第十章〜遺された手紙〜
描き上げた図面と一緒に施工に必要な資材リストのデーターを、メールに添付して、送信済みになったことを確かめると、裕介はモニターから目を離し、目頭を押さえた。何時もとは違い、この案件は何時に無く梃子摺った。 榊裕介は、自分の技術に絶対的な自信と誇りを持っている。 その自分が、たかがこれくらいの案件で梃子摺るとは思ってもいなかっただけに、自分自身への苛立ちと腹立たしさを覚えた。 裕介が設計に取組む時は、全ての雑念を排して、自分の持つ全ての能力と技術を注ぎ込むことを心情に、これまでやってきた全ての仕事に向き合ってきた。 それなのに今回に限って、自分でも焦りを隠せないほどにその集中力を欠いていたのだった。 こんなことではダメだ……。 手を目頭から離し、窓に目をやると東の雲が淡い紫に染まり、日が差し始めていた。 窓辺に歩み寄り、裕介は遠い目で東雲の空を眺めた。 魅華に――、会いたい。 自分でも焦るほどに、仕事に対する集中力を欠いている理由を裕介は分かっていた。 もう二度と、恋愛感情などを再び誰かに抱くことなんて有り得ないと離婚以来自身に誓うように思い続けてきた自分が、こともあろうに何気ないほんの気まぐれで、たまたま偶然に立ち寄ったクラシックのコンサート。 そのコンサートで、初めて見たピアニスト。 無名のピアニスト――結城魅華。 魅華とこの部屋で過ごしてから、もう一ヶ月近くになる あの日から、彼女の近況は時々メールでしか知ることが出来ない。 二人で過ごしたあの夜に彼女が云ったことを裕介は思い返した。 『あのね、コンサートが終わるまで、ワタシに構わないで居て欲しいの。怒らないで、ごめんなさい。アナタのことが嫌いになったとか、煩わしいとかそんなことじゃないの。アナタと知り合えて本当に感謝しているのよ。知り合ってこの半年、夢を見ているような気分。こんなに大切にしてもらったのは初めてだから……』 何故だ? 何故なんだ。俺が魅華の力になろうとするのはそんなにダメなことなのか? 愛する者の為に自分に持てる力があるなら、その力をお前に注ぎたいと想うこの気持ちをどうしてお前は理解しようとしないのだ。 『うん。ありがとう。だけど、それじゃぁ――意味――がないの』 意味? 何なんだ。いったいどういう意味なんだ。裕介は言いようのない苛立たしさを覚えた。 榊裕介は、結城魅華の全てが欲しかった。自分に対しては心の中の全ての何もかもを、魅華にとっての最上位の存在で在りたかった。 そして、裕介は、自分の中で何よりもの最上位の存在が魅華であった。 裕介は、魅華にメールをして、携帯をデスクに置いた。 <今夜逢えないか、どうしても逢いたい。話がある>
※
メールを送信して、すぐのことだった。 静まり返った部屋に、突如生木を裂く雷のような響きを伴って、本棚から古いアルバムが床に落ちた。 一瞬、背筋に冷たいモノを感じながら、裕介は本棚へと歩み寄り、それを拾い上げようとして、ハッとした。 床に落ちたアルバムは、高柳正義と杏子、それに自分との三人が満開の桜の樹を背景に微笑んでいる写真のあるページが開かれ落ちていた。 それを拾い上げる裕介の手は僅かに震えていた。 震えを無理に抑え付け、裕介はそれを拾い上げると開かれたアルバムを無造作に閉じて、本棚に手荒く押し込んだ。
その瞬間、不意にデスクの携帯が振動した。 ビクッと肩を震わせたが、それが魅華からの返信だと裕介は確信していた。 <ワタシもお話があるの。今夜逢いましょう> 今夜、魅華に――逢える。裕介は久しぶりに魅華に逢えることに心を躍らせた。と、同時に得体の知れない胸騒ぎのようなモノも僅かに感じた。
※
何度と無く一緒に来た店なのに、まるで初めて来るように裕介は思った。 何時もと同じワインと同じ料理なのに、何故か全てが違うように感じる。 グラスを見つめる魅華が真っ直ぐに裕介の目を見て云った。
「私たちは特別な関係、男と女じゃない関係の方が長く付き合えるんじゃないかな。私たちが出逢えたのは偶然なんかじゃないと今でも思てる。だから長く知り合てる方がいいんじゃないかな。でもね、その付き合い方にはリスクもあるし確かにキツイかも知れない。男と女の特別な関係の方が縛りもあって楽なこともあるよね。最近ゆっくり会たりもないからアナタもキツイと思う。男と女の特別な関係をやめようよ。ベストな関係じゃダメかな?」 魅華の目を逸らし、裕介は注がれたワインのグラスを手に取り一気に飲み干すと、それを乱暴にテーブルに戻した。一瞬静かな店内の視線が二人に向けられた。 「魅華、突然に何を訳の分からないことを言ってるんだ。久しぶりに逢ったんだぞ。俺に飽きたのか? お前は俺のことをちっとも分かっていないじゃないのか」 裕介は、魅華の中で自分が最上位の存在で在り続けたかった。いやそうであると信じていた。 「コンサートを前にして、色んなことを控えていてきっとお前は混乱しているんだよ。大丈夫だから。俺が居るじゃないか。くだらないことなんか言わずに、さあ、食べよう、せっかくの料理が冷めてしまう。なぁ魅華、俺たちもう一度最初からちゃんと付き合い始め直さないか」 俯き気味で目を伏せて訊いていた魅華が顔をあげた。 「ごめんなさい。やっぱりワタシは今、一人の人とちゃんと向き合って、付き合うのは無理だって気付いた。失礼な話しでごめんなさい。アナタは自分だけをいつも傍で見ていてくれる特別な人が欲しいんだと思う。でもワタシはいらないの。アナタの特別な人の定義はワタシみたいなオンナじゃなくて、自分だけを見つめてくれる人だと思う。別れましょう。アナタにワタシの言うベストな関係を強要するのは本当に悪いことだと思うの。ごめんなさい。ワタシは、男性の友達は沢山いるよ。だけど、彼らは最良の友人だから、裕介が考えているような関係じゃないよ。お互いに特別な関係の人が出来たら話すことになってるから。だからアナタのことも前に話したよ。何度も言うけど、彼らとはアナタが思っているような関係じゃないの。今のワタシには特別のひとりとだけの男性に向き合えるとは思えないの。そんな勝手で都合のいいことばかりを言っていたら、いずれ誰にも相手にされず何もかも失うかも知れないけれど仕方がないわ。『もう一度最初から付き合わないか』って言ってくれてありがとう。でもね、やっぱりアナタとは無理だと思う。沢山いっぱい有難う。ごめんなさい」 裕介には魅華の心の内が理解できなかった。 彼はこれまで仕事を初めとして、どんなことに対しても力で平伏せようとしていた。それだけ自分というモノに絶対的な自信と誇りがあった。 「せっかく、久しぶりに逢ったのに残念だった。今日はもう帰ろう。送って行くから」 裕介は、必死に高ぶる感情を抑え付けて不自然なほどに冷静を装った。 「ううん、独りで帰れるから大丈夫。ありがとう。さっきのアタシの話、それだけはお願いだから受け入れてください」 魅華のそれには答えずに、裕介は席を立ち先に店を出た。
※ あの日以来、裕介は魅華とは逢っていない。 裕介は自分の内にある魅華への想いと向き合って、考え続けていた。ずっとずっと考えて見えない底が尽きるまで自分の内に向き合った。吐き出すだけ吐き出して、底が尽きて吐き出すモノがもう無くなって、やがて自分という人間を自身で冷静に眺めることが出来始めたような気がした。 榊裕介は自分の仕事に対してもそうであるように、これまではどんなことに対しても力で自分の目指す全てのモノを力で平伏せようとしていたのかも知れない、と。それが自身の誇りであるようにその思いは誰にも譲れるものではなかった。 自分の意に反する全ての事には、絶対的な自信と信念を基にした自らの誇りを誇示するように、全否定を前提に押し付けて、魅華を守り支えたいという想いも、結局は魅華を自分以外の人間から隔離し、自分だけに彼女を閉じ込める為の高い砦を作らせることを望み、自分に魅華を封じ込め独占し、また自分も魅華に独占され、それに従順に従い向かい合う二人の姿こそが確かな愛情だと信じていた誤り。 愛情は、決して力で繋ぎ止めようはあろうはずもないということを。 自分以外の者に向ける一句挙動の全てを、その仕草さえも嫉妬に満ちた言動で力任せに想いを投げつけてきた自分。 拒絶されたのは自分ではなく、退けられる自分を自身で創りあげていたのではないのかと。 裕介は、今自分が思うことが正しいのかどうかは分からない。けれども少なくとも魅華には長年気付くことも無かった自分という人間を気付かしてくれたのではないかと思った。 裕介の魅華への想いは、変わりはしない。 今でもこの瞬間も、ちぎれるような想いを魅華に擁いている。 誰かを愛することがこんなにも苦しいことだとは思わなかった。 会いたい気持ち。自分だけに想いを向けられたいと思う気持ち。 それと同じくらい、誰でも何かに対する思いや考えが存在していて、そもそもそれらは同じ土俵で立つはずもないことを比べてみたり、優劣をつけてみたくなったり。 恋をするっていうのはそんな残酷な繰り返しなのかも知れない。 正解のない自問自答に苦しんだ挙句、一番大切なひとを責め失ってしまうのかもしれない、と。 もしかしたら、魅華はそれを知っているから『ごめんなさい。やっぱりワタシは今、一人の人とちゃんと向き合って、付き合うのは無理だって気付いた。』と打ち明けたのかも知れないし、自分勝手なように見えるけれど、本当は何かと何かを比べたり正解のない答えを彼女は探したくなかったのではないのかと裕介は思った。 やがて裕介は、魅華との全ての繋がりを失うことよりも、心の片隅で彼女の言うベストの関係も悪くはないと思い始めたのだった。
※ 玄関のチャイムが鳴った。 インターホンのモニターで見ると、宅配の荷物が届いたようだった。受け取った荷物を見ると、『満中陰志』とあった。
高柳杏子からだった。 中には短い手紙があった。 その節は大変お世話になり有難う御座いました。 故高柳正義儀の満中陰を向かえここにお礼申し上げます。 デパートのギフト券の入った箱の上にその手紙はあった。
他人行儀なその手紙がかえって、裕介に杏子の痛々しさを伝えた。 その手紙をデスクの引き出しの中にしまおうとして、ふと裕介は、高柳正義の遺した手紙を未だに読んではいなかったことを思い出した。もっと早くに読むべきだったのだろうけれど、何故か封を切る勇気が無かった。何度か読んで見ようとして手にとる度に、妙な胸騒ぎにも似た嫌な気分に襲われて仕方なったからだ。 しかし、何時かは読まなくては成らないだろうという覚悟もどこかにあった。それがもしかしたら今なのかも知れないと、裕介は意を決して、引き出しの奥にしまってあった、高柳正義の遺した封書の封を切った。 そこには、かつての筆圧の強い右に跳ね上がった特徴ある高柳正義の書いた字とは思えぬほどの弱弱しい文字で綴られていた。
榊裕介殿 これを君が読む頃には私はもうこの世に居ない。 この手紙をもって私の最後の頼みとしたい。 かつて私がプロジェクトの推進責任者であった頃に起きた事故のことは知っての通りだ。 あの事故が無かったら妻や杏子には辛く悲しい思いをさせることも無かったと思う。 そしてあの事故から十五年後、第四期のプロジェクトが発足し、その推進責任者に君を強く推したのは私だ。 君意外には考えられなかったからだ。君は期待通りにその手腕を残すことなく発揮して大きな成果と結果を残してくれた。 技術者として素晴らしいと思う。しかしその反面君には大きな犠牲を払わせた。そして杏子に。 かつて私がそうであったように、男の仕事という美名の下に、君も杏子に寂しさと辛さを与えた。 杏子が高校生だった頃、病床に倒れ余命幾許も無い妻だと知りつつも私は妻と杏子に寄り添うことが出来なかった。 君にはそうあって欲しくなかった。 杏子をもう赦してやってはくれないだろうか。 あの子は寂しかっただけだ。 君が長期に渡って中国であのプロジェクトに携わる間ずっとずっと寂しかったんだよ。 そんな日々の中で杏子は彼に再会したんだよ。 浮気とか軽々しい出逢いとか、単なる寂しさを紛らわす為の遊びなんかでは無くて、もっと深い過去の繋がりが杏子と彼にはあったのです。 君には、ずっと黙っていて申し訳なかった。 私はかつて、ある病院に勤務していた看護師に恋をした。 しかし、私が想いを打ち明けた時にはその人は身篭っていた。 彼女は病院を辞めてたった独りで女の子を産んだ。 私は諦めようとした。 彼女は育児をしながら独りで生活をするうちに心身ともに疲れ果て、育児を放棄した。そして、その女の子は一時的に乳児院から児童福祉施設へと引き取られ成長した。 年月が過ぎても、やっぱり私はどうしても彼女を忘れることが出来なかった。 そして、彼女に再び想いを告げて一緒になった。 私は杏子を娘として引き取った。 杏子と私は血の繋がりはない。 杏子は高校に入った頃、恋をした。 彼は、家にもよく遊びにきた。 そして、彼の名を知ったとき、私は運命の巡り合わせを恨んだ。 彼は、妻が看護師だった頃の妻の先輩看護師の息子だった。 彼の名は、中津川徹。彼の母もまた、私の妻と同じように一人の男に弄ばれて捨てられた女だった。 二人は施設で知り合った。 杏子は彼をお兄ちゃん、お兄ちゃんと慕った。 杏子は中津川徹少年に恋をした。 異母兄とは知らずに。 杏子の初恋だった。 中津川徹も杏子に恋をした。異母妹とは知らずに。 杏子と中津川徹は異母兄妹だ。 血の繋がった二人を当然に許す訳にはゆかず、私はその理由も告げずに、生木を裂くように二人を引き離した。 真実を二人に話すことが出来なかった。 中津川徹の母が亡くなって、 施設で高校まで過ごし彼は、中津川家の三男として養子となった。 そして、娘の徹への想いを断ち切らせるために君を杏子に近づけてやがて結婚させた。 もう何も心配することなく杏子は幸せになれると私は願った。 平穏な歳月が訪れて私は安心した。 それなのに、運命とは全く予想もつかない出来事が起きた。 君がプロジェクトで長期留守をしていた頃、全くの偶然に二人は再会してしまった。 中津川徹は、杏子と引き裂かれた後、一度は結婚したらしいが離婚して、運送会社に就職したらしい。 ある日、家に私宛の宅配が届いた。 その配達員が偶然にも中津川徹だった。 それを受け取ったのが杏子だった。 それからは、君が知っての通りだ。 君が杏子に不信感を抱くのに時間は掛からなかった。 杏子は何一つ言い訳などしなかった。 一番辛かったのは杏子だと思う。 榊裕介殿 どうかどうか、杏子を赦してやってはもらえないだろうか。 今の杏子には、中津川徹への想いはもう無い。 あるのは榊裕介殿への想いだけであることをどうか、どうか分かって欲しい。 どうか、どうか、杏子を赦してやって欲しい。 ――合掌――
高柳正義
裕介は、読み終えた手紙を強く握り締めると、窓に歩み寄り額をガラスに押し当てた。
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