの!」
「そうよ、平成ではどこにあるの?」
「築地というところよ。でも、もうすぐまた別の場所に移るわ」
日本橋にあった魚河岸は、大正12年9月の関東大震災で被災し、甚大な被害を被ったため築地へ移転した。そして、老朽化などの理由で平成29年に江東区豊洲への移転が予定されている。
「魚屋の棒(ぼ)手振(てふ)りさんは、ここでお魚を仕入れるのよ」
「なるほど」
「魚河岸の向こうに橋が見えるでしょ」
「うん」
「あれが、日本橋よ」
「あれが有名な日本橋か!」
2人は、魚河岸を通り過ぎ日本橋に向かって歩みを進めた。次第に、人通りが多くなってきた。
「じゃあ、汐織ちゃん、日本橋を渡って日本橋通りの南側に行ってみようよ」
「うん」
日本橋の北側の袂までやって来た汐織は、大きな感慨に耽っていた。
『ここが、東海道五十三次の起点で、さまざまな浮世絵でよく見る日本橋か!・・・まさか、実物をこの目で見ることができるとは・・・』
「どうしたの・・・汐織ちゃん?」
「えっ!・・・あっ、いや、なんでもないの。じゃあ、いこうか」
「うん」
2人は、ゆっくりと橋を渡り始めた。さすが天下のお江戸の中心地とあって、様々な人々が往来している。
飛脚と思しき、上半身裸で鉢巻をし荷物を吊るした棒を肩に担いで走って行く男、2人一組褌姿で籠をかいている男たち、裸の三味線を小脇に抱えて頼りなげに歩いている老婆、先程とは別の物を売っていると思われる多くの棒(ぼ)手振(てふ)りたち。
 そんなもの珍しい通行人たちを横目にしながら、好奇心いっぱいの汐織は、サヨとともに日本橋の南側の袂までやってきた。そして、ふと右手を見ると、背の高い祠(ほこら)のような建物の中に、絵馬を大きくしたような木の板が複数掲げられている場所があり、その前に何やら人だかりができている。
「あれは、何?」
「御高札よ」
「御高札って?」
「将軍様の決めたことを知らせるところよ」
『そうか!この時代は、テレビもネットもない。法令の伝達は、こうしてやっていたのか!』
「瓦版は?」
「瓦版にはそんなことは載らないよ」
「ふ〜ん」
誤解されがちであるが、瓦版は現在の新聞とは、明らかに性質を異にする。新聞が、報道の自由に基づいた合法的な出版物である一方、瓦版は、幕府によって規制された非合法の出版物だったのである。つまり、瓦版を売ること自体が違法行為であり、売っている現場を見つかれば、何らかの刑罰を受けることになったのだ。ゆえに、瓦版の売り手は2人1組で共に編み笠を被り、1人が売っている間にもう1人は見張りをしていたと言われている。そんな出版物が幕府の法令の伝達に使われるはずがないのである。
 今度は、橋の左手に目をやると、そこにも高札の周りと同じように人だかりができている。
「あっちは、なあに?」
「さらし場よ」
「さっ、さらし場!!・・・なっ、何をさらすの?」
「悪いことをした人たちよ」
「え―――っ!!!」
「わっ、悪いことって、どんな?」
「知らな〜い!」
『これは、サヨちゃんに訊くようなことではないわ。後でフミちゃんに訊こう』
「ねえ、ちょっと傍へ行ってみようよ」
「え〜、怖いよ〜!」
「じゃあ、ちょっとここで待ってて。すぐに帰ってくるから」
「うん」
汐織は、嫌がるサヨをその場に残し、何食わぬ顔をして人垣の中に入っていった。
幾重にも重なった人垣の向こう側には、意外な人物がいた。僧侶と思われる男が、麻縄で後ろ手に縛られて座っていたのである。
全く事情が分からない汐織は、隣にいた二十歳くらいの気のよさそうな男に尋ねてみた。
「あの人、一体何をしたのでございますか?」
「吉原で遊んでいるところを役人に見つかっちまったらしいぜ」
「えっ!そっ、それでこんな目に!」
「ん?姉さん、そんなことも知らね〜のかい」
「はっ、はい。わっ、私は、本日江戸に着いたばかりで、何もわかりませんゆえ、人だかりができているので何かなと思いまして・・・」
「ああ、そうなのかい。じゃあ、わからね〜ことがあったら、何でも俺に聞きな。俺は、生粋の江戸っ子だからよ」
「ありがとうございます。あの人は、どのくらいここでさらされるのでございますか?」
「3日間さらされた後で、遠島か所払いだろうな」
「所払いとは?」
「住んでいるところを追い出されることだよ」
「へ〜え!」
「それでは、お坊様だけがこのように裁かれるのでございますか?」
「違うぜ、心中をして生き残った者や夫婦以外でまぐわっちまった者なんかも皆ここでさらされるんだ」
「そっ、その人たちは、どうなるのでございますか?」
「磔か獄門、まあ、死罪は免れね〜な」
「ええっ!!」
「そんなに驚くこっちゃねえぜ。姉さんのお国ではどうだか知らね〜が、このお江戸ではそりゃ常識だ。まあ、お互いああならね〜ように気を付けようぜ。じゃあな!」
「あっ、ありがとうございました」
男は、平然として人ごみから離れて行った。
 汐織は、しばらくの間茫然としてしまった。どうも、ここは、男女間でトラブルがあった場合、刑を執行する前に、罪人を見せしめのために公衆の面前でさらす場所のようである。そして、僧侶に対しては、ことさらに刑罰が厳しいようだ。
それにしても、この様なことは、人々に基本的人権の認められている平成の世の中では絶対に起こり得ないことである。どうやら、この時代には、人間1人1人に対して平成の日本国憲法が保障しているような基本的な人としての権利、つまり、生まれながらにして当然に生命、自由を保障され個人として尊重される権利というものは、人々に認められていないようである。だから、罪を犯すと、とても人に対するものとは思えないような酷い刑罰が科されるのであろう。汐織は、江戸の社会が少し恐ろしくなってきた。
 しかしである、江戸の刑罰のシステムは、より多くの人々が安全で平和に暮らしていけるよう、社会の秩序をどのように保っていくのかという点について、平成の社会に対する、一つの大きな問題提起となるように汐織には感じられる。
つまり、平成の刑罰の考え方は、犯罪者に甘すぎるのである。殺人を犯した犯罪者でも、死刑を執行されるケースは極めて稀である。死刑廃止論者は、殺人者に対しても命の尊さを理由に死刑の廃止を訴える。それならば、殺人者に命を奪われた何の罪もない犯罪被害者はどうなるのだ!
極めつけは、交通事故である。最高刑は、危険運転過失致死罪で懲役20年の量刑。しかし、危険運転過失致死罪は、あまり適用されることはなく、懲役7年が最高刑の自動車運転過失致死罪が適用される場合が多い。つまり、車で人を何人殺しても大抵は懲役7年の刑、最悪の場合でも懲役20年の刑で済むのである。
 人の命を簡単に奪った者の方が、大切に命を守られている。それが、平成の社会である。
汐織は、常々この点について大きな疑問を抱いている。もし、平成の社会に江戸の刑罰のシステムを持ち込むことができたとしたら、どうであろうか?
江戸の刑罰は、まさに、一罰百戒(いちばつひゃっかい)。つまり、罪を犯した1人を徹底的に罰することで他の大勢を強く戒めるものである。
もし、自分も同じ罪を犯してしまったら、あのような酷い刑罰を受けることになる。そう考えたならば、間違いなく犯罪は減る方向に進む。つまり、犯罪発生に対する決定的な抑止力となることは間違いないであろう。
 しかし、このようなことは、現実には起こりえないのだ。社会が成熟して、人権意識が高まれば高まるほど、善良な人間は辛い被害者となり、悪意のある加害者は過剰に保護され、さらなる犯罪を繰り返す。これが、江戸時代よりもはるかに進んでいるはずの平成の世の中の実態である。そして、この傾向は、年々加速しているように汐織には感じられる。
人は、生来大変心が弱くて、放っておくとすぐに悪い方向に向かって歩き出してしまいがちな軟弱な生き物である。悪い方向に行ってしまうと、とてつもなく恐ろしい目に遇うということを幼い頃より徹底して教え込まれないかぎり、もはや、正しく生きて行くことなどできないのかもしれない。
江戸の刑罰の一端に触れた汐織は、この社会の秩序を維持している規範の根幹ともいうべきものを垣間見た思いがした。
 「どうだった?」
「うん、何かお坊さんが縄で縛られて座らされていたわ」
「え〜!なんで〜?」
「さあ、よくわかんなかった」
「とにかく、掟を守らないとあんなふうになっちゃうってことよ」
「そうね」
「じゃあ、行こうか」
「うん」


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