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作品名:時の彼方 作者:箕輪久美

第19回   第19話
 やがて、8月に入り暑さも盛りを超えて、夜は虫の鳴き声が聞こえるようになった。
汐織は、この日もいつものように八つ過ぎに配達から店に戻ってきた。店の近くまで来ると、中でサトとフミが取り乱して大声で叫んでいる。汐織は、思わず店に駆け込んだ。
「どっ、どうしたの!!?おかみさん、フミちゃん!!!」
「サッ、サヨが・・サヨが、お城に向かうお侍さんの馬とぶつかって右手を切ってしまって、ちっ、血が止まらないのよ!!!」
「サヨ!サヨ――!!だっ、大丈夫かい!?サヨ―――!!しっ、しっかりおし――!!!」
旗本が江戸城へ登城する際は、雑用係に荷物を持たせ、自らは槍を立てて馬を引きながら歩いて行くのが正式な作法であったが、安政年間以降は、旗本たちに雑用係を雇う経済的な余裕がなくなってしまったので、1人で馬に乗って登城することが認められていた。そのため、人と馬との接触事故が多発していたのだ。
「いっ、痛いよ―――!痛いよ―――!いっ、痛・・・うっ、う〜〜ん」
サヨは、あまりの痛みで気を失ってしまった。
「いっ、いけない!!!おかみさん、フミちゃん、血が出ているところより上の部分を紐で強く縛って!!!私は先生を呼んでくる!!!」
汐織は、そう言うやいなや、店を飛び出して瞬く間に長崎屋の前までやって来た。そして、玄関ではなくオランダ人たちのくつろいでいる居間の窓の前で大声で叫んだ。
“Doctor James! Doctor James! please, please come out quick!”
(ジェームス先生、ジェームス先生!お願いです。はっ、早く、早く出てきてくださ〜い!)
“Oh, Shiori, what happened? You are so upset!”
(汐織、慌ててどうしたんだ?)
“Sayo got injured seriously on her right hand, hit by a horse ruled by a Samurai. We cannot stop her blooding!”
(サヨちゃんが、お侍さんの乗った馬とぶつかって右手にひどい怪我をしたんです。血が、血が止まらないんです。)
“Oh, it’s too serious! I’ll be there soon!”
(そっ、それはいけない!すぐ行く!)
ジェームスは、医療用の鞄に施術に必要な器具を入れて急いで玄関前に出てきた。
“I’ll carry your bag. Follow me running at full speed, please.”
(バッグは私が持ちます。全力で走ってついて来て下さい。)
汐織は、ジェームスからバッグを奪うようにして受け取り、すぐに店に向かって走り出した。
“Oh, Shiori, wow too fast!”
(しっ、汐織、おおっ!はっ速い!)
やがて、ジェームスも大きなストライドで走り出し。汐織江に追いついてきた。
“Artery or vein may be damaged. She needs blood transfusion. First of all we’ll check the blood type of each person and choose donors. And we’ll sew up a wound while keeping blood transfusion.”
(動脈か静脈が損傷を受けているかもしれない。輸血が必要だ。まず、各人の血液型の検査をして、ドナーを選ぶ。そして、輸血を続けながら傷口を塞ぐ。)
“No, doctor, we have no time to check the blood type. She is really in danger. Fortunately my blood is O type. Use whatever amount of my blood you need.”
(だめです、先生。血液型を調べている時間がありません。サヨちゃんは、本当に危険な状態なんです。幸い私の血液は、O型です。必要なだけ私の血を使ってください。)
“You know your blood type?”
(自分の血液型がわかるのか?)
“Yes.”
(はい)
“How do you know it? Have you ever had it checked?”
(どうして?検査してもらったことがあるのか?)
“Anyhow my blood is surely O type.”
(とにかく、私の血液型は、間違いなくO型なんです。)
“Ok, if it’s true, we need more than one litter amount of blood. If we take out 400 milliliters from each person, we need to have three donors.”
(たとえそれが本当であったとしても、1リットル以上の血液がいるんだ。1人から400ミリリットルを輸血するとしてもドナーが3人要るんだ。)
“No, doctor, what you mean is blood donation level. This is blood transfusion! not blood donation. They say that the limit of the amount of blood which can be taken out of human body is one third of total amount of blood. One litter and little is within the limit.”
(先生のおっしゃっているのは、献血の話です。今から行うのは輸血なんです。人体から取り出せる血液量の限界は、総血液量の3分の1だと言われています。1リットルと少しなら限界内です。)
“No way!!! What are you talking about Shiori! You’ll die!”
(バッ、バカな!!!何を言っているんだ、汐織!自分が死んでしまうぞ!)
“I’ve got a perfect confidence in my physical strength. I can do it!”
(私は、体力には絶対の自信があります。大丈夫です!)
 2人は、古川屋に到着した。
「せっ、先生を連れてきたわ!サヨちゃんは、サヨちゃんは!!」
「腕を縛ったけど、血が、血が止まらないのよ!!」
サヨは、奥の部屋に寝かされていたが、ぐったりとしていた。
“Oh, no!!! We’ve got to start the blood transfusion immediately, as you said Shiori!”
(だっ、だめだ!汐織、君の言う通りすぐに輸血を始めなければならない!)
“Ok, I’m ready.”
(私は大丈夫です。)
“Ok, then lie down next to Sayo. Fumi, keep holding this bottle at your eye level. Sato, hold the Sayo’s body firm, as she wakes up due to pain.”
(よし、それでは、サヨの隣に横になってくれ。フミは、このボトルを目の高さで持っていてくれ。サトは、サヨが痛みで目を覚ますから、しっかりと体を押さえていてくれ。)
“Yes.”
(はい)
「フミちゃん、この容器を目の高さで持っていて、おかみさんは、サヨちゃんが痛みで目を覚ました時のためにしっかりと体を押さえていて」
「ああ、しっ、しかし、汐織、いったい何をするんだい?」
「私の血の一部をサヨちゃんに移すのよ」
「そっ、そんな!それなら私の血を使っとくれ!」
「だっ、だめなの!血には4つの型があって、同じ型の血の人同士しか血を移し合えない。ただ一つの例外がO型という血なの。O型の血の人は誰にでも血をあげることができる。私の血は、O型なのよ。2人とサヨちゃんの血の型を調べている時間がないの。ここは、ここは、私に任せて!」
“We’ll start the operation.”
(手術を始める。)
「痛っ、痛い、痛い、痛いよ――――!!!」
「サヨ、辛抱をし!すぐに終わるから、辛抱するんだよ!」
「痛い、痛い、ワ――ン、ワ――ン、ワ――ン!」
やがて、サヨは、痛みに耐えかねて再び気を失ってしまった。
10分が経過した。汐織の体から1リットル近い血がサヨに移された。汐織の顔から徐々に精気が失われていく。
“Shiori, are you all right?”
(汐織、大丈夫か?)
“Yes, I’m OK.”
(大丈夫です)
“It’ll be all over in a couple of minutes! Hang in there!”
(もうすこしだ!がんばれ!)
“Yes.”
(はい)
そして、数分後。
“OK, we’ve done it!!! We’ve finished everything successfully, Shiori!!!”
(よし終わった!やった、やったぞ、汐織!成功だ!)
“Oh! We’ve…..done it!”
(やっ、・・・やった!)
張りつめた気持ちが切れた汐織は、とうとう気を失ってしまった。
“Oh! Shiori!!!”
「汐織――――!!!」
「汐織ちゃ――ん!!!」
 どれくらいの時間が経ったのか、汐織は、ふと、気が付くといつの間にか布団に寝かされたおり、その布団の周りを弥兵衛、サト、フミが取り囲んで、心配そうに座っていた。
「あっ、・・・わっ、私・・・気を失ってたのか!?」
「おう!汐織!!めっ、目を覚ましたか!!!」
「汐織!」
「汐織ちゃん!」
3人は、汐織の枕元に集まり、土下座をして頭を畳にこすりつけて礼を言った。
「しっ、汐織!すまねえ!お前は命を懸けてサヨを救ってくれた。なっ、なんと、なんと礼を言ったらいいのか・・・・・」
「汐織!お前さんがいなかったら、今頃サヨは、今頃サヨは・・・・ううっ」
「汐織ちゃん、うっ、うっ、う・・・・」
「皆さん、頭を上げてください。ちょっと大げさでございますよ。私は、体の強さには絶対の自信がございます!」
「私は、不死身なのでございます!これくらいのことで根を上げるようなことは、あり得ません!」
「それよりも、サヨちゃんは?」
「ああ、サヨならそこで寝ている」
「よかった・・・先生にもお礼を言わなきゃ」
「ああ、先生には、俺たちからできる限りのお礼は伝えたんだが、何せ言葉が通じない。そうしたら、こんなものを書いてくださった。いったい、なんて書いてあるんだ?」
弥兵衛は、ジェームスが書いたメモ書きを汐織の目の前で開いて見せた。
「サヨちゃんについては、患部を常に清潔にして、1日に1度は、必ず包帯を取り換えるえること。患部は、絶対に手で触らないこと。約2週間したら、傷を縫い付けてある糸を抜くことができるので、それまでは入浴を控え、濡らした手拭いなどで体を拭くようにすること。痛みがあるうちは、右手をできるだけ使わないようにすること」
「私については、ほうれん草、玉子、しじみ、昆布、ひじき、焼きのりなど、血を作り出す効果のある食べ物を与え、安静にさせること」
「3日後に往診に来ます。私の大切な友人であるサヨを救うことができて、本当にほっとしています。汐織の信じられないほどの勇気と皆さんのご協力に心より感謝します」
「あっ、あっ、・・・ありがたや〜〜〜!!!」
3人は、再び畳に頭をこすりつけて謝意を表した。
 その夜、汐織は、サトの用意してくれたほうれん草のお浸し、玉子焼き、しじみの味噌汁を食べて、少し体力が戻ったので自力で2階に上がり、フミとともにいつもの部屋で眠った。サヨは、手術後ずっと眠り続けていたので夕餉を食べなかった。サトは、サヨの横に布団を引いてその様子を見ながら眠りについた。
翌朝、サトとフミが朝餉の支度をしていると、サヨが目を覚ました。
「母上、姉さん、あちきは・・・あれから・・・」
「おお、サヨ、目が覚めたかい!」
「サヨ!」
「あちきは、お侍さんの馬とぶつかって・・・それから・・・痛い!」
サヨは、思わず右手の傷を負った部分を左手で押さえた。
「サヨ、まだ傷口を塞いだばかりなんだから、右手はあまり動かしてはダメよ」
「傷口を塞いだ?」
「そう、ジェームス先生が来てくれたのよ」
「えっ、先生が!?」
「そう、それから、汐織が、お前に血を分けてくれたんだ。それがなかったら、お前は今頃もう生きてはいないよ!よ〜くお礼を言うんだよ!」
「しっ、汐織ちゃんが、あちきに血を!!!」
 朝餉の準備ができた。フミが階下から弥兵衛と汐織を呼んだ。弥兵衛に続き汐織が2階から降りてきた。
「あっ、サヨちゃん目が覚めたの?」
「汐織ちゃん!あちきに血を分けてくれたの!?」
「そうよ」
「ありがと〜〜う!」
サヨは、布団から起き上がって汐織の胸に顔をうずめ、泣きながら感謝の言葉を繰り返した。
「ありがと〜〜う!汐織ちゃ〜ん!ありがと〜〜う!」
汐織は、サヨの頭をなでながら言った。
「大げさよ、サヨちゃん。泣くようなことじゃないわ」
「それよりも、私の血が体に入ったから、足が速くなるかもしれないよ!」
サヨは、ぴたりと泣き止んで、思わず汐織の顔を見上げた。
「本当―――!!?」
「嘘よ!」
「なあ〜〜んだ!がっかり!」
「アッハッハッハハハ――!」


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