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作品名:かいなに擁かれて〜あるピアニストの物語〜 作者:ヒロ

第8回   第八章
        第八章 〜悔やむかつてのその時の章〜

 のれんを潜り、敷居を跨ごうとする徳寿の前に、信と正平が立ちはだかった。二人の拳は固く握られていた。カウンターの向こうに居た女将さんが二人の背を追うよりも先に、魅華の手が信の背にそっと触れた。信の固く握られた拳が緩んでゆく。徳寿は信の背中越しの魅華に声を掛けた。
「少しだけ、話せないかな」
 再び信の拳が固くなる。魅華は徳寿に答える前に、信を見上げ、静かに顔を横に振った。信は正平の肩を軽く叩くと、二人は徳寿を睨み付けながら席に戻った。
「少しなら、だけど、此処じゃ、ちょっと……」
「わかった。じゃ、歩きながらでもいいから」
 魅華は頷いた。
 徳寿隆法は、諸井に詫びを告げて、魅華と納屋を出た。

「諸井さんよぉ、アンタよく此処に来れたな!」
「ほんとだぜ! アンタ、一体何考えてんだよぉ!」
 一気に殆ど悪酔いしてる信と正平に挟まれて、諸井は予期せぬ災難にでも見舞われたように神妙になっていた。
「アンタ達さぁ、そう何もかも諸井さんにおっ被せるんじゃないよ! 諸井さん、ま、折角、お久ぶりにおいでになったんだから、ビールでも飲んでよ! ハイよ!」
 雅代は諸井の前にジョッキを置いた。
「あぁ、女将さん、ありがとう。ホント一時はどうなるかと冷や汗をかいたよ……、だけどさぁ、まぁ縁が出来るきっかけを作ったのは確かにオレだけどさぁ、でも何かスッキリしないよなぁ……、オレってそんなに悪いの? ねえ、そこのひと、ねえ、どうなのよ?」
「アンタ飲む前からもう酔ってるのかよぉ! そうだよ、アンタが一番悪いの! 極悪!ってか、それはそうと何年ぶりだぁ? アンタと此処で会うのは?」
 殆ど酩酊状態の正平が諸井の顔に唾を飛ばしながら怒鳴るように言った。
「おっ、そうだ、何年ぶりだ? 諸井のおっちゃんよぉ、アンタかなり薄くなったよな、頭。めちゃ薄くなってるぞ! ほれ、しっかり見せんかい!」
 ジョッキを煽る諸井に信がその巨体で彼を取り囲み、いたぶるように大きな手で彼の薄くなったそれを掻き回した。揺さぶられジョッキからビールが溢れでる。
「ハイ、ハイ、アンタらもうおヨシ! いくら温厚な諸井さんだって終いには怒っちゃうよ! ごめんね諸井さん。多めに見てやってくださいな。信ちゃんも、正ちゃんも、悪気なんて無いんだよ。ただね、今日は魅華ちゃんの為の集まりだったから、主役が居なくなってそれがフイになったもんだからさぁ……」
 薄くなった乱れたそれを手櫛で直しながら、殆どが溢れて空になったジョッキを差し出して諸井は言った。
「あれから、もう何年になるかなぁ? 確か、初孫が出来た年だったな。その孫がもう小学校に上がったんだからなぁ。するとそうか、もう七年も経ったんだよなぁ。随分とご無沙汰したもんだな。女将さん、魅華ちゃんは今も此処に居るの?」
 それを聴いていた信と正平は肩で大きなため息をついた。
 カウンター越しにジョッキを握り、雅代は諸井の方に目を向けた。
「今は、魅華ちゃんは此処には居ないよ。徳寿さんからは何も聞かされてないみたいだね」と、ビールサーバーのレバーを引いた。「ピアノ、続けてるよ。暮れにコンサートをするんだよ。あの子にとって生まれて初めてのソロコンサートをクリスマスイブにね。それで、この二人は魅華ちゃんのために一生懸命ってわけ。今夜も、その激励会みたいな、ってことだったんだよ」
 新しいビールを諸井の前に置くと、雅代は奥の調理場で何かを作り始めた。
「ソロ、コンサートか……」
諸井はジョッキを見つめて呟いた。


 未だ冷めやらぬ熱気を残し、昼間の厳しい陽射しの名残が納屋を出て歩く路面からずっと伝わっていた。しかし、その不快な熱気も、ここの石段を登り始めた頃から涼やかな空気へと変わってゆくのが二人に感じ取れた。
 都会の雑踏の中でここだけが別の世界のように思える。
石段を登りきると、凛とした空気に満ち溢れた広い境内があった。
二人は御神木の脇に置かれた縁台に腰を下ろした。
俯き気味の魅華に隆法が口を開いた。
「元気にしていたか。あれからもう随分と経ったな」そして隆法は続けた。「本当にすまなかった。赦して欲しい。オレと御袋を。今更、詫びたところで赦されるなんて思ってもいない。それでも謝りたかった。ずっとこの七年、その事を考えていた……」隆法は魅華に深く頭を下げて詫びた。
 魅華が目をあげる。「もういいの。もう何もかも、過ぎた事はいいの。だから、隆法さん、貴方も、もう忘れて欲しい。そして先をゆく時間を大切にして欲しいの」
「オレを恨んだだろうな。本当にすまなかった」
 もう七年以上も前のこと。突然に言い渡された、離婚。
 魅華には到底理解し難い突然の――、宣告であった。
「どう考えても馬鹿げたことだった。御袋の云うがままを、あんなことを――、本気に鵜呑みしてしまった自分が今更ながら情けない。馬鹿だった。いや、狂っていたんだ」
 隆法は拳をぎゅっと固く握ったまま頭を項垂れて呟いた。
「お義母様は、何よりもアナタが大切だっただけなのよ。その想いが人の何倍も強かっただけだわ。お義父様を亡くされてから、お義母様の支えはアナタだけだったのよ。だから、あんな風にアノ方から助言されれば……、納得は出来なくても、諦めようと努力することは何とか出来た」
 魅華は御神木を遠い目で見上げた。
「オレが小学校五年生の時だった。父がネパールで自動車事故に遭ったのは。即死だった。ルビーの買付けに出張した旅先での事故だったんだ。出張に出掛ける当日も、母は、父が玄関を出るまでずっと反対していたんだ。日にちを変更するか、もしくは出張先を変更して欲しいと……」
 徳寿の家では曽祖父の代から宝石商を営んでいる。祖父の代で猛烈な手腕と強運も相まって事業は飛躍的に大きくなった。その強運を導いたとされる占い鑑定の一門と、祖父の代から徳寿家との親交は厚い。
 徳寿家の妻は、節目節目に主人の運勢や事業の展望などを時折その一門に鑑定を依頼する慣習があった。
 しかし、隆法の父はそれを信じなかったし、非科学的なそれらに対して否定的であった。独自の経営哲学と時勢を見抜き情報を分析し、論理的かつ合理的な経営こそが真の経営であると信じて疑わなかった。だから母の耳打ちなど苦笑いで聞き流す程度にしか過ぎなかった。その母も何もかも全てをそれに依存している訳でも無かった。
 だが、姑に長年仕え、叩き込まれた徳寿家を支える妻としての重圧と掟のようなモノに憑依されていたのかも知れない。出張を前にして母は、鑑定を依頼していたのだった。
 そして――、事故は現実のものとなった。最悪の偶然が相まっただけなのかも知れない。
 隆法の父の亡き跡を母が徳寿家の全てを引き継いだ。事業の実権の全ても。さらに一門との親交も厚くなっていった。
 その後――、隆法の父の命と引き換えとなって買付けたのはルビーのみならず、鉱脈をまでも買付けていたのだった。それが元となって事業はさらに飛躍的な収益を上げ続けた。宝飾品として、工業部品として、その商権を徳寿家は一手に握ったのであった。
 更に歳月は流れ、隆法は魅華と出会い、結婚の想いを募らせた。
 その想いを母に打ち明け同意を願った。母は叩き込まれた徳寿家の妻の掟に従い、一門に鑑定を頼んだ。
〈婚姻後三年が満ちる前に男子誕生あらばこれ順風満帆なり。なれど、あらずば一族の存亡に係わる災厄これあり〉
 このことは、隆法と母以外には、誰も知る者はいなかった。
 隆法にとっては、一門の鑑定の結果などどうでもよいことだった。
 例えその結果がどうであろうと魅華への想いの前には取るに足りないことであった。がしかし願わくは、たったひとりの肉親である母に祝福して貰いたかった。
それに一旦結婚してしまえば、そんな年限など意味もなく、また当然に自然に子供も授かると魅華への想いと幸せを噛み締めることに何の憂慮も感じ無かった。事実幸せだった。
幸せを噛み締める日々は続いた。

 ――三年の時は流れた。
「あの時、オレは母に逆らえなかった。母と親子の縁を切ってでも魅華を手放すべきではなかったんだ……。すまない。ほんとうにすまなかった。出来なかったんだ出来ない理由があったんだ……。ほんとうにすまない」
「ううん。もうやめて、お願いだから。もういいの、ほんとうに。ワタシ、感謝はしても恨んでなんかはいない。もういいの。ありがとう隆法さん。だからもう何も言わないで」
 魅華は男泣きに泣きじゃくる隆法にそっとハンカチを差し出した。 魅華の涼しげな切れ長の瞳にも溢れる一条の雫が頬を伝って落ちた。


             ※
 高柳邸の仏間に設えられていた白木の祭壇は、四十九日が過ぎると片付けられ、その上に掲げてあった正義の遺影は、仏壇の上の壁に今は妻の遺影と並んで掲げられている。仏門によると、人はこの世を去った後、魂は四十九日を生前過ごした家の棟に留まってから冥途へと旅立つらしい。魂が旅立って、仏となり墓に入り仏壇にも祀られることとなる。
 現役を引退して、歳月が過ぎたとはいえ、それでもかつては、我が国を代表する大手企業の取締役技術本部長を務め、アジアの近代建築の技術に大きく貢献し、多くの実績を遺した高柳正義の納骨の儀式としては、余りにも質素で寂しかった。
 墓標を前に読経する僧侶の背には、杏子の隣に榊裕介が佇み、その後ろにはかつての部下が二人参列しているだけで、それぞれが数珠を持ち合掌していた。
 僧侶の目配せで、遺骨が納められた墓石に向かい、杏子から焼香が始まり、裕介、そしてかつての部下へとすぐにそれも終わった。
 焼香の煙は墓標に沿って真っ直ぐに蒼い空に昇ってゆく。
 やがて読経も静まり、僧侶は数珠を手に合掌したまま皆の顔を一まわり眺めると、深々と頭を下げ、滞りなく儀式を終えたことをその身で伝えた。
 杏子をはじめ皆も深々と礼を尽くした。皆に向かい供養の言葉を短く告げると、再び深く頭を下げて僧侶は遠ざかっていった。それを機にかつての部下たちも、杏子に丁重な挨拶を残して、その場を離れて行った。
 玉砂利を踏む音が徐々に遠ざかり、やがて聞こえなくなると、裕介は内ポケットからタバコをとり、火をつけた。胸の奥深くには吸い込まずに……、それを墓標に立てた。
「お義父さん、好きだったな、タバコも酒も」
 タバコの先が僅かに燻されたように――、燃えてゆく。
 杏子と裕介は、それをしばし、見つめていた。
 やがて真っ直ぐに立った白い灰は、音もなく崩れ、前触れもなく吹いた風に舞い上がって何処へともなく消えていった。
「今日は、ほんとうにありがとう。お父さん、きっと喜んでいると思う。アナタが来てくれたから」
「いや、それは、どうかな……、今でもきっと、まだこのオレを許していないんじゃないかな。今こうやって、お墓の前で、杏子と一緒に居ることも許していないと思う」
「お父さんは、お母さんと一緒のお墓に入った今、きっと色んな話をしているんだと思う。もしかしたら、天国であのお父さんがお母さんのご機嫌を取りながら、頭を下げているかも知れないわ」
「お義母さん?」
「そう。お母さん。私が高校一年生の時に亡くなったお母さん」
「そうだったな、杏子は早くにお義母さんを亡くしていたんだったな……」
「お母さんが亡くなった時、私、お父さんを生涯赦さない。と、思ったの。お母さんの三回忌が過ぎるまで一言もお父さんと口を利かなかったわ。お父さんが憎かった訳じゃないの。だけど、最後までずっとずっと頑張り続けて、お父さんを待ち続けていたお母さんが可哀想で見ているのが悲しくって、何度も何度もお父さんに連絡を、国際電話を掛け続けたのに、結局は帰ってきてくれなかった。やっと帰ったのが、納骨の日の前日だった……」
「その話は聞いたことがある。オレが入社した年だった。当時オレは新入社員で当然にプロジェクトの内容も詳しいことは何一つ知らされるはずもなかったし、知る術も無かった。だけどそれなりの噂は耳にした。お義父さんは社の史上最大の巨大プロジェクトの推進責任者だった。あのプロジェクトは社運を掛けたものだった。そして起きたんだ。事故が。十七名がその事故で命を落とした。地上二百四十二メートルに設置された仮設足場の崩落事故だった。安全帯、高所作業の時の命綱を繋いでいた親綱も枠組み諸共、崩落したんだ。類を見ない悲惨で壮絶な事故だった」
「事故のことは、後に私も知ったわ。事故が起こる少し前だったの。お母さんが倒れて入院したのは……スキルス性の胃がんだった」
「辛かった――だろうな」
「どっちが?」
「いや、どっちでもなく、全てが同じだけ……」
「仕事って、責任って、誰が何に対して何を果たし、そして家族って、幸せって、いったい何なんだろう……。私は今も分からない」
「……、オレ、今日は、これで失礼する。杏子、疲れが出ないようにしろよ」
 杏子は何も答えずに、じっと墓石を見つめたままだった。
 杏子よりも先に立った裕介は、彼女の肩にしばし軽く手を置くと、踵を返した。
 玉砂利を踏む音が、杏子の耳朶から遠ざかりやがて聞こえなくなった。


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