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作品名:時の彼方 作者:箕輪久美

第15回   第15話
 2日後弥兵衛と義兵衛の間で話し合いが持たれ、競争についての詳細が決定した。
日時は、10日後の13日、朝四つにスタート。スタート地点は、古川屋。そして、天野屋が折り返し地点で再び日本橋に向かい、ゴールも古川屋。これは、汐織江が以前走ったコースであり、土地勘のない汐織に配慮したものである。また、古川屋がスタートとゴール地点になるため、まず、佐吉が浅草から日本橋に行かなければならないが、これは男女の差を考慮したハンデとして扱うこと。折り返し地点の天野屋に到着した際には、店員さんに到着したことを申告すること。スタートは、時間差とせず2人が同時に走り始めること。以上が両陣営の間で合意された。
 そして、いよいよ競争の当日4月13日がやって来た。天気は快晴で、暑くなりそうな気配である。義兵衛と佐吉は、自信満々の面持ちで、スタート時間の四半刻前に古川屋に到着した。
「さあて、こちらは準備万端、いつ始めてもらってもかまいませんよ」
義兵衛は、いつにもまして上機嫌である。
佐吉は、褌姿で半纏を羽織り、鉢巻をして草鞋を履いている。まさに飛脚そのもののいでたちである。しかし、汐織の方は、未だ姿を現さなかった。
「おい、おい、韋駄天様はどうしたんだい?まさか、走らないんじゃねえだろうな」
「大丈夫でございますよ。今準備をしております」
そして、まもなく四つの鐘が鳴ろうかというところで、汐織が店の奥から現れた。
「お待たせいたしました」
汐織は、半股引(はんだこ)に水色の袖なし半纏、革足袋をはき、頭は前回と同じ手拭いで覆っている。そして、外からは見えないが、腰に水の入った竹筒を2本ひもで縛って巻いていた。その姿は、まるでこれからお祭りに行く娘ようである。
 そして、2人が店の前に並ぶやいなや、四つを告げる鐘が鳴り始めた。
「よし、行け!佐吉!」
「はい!」
佐吉は、半纏を脱ぎ捨てて勢いよく走り出した。汐織は、やや遅れてその後を追走した。
2人の姿は、本町四丁目の四つ角を曲がって見えなくなった。
「よし、これでしばらくは戻ってこねえから2人の帰りをじっくり待つとしましょうか」
「はい」
義兵衛は、佐吉の脱ぎ捨てていった半纏を拾って、弥兵衛とともに古川屋の店内に入り競争の結果を待つことにした。
 汐織は、佐吉の5メートルほど後方に位置取りをし、その走りをじっくりと観察していた。
佐吉は、汐織より身長が10センチほど高く、筋肉質の実にいい体をしている。目の前を褌1つで走っているため、その筋肉の動きがよくわかる。体にバネがあり、その瞬発力はずば抜けているように見える。
しかし、体の上下動が非常に激しく、スムーズで無駄のないランニングフォームの汐織とは対照的な、エネルギー浪費型の走りだ。それを、持ち前の馬力でカバーして走っているのは一目瞭然である。
また、これだけ気温が上がってきているにもかかわらず、給水の準備をしていない。
おそらく、折り返し地点で給水するつもりなのであろうが、この暑さの中で約5キロもの間無給水はかなり辛いはずだ。おまけに、ほとんど裸で走っているために直射日光をもろに受けてしまう。このままのペースで走れるはずはない。
 果たして汐織の読み通り、浅草御門を通ってしばらくすると、佐吉のペースが落ちてきた。
そして、この機を見逃すような汐織ではなかった。一気にギアを上げて佐吉を抜き去り3メートルほど前へ出た。
「あっ、くそう!」
佐吉は、懸命にペースを上げて汐織の横に並んだ。すかさず、汐織は、腰に縛っていた竹筒をひとつ取り出してうまそうに水を飲んでみせた。
「ちっ!」
佐吉は、露骨にいやそうな顔をした。
その後、しばらくの間2人は並走していたが、ここで汐織は故意にペースを少し落として佐吉の斜め後につけ、その疲れ具合をじっと観察することにした。
そして、東橋から1キロほど手前の地点まで来たところで、佐吉はついに苦悶の表情を浮かべ失速、再びペースががっくりと落ちた。
ここが勝機!汐織は、間髪入れず勝負に出た。いきなりギアをトップに入れて一気にスパートをかけ、佐吉を軽々と抜き去ってぐんぐん加速し、瞬く間に100メートル以上の差をつけてしまった。
「くっ・・・はっ、速え!」
 その後、汐織は後ろを全く振り返ることなく快走を続け、先に天野屋に到着した。
天野屋の店先には、この前汐織を出迎えてくれた店員さんがお茶を用意して待っていた。
当然、佐吉の方が先に来るものと思っていたらしく、目を丸くして汐織の方を見ている。
「古川屋の汐織到着しました」
「はっ、はい、お茶をどうぞ」
「いえ、結構です」
汐織は、すぐさま方向転換をして、日本橋に向かって走り出した。東橋の袂から再び往路で通った道に入り300メートルほど走ったところで右手に人がうずくまっているのが見えた。
「あっ!さっ、佐吉さん!だっ、大丈夫!?」
「あっ、ああ、だか、横腹が痛くてもう走れそうもねえ。おめえさん、何て速えんだ!」
「いいから、しゃべらないで!立つことはできる?」
「ああ」
「じゃあ、私の肩に摑まって」
「すまねえ」
 2人がスタートしてから半刻が過ぎた。
「もうそろそろ帰ってきますかな?」
「そうでございますね。しかし、この前の汐織の走りからすると少し遅いような気もしますね」
「父上、母上、姉さ〜ん!汐織ちゃんが、汐織ちゃんが帰ってきたよ〜〜!!」
本町四丁目の四つ角で汐織の帰りを待っていたサヨが、雲母橋を渡って大声で叫びながら店の方に走ってきた。
「なっ、何だって!!!」
「おお!汐織、やったか!」
「サヨちゃん、佐吉は、佐吉はどうなんだ!?」
「汐織ちゃん1人だったよ」
「なっ、なんと!!!・・・・・」
 しばらくすると、本町四丁目の四つ角から汐織が姿を現した。水色の袖なし半纏を翻して颯爽と走っているように見えるが、ゴールの古川屋に近づいてくるその表情は、前回浅草から戻って来た際のそれとはまるで違った険しいものだった。
汐織は、雲母橋を渡ってまもなく古川屋の店の前に到着した。
「やった、やった、やった――!汐織ちゃ〜ん、バンザーイ!バンザーイ!」
「汐織、でかしたぞ!」
「汐織、よくやったね!」
歓喜に沸く古川屋一家には目もくれず汐織は開口一番
「天野屋の旦那様!佐吉さんが、佐吉さんが!」
「さっ、佐吉がどうかしたのか!?」
「東橋の手前でお腹が痛くなってうずくまってしまったのでございます」
「あいつ、何をやってやがるんだ!」
「旦那様、佐吉さんを責めないでくださいませ!たまたま体調が悪かったのでございます」
「それで、あいつこちらに向かってるのかい?」
「いいえ、とても走れそうになかったので私が肩を貸してお店まで送りました。命に別状はございません。あちらで休んでいるはずでございます」
「何だと!!まったく男のくせに情けねえ!」
「旦那様、お願いでございます!佐吉さんを責めないでやってくださいませ!誰しも体調の悪い時はございます。今日は佐吉さんに運がなかったのでございます!」
「お願いでございます!私とのご商売の約束は忘れていただいて構いません。ですから、佐吉さんを責めないと約束してくださいませ!お願いでございます!!」
「・・・わかったよ。しかし、あんた、何よりも先に負けた相手を思いやるとは、本当に見上げたもんだぜ。わたしゃ、ますますお前さんが気にいっちまったよ」
「まあ、なんにせよ、今日は私の完敗だ。また出直すことにするよ」
「弥兵衛さん、これは今月分の注文書だ。この前のものと差し替えといてくんな」
「あっ、天野屋さん、こっ、これは・・・」
義兵衛は、万が一佐吉が負けたときのために、普段の3倍の取引額を書き込んだ注文書をあらかじめ用意していたのだった。
「天野屋義兵衛に二言はない」


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