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作品名:時の彼方 作者:箕輪久美

第14回   第14話
 汐織は、暇さえあれば、サヨと出かけて江戸の町を歩いていた。おかげで、方向音痴なりに地理がわかってきたので、次第に商品の配達も任されるようになった。この日は、南伝馬町二丁目まで商品を届けにやって来た。南伝馬町二丁目は、汐織が、江戸に来た初日にサヨに寿司を食べさせてもらった場所から少し南に下ったところである。汐織は、商品をお得意様に届けた後、わざと回り道をして東側の路地に入り、本材木町から江戸橋を通って家に戻ってきた。できるだけ来た道をとは別の道を通って家に戻ることで、江戸の地理により詳しくなれると思っていつも行っているうちに、ついつい癖になってしまったのである。
 家に戻ると、サトの様子が出がけとは明らかに違っていた。
「ただいま帰りました」
「ああ、お帰り」
「おかみさん・・・どうかされたんですか?」
「実はね、さっきまでトヨさんがきてたんだけどさ、どうも、旦那さんが江戸患いみたいなんだよ」
「江戸患い?」
「ああ」
「江戸患いとは何でございますか?」
「体がだるくなってごはんが食べられなくなって、足がむくんで痺れちまうのさ、最後は心の臓が止まって死んでしまう病だよ」
「足がむくんで痺れる・・・心臓が止まる・・・?それが・・なぜ江戸患いと呼ばれるのでございますか?」
「それは、不思議なことに、みんな江戸でしかこの病にはかからないからなのさ。いったい、なぜなんだろうねえ?」
「足がむくんで痺れる・・・江戸でしかかからない・・・・・」
「あっ、わかった!脚気だ!」
「平成では脚気って言うのかい!」
「はい・・・しかし、なぜ江戸だけで・・・・・ああっ、そうか!!」
「何かわかったのかい?」
「はい、なぜ江戸でしか脚気がはやらないのかがわかりました」
「教えとくれ!そして、その脚気をどのようにして治しているんだい?平成は進んだ時代だから、きっと、なにか妙薬があるんだろう?」
「いいえ、平成には脚気自体がありません」
「ええっ!じゃあ、何でお前さんが脚気のことを知ってるんだい?」
「私のおじいさんが脚気にかかったことがあるのでございます。子供のころに、どんな病なのかを話してくれたことを今思い出したのでございます」
「でも、お前さんのおじいさんの時代にはあった脚気が、平成にないのはなぜなんだい?」
「それは、脚気の原因がはっきり分かったからでございます」
「げっ、原因が分かっているのかい?」
「はい」
「教えとくれ!それが分かれば、どうすれば治せるのかも分かろうってもんだ!」
「はい、少し話が長くなりますが、お話しいたします」
「ああ、頼むよ」
「我々は、毎日食べ物を食べながら生きております。それは、食べ物には、我々が生きるために必要な養分が含まれているからでございます」
「この養分のことを栄養素ともうします。栄養素には、さまざまな種類がございまして、我々が健康に生きていくためには、すべての栄養素をまんべんなく均等に取り続ける必要があるのでございます」
「この栄養素の取り方が偏ってしまうと病にかかってしまいます。脚気とは、まさに、体に取り込む栄養素の偏りが原因で起こる病なのでございます」
「そっ、その偏った栄養素とは何なんだい?」
「私たちは、それをビタミンB1と呼んでおります」
「それが足らないから脚気になるということかい?」
「その通りでございます」
「それじゃあ、どうすれは、そのビタミン何とやらを取れるんだい?」
「その前に、なぜ江戸でしか脚気がはやらないのかをお話しいたします」
「ああ」
「私が江戸に来て、皆さんと食事をしていて一番驚いたのは、皆さんが食べるお米の量の多さでございます。それは、江戸ではごく普通のことであるため、皆さんは特になんともお感じにはならないと思いますが、我々からするとその量は尋常ではございません」
「そして、江戸は、将軍様のおひざ元であるがゆえにお米が豊富で、白米を存分に食べられることが江戸のみなさんの大きなご自慢であることは、私も多くの方々から聞き及んでおります」
「しかし、まさにそれが、脚気の原因なのでございます!」
「ええっ!!!いっ、一体どういうことなんだい?」
「ご存じのように、お米は、玄米のうちは、糠層に覆われており胚芽の部分もまだ残っております。ところが、精米して白米にいたしますと、この糠層と胚芽が両方とも取り去られてしまいます」
「ああ」
「しかし、白米には不要であるこの糠層と胚芽の中にこそ、ビタミンB1が多く含まれているのでございます」
「そして、それに加えてさらに重要なのは、食べた白米を体の中で消化して力に換える際に、多くのビタミンB1が必要になるということでございます」
「つまり、白米を食べると、ビタミンB1が補給できなくなるばかりでなく、逆に、体の中にあるビタミンB1を多く消費してしまうことになるのでございます」
「こう考えると、もはやお分かりでしょうが、食べる白米の量が多ければ多いほど、より多くのビタミンB1が体から失われることになり、その結果、栄養素が大きく偏って脚気になるのでございます」
 「なっ、なんと!!!・・・・・・・・」
江戸生まれ江戸育ちのサトは、白米を毎日存分に食べられることに大きな幸せを感じており、江戸に生まれて本当によかったと思っていた。しかし、まさにそれが江戸患いの原因であると知って、大きなショックを受け完全に絶句してしまった。
「江戸の周辺においては、毎日白米を食べることはできないため、玄米や雑穀を混ぜたご飯を食べているのでございましょう。そのことによって、ビタミンB1が補給され脚気を免れているものと思われます」
「そっ、それじゃあ、トヨさんの旦那さんも、玄米や雑穀を混ぜたご飯を食べれば・・・」
「はい、病が進んでしまっていれば、なんともなりませんが、軽いうちであれば間違いなく治ります。それから、大豆、昆布、きな粉、焼き海苔、鰹節、うなぎ等ビタミンB1を多く含む食材を梅干しと一緒に食べるとさらに効果がございます」
「そして、このことは、トヨさんの旦那様に限ったことではございません。我々も気を付けなければ、いつ脚気にかかるやも知れません。白米を食べること自体が悪いのではございません。ビタミンB1を含んだ食物とともに白米を食べるのであれば何の支障もございません。白米ばかりを大量に食べ続けることが危険なのでございます」
「ちょっ、ちょっとトヨさんのところへ行ってくるよ!」
サトは慌てて店を飛び出していった。
 月が替わり4月になった。今日は、太陽暦では5月15日である。外は汗ばむほどの陽気となったが、梅雨入りまではまだしばらくあるので湿気は少なくて過ごしやすい。相変わらず汐織は、精力的に商品の配達に回っていた。
 八つを過ぎて、汐織が配達から家に戻ってくると、意外な人物が汐織を待っていた。義兵衛が二十歳くらいの若者を連れて店に来ていたのだ。
「ただいま帰りました〜。あら、天野屋の旦那様じゃございませんか!どうも、先日は色々とお世話になりました」
汐織は、笑顔で頭を下げた。
「よっ、待ってました、韋駄天姉さん!やっと帰ってきたね!」
「いっ、韋駄天姉さん?」
「韋駄天様とは、足の速い神様のことだよ」
「ええっ!とうとう、私は神様になってしまったのでございますか!」
「アッハッハハハハ―!」
「さあ、弥兵衛さん、韋駄天様が帰ってきたんだ。話を通しておくれよ」
「いや、いや、こればかりは、いくら天野屋さんからのお願いでも無理でございます」
「いいじゃあないか。本人の気が進まなければ、私だってこんなことを無理強いはしないよ。話だけでも通しておくれよ」
「いや、私もY藩の友人から汐織を預かっている身でございますので、こればかりはご勘弁ください」
「??どうしたのでございますか?旦那様」
「汐織、ちょっとこちらにおいで」
弥兵衛は、汐織を店の奥の部屋へ連れて行った。部屋にはサト、フミ、サヨの3人が不安そうな面持ちで座っていた。
「何かあったでございますか?」
「実は、天野屋さんがお前に競争を持ちかけてきたんだよ」
「競争!?」
「ああ、天野屋さんといっしょにいる若い衆は、天野屋さんの息子さんで佐吉っていうんだが、すごく足が速いことで評判なんだ。そこで、お前と競争をさせて、もしお前が勝てば、向こう1年間のお取引を倍に増やす。しかし、もし、お前が負ければ、お前の身柄を自分が預かりたいって言うんだ」
「この前詫びを入れに行った時、天野屋さんは終始上機嫌でお前の話しばかりするから、よほどお前のことを気に入ってるんだと思ったんだが、いくら何でも無茶苦茶だぜ!まったく、天野屋さんらしくもない。俺は、こんな話絶対に受けないぜ!」
「そうよ、汐織ちゃん絶対に受けちゃだめよ」
「そうだよ、何でお前さんが男と競争しなきゃなんないんだい」
「汐織ちゃ〜ん、行っちゃいやだ――!」
「あら、いいお話じゃございませんか!」
「おっ、お前、何を言っているんだ!」
「勝てばよろしいんでしょ?」
「勝てばって、相手は男だぞ!」
「ええ、どうということはございません。ただ、これは、ご商売の絶好の好機でございます。私にお任せください」
 しばらくして、汐織は奥の部屋から店先へ出てきた。
「天野屋の旦那様、お話はお伺いいたしました」
「おお、そうかい!それで、どうなんだい?」
「条件次第では、お受けしてもかまいません」
「おお!!!して、その条件とは?」
「私は男の方と不利を承知で競争をするわけですから、1年間のお取引を倍から3倍に増やしていただければお話はお受けいたします」
「よし、わかった!約束しよう!」
「本当でございますか?」
「天野屋義兵衛は、男でござる!二言はない」
「よろしゅうございます。それでは、このお話し、お受けいたします」
「しっ、汐織!おまえ、何をバカなことを!天野屋さん、今のはなしだ!この子は頭に血が上っちまってるんだ!今の約束は取り消しだ!」
「弥兵衛さん、本人がこの通りやるって言ってるんだぜ、そりゃあねえだろ」
「旦那様、大丈夫でございます。私は頭に血など上っておりません。必ず勝ってみせます」
「佐吉さん、本日初めてお会いしてこのようなことになってしまい本当に残念でございますが、こちらは商売がかかっております。いっさい手は抜かず本気でやらせていただきます」
「ああ、俺も女に負けたとあっちゃあ男の名折れだ。手加減なしでやらせてもらうぜ」
「私を女だと思って甘く見ない方がよろしゅうございますよ!」
「ああ、あんたの走りっぷりについては親父からよく聞いている。そんなつもりはさらさらないぜ」
「よし、決まった。それじゃあ、競争の日取りや方法はまた後日相談することにしよう、今日は帰るぞ、佐吉」
「はい」
「それではみなさん、長らくお邪魔しました」
義兵衛は、満面の笑みを浮かべながら帰っていった。
 夕餉の時刻になった。汐織以外の4人は、沈痛な面持ちである。
「お前、とんでもない約束をしちまったなあ!男を相手に本当に勝てるのか?」
「汐織ちゃ〜ん、行っちゃやだよ〜!」
「大丈夫よ、サヨちゃん」
「旦那様、私も何の勝算もなしにこの申し出を受けたわけではございません。佐吉さんのような筋骨隆々の体型の人は、短い距離を速く走るのに向いているのでございます。ですから、単距離の競争ともなれば、私に勝ち目はないでしょう」
「しかし、長い距離を走ることとなれば話は全く別でございます。私は、長距離走には絶対の自信がございます。競争の条件を決める際には、できるだけ長い距離を走ることをご提案ください」
「それから、走る際の服装についてもお考えいただきとうございます」
「ほう、それはどんな?」
「この前浅草まで走った際、暮れ六つ前にもかかわらずかなり暑うございました。今は、あの時よりもさらに気温が上がっております。より、薄手の風通しの良い着物をご用意いただきとうございます」
「わかった。それは私に任せな」
「ありがとうございます、おかみさん。それから、水を入れる容器のようなものはございませんか?」
「それなら竹筒があるわ」
「それはどんなもの?」
フミは、棚の中から竹筒を取り出して汐織の膳の横に置いた。
「これでどう?」
「ああ、これでいいわ」
「汐織」
「はい」
「俺は、商売のことはどうでもいいんだよ。お前を連れていかれちまうことが辛いし、納得がないかないんだ。だから絶対に負けるんじゃあねえぞ!」
「大丈夫でございます。総力を尽くして必ず勝ってみせます」


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