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作品名:時の彼方 作者:箕輪久美

第1回   第1話
「美谷さん、欠食の連絡が一件入ったんですが、まだ間に合いますか?」
「ああ、今、ちょうど食数の報告をしようと思っていたところなので、ぎりぎり大丈夫ですよ」
「それはよかった。307号室の崎田さん、今晩ご家族と過ごされるそうなので夕食を欠食したいとのことです」
「わかりました」
汐織は、食数を1つ減らした報告書を作り直し、委託業者にファックスした。
 ここは、S市にある特別養護老人ホーム。美谷汐織は、34歳、管理栄養士としてここに勤務して8年になる。大学を出て同市にある病院の管理栄養士として就職し、3年後に結婚して寿退社した。しかし、わずか半年で離婚。そして、その半年後からこの老人ホームで今まで働いている。前夫との間には子供はなく、離婚後は実家に戻り、両親と妹の4人で暮らしている。
やがて、夕食の30分前になったため、汐織は、夜勤の介護職員に検食をしてもらい検食簿を記入してもらった。そして、この検食簿に目を通して、味、盛り付け、硬さなどを確認しながら、再来週の献立のメニューを作成して今日の仕事を終えた。
職場を後にした汐織は、歩いて10分程の最寄駅から自宅とは反対路線の電車に乗り、3駅向こうのH駅に向かっていた。今日は平成28年4月8日金曜日、高校時代のクラスメートの結城敏宏と食事をする約束をしていたのである。
 電車は、約15分後にH駅に到着した。改札を出ると敏宏がすでに汐織を待っていた。
「よっ、お疲れ」
「あら、早いのね」
「いや、俺も今着いたばかりだよ。じゃあ、行こうか」
「うん」
2人は、駅の東側の出口を出て繁華街に向かって歩き出した。
 結城敏宏は、汐織と同い年の34歳で独身。大学卒業後、自らが暮らすY県の県庁に就職し現在まで12年間同所で勤務している。汐織とは、昨年行われた高校の同窓会で16年ぶりに再会した。
高校時代には、それほど話をする機会はなかった2人であったが、同窓会ではアルコールを口にしていたせいかお互いによく話し、2次会のカラオケでもデュエット曲を歌って大いに盛り上がった。そして、帰り際に互いの連絡先を交換して別れ、それ以来定期的に交流を続けている。
今日は、勤務先の近くに四川料理の美味い店を見つけた敏宏が、汐織を招待したいと思い立ち連絡を入れたところ、汐織も特別な予定がなかったため快くその申し入れを受けたのであった。
「四川料理って以前に食べたことがあるけど、すごく辛いでしょ」
「うん、でも、ただ辛いだけじゃないんだ。俺も辛いのは苦手な方なんだけど、そんな俺でもまた食べたくなってしまうような癖になる辛さなんだ」
「へ〜え、何だかちょっと楽しみね」
2人は、2つ目の交差点を渡って右に曲がり、さらに少し歩くと左手の小さな雑居ビルの2階に四川料理店の看板が見えてきた。
「あそこだよ」
「わりとこじんまりした感じなのね」
「そうなんだ。でも、案外そういうところに名店があったりするもんなんだ」
「ふふ」
階段で店の前までやって来た敏宏と汐織は、入り口の手動のドアを開けて店内に入った。
「いらっしゃいませ―!」
「6時半から予約をお願いしていました結城です」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
2人は、窓際の一番奥の席に案内された。
「こちらがメニューでございます。お決まりになりましたらお呼び下さい」
「はい」
「コースメニューが4つあるけどどれにする?」
「どれがおすすめなの?」
「この海老チリソース炒めと麻婆豆腐が入ったBコースがおすすめなんだ」
「そう、じゃあ、それにするわ」
敏宏は、テーブルチャイムを鳴らして店員さんを呼んだ。
「お決まりでしょうか?」
「はい、Bコースを2つお願いします」
「お飲み物は何になさいますか?」
「僕は、生ビールを」
「私は、カシスオレンジをお願いします」
「承知いたしました。しばらくお待ちください」
5分程して飲み物と野菜の盛り合わせが運ばれてきて食事が始まった。
「それでは、何にかなぁ?よくわからないけど、カンパーイ!」
「ははは、カンパーイ!」
「今年ももうすぐ桜が散っちゃうね〜」
「そうね、結城君は、花見には行ったの?」
「うん、家の近所の川沿いの桜だけどね」
「私は行けなかったなぁ〜」
「じゃあ、食事が終わったら学校へ行ってみる?」
「えっ!?」
「覚えてない?学校の東側に川が流れてて、土手に桜の木がずっと向こうの方まで植えられてたじゃない」
「ええ、覚えてるけどここから学校って」
「いや、それほど遠くはないよ。タクシーを使えば40分程だよ。まだいくらか咲いているんじゃないかな」
「ふ〜ん、まさか今年これから花見ができるとは思ってもみなかったわ」
 1時間半程して食事を終えた2人は、出身高校へ向かうタクシーの中にいた。
「う〜ん、確かに何か後を引くような辛さだったわね」
「だろ。きっと何日かしたら忘れられなくなっちゃうよ〜!」
「そうかもね」
「また、行きたくなっても知らないぞ〜!」
「私が栄養士だってことを知らないの?」
「えっ、まさか!?」
「そう、大体何を使っているか分かったわ」
「わ〜、自分で作るつもりだ!ずり〜な〜!」
「アッハッハハハハ」
 およそ40分後2人は、出身高校であるN高校の正門の前にいた。正門は、学校の西側にあるので桜を観るためには、正門とは反対の東側に出なければならない。
汐織と敏宏は、ゆっくりと学校を取り囲む道を歩きながら、校舎の東側を流れる川沿いに花を咲かせている桜の木々を臨む場所に向かっていった。
2人の目の前には、金網越しに広大なグラウンドが広がっていた。
「あの頃は、飽きもせずに毎日毎日ここを懸命に走っていたわね〜」
「汐織ちゃんは、うちの看板選手だったからな。でも、俺には、全くトラウマのグラウンドだぜ」
「トラウマ・・・?ああ、あのこと!」
 汐織は、高校時代陸上部に所属していた。子供のころから群を抜いて足が速く、公立高校であるN高校では異例の県のインターハイ代表選手であった。専門は長距離走で3年の時の大会で1万メートル全国第3位に輝いた程の実力の持ち主であった。高校卒業後、複数の大学からスポーツ推薦の勧誘があったが、自らのトレーニングの過程で栄養学に興味を持った汐織は、思案の末に栄養学を学ぶ道を選んだ。
敏宏の言うトラウマとは、体育の授業の余興で行われたリレー競争のことであった。クラスを2つのチームに分けてリレーで対決し、負けたチームがグラウンドの整備をする罰ゲームがついていた。両チームの男女の数は同じであったが、走る順番は各チームが自由に決めることができた。つまり、必ず男子同士女子同士で走るとは限らないということである。
Aチームの後ろから3番目を走ることになった敏宏は、Bチームの汐織はアンカーに来るだろうと予想していたので、一緒に走ることはないと安心していた。
ところが、Bチームは意表をついて、汐織を後ろから3番目に起用し、アンカーは、サッカー部の男子に任せる作戦を取った。
自分の走る順番が来た時に、汐織が出てきたことに動揺した敏宏は、わずかに早くバトンを受けて走り出したものの、あっという間に汐織に抜かれてしまい、最後は大差をつけられて次の走者にバトンを渡す羽目になった。
結局このロスが大きく響いてAチームは、敗退。敏宏は、罰ゲームのグラウンド整備中にさんざんチームメートからからかわれたのだった。
「もうちょっと、気を遣えばよかったわね」
「まったくだぜ」
「まあ、あの頃は、わたしもまだ若かったってことよ。勘弁してよ」
「こればっかりは、勘弁できねえなあ〜!」
「何よ、じゃあ、どうすればいいのよ」
「一生かかって償ってもらうぜ」
「何言ってるのよ、バカ!」
敏宏が、汐織との将来をほのめかすような言い方をしたため、両人は、しばしの間沈黙してしまった。
 やがて、2人は、校舎の東側を南北に流れる川の側道に到着した。街灯に照らされた川の土手には、高校時代と変わらず、桜の木々がほぼ等間隔に植えられて、川の行方がわからなくなるまでずっと続いている。
「わあ〜、まだ半分くらい花が残っているわね」
「そうだね。もう一週間もすれば、ほとんどが散ってしまうんだろうな」
「夜桜か、久しぶりに見たけれどいいものね」
「ああ」
この時、一陣の風が吹き、2人の近くにある桜の木の枝から花弁が次々にゆっくりと水面へ落ちて行った。
「綺麗ね〜」
「そうだな」
よく目を凝らして見てみると、風が吹くたびに、あちらこちらの木の枝で同時に同じ光景が繰り返されている。
「満開の桜は、美しいものだが、その桜が散り行く様も同じくらいに美しいものだな〜」
「本当にそうね。今日は、いいものを見せてもらったわ。ありがとう、結城君」
「どういたしまして」
 その後、学校の近くの幹線道路でタクシーを拾った2人は、待ち合わせをしたH駅に戻り、そこで別れて各々帰路についた。
帰りの電車の中で、汐織は、敏宏のことを考えていた。
『結城君、やはり、私に好意を持ってくれているようだわ・・・でも・・・』
汐織にとって、敏宏は、一番親しい異性の友人であることは間違いない。
しかし、汐織は、どうしてもそこから先へは進むことができなかった。それは、8年半前に自身が経験した離婚に原因があった。
汐織の結婚相手は、当時勤務していた病院の医師であった。3歳年上の常勤医は、交際中は温和で大変優しかった。1年間の交際期間を経て、汐織は、この相手であれば将来を共にしてもよいと思い結婚に踏み切った。
しかし、結婚生活が始まると、夫の態度は一変した。とにかくすべてが上から目線で、命令口調でしか話さない。結婚さえしてしまえば、妻は、自分の使用人であるかのようなその振る舞いに、汐織はとうとう耐えきれなくなって半年間で離婚を決意したのであった。
 これ以来、汐織は、男性と深く交際することができなくなった。ある一線を越えたところで、また、突然本性が現れるのではないかという思いがいつも付きまとうようになった。
敏宏に限っては、そのようなことはないと頭ではわかっている。しかし、汐織は、異性に対して親しみが増せば増すほど、どうしても、破綻した結婚生活が頭をよぎり、そこで立ち止まってしまうのだった。
 11時前に帰宅した汐織は、入浴を済ませ、歯を磨いてベッドに横になった。そして、読みかけていた小説を30分程読んでいるうちに徐々に眠気を感じ始めた。
少し早いが、汐織は、眠気に抗わず眠ることにした。電気を消し、布団をかけて目を閉じた。
眠りに落ちるまで間、桜の花弁が夜風に吹かれて枝から次々と川面に落ちてゆく光景が脳裏に浮かんでいた。
 翌朝、汐織は、7時過ぎに目を覚ました。今日は、土曜日で休日である。しばらくは、布団の中でぼんやりとしていたが、徐に身を起こし、布団から出て部屋のカーテンを開けた。
そして、ベッドの横で1つ大きく伸びをした。
その瞬間、目の前が暗くなって思わず体がふらついた。
『あっ、立ちくらみだ!』
そう思った刹那、汐織は意識を失って、ベッドにうつ伏せに倒れ込んでしまった。


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