「姉(あね)さん、今日の漢字はとても難しかったよ。あちきはどうも、しんにょうを使った字が苦手みたい」 「なあに、何事も訓練次第さ。そのうち、造作もなくできるようになるよ」 「それにしても、いい季節になったね〜!どこへ行っても桜が満開さ〜」 2人が歩いている道の左手にある神社の境内も満開の桜である。 「あっ、姉(あね)さん!あんなところに誰か倒れてる!」 「えっ!どっ、どこ?」 「ほら、境内の3本目の桜の木の下のところ」 「ほっ、本当だ!サヨ、行くよ!」 「はい」 2人は、全力で神社まで駆けていって、鳥居の前で一礼して境内に入り、手前から3本目の桜の木の近くにやって来た。 「なっ、何と変わった着物を着ているんだろう、この人!そっ、それに、髪も髷(まげ)を結っていないわ!」 「もし、大丈夫でございますか?」 姉は、うつ伏せに倒れていた女性を仰向けに助け起こして声をかけた。 「あっ、ああ・・・・」 「あっ、姉(あね)さん、気が付いたよ!」 「こっ、ここは・・・・・・・?」 「ここは、日本橋の小網神社でございますよ」 「にっ、日本橋?」 「はい」 「あっ、あなたたちは・・・・?」 「私は、この近くの瀬戸物問屋の娘でフミ、こちらは、妹のサヨでございます。あなた様は・・・?」 「わっ、私は、美谷汐織といいます」 「汐織さん・・・お身体は大丈夫でございますか?」 「あっ、ありがとう。もう平気よ」 そう言うと、汐織は、自力で体を起こしてあたりをゆっくりと見回した。 「こっ、ここは・・・?今確か日本橋と・・・とっ、東京なの?着物・・・?お祭りがあるの?」 「東京とは・・・?ここは、お江戸の日本橋でございますよ。そして、今日はお祭りの日ではございません」 「おっ、お江戸――――!!!」 汐織は、びっくりして辺りをもう一度しっかりと見回してみた。しかし、ビルのような高い鉄筋の建物はまるで見当たらず、遠くに見える家屋もすべて時代劇で見るような日本家屋ばかりである。 『まっ、まさか、私・・・ほっ、本当に江戸に・・・』 「あっ、あの、汐織さん、どうかされましたか?」 「あっ、いっ、いえ、何でもないの・・・あっ、あの〜・・・」 「はい?」 「今日は、何年何月何日?」 「はっ?」 フミとサヨは、汐織の質問の意図がよくわからず、しばらく不思議そうに顔を見合わせていたが、やがて、フミが汐織の方を向いて、ゆっくりとした大きめの声で答えてくれた。 「今日は、安政2年の2月17日でございますよ」 「あっ、安政!!・・・にっ、2年・・・・・!?」 汐織は、完全にパニック状態となって、言葉を失い茫然としてしまった。すると、汐織に興味津々の妹の方が、我慢しきれずにとうとう質問を始めた。 「お姉ちゃん、そのお着物たいそう珍しいけれど、どこで仕立ててもらったの?」 「あっ、こっ、これ・・・?」 「うん」 汐織は、チェックのボタンダウンの上にブルーのパーカーを着ており、下はジーンズ、靴は黒のデッキシューズを履いていた。これは、昨日敏宏と食事をした時と同じいでたちであった。 「こっ、これは、近くのお店で買ってきたのよ」 「えっ!どこのお店〜?」 「えっ!そっ、それは・・・その〜〜」 「お姉ちゃん、どこから来たの〜?」 「そっ、それは・・・」 汐織は、返答に困ってしまったが、やがて、覚悟を決めて2人の方を向き直った。 「わかったわ。えっと、サヨちゃんだっけ?」 「うん」 「私がどこから来たのかを今から話すから、その前に一つだけ教えてちょうだい」 「うん、なあに?」 「今年は、天下分け目の関ヶ原の戦(いくさ)から何年目の年かなぁ?」 「ええっ!姉(あね)さん、わかんないよ〜」 「しっ、しばしお待ちください」 フミも全く予想外の質問に戸惑ってしまい、算盤をはじくしぐさをしながら、何やら計算をしている。 「私の計算が間違っていなければ、今年は、関ヶ原の戦(いくさ)から255年目の年でございます」 「にっ、255年―――!」 『ということは、今年は1855年!わっ、私、幕末の江戸に来ちゃったんだ―――!』 「あっ、ありがとう。じゃあ、私がどこから来たのかを話すわね。ただ、ひとつだけ断っておくけれど、私は、あなたたちに嘘をついたり、欺いたりするつもりなんか全くない。それは信じてほしい。これから話すことは、すべて本当のことよ」 2人は、汐織のただならぬ様子に、固唾をのんで聞き入っている。 「私は、美谷汐織、34歳。実は、160年先の時代から安政の江戸に迷い込んでしまったの」 「さっ、34歳!?」 「えっ、なっ、何??」 汐織は、咄嗟に自分の頬を両手で触ってみた。すると、明らかに肌の張りが昨日とは違っていた。バッグから化粧鏡を取り出して顔を確認すると、中学生くらいの年齢になっていた。 「なっ、何これ!!わっ、私、若返っている―――!!」 しかし、フミとサヨは、汐織の話とは全く別のことに驚いていた。 「そっ、それは・・・なっ、なんとよく映る鏡だこと!!」 「えっ、鏡が珍しいの?」 「いっ、いえ、こっ、このようによく映る鏡は、見たことがございません」 江戸時代の鏡は、現在の鏡とはまるで製法が異なっていた。 現在の鏡は、ガラスの裏面にアルミや銀でメッキをしてから保護膜をコーティングして作るのに対し、江戸時代の鏡は、青銅の表面に水銀をメッキした後にその表面を磨いて作っていた。この製法で作られた鏡は、現在の鏡ほどはっきりと物が映らない上に、時間が経つと曇ってしまいさらに映りが悪くなった。実際に、鏡磨ぎという職業があって、江戸時代の女性は、お金を払って繰り返し鏡を磨いてもらって使っていたのであった。 『そっ、そうだ!!』 化粧鏡に驚いているフミとサヨを見て、汐織は、名案を思いついた。 「これが、160年後の鏡。そして、こちらは、この時代には絶対にないものよ」 汐織は、そう言って、バッグの内ポケットからスマホを取り出した。 「そっ、それは、何でございますか?」 「これは、スマホといってね、相手がどこにいようと話ができる機械なの。江戸に限らず、京都だろうと大阪だろうと場所は選ばないわ。場合によっては、外国・・・いや、異国にいる人とも話ができるわ」 「いっ、異国の人と話が・・・!!!」 「ただし、この時代にはこのスマホ1台しかないからその使い方はできないわ。でもね、スマホには他にもいろいろな使い道があって」 汐織は、説明をしながら2人に向けてシャッターを切り、静止画を1枚撮った。 「ほら、こんなこともできるのよ」 「あっ、ああ―――――っ!!! あ、姉(あね)さんとあちきが、機械の中に閉じ込められている―――!!!」 「違うわ、サヨちゃん。たとえば、私がサヨちゃんの絵を描くとすると、それは、サヨちゃんを紙の中に閉じ込めているのではなくて、サヨちゃんの姿を紙の上に書き写しているだけでしょ」 「うん」 「このスマホはね、絵よりも正確に一瞬で物を写すことができるの。これを、写真というのよ」 「しゃ、写真・・・」 「さらに、こんなこともできるわ」 「お姉ちゃん、何をしてるの?」 「サヨちゃん、何でもいいから動いてみて」 「こう?」 そう言いながらサヨは、両手を汐織に向かって小さく振った。 「はい、いいわ。」 汐織は、今度は動画を撮影してすぐにそれを再生し、ディスプレイを2人の方に向けた。 『お姉ちゃん、何をしてるの?』 『サヨちゃん、何でもいいから動いてみて』 『こう?』 『はい、いいわ。』 「えっ!ええ―――――――!!!」 その動画を見た瞬間、2人は、驚きの声とともに目をカッと見開いて、その場で完全に固まってしまった。 「これは、動画といってね、動いている場面をさっきの写真と同じように写すことができるのよ」 「・・・・・・・」 「・・・・・・・」 「このスマホはね、私の暮らしている時代では別に珍しいものでも何でもないわ。誰でも買うことができるし、ほとんどの人が持っている物よ」 「・・・・・・・」 「・・・・・・・」 「これで私が、160年先の時代から来たことがわかってもらえたかなぁ?」 「・・・・・・・」 「・・・・・・・」 2人は、放心状態でしばらくの間一言も言葉を発することができなかったが、やがて、夢から覚めたかのようにフミが我に返って、サヨに指示を出した。 「サヨ、今すぐ家に戻って、着物と草鞋それから、風呂敷と手拭いを持っておいで!」 「はい、姉(あね)さん!」 サヨは、そう言うと一目散に神社を駆けだして左手の方へ走って行った。 「汐織さん、ここでは人目につきすぎます。奥でサヨが戻ってくるのを待ちましょう」 「そ、そうね。ありがとう」
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