20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:かいなに擁かれて〜あるピアニストの物語〜 作者:ヒロ

第7回   第七章
          第七章〜再会・廻り合い再びの章〜

 タクシーを降りるとタバコに火を点けた。生ぬるい湿気を多く含んだ不快な空気と一緒に煙を胸深くに吸い込み、遠ざかるテールライトが見えなくなるとようやく決心がついた。
 事務所を出てからも、ここに着くまで、今更会ってどうする。と、
今会わなければ。とが、交錯していた。
 入口の隅に置かれた灰皿にタバコをもみ消すと裕介は歩き出した。
 夜間受付で高柳正義の名前を告げ、病室を訊ねた。エレベータを使わずに三階までの階段を昇る。
 一歩また一歩と足を進めながら、何時かこんな日が訪れるのではないか、と考えたことを裕介は思い返した。しかしそれが現実のこととなって、今、ここを訪れていることに、言いようのない重苦しさを感じた。
 最後の――、階段を昇りきる。
 既に灯りが落された廊下に裕介の靴音が響く。
 左右に病室が並び、真っ直ぐに伸びた暗い廊下の先に、灯りに浮かぶ所があった。常夜灯が廊下の隅に置かれた長椅子にある人影を映している。
 膝のうえでハンカチを握り、小刻みに肩を震わせている小さな影が遠目にもそれが誰なのかは裕介にはすぐに分かった。
 その人影に歩み寄り、足を止める。
「あなた……」
 嗚咽をのみ込んで、かろうじて絞り出した声だった。裕介を見あげる瞳は、真っ赤に充血し腫れた二重の瞼から新たな雫が零れ落ちた。
 裕介は杏子の前に膝を折った。すると、すがるように杏子は裕介の胸に顔を埋めて嗚咽した。杏子の中で、ぎりぎりまで必死に堪えていた何かが崩れ、堰を切ったように溢れ出したのだった。
 裕介は(間に合わなかった)と悟った。
「何時だったんだ」杏子の耳元で裕介は呟いた。小刻みに震える小さな肩を僅かに強く揺すった。「一時間ほど前に……」
 杏子から目をあげ、病室を見やったとき、扉が開かれた。そこから注がれる光りは鋭く、薄闇に慣れた裕介の目に痛みを感じる輝きとなって射し届いた。光りの中から白い人影がふたりに向かってくる。
「お着替えが終わりましたので……」看護師であった。長椅子のふたりに丁寧にお辞儀をすると、「お帰りの為のお部屋にお移し致しますのでしばらくお待ちください。お渡しする書類がありますので、後ほどお持ち致します」手短にそう伝えると再び深くお辞儀し踵を返した。
「お世話になりました」裕介は頭を下げた。
 杏子は裕介を見あげると、
「あなた、父に――会って、あげて」
 裕介は頷いた。
 部屋に入るとそこは片付き過ぎるほど片付いていた。寒々しくさえ感じられた。たったほんの数時間前までは、様々な機器に取り囲まれ、幾本ものチューブや線がそこに仰臥する者を繋いでいたであろうことは容易に想像することが出来た。それが今は一切その痕跡をも消し去るように取り除かれている。
(どうしてもっと早く来なかったのか。オレは一体何を――、躊躇っていたというのだ)
 ベッドの脇に立つと、白い布は掛けられていなかった。掛けられた布団の盛り上がりの薄さに裕介は自分の目を疑った。
 かつて鋭い光を放っていた眼は閉じ、ひとつの息が絶え、紅顔むなしく変じて桃李の装を失い仰臥する師の顔を裕介はじっと見つめた。「おとうさん……」無意識に湧き出た言葉であった。義父の額に手をやりそっと撫でると僅かに温かかった。
 その温かさを感じた途端に胸を締め付けられる得体の知れないものが込み上げたかと思うとあとはもう目が滲んで、息苦しくて何の言葉も、もう掛けられなかった。
(どうして……なぜ、突然に、こんなにも早く逝ってしまうのですか――おとうさん)
 うしろに立つ杏子は裕介の背にそっと手を添えた。添えられた手のぬくもりは裕介を締め付ける何かから彼を解き放した。
「あなた、父の、カバンに、これが……」
 封書であった。
 ――榊裕介殿――
 杏子はそれを裕介に手渡すと部屋を出た。
 封書に記された宛名の文字は、かつて筆圧に富み力強さを感じさせ右に跳ね上がる特徴のある師・高柳正義の筆跡とは思えないような微弱な文字であった。
 その残された力を振り絞りながら、正義はそこに何を書きしたため自分に遺したのであろうか、と裕介は師の想いを察し巡った。
 裕介は封書をジャケットの内ポケットに納めると、正義を見つめた。
「おとうさん、これを読むのは、今しばらく時間をください」裕介は合掌の後、白い布を師の顔に掛けて部屋をでた。


 週末の夜ともあって納屋は普段に増して賑わっていた。
 カウンターとテーブルが二つある席は満席になっている。カウンターの一番奥に魅華が座り、その隣で伊原木信が楽しげに場を盛り上げている。遅れてついさっき印刷屋の田沼正平も顔を出した。
「おい、正ちゃん! チケットや案内状とかパンフレットしっかり頼むぞ!」
 すっかりご機嫌気分の信は得意気に云った。
「ほい、ほい。任しナッって! しかしまぁ、魅華ちゃんも大変だわ、こんなのがマネージャーなんだからさぁ。ガハハハッ!」
「おい、おい、お前、本当に大丈夫なんだろうな? 魅華ちゃんのピアノソロだぞ! クラシックのコンサートだぞ! 正ちゃんよぉ、少しは分かってるの?」
「失礼なヤツだな! そういうお前こそ全然分かってないんじゃないの?」
「ちょっと、ちょっと、二人とも止めなさいて! 魅華ちゃんが困るでしょ」
 奥から手を拭きながら雅代がカウンター越しに割って入った。
「ほんと、昔からアンタ達は変わらないね。取り分け魅華ちゃんの事になると何時もそうなんだから、でもまぁしっかりお願いするわね。はいこれ私からのおごり」
 信と正平の前に雅代は生ビールを置いた。
「サンキュー女将さん!」ふたりは声を合わすように同時に云った。
 雅代は魅華に目配せするように微笑んだ。
「お母さん、ありがとう」とその時だった。
「あ、満席だね。女将さん」
 のれんをくぐり店の中を見やる男が云った。
「ああ、お久しぶり諸井さんじゃないの。お元気にしてましたか」
「お陰さまで何とかやってますよ」
 信と正平は顔を見合わせ、店の入り口の方を睨むように見た。
 諸井は時計と貴金属を扱う店を営んでいる。
 その店に貴金属を卸していた宝石商が魅華の再婚相手となった徳寿(のりひさ)だった。
 商談に訪れた徳寿をかつて諸井はたまたま食事の為に納屋に誘っただけであった。
 その頃、納屋の手伝いをしていた魅華に徳寿は好意を持ち始め、その後ひとりで頻繁に店に足を運ぶようになった。
 徳寿が魅華に恋心を擁くようになるまで、長い時間の必要はなかった。宝石商にありがちな独特の雰囲気など微塵にも感じさせない誠実で爽やかな印象は、彼の内面とも変わりなく同じであった。
 心に重い影を引きずる当時の魅華にとって、彼から発せられる穏やかで暖かい気の流れに心を癒され、やがて二人は付き合うようになり、魅華は徳寿と再婚した。
 そして三年が過ぎ、あの日突然に言い渡された――離婚。
 あれから――七年。
 魅華の離婚を知った諸井はあれから納屋を訪れていない。諸井が責めを感じることなど何ひとつとしてない。
 しかし、二人が知りあうきっかけを自分が作ったという思いが少なからずあったのであろう。納屋には雅代を始め伊原木や田沼のように魅華を支えたいと願う人間が居るのだ。
 諸井はそれをよく知っているからこそ、ここの敷居が高かったのだ。
 雅代はそのことを誰よりも良く知っている。(それなのに、諸井さんがどうして?)と思った時だった。諸井の後ろに、のれんの向こうに男の姿のあることに気付いた。
「女将さん、随分とご無沙汰しています」
 のれんを分け、男が挨拶した。
「徳寿さん……」雅代は思わず声を出した。
 その声に、信と正平は仁王立ちとなった。
 しかし彼らが仁王立ちになる前に既に魅華と徳寿の視線は宙で交わっていた。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 2257