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作品名:時の彼方 作者:箕輪久美

第3回   第3話
 汐織とフミは、神社の奥のお社の脇に身を潜めて一息つきながら話をしていた。
「汐織さん、汐織さんが160年先の時代から江戸にいらっしゃったことは、疑いようもないと存じます。そのスマホ、江戸のどこを探しても、そのようなものがあろうはずもございません。しかし、汐織さんの時代の人は、年を取らないのでございますか?」
「いえ、そうではないわ。私たちの住んでいる時代は、今と呼び名が似ていて平成というのだけれど、平成28年の私は、間違いなく34歳のおばさんよ」
「おっ、おばさん!?」
「ええ、あっ、そうだ!スマホに確か写真が」
汐織はそう言うと、スマホのデータ保存用のホルダの中から家族の写真を取り出してディスプレイをフミの方に向けた。
「これが平成28年の私と家族の写真よ」
「わぁ、若い・・」
食糧事情が悪く平均寿命も短い江戸時代の人々と比べると、汐織はたいそう若く見えた。しかし、今フミの目の前にいる汐織は、どう見ても十代の少女である。
「で、でも、今の汐織さんは、どう見ても私とかわらないくらいにしか見えません」
「そうなのよ。それについては、私にもなぜだかはわからないの」
「今が安政2年なら、自分が生まれる100年以上も前に来てしまったのだから、赤ん坊になっていてもおかしくないはずなのに、なぜだか十代前半の年格好なのよ」
「そっ、それにしても、私・・・本当に江戸時代に来てしまったの・・・!?やはり、これは、何か悪い夢なんじゃないのか!?」
「いいえ、夢などではございません。ここは間違いなく安政の江戸でございます」
「それが、本当なら、どうしよう・・・この先・・・・・こちらには誰も知り合いはいないし、困ったわ〜、言葉だけはなんとか通じるみたいだけど、暮らし方も、習慣も何もかもが違うだろうから・・・いっ、いったい・・・これからどうしたらいいのか・・・・・いっそ、悪い夢であってくれた方が・・・」
汐織は、思わず頭を抱えてしまった。
 「汐織さん・・・もしよろしかったら、狭いところではございますが私どもの家で一緒に暮らしませんか?」
「えっ!!」
「サヨに着物を取りに行かせたのもそのためでございます。我が家にお連れするにも、そのいでたちではあまりに目立ちすぎますゆえ」
「でっ、でも、いいの?」
「父上と母上にお許しを得なければなりませんが、事情を話せば、必ずわかっていただけます。幼き頃より、困っている人を見過ごしてはならないと教わって参りました。ここで汐織さんを放って帰ってしまっては、その教えに背くことになりますゆえ」
「あっ、ありがとう!本当に、それは助かるわ!」
「フミちゃん・・・」
「はい?」
「あなた・・・一体何歳なの?」
「私でございますか、14歳でございます」
「じゅっ、14歳!!」
「より老けて見えましょうか?」
「いや、見た目は確かにそのくらいにしか見えないわ、でも、言葉遣い、物腰、立ち居振る舞いなどが、完全に大人なのよ。平成の14歳なんて、体はあなたよりもずっと大人だけど、中身はサヨちゃんとたいしてかわらないわ」
「ほっ、本当でございますか!!」
「ええ、私はそんな14歳しか知らないから、あなたを見ているとすごく違和感があるのよ。こちらの14歳の人たちってみんなあなたみたいなの?」
「はい、私は何も特別な育ち方をしてはおりませんゆえ、みなとかわりません」
「そっ、そうなの!?」
「私は、一昨年手習いを終えましたゆえ、今は三味線やお琴を習っておりますが、来年にはどこかのお武家様にご奉公に上がることとなります。そして、2、3年の後にはお勤めを終えて、両親の選んでくださった方と祝言を挙げることでありましょう」
「てっ、手習いとは何?」
「読み書き算盤などを教えてくれるところでございます」
「ああ、寺子屋のこと?」
「それは、上方での呼び方でございます。江戸では、手習い師匠と呼びます」
「ああ、そうなの」
「平成では、寺子屋と呼ぶのでございますか?」
「いえ、それは、学校と呼ぶわ。昔の学校のことは、どこでも寺子屋というのかと思っていたの。その手習いを終えると、お武家様にお仕えすることになるの?」
「はい、しかし、必ずお武家様にご奉公に上がらねばならないというわけではございません。その方が、より良き嫁ぎ先とご縁があると考えられているのでございます」
「なるほど、手習い師匠が初等教育ならば、お武家様へのご奉公は高等教育ということか。それじゃあ、手習い師匠は義務化されているの?」
「義務化とは何でございますか?」
「必ず行かなければならないものなのかということよ」
「いえ、行きたくなければその必要はございません。ただし、読み書きができず、算盤もできずでは、生きていくことそのものが難しゅうございます」
「それは確かにそうね。江戸では、字の読み書きができない人はどれくらいいるの?」
「私の知る限りでは、手習いに行かず、読み書きのできないという子はほとんどおりません」
「ほっ、本当!?・・それは、すごいわね!・・・でも、手習い師匠って、行くも行かぬも自由というのであれば、教える方も教え方は自由なんじゃないのかな?」
「そのとおりでございます。手習いでは、決まった教え方はなく、各々の子供の習い事の進み具合に応じて、お師匠さんが、ひとりひとりを自分のやり方で教えていくのでございます」
「そっ、そうなの!」
「はい。平成の学校は、義務化されているのでございますか?」
「そうよ、最初の9年間は、義務化されているわ。だから教える方も絶対に教えなければならないことが決まっていて、全員が、同じことを同じように習っていくの」
「それは、なかなか厳しゅうございますね。中には、できない子もおりましょうに」
「まったくそのとおりだわ。私は、今フミちゃんが教えてくれた江戸の手習いの方がずっと優れていると思う。一人一人の習得の状況に合わせて教えていく方が、習い事が確実に身に付くに決まっているもの。だからほとんどの人が、読み書きができるのね!」
 汐織は、ここまでフミと話してみて、江戸の社会の大まかな輪郭がおぼろげながら見えてきた。教育力は、その社会の成熟度を測る上で最も有効なバロメーターのうちのひとつと言っていい。封建時代の教育は、平成の教育と比べるとかなり遅れているのであろうと汐織は考えていたが、それは、医学、自然科学等の学問の内容においてであって、教育のシステム自体は、平成のそれを間違いなく凌駕している。このような、優れた教育力を持つ社会は、この時代の世界の国々の中でも屈指の先進社会の部類に入るのではないか。
 実際に、江戸の識字率の高さは、世界一であった。同時代のロンドンの識字率が50パーセントをはるかに下回っていたのに対して、江戸では、約80パーセントという驚異的な数字を誇っていたのである。
3年後に結ばれる日米修好通商条約以降、江戸を訪れる外国人は急増するが、彼らが一様に驚いたのは、みすぼらしい姿の肉体労働者でさえ、字の読み書きができることであった。
 ところが、信じられないことに、幕府内に文部科学省に相当する教育を統括する部署は、なかったのである。つまり、教育を取りまとめて監督するという発想自体がなかったので、教育に関しては、完全に自由放任状態であったわけだ。このような状況下で、江戸時代の人々は、平成よりもはるかに優れた教育システムを自ら作り出して、江戸のみならず、日本中で運営していたのである。
 そして、習い事以外に目を向けると、躾、人間教育の点においても、江戸の方が、平成とは比べものにならないくらいに優れていると断言していい。それは、なによりも、この社会の中でごく普通に教育を受けて育った、どこにでもいる14歳の少女が、平成の成人をもはるかに上回る人間力を備えていることを見れば、一目瞭然だからである。
 汐織は、江戸に迷い込んできて1時間も経たないうちに、江戸の社会水準の高さを思い知ることになった。すべてが、想像をはるかに超えたことばかりで、この時点で、自分が漠然と抱いていた江戸という時代に対するイメージは、完全に覆されてしまった。
そして、それと同時に汐織は、より深く江戸について知りたいという好奇心が、沸々と体の奥から湧いてくるのを強く感じていたのであった。
 「それから、2年から3年間のご奉公の後で結婚するのなら、17,8歳で結婚することになるけれど、それって、普通なの?」
「はい、母上は17で父上と祝言を挙げて、18で私を生みましたが、特に珍しいことではございません」
「じゅっ、18歳って! ちょっ、ちょっと待って・・・フミちゃんのお母さんって、まだ、32歳なの!!!」
「はい」
「おっ、お父さんは?」
「父上は、35歳でございます」
「・・・・・」
「どうされました?汐織さん」
「フミちゃん・・・私の歳のことなんだけどさ・・・34歳というのは、フミちゃんとサヨちゃんの間だけで止めておいてくれないかな」
「なぜでございますか?」
「自分たちと同じくらいの年の人を引き取るとなると、お2人ともたいそう気を使われると思うのよ。幸いにも、見た目がフミちゃんと変わらないから、同い年ということにしておいてよ」
「・・・・・」
「その方が、間違いなくうまくいくと思うわ」
「確かに・・・そうかもしれませんね」
「よし、決まった。そうと決まったら、これからは、その話し方はなしよ!」
「えっ! どっ、どうしてでございますか?」
「同い年どうしで片方がそんな話し方をしたら、絶対に不自然でしょ」
「あっ!!」
「しっ、しかし、目上の人に対してお友達のように話すなどと言うことは・・・」
「だから、目上じゃないってば、ほら、どう見たって同い年でしょ!」
そう言うと、汐織は、目線を上に向けて顎をフミの前につき出しながら、顔を左右に振って見せた。
「こう見えても、私は、精神年齢が低いことで有名なんだから」
「アッハッハハハハ――!」
「しっ、汐織さんは、面白い人なのでございますね!よろしゅうございます。これ以降は、お友達だと思ってお話しいたします」
「ありがとう、助かるわ。それにしても、あなたの話し方は、本当に参考になった。私が、江戸で目上の人とお話をする際に大いに役に立つと思うわ」
「そう、それはよかった」
 「姉(あね)さ〜ん、姉(あね)さ〜ん!」
「あっ、サヨが戻ってきた!」
「サヨ〜、こっちよ〜!こっち――っ!」
 「姉(あね)さん、言われたものを持ってきたよ」
「ありがとう。さあ、汐織ちゃん、手伝うからこれに着替えて」
「うん」
フミとサヨに手伝ってもらって、汐織は着物に着替えて帯を締め、草鞋をはいた。そして、バッグと着ていた洋服、靴は風呂敷に包んで小脇に抱えて持ち歩くことにした。
「よし、これでいいわ。髪だけはここでは結えないので、家で結いましょう。今はとりあえず、束ねて手拭を被っておいて」
「あっ、ありがとう。これで、怪しまれることはないかな?」
「うん、これなら大丈夫!」
「よかった」
「お姉ちゃん、よく似合うよ」
「ありがとう。あっ、サヨちゃん」
「なあに?」
「私さっき34歳って言ったけど、あれは冗談で、本当は14歳なんだ」
「そりゃそうよ」
「サヨちゃんはいくつなの?」
「あちきは、7歳よ」
「そう、じゃあこれからよろしくね。汐織ちゃんって呼んでね」
「うん」
「汐織ちゃん、もうすぐ七つだから、一刻(とき)ほどサヨとこのあたりを散歩しといでよ。私は先
に帰って店を手伝いながら2人を待ってるから、暮れ六つ前にサヨといっしょに家に来てくれればいいわ」
「えっ?・・・・ごっ、ごめん、時間のことを言ってるのはわかるんだけど、どういう意味なのか全く分からなかったわ」
「あっ、そうか、時の数え方も今とは違うんだ!」
フミは、木の枝で地べたに円を一つ書いて説明を始めた。
「江戸では、1日を12に区切って時を数えるのよ。夜中が九つで明け方に近づくにつれて八つ、七つと数字が小さくなって夜明けが六つよ。そして、お昼前が四つ。午後からは、また、九つになって数字が小さくなっていくの。日が暮れるのが六つで、四つが夜中の前、それから、また夜中の九つに戻るのよ」
汐織は、フミの説明を聞きながら、先程フミが言ったことをもう一度頭の中で繰り返していた。
『もうすぐ七つとは、今夕方の4時前ということだ。一刻(とき)ほど散歩するとは、2時間くらい散歩するということで、暮れ六つ前には家に来るようにとは、日が暮れる6時前には家に来るようにということなんだ』
 「ありがとう、フミちゃん。言ったことの意味が分かったわ。ちょっと待ってね、これを書き留めておくから」
汐織はそう言うと、風呂敷の中のバッグからメモ帳とシャープペンを取り出してフミの書いてくれた図を書き写していった。
「そっ、それは!ふっ、筆・・・なの?」
「えっ?いいえ、これはペンといって、筆の代わりの書くための道具ね」
「墨をつけなくても書くことができるの!?」
「ええ」
「ちょっ、ちょっと見せて」
フミは、ペン先の芯をまじまじと見つめている。
「この黒いものは・・・?」
「それは、芯といって、黒鉛という炭素でできているの。簡単に言うと炭に特殊な加工をして作られたものよ。詳しい作り方は、私にもよくわからないわ」
「ずっと書き続けられるの?」
「いいえ、書くたびに減っていくわ。でも減ってきたら後ろのボタンを押せば、この様に芯が出てくるの。そして、一本芯を使い切ったら別の芯と入れ替えるの。それから、書き間違えた時は、この様に消すこともできるわ」
汐織は、ボタンのキャップを抜いて消しゴムを出し、書いた部分の一部を消して見せた。
「すっ、すごい・・・!!!」
フミは、160年後の文明の産物に改めて驚いた様子であった。
 その後、3人は、しばらくお社の脇で談笑していたが、やがて、遠くの方から鐘の音が響き始めた。最初に3回鳴ってからしばらく間を置いた後、7回連続で鐘が打ち鳴らされた。
「あっ、七つだ」
「えっ、鐘の音で時間を知らせるの!?あっ・・・そうか、時計がないのか」
「時計?時計を持っている人なんて、よっぽどの大金持ちか、大名様くらいよ。尺時計ならうちにもあるけれど、どちらにしても持ち歩きはできないわ」
「なるほど、それで鐘で・・・」
「平成の時代には、持ち歩ける時計があるの?」
「ええ、スマホの中にも時計が入っているわ」
「・・・平成って、江戸とはまったく違った仙界のようなところね・・・汐織ちゃん、江戸での暮らしは不自由するかもしれないよ」
「そうかな?」
「うん、江戸には絶対にないような便利なものが平成には当たり前のようにあるみたいだけれど、その暮らしに慣れてしまった人には、江戸での生活はひどく不便に感じるんじゃないかなあ」
「最初は確かにそうかもしれないけど、じきに慣れるわ。それに、さっきの手習い師匠のように、江戸の方がはるかに優れているものもあるわ。なんだか、江戸の暮らしがとっても楽しみなのよ!」
「そう、それならいいけれど・・・」
「さて、それじゃあ、そろそろ私は先に行くわ。家で待ってるね」
「うん、しばらくサヨちゃんに江戸を案内してもらうわ。じゃあ後でね」
フミは、汐織とサヨを残して、先に神社を出て左の方向へ歩いて行った。


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