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作品名:かいなに擁かれて〜あるピアニストの物語〜 作者:ヒロ

第6回   第六章
          第六章〜コンサートに向けての章〜

 今朝の眩しい陽射しが嘘のように俄かに降り出した雨は、夕方、駅に着く頃にはすっかりあがっていた。梅雨明け宣言のないままいつの間にか、初夏を通り過ぎて、もう真夏といえる季節が訪れていた。
 人波に押されるように改札を出て、正面のバスターミナルの案内板の前に向かい腕の時計に目をやる。待ち合わせまで十五分あるなと目をあげると、誰かに肩を叩かれた。
 振り返ると、伊原木信だった。
「あ、信ちゃん。え、どうしたのよ? その格好」
 普段は油に塗れたツナギの作業着か普段着といえばジーンズにポロシャツといったようなラフな格好しか見たことが無かっただけに、見慣れぬスーツ姿の伊原木に少し驚かされた。
「いやぁ……たまにはパリッとした格好をね。俺だってスーツくらいある、ある」
 普通にしていても流れるように下がった目を一層垂れ下げてカラスの足跡を小さくしたような皺を目じりに作り、照れ臭そうに頭を掻きながら信は云った。魅華はふふふっ、と微笑んだ。
「信ちゃん、似合てるよ」
 うん、うんと満足そうに信は頷き、首筋に伝う汗をハンカチで拭った。百九十センチ、百キロを超えているであろう巨体が放つ熱量は多いのか、薄いブルーのワイシャツの首筋の辺りは濃いブルーになっている。
 子供が大人を通り過ぎて巨人になったような体躯なのに、垂れ下った瞳は、赤ん坊のように汚れなくどこまでも透き通っている。
「しかし、蒸し暑いなぁ。魅華ちゃん、ご飯の前にちょっとビールでも飲まない?」
「そうだね。今日はお礼に私が御馳走するわね」
 ストレートの髪をかき上げ、信を見上げた。
「いや、いや、そんなのいい、いい。じゃぁ、とりあえず行こうか」
 魅華がソロコンサートを開催しようとしていることと、その会場がなかなか決まらないことを納屋の女将さんから聞き知った信は、駅前のショッピングモールにある安宅サロンのオーナーの息子であり、高校の同級で友人の安宅に協力を求めてくれた。
 安宅サロンは百人ほど収容できるサロンで、この辺りでは有名なサロンだ。
 一年を通して、様々な講演会や発表会、著名な音楽家を招いてのクラシックのリサイタルや催しを通して地域に貢献していた。特に震災の後、地域復興に大きく貢献したサロンとしても有名だった。
 信は魅華のマネージャー役を買って出てくれたのだ。昨日、仕事の後、信は予め魅華に聞いていた希望の日程を、安宅に会い申し入れてくれた。会場費も売れたチケット代の半分ということで承諾を取り付けてくれたのだった。

 魅華のソロコンサート。
 十二月二十四日。
 クリスマスイブにその日は決まった。

 駅から山麓の稜線に向かい、緩やかに流れる川に沿って少し行くとオープンテラスのあるカフェがある。時間がまだ早いせいか、テラスには、ふたりだけだった。
 駅を出た頃に感じた湿気を多く含んだ不快さは、そこにはなかった。
時折山あいから吹き下ろす風は、緩やかに流れる川面に一旦舞い降りて、涼気を含み爽やかな蒼い風となってテラスに届く。
「信ちゃん、本当にありがとう。一緒に安宅さんにお願いしたかったのに」
「いや、いや。挨拶は改めて。と、言ったのは俺だよ。マネージャーだからね。俺に任せておいてよ。安宅も気持ち良く引き受けてくれたから安心しな。良かった。良かった。さぁ、とりあえず乾杯だ」
「うん、本当にありがとう」
 同じグラスに注がれたビールなのに、信のグラスの方が小さくみえた。グラスを触れあわせ、それを口にした。
「凄くおいしい」と魅華は思った。
 細い目を更に細めて信は一気に飲み干した。空いたグラスをテーブルに戻すと、
「すみませーん、おかわりお願いします」と、云って、微笑みながら魅華をみた。
「あ、魅華ちゃんは? まだいいか」
 うん、うんと魅華は自分のグラスに目をやった。信が頷く。
「魅華ちゃん、スケジュール、これから大変だよね。無理するなよ。案内やパンフ、チケットとか、とか、あ、俺、音楽のことはよく分からないから進行の演出とかも、だけど俺頑張るぞ。絶対に成功させてあげたいんだよな。なんかさぁ、自分のコンサートみたいな気がしてね。頼りないかも知れないけど、一緒にやらせて欲しいんだ。お願いだから」
「信ちゃん、頼りないなんて……、ありがとう。本当に感謝しています」

「魅華ちゃん、俺ね……」

 何か言おうとする信を魅華は見つめた。しばらくの沈黙のあと、
「いや、いや、頑張ろうね。司会とか進行役の練習とかも、俺、しちゃおうかな」
 細い垂れ下った瞳に一瞬、魅華は憂いを見た。多分――、信ちゃんは――と思った。

「魅華ちゃんの足を引っ張らないように俺、勉強するぞぉ、コンサートの曲とか、表現したいイメージっていうか、どう言ったらいいのかなぁ……、あ、そうそう魅華ちゃんの集大成に相応しい構成って言うのか、そうテーマっていうのかな、構想を教えて欲しいなぁ」
「うん、そうだね。ずっとずっと温めてきたもの。どんな時も一緒だったピアノ。ピアノはね、ワタシの歴史でワタシ自身なの。だから、大袈裟かも知れないけれど、ワタシのこれまでの道のりとこれからを表現できればと思うの。そうしたい。モーッアルト、ピアノソナタ第8番イ短調ケッヘル310を奏でたい」
「魅華ちゃん――自身。モーッアルト、ピアノソナタ、どんな曲なんだろう……、あ、ごめん、ごめん。マネージャーって言いながら、モーッアルトのそれ、俺、全然分からないわ……」
「ううん、いいの。信ちゃん、ありがとう」

 モーッアルト、ピアノソナタ第8番イ短調ケッヘル310。
1778年初夏、仕事を探すためにパリに滞在中に書かれたモーッアルトの最初のピアノソナタ。最愛の母の死を予感してか、不安と悲しみが投影され、悲しみの息苦しさに支配された曲。
悲劇的な主題で始まり、16分音符が絶え間なく並び、早い指づかいが要求される。
 魅華は、この曲に自身を視る思いがあった。不安と悲しみの中で息苦しさに支配されながらも一条の光が射し込むことを信じながら、これまで懸命に歩いてきた自分の一歩一歩が絶え間なくそこに並んだ16分音符のように思えてならないのだ。
 魅華は思う。
 集大成としてのピアノ。それは自分のこれまでの歴史をピアノに投影することだと。だからその進行も、有りのままの自分を見て、聴いてもらいたいと。
 遠い目で川面を見ていた魅華に信が声をかけた。
「魅華ちゃん、頑張ろうな」信は、なんて有りふれた言葉だろうと思ったが、それ以外にかける言葉が見つからなかった。
「うん。頑張ろうね。宜しくお願いします。マネージャーさん」
 既に飲み干した二杯目のグラスを口元に付けようとして、空になっていることに気づき、信はバツ悪そうに頭を掻いた。
「信ちゃん、汗も引いたし、そろそろ、納屋のお母さんのところに行こうよ」
「おう、そうだね。今日は週末だから、きっと賑やかだぞ。みんなにコンサート宣伝しないとな。印刷屋も後で呼んでやろう」
「うん、行こう、行こう」
 魅華はテーブルの端にあった伝票を取ると先にレジに向かった。慌てて信がそれを取り返そうと魅華の後を追った。
「魅華ちゃんってば、いかん、いかん。はいこれ受け取ってよ」
「大丈夫、大丈夫。たまにはこれくらいさせてよね」
「仕方ないな……、じゃ、タクシーで行こうよ。車拾うからちょっと待って」
 店をでた前で流しのタクシーを信は拾おうとあげたその手を魅華はとって微笑んだ。
「贅沢、贅沢はダメだよ。二駅なんだから、電車で行こうよ。信ちゃん」
 小さな柔らかな手に、大きなグローブのような手をとられ、ふたりは駅に向かった。
 信は、駅がもっともっと遠くにあればいいのに、と思った。


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