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作品名:かいなに擁かれて〜あるピアニストの物語〜 作者:ヒロ

第1回   序 章
              〜序章〜

 予約が入っていたその日の鑑定を全て終えると、魅華はぐったりした。
 携帯の時刻をみると、午後八時を過ぎていた。
 コンビニで買ったサンドイッチを、朝早くにほんの少し、口にしただけだから何か食べなくてはと思うけれど、今何かを口にしてもすぐに吐いてしまうことは分かり切っていた。
 せめてお茶でも飲もうかと考えたが、すぐにその気力も失せた。
 詰めた鑑定を済ませた日の夜は決まって吐き気に襲われる。
 ――いつものことだ。
 あれからもう七年も経ったのだなと、魅華は天井を見上げた。
 彼女は思う。
 この仕事はやりたくても出来る仕事じゃない。けれどやりたくてやっているわけでもない。ただ、今は辞めることができないだけだ。
 本来ならピアノだけで身を立てていけたのかも知れない。
 オンナを武器にして、その気になれば幾らでもチャンスはあった。
 だけど――、言うまい。
 これが――ワタシの人生だ。
 今日も様々な人生を背負った人たちの話を訊いた。
 そして背負いモノの全てをその人たちはこの部屋に置いて帰る。
 そのモノ達の中には何日も時には数カ月もこの部屋に居憑くことがある。今日居憑いたモノはそう易々とは去ってくれそうにないことを魅華は覚悟した。
 かなり重い。
 こうやって、決して裕福とは言えないけれど、生活が何とか出来るほど、今に至るとは思わなかった。
 離婚を二度も経験した。二度目のその時はキツかった。

〈占い師〉
 世間では、マヤカシだとかインチキだとか、中には霊感商法だとか、酷い時には詐欺紛いに非難されたこともあった。だけど、自分にはほんとうに否応なしに視えてしまうのだからどうしようもないのだ。望んで得た体質なんかじゃない。何かに必要とされただけだ。
 かつて近所の心ない人たちには、この家に出入りする男たちの姿を認めては、まるで淫らなことをしているかのように、有りもしないようなことを井戸端会議のネタにされたこともあった。
 ワタシの鑑定を望んで来てくれたお客さんなのに、しかも男性のお客さんは信頼のおける友人から頼まれた人たちなのに……。ワタシは淫らなオンナなんかじゃない。軽く生きられたとしたら――どれほどラクか。
「ワタシだって、寂しいよ。誰かとずっとずっと一緒に暖かく暮らしたい。だけど、それは望むまい。ワタシには半分だけの幸せがちょうどいい」
 広いこの家の中にたった独りであることを魅華は噛みしめる。
 この家は女が独りで暮らすだけには不必要に広い。
 山麓の閑静な住宅街に洒落た今風の家が多く建ち並ぶ中で、ここだけが戦前の古いアルバムから切り抜いたような木造の平屋の家だった。
 ただ単に、生活をするためだけならこんな広さは必要なかった。
 奥行が二メール七十センチを超えるスタインウェイのフルコンサートグランドピアノ。
 1867年パリで万国博覧会が催された頃に創られたこのピアノ。
 このピアノ、このピアノだけは、どんなことがあっても守り続けてきた。
 何の後ろ盾もない、無名のピアニストである女独りの力が、如何に無力であることを嫌になるくらい思い知らされた。
 部屋を探すにしても、ピアノを置ける広い部屋を借りるのに必要な家賃のおおよその見当はついた。けれど、そんな家賃なんて到底魅華には払えなかった。

 ピアノさえ置くことが出来る部屋ならどんなところだってかまわない。
 祈るように縋りつく思いで手当たりしだい形振り構わず、数え切れないくらいの不動産業者へ足を運んだ。けれど、想像した通り、魅華が毎月払えそうな金額ではどの物件にも手が届かなかった。
 訪れた不動産業者の中には、魅華の話などろくに聞きもせず迷惑そうに、まるで厄介者をあしらうような仕打ちを受けたことも何度もあった。
 彼からは期日を決められて、『早くピアノを何とかしろ』と迫られた。
 公営住宅に身を寄せて暮らす両親のもとにピアノを置ける余裕など有りはしない。それよりも、二度目の離婚になることを、魅華は、全ての整理がつくまでは父母には話したくないと強く思った。
 彼と義母には自分の持てる全てを注ぎ尽くしていたつもりだったのに、まるで遊び飽きた玩具を不用品として処分するように一方的に言い渡された――離婚。
 自分の生活のことを考えれば当然に訴える手段もいくらでもあったのだろう。けれど、当時の魅華にはその気力さえ失せていた。離婚後のピアノのことすら頭に浮かばなかった。
 来る日も来る日も祈り縋るように不動産業者を巡った。けれど、見つからない。
 友人や音楽仲間に相談と協力を願うことも何度も考えたが、それすら魅華には出来なかった。一度目の離婚の後、心を病みどうしようもない鬱の暗闇の中を何年もさ迷っていた魅華に、みんなは、この上ないほど暖かく支えてくれた。あの時、その支えがなかったらきっと生きてゆけなかっただろう。
 もう二度と結婚なんて、しないと思いっていたのに。それなのに――。


 彼は魅華がさらに酷く深く暗闇に落ちてゆこうとするとき、いつも絶妙のタイミングで暖かく優しくそこから魅華を引き上げてくれた。暗闇の中に魅華は一条の光を見た。その光を辿り、伸ばした手の先に彼の温かい柔らかな手があった。
『魅華、今度こそ本当に幸せになりなよ! そうでないと私たち絶対に許さないからね! ほんとうに、おめでとう』みんなは心から祝福してくれた。嬉しくて涙がとまらなかった。
 それなのに――、
 歳月は、人の心をも変えてしまうものなのか。
 それとも天は、魅華が誰かと寄り添うことを、拒み続けるのか。
 あれほど自分を励まし支えてくれたみんなに、言いたくても全ての整理を終えるまでは言えない。と魅華は思った。
 期日が迫り、過ぎようとしていた。
 だけど、見つからない。どうしようもない。もう彼に話す以外に他はない
 魅華が形振り構わず、祈るように縋りついて頼んでも、どれだけ必死になって探しても得ることが出来なった事を彼はいとも簡単に、離婚の一切を承諾することと引き替えに、彼はピアノの移送とこの家を魅華に用意した。魅華は無名なピアニストである女独りの自分の無力さを、短く切り整えた爪が手のひらに食い込む痛みと、唇が千切れ奥歯が砕けるような思いを噛みしめた。


 全ての整理を終えた魅華は、両親へ報告のために実家に帰った。
『パパ、お母さん、元気だった? あのね、ごめんなさい、ワタシ――彼と、別れたの』
『――――』
 父母は驚き肩をうなだれた、ひとり娘の不憫さを嘆き悲しんだ。

 りりぃーーーん しゃりりりーーーーん りりぃぃぃぃーーーん 
 りりぃーーーん しゃりりりーーーーん りりぃぃぃぃーーーん
 りりぃーーーん しゃりりりーーーーん りりぃぃぃぃーーーん

『すず、むし……』

 山間の谷の駅に近いこの公営住宅の原っぱに一切の蒼が消えて、そこにある命をも阻むかのように寒々しくなったというのに、それでも、そんななかでも小さな命を燃やし渾身の力を振り絞りながら老いさらばえた自らの羽を重ね合わせ、たった一匹だけになろうとも、すずむしは、消え入りそうな音色を奏でている。

『もう、心配はしないで、ワタシは、もう、大丈夫だから。昔みたいには――ならない』
『――――-』
 ピアノと伴に独り暮らす。と、いう娘を父母は自分たちの傍におきたかった。けれど、魅華は頑なにそれを拒んだ。
 母が何かを言おうとしたが、父は母の手に、その手を添えてそれを制した。
 魅華は母に添えられた父の手をじっと見つめた。
 幼い頃、自分を抱き上げてくれた大きくって逞しかった父の手が、こんなにも薄く小さくなっていたことにはじめて気付いた。魅華は堪らなくなって父の手を自分の両手で包んだ。胸が苦しくなってもう声はでなかった。


 幼かった頃から始めたピアノ――。
 そしてその前からずっと視える――モノ。
 裕福で何ひとつ不自由のなかった幼少期。
 邪気に満ちた輩に陥れられて奈落の底へ落ちてゆくしかなかった父。
 突然に見舞われた不運にそれまでと逆転した生活となろうとした時も、父はピアノだけは、ワタシのために全てを投げ売って命を掛けてスタインウェイを残してくれた。
 そして母は、ワタシがピアノを断念し諦めることを決して許しはしなかった。
 だから大学へ大学院にまでも進学させてくれた。
 音大時代に教授から才能を認められて留学の薦めもあった。
 今は著名な音楽家となって成功している学生時代の友人も多い。
 だけど――、叶わなかった。置かれた環境がそれを許容しなかった。後悔などない。
 まして、誰を恨むこともない。今もこうやってワタシにはピアノがあるのだから。


 魅華が今、何とか独りでも生活が送れるようになったのは、彼女のかけがえのない友人たちや音楽仲間の応援があったからだ。みんなが支え導いてくれたのだ。
 古くからの友人たちは彼女のそれをよく知っていた。占い師としてその力を仕事に結び付けたらどうだ、と提言してくれたのもその友人たちだった。友人のひとりが、天然石を扱うアクセサリーショップのオーナーと親しかった。早速その友人はオーナーに連絡をとった。
 するとオーナーは店の宣伝にもなり、イメージアップと売り上げにも繋がると考え、土日と祝日を店の鑑定日に定め、演奏の仕事と重なる時は、平日に鑑定日をシフトすることを条件として、店の片隅にその場所を提供してくれた。
 音楽仲間たちは、自分たちの持ち得る全ての人脈を屈指して以前に増して、魅華にピアノ伴奏の仕事をまわしてくれた。彼女自身も結婚式や様々なイベントでのピアノ伴奏の仕事を執った。
 そうして、鑑定とのスケジュールをうまく調整しながら真心を込めて旋律を奏で続けた。

 あれから七年――、決して裕福などではないが、何とか独りの生活を維持できるようにまでなった。友人や音楽仲間、みんなのお陰だ。感謝。そして、父母に――感謝。

 魅華は、音楽仲間のコンサートやリサイタルにピアノ奏者として幾度も共演した。
 けれど、自身でソロのコンサートを主宰したことはまだ一度として無かった。
 明日も友人のヴァイオリンのリサイタルに共演することになっている。
 気持ちは友情の占める方が多い。だけど、共演は生活の為だ。


 ソロコンサート。
 無名のピアニストである自分が主宰しコンサートを開催するとなると意味は全く違う。自分の集大成としてのピアノを発表する場を創り出すということなのだから。
 重い焦りが魅華を覆う。
 ピアニストとして年齢的にも既に自分の限界を感じ始めているからだ。
 いや――年齢でない。最近、ふと自分で満足できるような指の動きが出来ないと違和感を感じ取るときがあるのだ。その変化は恐らく相当なレベルの音楽家でも気づくことは難しいほどの極微細なものにしか過ぎなかった。
 しかし、そのことが魅華を焦らせていた。
 魅華は自分の両手をじっと見つめた。
 綺麗に飾った爪なんてない。
 短く切り整えられた爪。ピアノを弾くための――手だ。
「よく頑張る手だね」と魅華は、自分に云ってみた。
 今こうやってオンナ独りで歩いてゆけるのは、友人たちや音楽仲間、みんなのお陰だ。感謝。そして、 父母に――感謝。
 その思いがあるからこそ魅華は強く想う。
 ワタシのピアノ――集大成としてのソロコンサートを開催しなければと。
 強く想った時だった。
 何かがパチンと音をたてた。
 そして確信したのだった。「あ、明日――、出逢ってしまう」
 その確信は、翌日、現実の事となった。


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