5日が過ぎ、3月22日となった。この日は、太陽暦では5月の8日に当たる。新緑の季節を迎え、実にさわやかな気候になってきた。そして、この日もまもなく暮れ六つを迎えようとしていた。 「ただいま帰った」 「ああ、お帰り、お前さん」 「父上、おかえりなさいませ」 「おかえりなさいませ、旦那様」 「天野屋さんのところ寄ってくれたかい?」 「いや、今日は時間がなかったから、明日にするよ」 「何言ってるんだい!今日が期限じゃないか!!」 「えっ、今日は21日だろ!?」 「違うよ。今日は、22日だよ!!」 「しっ、しまった――!1日日付を・・・」 「どうするんだよ!もう暮れ六つまで四半刻ほどしかないじゃないか!」 「よし、これから早舟で行ってくらあ!」 「こんな時間に早舟なんか出ちゃいないよ!」 「くっ、・・・」 「あの・・・どうしたのでございますか?」 「この人が、請求書を持っていく期日を間違っちまったのさ!」 「他の店なら1日2日くらいの遅れはどうってことないんだけど、その店だけは、ご主人様が期日に凄く厳しい人なんだよ。前にも1度請求が遅れたことがあって、しばらくお取引をしてもらえなかったことがあるんだよ!」 「そのお店はどこにあるのでございますか?」 「浅草さ、今からじゃとても間に合わないよ!」 「ここからどれくらいの距離があるのでございますか?」 「1里と10丁ほどだよ」 汐織は、フミから江戸の尺貫法について教わっていた。それによると、1里と10丁は約5キロである。 「私が行って参りましょうか?」 「えっ!どうやってだい?」 「走って行くのでございます」 「走ってって、浅草までだよ!」 「はい」 「・・・・・・・」 4人は、汐織を見つめたまま沈黙してしまった。 「ただし、条件が2つございます。まずは、走りやすい服装をご用意ください。この着物では走ることができません」 「次に、行先のわかりやすい地図を描いてください。私は、方向音痴なのでしっかりとした地図がないと目的地を通り越してしまいます」 「暮れ六つまでにここに戻ってくることは難しゅうございますが、この2つさえ用意してくだされば、間違いなく暮れ六つまでには浅草に行ってみせます」 「お、お前さん、どうする・・・」 「・・・よし、座して死を待つより、汐織に賭けよう!」 「俺の丁稚時代の仕着せがあったろう。あれを出してくれ」 「はい」 「フミ、着替えを手伝ってやってくれ」 「はい」 仕着せに着替えた汐織は、草鞋を履いて出発の準備が整った。 「汐織、これが請求書だ。これを渡して、帳面のここに印鑑をもらってくれればいい。それから、これが詫び状だ。日付を間違っていたため代わりにお前に行ってもらうことを許してほしいと書いてある」 「はい」 「そして、これが地図だ」 弥兵衛が書いた地図を見ると、目的地は、いつも湯屋に行く時に通る本町四丁目の四つ角を右に曲がりほぼ一本道である。 「あっ、これなら道に迷うことはなさそうでございます」 「そうか、何とか迷わず行けそうか」 「あっ!それから、女子(おなご)がそのような格好で走っていると目立っちまうから、この手拭いで頭を隠していきな」 サトはそう言うと、汐織の頭を大きめの手拭いでしっかりと覆った。 「ありがとうございます」 「それじゃあ、汐織、頼んだぞ」 「はい、お任せください。行って参ります」 汐織は、本町四丁目の四つ角まで軽く流して走って行った。フミとサヨが後からついて来た。 「じゃあ、汐織ちゃん、頼んだわよ」 「任しといてよ」 「汐織ちゃん、頑張ってね」 「うん、じゃあ、行ってくるね」 汐織は、そう言うと踵を返して、浅草に向かって走り出した。その姿は、みるみる小さくなっていった。 「はっ、速い!あれなら本当に四半刻かからずに浅草まで行けるわ!」 汐織は、往来をゆく人々の間を縫って快調に走って行った。道は、晴天続きで埃っぽいが、ぬかるんでいるよりはずっと走りやすかった。緑橋を渡りしばらく行くと両国橋の広小路に出た。広小路とは、火事の多かった江戸で防火のために作られた火除け地、つまり、延焼を防ぐための空き地である。右手には、ひときわ大きな両国橋が見える。汐織は、平成で両国の花火を観に行ったときのことを思い出していた。 ここで、浅草御門を通って北へ向かっていくと浅草である。浅草御門とは、浅草見附とも呼ばれる見張り番所で、お城のような枡形の門に特徴がある。しかし、特別な見張りをしているわけではないので、汐織が呼び止められるようなことはなかった。 浅草御門を通って10分程走ると、左側に浅草寺、右側に東橋が見えてきた。 もう目的地である浅草花川戸町は、目と鼻の先である。汐織は、スピードを落として汗を拭き、弥兵衛の書いてくれた地図を確かめながらゆっくりと天野屋に向かって歩いていった。 天野屋は、浅草の観光客相手の土産物屋で、陶器製の小物や皿などを古川屋から仕入れていた。古川屋にとってはかなりの上得意客で、主人の義兵衛は、時間や礼儀には厳しいが、 大いに信頼のおける人物である。弥兵衛の書いてくれた地図によると、場所は、隅田川沿いの道で東橋を越えて3件目となっている。 川沿いの道から一本内側の道を走ってきた汐織は、東橋に出たところで右側の川沿いの道に入って左手を見ながら歩いて行った。すると、地図のとおり3件目の店に天野屋の看板を見つけることができた。 「あっ、ここだわ!」 「ごめんくださいませ〜!」 「はあ〜い」 元気のいい声とともに12、3歳の女の店員さんが奥から現れた。しかし、汐織の姿を見て一瞬ギョッとした様子で、声のトーンを落としてややいぶかしげな表情で応対した。 「いっ、いらっしゃいませ」 「いつもお世話になっております。日本橋の古川屋でございます。ご主人様にお取次ぎをお願いいたします」 「はっ、はい、しばらくお待ちください」 店員さんは、慌てて奥へ入っていった。 「だっ、旦那様、旦那様!」 「ん!どうした?慌てて」 「にっ、日本橋の古川屋さんがお見えになっております」 「おっ、弥兵衛さん、期日どおりに来たじゃね−か!てっきり忘れてやがると思ってたぜ」 「そっ、それが、旦那様じゃないんでございますよ!」 「はっ?じゃあ、一体誰が来たんだい?」 「それが・・・仕着せを着て頭に手拭いを被った女の子なのでございます!」 「なっ、何!?仕着せを着て頭に手拭いを被った・・・?」 「どれ、とにかく私が出よう」 「おお、お待たせしたね、私がこの店の主人で義兵衛といいます」 「いつもお世話になっております。古川屋の汐織と申します。遅くにお邪魔してしまい大変申し訳ございませんが、本日が、ご請求の期限ということで書面をお届けに上がりました」 「うむ、確かにその通りだが、弥兵衛さんはどうしたんだい?」 「はい、事情につきましては、こちらをご覧ください」 汐織は、弥兵衛の書いてくれた詫び状を懐から取り出して義兵衛に手渡した。 「ふむ、ふむ、なるほど・・・・・そういうことか」 「それで、お前さん、ここまで歩いて来たのかい?」 「いえ、走って参りました」 「ええっ!日本橋からかい?」 「はい」 「どれ程時間がかかったんだい?」 「四半刻弱でございます」 「なっ、何だって!!!」 「旦那様が日付の誤りに気が付いたのが、つい先ほどだったのでございます。それゆえ、このような格好でお邪魔してしまうこととなり、誠に申し訳ございません。是非とも、請求書をお受け取りいただきご印鑑を頂戴できれば幸いでございます」 「いかなる形であれ、古川屋さんは約束を守ったんだ。それについて、私は、とやかく言うつもりは全くないよ。請求書と帳面を出してくんなさい」 「はい、ありがとうございます」 「それにしてもお前さん、四半刻弱で日本橋からここまで走って来て、全く疲れた様子がないじゃないか!」 義兵衛は、帳面に印鑑を押しながらあきれ顔でそう言った。 「はい、走ることについては、いささか自信がございます」 「ふ〜ん、面白い子だね〜。じゃあ、帳面は、この通りお返しするよ」 「はい、どうもありがとうございました。それでは、本日はこれで」 「あっ、ちょっと待ちな」 義兵衛はそう言うと、紙に筆で何かを書き始めた。 「よし、これは来月分の注文書だ。弥兵衛さんに渡しといてくんな」 「ありがとうございます。請求書をお受け取りいただいただけでなく、注文書までいただけるとは、旦那様もきっとお喜びになると思います」 この時、暮れ六つを告げる鐘が鳴り始めた。最初に3度の捨て鐘が鳴らされ、その後しばらく間隔をあけて6回の鐘が、あたりに鳴り響いた。 「それでは、日のあるうちに帰りたいと存じますので、本日はこれにて失礼いたします。どうもありがとうございました」 「ああ、それじゃあ、気を付けて帰んなよ」 義兵衛は、店の前まで汐織を見送ってくれた。 「ありがとうございます。それでは、失礼いたします」 汐織は、丁寧にお辞儀をすると、日本橋の方向に向かってゆっくりと駆けだした。そして、次の瞬間一気に加速して全速力で走り出し、瞬く間にその姿は見えなくなってしまった。 「うおっ!!すっ、すげえ!!!・・・あれなら確かに四半刻かからずに日本橋からここまで来ることができるぜ!!まるで無刻・・・・・いや・・・・・韋駄天様だ・・・・・」 無刻とは、幕府の緊急公文書の配達に利用されていた飛脚の中の最速便である。そのスピードは驚異的で、日本橋から京都三条大橋までの東海道五十三次を、普通の飛脚が96時間かけて走るところをわずか66時間で走ったと言われている。 「ああ、とうとう暮れ六つを過ぎちまったね〜。汐織、暮れ六つ前に天野屋さんに着くことはできたろうかね〜〜?」 「心配いりませんよ、母上、私は、サヨと本町四丁目の四つ角で汐織ちゃんを見送ったのでございますが、ものすごい速さで駆けて行きました。あれなら、間違いなく間に合います」 「でも、1里と10丁もあるんだよ。ずっとその速さで行けるかね?」 「まあ、何にしても今は汐織を信じよう。いずれにしても、明日、天野屋さんには直接詫びを入れてくるよ」 「それから、フミ、提灯を用意しておいてくれ」 「はい」 「しばらくしたら、両国橋まで迎えに行ってくる」 「父上、私も一緒に行かせてください」 「ああ」 「父上、母上、姉さん!汐織ちゃんが帰ってきたよ―――!」 店の前で本町四丁目の方をずっと見ていたサヨが、大声で叫んだ。 「なっ、何だって――っ!!もっ、もう帰ってきたのか!!」 弥兵衛とサト、フミの3人は、血相を変えて店の外に飛び出してきた。そして、店の右手を見ると、本町四丁目の四つ角から雲母橋の間を汐織が手を振りながら走っていた。日没までにはまだ少し時間があるため辺りは十分に明るく、その顔が笑っていることも確認できた。そして、汐織は、あっという間に雲母橋を渡って店の前まで戻ってきた。 「ただいま帰りました」 「おっ、おまえ・・・ほっ、本当に浅草を往復してきたのか!?」 「はい、この通り天野屋の旦那様に印鑑をいただいて参りました」 汐織はそう言うと、弥兵衛から預かった帳面を開いて義兵衛の押してくれた印鑑を示して見せた。 「たっ、確かに!・・・・・なっ、なんという俊足!」 「ああ、それから旦那様、帰り際に天野屋さんから注文書も預かって参りました」 「おおっ!本当ならお取引を止められるところを注文書までいただけるとは、汐織、かたじけねえ!」 弥兵衛は、汐織に深々と頭を下げた。 「やめてくださいよ。いつもお世話になっているのだから、これくらいは当たり前でございますよ」 「まあ、まあ、店先で立ち話もなんだから中にお入りよ汐織、ずいぶん疲れたろ!?」 「いいえ、おかみさん、あの程度の距離なら疲れるようなことはございません」 実際に、汐織は、汗はかいているものの息ひとつ乱していなかった。 「つっ、疲れないって、2里半も走ってだよ!!」 「はい」 「汐織ちゃん、すご〜〜い!!平成の人ってみんな汐織ちゃんみたいに足が速いの〜?」 「ん〜ん、江戸にだって足の速い人も遅い人もいるでしょ」 「うん」 「平成だって同じよ、私は、たまたま足が速い方なのよ」 「ふ〜ん、あちきもあんなふうに速く走りた〜い!」 「じゃあ、江戸を案内してくれる代わりに走り方を教えてあげるわ」 「本当――!やった――!」
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