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作品名:時の彼方 作者:箕輪久美

第18回   第18話
 ひと月が過ぎ6月下旬となった。汐織を大いに悩ませた梅雨はとうに明けて、夏は盛りを迎えていた。今日は、店が休みの日である。
「あれ、汐織はどこへ行ったんだい?」
「ああ、佐吉さんに誘われて、浅草に行きましたよ」
「えっ、逢引かい!?あの子もなかなかやるようになったね〜💛」
「まあ、いいじゃありませんか」
「そういうお前はどんなんだい、フミ」
「わっ、私は、そんな人はいませんよ」
「なんだ、そうなのかい。頑張っとくれよ〜」
「なっ、何を頑張るのでございますか!?」
「ハッハハハハ」
 その頃汐織は、日傘をさして1人浅草に向かっていた。九つ前までに天野屋に着いて、義兵衛と佐吉と一緒に鰻を食べに行く約束をしていたのだ。
道は、2度も走って往復しているので、いくら方向音痴の汐織でも間違える心配はなく、時間前に無事天野屋に到着することができた。
「ごめんくださいませ〜」
「おっ、汐織ちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは、佐吉さん」
「よっ、韋駄天姉さん、久しぶり!」
「旦那様、もうその呼び方は勘弁してくださいませ」
「いいじゃあねえか、これ以上お前さんにしっくりくる呼び名は、他には絶対にねえぜ」
「ところでお前さん、今年はもう鰻は食ったのかい?」
「いいえ、まだ、いただいておりません」
「よ〜し、それじゃあ、超極上の鰻を食わせて、今度こそお前さんに『まいった』と言わせてやるぜ」
「楽しみでございますね〜!こう見えて私は、大変しぶとうございます。簡単に根を上げるようなことはございませんよ!」
「フフフフフ、こっちこそ楽しみだぜ!佐吉、んじゃあ行くぜ!」
「はい」
汐織は、義兵衛と佐吉に続いて店を出た。そして、店沿いの道を5分ほど北に行くと、実にいいウナギのにおいが漂ってきた。
「あそこだ!あそこで、今日お前さんは、ついに陥落するんだ!」
「なんの!」
3人は、吸い込まれるように鰻屋に入っていった。
 「特上を3つくんな」
「はい、ありがとうございます」
この時代、食べ物屋に椅子やテーブルはない。畳敷きの場所に座って、注文したものが入った器を畳の上に置いて食べるのが、この時代の外食時の食事作法だ。時代劇で椅子に座ってテーブルで食事をしているシーンは、すべてフィクションである。
 しばらくすると、特上の鰻重と肝吸いをお盆に乗せた店員さんが、汐織たちのもとにやって来た。
「お待たせいたしました」
「おう、来たぜ!さあ、食べな!姉さん!」
「いただきます!」
汐織は、蓋を開け、なんともいい匂いのする鰻とたれのかかったご飯を一緒に箸で口に運んだ。
『う・・・うまい!!!』
「どうだい!」
「・・・・・・・」
「どうなんだい!!!」
「ま・・・まっ・・・参りました――― !!!」
「やっ、やったぜ――――!!!」
「とうとうこの前の借りを返したぜ!!!」
「お前さんは、今日この鰻屋で、ついに俺たちの軍門に下ったんだ!ヤッホ――!!!」
有頂天になっている義兵衛の言葉など全く耳に入らない汐織は、あっという間に鰻重を完食してしまった。
「こっ、これほどおいしい鰻は、初めて食べました!!!おかわりしてもよろしゅうございますか?」
「おう、どんだけでもいいぜ!好きなだけ食べな!」
「ありがとうございます!」
食欲のタガが外れた汐織は、食うわ食うわ、鬼の形相で食べ続け、なんと鰻重4重をぺろりと平らげてしまった。
「ご馳走様でした―、本当〜に、おいしゅうございました〜!!!」
「おっ、お前さん、走る方も大関だが、食べる方も負けねえほどの大関だな!!」
「ハッハッハッハハハ――!」
この時代、相撲の最高位は、大関である。今のように、横綱が最高位となったのは、明治以降のことだ。
 「ところで、姉さん、佐吉との競争のことなんだがよ、今度は、1町(約110メートル)でどうだい?お前さんが勝ったら、取引は10倍だ!」
「そんな短い距離で競って、私が佐吉さんにかなうはずがありません。何なら、浅草日本橋を2往復でいかがですか?それなら、鰻で精がついたので、今すぐでもかまいません!」
「じょっ、冗談じゃあねえぜ!俺の方が死んじまわぁ!」
「ハッハッハッハハハ――!」
 鰻屋で食事を終えた3人は、天野屋に戻り半刻ほど世間話をして休憩していた。
「汐織ちゃん、ちいと暑いが、せっかく浅草まで来たんだ。浅草寺へ寄ってかね―か?」
「ええ、いいわ」
「わけえもん同士で行っといで。年寄りにゃ、この暑さは体に毒だ」
「じゃあ、父さん行ってくるよ」
「おう」
2人は、店を出て右手の東橋の方向へ歩いて行った。東橋を右に曲がると、両国橋と同じように広小路があり、右側におなじみの浅草寺の山門、雷門が見えてきた。
汐織は、平成でも浅草寺を訪れたことがあり、雷門を見るのは初めてではない。しかし、地面がすべてアスファルトに覆われていて、回りをビルに囲まれた平成の雷門とはまるで違った趣があって、緑に囲まれた実に味わいのある佇まいだ。
「これが、有名な雷門さ。走ってるときに見えただろ?」
「ええ」
「じゃあ、奥山へ行ってみるかい」
「奥山?」
「ああ、どこのお寺にも山号がある。この浅草寺の山号は、あの看板にある通り金龍山って言うんだ」
「そして、本堂の西の奥一帯を金龍山の奥だから奥山って言うんだ」
「奥山には何かあるの?」
「茶屋や見世物小屋があったり、大道芸人なんかもいてにぎやかなところさ」
「へえ〜、面白そう」
「ああ、一度見といて損はないぜ」
汐織は、見世物小屋と聞き、ひと月前に古川屋一家とジェームスとで行った両国橋の花火大会のことを思い出していた。
 2人は、仲見世が並ぶ参道を通り宝蔵門をくぐり、本堂までやって来た。そして、本堂でお参りをしてから、西の方向に向かって歩いて行った。
「ここが奥山さ。この暑いのにけっこう人がいるだろ」
「そうね。みんな、仕事が休みなのかな?」
「仕事なんざ、そっちのけで来てる奴らも多いぜ」
「ハッハハハハ」
さきほど佐吉の言った通り、あちらこちらに大道芸人の姿が目につき、手品らしきものをやっていたり、居合抜きをやっていたりしている。
また、多くの茶屋や食べ物屋に交じって見世物小屋があちらこちらに建てられている。汐織も佐吉とその内のいくつかに入ってみたが、両国橋のものと大差はなく、どれもがたわいのないものばかりであった。
 しばらくして、のどが渇いた2人は、茶屋に入って甘酒を飲んでいた。甘酒といえば、冬の飲み物だと思われがちだが、この時代は夏の飲み物の定番で、夏バテ防止、疲労回復に効果のある栄養ドリンクだったのである。
「それにしても、おいしい鰻だったわ〜💛」
「そんなに気に入ったのかい」
「うん、もう最高よ」
「そりゃ、きっと親父も喜ぶぜ」
「いいお父さんね」
「ああ、10年前におふくろが亡くなっちまってからは、男手1つで俺を育ててくれたんだ」
「そうだったの」
「ああ、それに、もともと俺は、親父ともおふくろとも血は繋がってねえんだ」
「えっ!!どっ、どういうこと?」
「俺が、3つの時、本当の両親とこの浅草寺のお祭りに来ていたんだ。そして、その時俺は、両親とはぐれて迷子になっちまった」
「あちらこちらの迷子石に貼り紙をしたが、とうとう両親は見つからなかった」
「迷子石って?」
「迷子の名前、特徴や似顔絵、そして、居場所を書いた紙を貼って親に知らせるための石の柱のことさ」
「路頭に迷っちまった俺を引き取ってくれたのが、この辺りの家主だった親父なのさ」
汐織は、フミから家主の仕事について話を聞いていたので、佐吉の言うことはすぐに理解できた。
 江戸の町人地は、その土地の所有者である地主が、借家人(店子(たなこ))の面倒を直接みるのではなくて、管理全般を家主に任せていた。
つまり、家主は、土地のオーナーではなくて店子と同じ場所に住み、自分の商売以外に、店子からの家賃の徴収や、上下水道、井戸の修理、木戸の開閉など店子の生活全般の監督管理をするのが仕事であった。
そして、その対価として、家賃収入から約一割の手数料を地主より受け取っていた。また、店子の共同便所に溜まった糞尿を農家に肥料として売ったお金は全額家主の収入になったという。
 また、店子には、地借と店借(たながり)の2つがあった。地借は、土地を地主から借りて家屋を自己資金で建てた者。そして、店借りは、土地も家も両方地主から借りて生活している者である。
店借は、表通りに面した場所に家を借りる表店借りと、裏長屋に家を借りる裏店借に分かれるが、その数は、圧倒的に裏店借が多かった。表通りに面した場所の地借である古川屋は、かなり裕福な家庭と言える。
 家主と店子との結びつきは、平成では考えられないほど強いものだった。店子間の喧嘩や、夫婦間のトラブルなどの日常的な問題の解決のみに止まらず、店子の結婚、出産、死亡などの届け出や、訴訟の手続きなどもすべて家主が行った。つまり、家主は、店子の身元引受人でもあったわけである。「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」というフレーズは、大げさでもなんでもなかったのだ。
 そして、迷子が出て親が見つからなかった場合は、保護された町でその子を育てるという暗黙のルールがあった。それで、この町の家主である義兵衛が名乗りを上げて、佐吉を引き取り育てたのであった。
 「ちょうど親父とおふくろには、子供がいなかったんだ。だから、俺は、本当の子以上にかわいがってもらったよ」
「そっ、そうだったの・・・何だか悪いことを聞いちゃったわね・・・」
「いや、別にどうということはないさ。俺は、本当の両親のことは、ほとんど何も覚えちゃいねえ。物心ついた頃には、親父と亡くなったおふくろと3人で暮らしていたんだ。血は繋がっていなくても、今は、親父がたった1人の肉親なのさ」
「ただ、もともと俺は、日本橋の方に住んでいて浅草寺のお祭りに来ていたらしいぜ」
「にっ、日本橋に!?」
「ああ、迷子石の貼り紙にそんな風に書かれていたらしい。でも、それさえも定かなことでもなんでもねえ。だから、俺は、浅草生まれの浅草育ちだと自分では思っている。そして、天野屋義兵衛の息子の佐吉なのさ」
 やがて、七つを過ぎて、そろそろ汐織は日本橋に戻らなければならない時刻となった。
「それでは、旦那様、佐吉さん、いろいろと本当にお世話になりました。名残り惜しゅうはございますが、本日はこれにておいとまいたします」
「おう、またいつでも来なよ。これからも今日のようにギャフンと言わせてやるぜ!」
「ええ、今日のような負け方でしたら、も〜、毎回負けても全くかまいません💛」
「ハッハッハッハハハ――!」
「じゃあ、父さん、その辺まで見送ってくるわ」
「おう、頼むぜ」
「それでは、失礼いたします」
「おう、じゃあ、またな」
汐織は丁寧に頭を下げて店を後にした。
佐吉は、汐織と肩を並べて隅田川沿いの道を歩いた。
「江戸にはいつまでいられるんだい?」
「さあ、故郷(くに)から帰って来いと言われるまではいるつもりよ」
「そうかい、できるだけ長くいられるといいな」
「ええ」
「汐織ちゃんの家は、何をやってるんだい?」
「古川屋さんと同じで、瀬戸物を扱っているわ」
「ああ、それで親父さん同士が知り合いなのかい」
「そうよ。父は、若い頃江戸でうちの旦那様と一緒によく遊んでいたんだって」
「ふ〜ん、なるほど」
「ところで、汐織ちゃん、兄弟は何人いるんだい?」
「妹が1人いるわ」
「そうかい、そんなら、お前さんが家を継がなきゃいけねえな」
「そうね、故郷(くに)へ帰ったら、江戸で大の男と駆け比べをして打ち負かしてやったって自慢するわ!」
「こんのやろう!今度は短い距離で勝負しろい!」
「いやよ〜〜!そんなの勝てるわけないじゃん!」
「アッハッハッハハハ――!」
まもなく、2人の歩いている道は、鍵状に右に曲がり直進ができなくなった。
「ここを右に行けば、この前走った道に出るぜ」
「ありがとう。もう、1人で行けるわ。じゃあね」
「ああ、またな」


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