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作品名:時の彼方 作者:箕輪久美

第16回   第16話
 およそ1月が経ち、江戸も新緑の季節から梅雨空が続く過ごしにくい季節に、すっかり様変わりした。
汐織にとって何が最も辛いかと言えば、ぬかるんだ道を歩くこと、これがとにかく辛い。
平成では、たとえ雨が降っていても、歩く道はすべてアスファルト舗装されているので、雨水がたまって歩きづらいことはあっても、道がぬかるんで歩きづらいということはない。
しかし、江戸では、ひとたび雨が降れば道が一面水たまりだらけになって、まっすぐ歩くことすら容易ではない。梅雨以前は、商品の配達に外出することが楽しくて仕方がなかった汐織であったが、雨が降り続く中、傘をさしてぬかるみだらけの道を歩いて、商品を届けに行くことだけには辟易としていた。
 そんなある日の午後、汐織は、配達もなく手持無沙汰であったので、サヨを迎えに手習いに行くことにした。なぜなら、この日は、梅雨の雨の止み間で久しぶりに目の覚めるようないい天気であったからだ。  
サヨの通う手習いは、汐織が初めて2人にあった小網神社から南に少し行ったところに架かる箱崎橋を渡った先にある。
八つ過ぎに手習いに着いた汐織は、道の反対側でサヨが家から出てくるのを待っていた。
 手習い師匠とは、平成でいう学校の教師とは全く異なり、試験も資格も必要なく誰にでもなることができる。また、学校のような決められた教え場があるわけではなく、どこで教えるのも自由である。師匠になる人の多くは、浪人や僧侶、医師、神官などで、教える内容は、主に読み書き算盤と女子に対しては裁縫を教える場合もある。教え方に特に決まりはなく、教える手習子(生徒)も年齢層が違う数人から十数人を同時に教えるため、同じことを一度に教えるのではなくて個人個人に合わせたマンツーマン指導である。
サヨの師匠は、とある浪人の奥さんで、自宅を教え場としているため少人数の手習いであるが、教え方が丁寧で、しかも、女子に対しては裁縫も教えてくれるため非常に評判が良かった。
 しばらくすると、手習いを終えたサヨが家から出てきた。
「あっ、汐織ちゃん!」
「サヨちゃん、久しぶりに江戸ブラしよ!」
「うん!」
汐織は、サヨと江戸の町を散策することを江戸ブラと呼んでいた。梅雨に入ってからは、久しぶりの江戸ブラであった。
箱崎橋を渡り小網神社の前を通って、思案橋が左手に見えてきた。すると、橋とは反対側の右手の曲がり角に、大きな黒鞄を持って、ひときわ脊が高く、髪の茶色い男が立っていた。
「あっ!異人さんだ!」
「ほっ、本当だ!」
昨年3月に結ばれた日米和親条約で、幕府は、下田と函館両港の開港に合意し、鎖国の時代は終わった。しかし、安政2年の江戸で外国人の姿を見ることはほとんどない。
なぜなら、外国人は、開港された函館と下田から自由に日本中を行き来することができるわけではなく、行動する範囲が制限されていたからである。唯一の例外が、オランダ商館長と朝鮮通信使である。この2者は、鎖国の時代から江戸を訪れることができた数少ない外国人たちであった。
オランダ商館とは、長崎の出島に設けられたオランダ東インド会社の商業拠点で、将軍から継続して貿易の許可を与えられていることに対して謝意を伝えるために、商館長が随行員を伴って江戸を訪れていた。また、朝鮮通信使は、朝鮮国王が日本に派遣した外交使節団で、将軍が替わるたびに慶賀のために江戸を訪れていた。
 汐織とサヨは、歩みを止めてその人物の様子をじっと窺っていた。
その異国人は、不安そうな面持ちで、手に持った紙片を見ながら左右を振り返り、その場で立ち往生してしまっているように見える。
「ちょっと行ってみよう!」
「汐織ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫よ?」
汐織は、静かに彼に近づいて徐に声をかけた。
“Excuse me Sir, is there anything wrong with you?”
(すみません、どうかされましたか?)
“E……English! You…… You speak English!!!”
(えっ、英語!!!・・・・英語ができるのですか!!!)
“Yes, a little bit.”
(ええ、すこし。)
“Gee………it’s incredible……!!!”
(そっ、それはすごい!)
“……Oh, my name is James Stayner. I am a medical officer of the Dutch trading house. Nice to meet you.”
(あっ、私は、オランダ商館の医官でジェームス・ステイナーといいます。はじめまして。)
“Nice to meet you too. My name is Shiori and she is my friend Sayo.”
(はじめまして、私は汐織、そして、こちらは友達のサヨです。)
“It’s seemed to us that you were very worried. Is there anything we can do for you?”
(大変お困りの様子でしたが、何か我々にお手伝いできることはありますか?)
“Oh,yes absolutely! Actually I got lost on my way back to the inn we stay after attending patients in a feudal lord house.
(ぜひお願いします!ある大名屋敷で診察を終えて、宿に帰る途中で道に迷ってしまったのです。)
“Oh really! Can you remember the name of the inn?”
(そうなのですか!宿の名前は思い出せますか?)
“Oh,yes. Maybe…….Na….ga….saki…ya.”
(はい、たぶん・・・な・・・が・・さき・やです。)
「サヨちゃん、長崎屋さんって知ってる?」
「・・・・・・・・・・・」
「サッ、サヨちゃん、サヨちゃん、どうしたの?」
「しっ、汐織ちゃん!・・・・・いっ、異国の言葉がしゃべれるの!!!」
「ええ、少しね」
「どっ、どうして???」
「平成では、手習いで教えてくれるのよ」
「ほっ、本当――――!!!」
サヨは、あまりの驚きに大きく目と口を開けて絶句してしまった。
「この方は、オランダ商館のお医者さんでジェームス・ステイナーさん。診療先からお宿に帰る途中で道に迷っちゃったんだって。そのお宿が長崎屋さんというみたいなんだけど、ねえ、長崎屋さんって知らない?」
「しっ、知ってるよ。十軒店(じゅっけんだな)の向こうだよ」
「あら、家のすぐ近くじゃない。長崎屋さんなんて宿屋さんあったかな?」
「ん〜ん、長崎屋さんは薬種問屋さんよ」
「えっ!薬屋さんに人を泊めているの?」
「うん、異人さんが泊まることがあるって聞いたことがあるよ」
「ああ、それじゃあ、間違いないわね。じゃあ、連れてってあげようか」
「うん」
“Sayo knows the location of your inn. We would like to take you to Nagasakiya, if you don’t mind.”
(サヨが、宿の場所を知っています。よろしければご案内しますが。)
“Oh, absolutely not! Please help me go home. Sayo, thank you very much.”
(ぜひお願いします。サヨ、ありがとう。)
「サヨちゃん、ありがとうって」
「どっ、どういたしまして」
「どうしたの、サヨちゃん照れてるの?」
「てっ、照れてないよ。でも、異人さんってみんな鬼みたいな顔をしているって聞いてたけど、先生は優しそうなんで、あちき、何だかホッとしちゃう」
“She heard that all of the foreign people are just like demons. But you look so gentle that she feels relieved, somehow.”

“Ha ha ha ha ha ha!!! Oh, Sayo ,what a cute girl! Ha ha ha! As you see, I’m not a demon. So I’ll never eat you up. Don’t worry! Ha ha ha!”
「ご覧のとおり、私は鬼じゃないから食べたりしないんで安心してって」
「キャハハハハハハ――!」
「でも、先生、すっごく背が高いね〜、先生の国の人ってみんなそんなに背が高いの〜?」
“Doctor, You are very tall aren’t you. All of the people in your country are so tall like you?”

“Well, as compared to Japanese people, average Dutch people are taller. But I’m tallest among my friends. So I can say that I’m a tall man in my country.”
「平均的に見て、オランダの人は日本の人よりも背が高いんだって。でも、自分は、友達の中でも一番背が高いから、オランダでも背が高い方なんだって」
「そんな高いところから物を見るとどんな風なのかなあ?」
“She wonders what it’s like to see things from such a high point of view?”

“Would you like to see them?”
「見てみたいかって」
「うん」
“Ok !Come on Sayo!”
ジェームスは、持っていた医療用の黒鞄を汐織に預け、サヨの両脇に手を入れて持ち上げ、左肩の上にサヨのお尻を乗せて、落ちないように両足をしっかりと右手で押さえた。
「うわ―――――!!!!!高い――――!!!高い、高い、高い――――!!!」
“How do you like it?”
「どう?」
「すご――――い!すごい!すご――――い!」
“Terrific! just terrific!”

“I’m happy ,if you are pleased.”
「喜んでくれたらうれしいって」
「すご――――い!こんなの初めて〜!ありがと〜う先生!」
“I’ve never seen things like this! Just great! Thank you doctor!”

Ha ha ha! It’s good.”
ジェームスは、すっかり上機嫌になったサヨを、笑顔で地面に下ろした。サヨは、ジェームスの手を握ったまま放そうとしなかった。サヨはすっかりジェームスが気に入ってしまったようである。
“Shiori I know that there are a lot of good Dutch speakers in Japan. But I’ve never seen anyone who speaks English so good like you. How in the world did you learn it?”
(汐織、私は、多くの日本の人がオランダ語に堪能であることは知っています。しかし、あなたのように英語がうまく話せる人には会ったことがありません。一体どうやって英語を身につけたのですか?)
“Well…unfortunately I cannot make it clear, I’m afraid. But you speak English very fluently. All of Dutch people speak English like you?”
(そっ、それは、残念ながらお話しすることはできないのですが、でも、先生は英語がすごく流暢です。オランダの人は、皆先生のように英語を話すのですか?)
“Oh, I was born and grew up in the States. And when I was 18 years old, I moved to Holland to be a doctor. So English is my own language.”
(ああ、私はアメリカ生まれのアメリカ育ちなのです。18歳の時に医者になるためにオランダに移ったのです。だから、英語は、自分の言葉なのです。)
“Oh, it explains everything.”
(ああ、だからなんですね)
この時代の外国語とは、いままで唯一国交のあった国の言葉、つまり、オランダ語のことである。昨年結ばれた日米和親条約も日米双方のオランダ語の通訳を介して会談が行われたのであった。
アメリカとは、まだ、数回しか接点がなかったので、この時代に英語のできる日本人など誰一人いない。ただ一つの例外は、ジョン万次郎こと、中濱萬次郎である。
 中濱萬次郎は、文政10年(1827年)土佐の中濱村に生まれ、14歳の時、手伝いで漁に出て嵐に遇い遭難。5日半の漂流の後伊豆諸島の無人島(鳥島)に漂着、そこで、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号の船長ホイットフィールドに救助されアメリカに渡った。ホイットフィールドの養子となってアメリカで生活した万次郎は、ジョン・マンの愛称で呼ばれ、2つの学校で英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学んで約3年間を過ごした。日本では教育を受ける機会のなかった萬次郎であるが、非常に勉強熱心で成績もよく首席で学校を卒業したと言われている。そして、学業を終えた萬次郎は、捕鯨船の船員となり生活していたが、帰国への思いは断ち難く、苦難の末、嘉永5年(1852年)漂流から実に11年目にして、ようやく故郷の土佐への帰還を果たす。
 帰国後の萬次郎は、土佐の藩校で教鞭をとっていたが、嘉永6年(1853年)の黒船来航に伴い江戸へ招聘され、旗本の身分を与えられて軍艦教授所で造船、測量術、航海術などを指導した。
萬次郎は、幕府が、黒船で来航したペリーと交渉する際の通訳としては、最適な人物であった。しかし、英語が流暢でありすぎたがゆえにオランダ語の通訳たちから強い妬みを買い、事実無根のスパイ容疑がかけられ、ついに、交渉の場で活躍することはなかった。
 平成の世の中では、英語のできる人間などごまんといる。しかし、この時代は、いくら英語が習得したくとも、萬次郎のケースのように偶然によって導かれた特異な学習環境に身を置かない限りは、習得のしようがないのである。
だから、ジェームスが汐織の英語力に驚くのは、至極当然なことであり、きっと、人には明かせないような何か特別な事情の下で、彼女は英語を身に付けたのであろうと納得した。
その推測は、確かに半分は当たっている。しかし、今自分が、160年先の未来で英語を学んだ人間と話をしているなどとは、想像だにしていないであろう。
 3人は、思案橋を渡って、細い川沿いの道をずっと北へ向かって歩いて行った。そして、小伝馬町の牢獄のある四つ角まで来たところで左に曲がって、十軒店のある東の方向に向かって歩みを進めた。ちなみに、汐織が江戸に来た日に、日本橋の南の袂で見た僧侶の囚人は、この牢獄から連れていかれて晒されていたのであった。
“Oh, I remember this street. We must be just around my inn.”
(あっ、この通りは見覚えがあります。もう宿はすぐ近くのはずです。)
「サヨちゃん、長崎屋さんは、もう近いの?」
「うん、すぐそこだよ」
“Yes, it’s correct. We’ll arrive soon.”
(ええ、もう着きますよ)
“Ok, thank you very much Shiori. I’ll be able to go back by myself.”
(汐織ありがとう。もう、1人で帰ることができます。)
“Sayo, arigato sayonara.”
「サヨちゃん、先生もう1人で帰れるって」
「え〜」
サヨは、ジェームスと別れることがひどく名残惜しそうである。
「ねえ、先生、花火観たことある?」
“Have you ever seen fireworks, Doctor?”

“Fireworks? No, I’ve just heard it.”
「聞いたことはあるけど、観たことはないって」
「今月の28日から両国橋で花火大会が始まるの。毎年家族で出かけるんだけど先生もいかない?」
“The annual fireworks display will start from the 28th of this month at Ryogoku Bridge. My family always goes to see it every year. Would you like to join us, Doctor?”

“Oh, sounds interesting. I’d like to join you, if you don’t mind.”
「面白そうだから、もしお邪魔じゃなかったら、行きたいって」
「わ〜い!やった―!」
“What time dose it start, Sayo?”
「何時に始まるの?」
「夜五つぐらいからよ」
“It’s going to start from about 8 o’clock PM.”

“Ok, then, could you come and pick me up at my inn before 8 o’clock?”
「じゃあ、五つ前に宿まで迎えに来てくれないかって」
「うん、いいよ―!」
“Yes, I’ll be happy to.”

“Wow, it’s great! I’m looking forward to it very much!”
“Anyway, Yoshie Sayo, thank you very much for your tremendous help.” “I’d be walking around Edo town even now without you.”
「すごく楽しみなんだって。それと、助けてくれて本当にありがとうって。もし、私たちがいなかったら、まだ今頃江戸の町をうろうろしているだろうって」
「キャハハハ――!」
「じゃあまたね―、先生!」
It’s nice meeting you, Doctor. We’ve really enjoyed your company. See you next time.
(先生、お会いできてとても楽しいひと時を過ごせました。それでは、また)
Nice meeting you too, Shiori, Sayo. See you again.
(こちらこそ、じゃあ、またね)


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