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作品名:神さまのお医者さん 作者:こりん

第5回   5.パパと出会う

 空いた時間をすべて身を任せることに費やした。1カ月くらい続けると、動きをコントロールできるようになっていた。空いた時間にちょっとだけ踊り狂うだけ、という感じになっていた。
 こんな感じで、さらに1カ月間過ごした。
 そしてある日、いつものように正座して合掌すると、
「仕事をしなさい」はっきりとした厳しい声が聞こえた。
「仕事って何?」
「何を怠けている。あなたは仕事をしなければならない」と叱られた。

 2カ月間、身を任せて踊り狂った。わたしではないものを解き放ち、ある程度の透明になれたことで、やっと長男の通訳がないと聞こえなかった声が聞こえるようになったのだった。子供はまだ何も身に着けていない、生きる苦しみによって穢されていない存在であるからこそ、目に見えない世界とつながることが容易にできるのだろうと思った。
 長男に、お兄さんに、声の主について聞いてほしいと頼んだが、ママはもう大丈夫だから何も話せないということだった。そして、お兄さんの声はどんな風なのか聞くと
「お兄さんは、いつも優しくて絶対に怒らない。ぼくがぼっちゃん(次男)に意地悪しても怒らない」と言った。わたしの聞こえる声とは大違いだなと思った。

 それから、声の主との会話が始まった。わたしは声の主が誰なのか知りたかった。
「あなたは誰?」
「神だと表現しておこう」
「神さまがわたしに話しかける訳がない」と言うと、
「自らを信じることができないのか」と叱られた。
それからも、わたしは
「ハイヤーセルフとかいう人?」とか、まぬけな質問を繰り返した。
 声に素直に従わないわたしの身体に、異変が起こった。両手の指先だけが、真っ赤になって腫れあがって細かな作業ができなくなった。見た目の痛々しさとは裏腹に痛みは全くないのだが、グローブをはめた手で家事をこなすことが困難なように、わたしは不器用な人になった。
 長男に聞いてみた。
「ママは仕事をすれば治るって」とお兄さんが言った。

 一連の流れから、こういうことが起こせる存在たちのひとりである声の主の言葉に、素直に耳を傾けることが出来るようになった。
 声の主とは、どんなこともどんなときも絶え間なく会話を続けた。大いなる叡智に、わたしは、その前にひれ伏し跪くようになった。
 「誰の前にも、ひれ伏すな、跪くな」と叱られた。
 そのような姿勢は何を意味するのか、声の主は鋭く指摘した。わたしは謙虚であると、謙虚さも知らない者がとる姿勢だと言われた。そして、いつものように、自分のこころを見るように言われた。
 わたしは、深いところで何を思っていたのか、いつものように話した。
 わたしはこんなに謙虚で感謝のこころを忘れない善人である。だからこそ、わたしをもっと高いところに連れて行ってほしい、わたしは特別であると告げてほしい、と望む欲があること伝えた。
 声の主は明確になっていない深い暗いところに、光を当てる存在だった。
 わたしは声の主に、ひれ伏さず跪かず、しっかりと立って、絶対的な信頼を寄せた。そして声の主を神だと思うようになっていった。
「わたしは絶対的な神ではなく、あなたの父親のような存在だ」と言った。
 呼び名なんて何でもいいと思った。絶対的な信頼と揺るぎない愛を込めて、パパと呼ぶことにした。

 パパとの会話は、いつでもわたしの暗い部分を明確にしていくようなことだった。
「すべての原因はあなただ」
「悪いのはあなただ」パパはいつでもこう言った。
 受け入れがたいことでも、元を辿ればわたしに原因があるのだと、パパはいつでも丁寧に根気よく教えてくれた。その話を聞いていると、確かに、そのとおりだと認めることができた。
 わたしが存在していること、その事実が原因であると、笑えてしまうようなところに行きつくまでに至った。

 すべてはわたしである、とうことは完全にわたしの基本姿勢になっていたが、そのすべてであるわたしのことを、わたしは認めてはいなかった。嫌なところ、ダメなところ、隠したいところ、無くしたいところ、そんなところばかりであった。だからこそ、自分と向き合って変わろうと努力していたのだ。
 
 パパは、諦めずに努力し続ける姿勢は褒めてくれたが、観点がずれているということを伝えてくれた。
 わたしは外見に捉われ過ぎている。その部分の努力は、空回り。人生が意味もなく過ぎていく。
 それを、瞑想中に映画を見るように伝えられた。外見を磨こうと必死に努力している最中に不慮の事故で不意に死んでしまった。空回りする人生なんて、もう二度と繰り返したくないと思った。

 わたしはこんなわたしであるが、嫌だとかダメだと拒否などできないということ。このわたしがすべてであるということ。今、この姿のわたしが、ここが生きる場所なのだと受け入れること。これができるようになっていった。
 
 18年間、毎年1回、車で事故を起こしていた。停車しているわたしに、突然前の車がバックしてくるというような相手が10割か9割悪いという事故ばかりだった。いつだって相手が悪いと思っていた。
 パパはわたしが悪いと言った。わたしが地に足を着けていないから、地に足を着けろというメッセージとして、事故が起こっていたと言われた。普通にまっすぐ前を見て運転しているとき、3度パトカーに止められて酒気帯び運転を疑われたことがあった。顔を見れば飲んでないことは分かるようで、検査まではされなかったが、フラフラと運転しているということを指摘されていた。それに対して、何を言っているんだとムッとした。 友人や知人に、何を考えているのか分からないとか、人の話を聞いていないとか、言われることよくあった。それは、わたしを表していないなと、ずっと思っていた。
 でも、振り返れば、わたしはいつもそこにいなかった。いつも他事を考えていた。まさに、こころここに在らず。

 パパの導きのおかげで、わたしは、いつもここにいることができるようになった。低俗なことに気をとられず、大事なことに目を向けることが出来るようになっていった。
 しかし、メッセージとは何とも分かりにくいものだと思った。
 ある出来事からメッセージを知るなんてことができる人は、一体何人いるのだろうか。
 パトカーの警察官の声を素直に聞いていれば、車の保険会社の人の「こんな人いないよ」という驚きの声にこころを開いていれば、もっと早く地に足を着けることができたのだろうか。
 素直に人の話に耳を傾けることの大切さを実感した。これは、わたしが全くできないことだった。

 絶え間なくパパとの会話に没頭して、こころここに在らずの毎日であるが、パパはそれでいいと言った。 地に足を着けるというのは、自分をすべて受け入れて生きること、今の姿のあなたがここに存在していることであるとパパは教えてくれた。もっと深く足を着けるために、瞑想して内なる自分と向き合うことをパパの言うとおりに行った。暗い部分、それは受け入れがたいこころの内を知っていく作業だった。
 地に足をつけることは大変難しいこと。一切の不安をなくした上に成り立つのだ。腹が据わらないとできないのだ。わたしは丹田呼吸とか習得していないが、静かに座って瞑想するとき、呼吸は口ではなくお腹の底でしている。必要なことは自然に身についていった。このような呼吸ができるようなると、確かに
腹が据わる。簡単に習得できるので多くの人にお勧めしたい。

 自分自身の内側を深く探るうちに、許しがたい行為はあるが許せない人はいないということを知った。どんな悪人でも理解できる気持ちになっていった。なぜなら、わたしはもっと悪を知っているのだ。ただそれに染まることはない知恵をつけたのだ。 わたしの内の悪は、悪ではなくなっていった。その感情に寄り添い理解することで開放していった。苦しかったのだ、だから憎かったのだ、幼かったのだ、と。善も悪も、それは立場を変えればひっくり返るような、そんなものなんだと思えるようになった。神は、善も悪もこれだと明確に決めていないのだと思った。
 レントゲンを投げつけられたことも、わたしを救う一連の出来事だと、ありがたく思えるようになった。上っ面な言葉ではなく、レントゲンを投げつけてくれてありがとうと、主治医の先生に伝えたいくらいだった。
 
 わたしの周囲に存在していると思っていた悪人も善人もすべては全であり、神であるのだ。
 いつでも、どこでも、神とは何かをそっと示そうとしてくれているのだ。きっとそうなのだと思えてきた。
 だんだんと、自分が楽になっていった。楽になると、今までのわたしは、どれほど苦しかたったのかが分かった。苦しいなんて思ったこともなかった。それは、苦しいということを感じられるわたしが存在していなかったのだ。

 時間があれば瞑想して、パパと静かに会話をした。わたしの瞑想は自己流で会話をするもので、呼吸とかそういうことは何も関係なかった。わたしがわたしの内を言葉として発することをパパは求めていた。自分の内を正確に言葉で表そうとするが、ぴったりと合致する言葉が見つからなかった。言葉がこんなに難しいものだとは今まで知らなかった。というよりも、言葉に焦点をあてて生きていなかった。
「あなたはことばである」とパパは言った。
 その意味がよくわからなかったが、わたしは自分の内を表現したい気持ちが、溢れてきていることを感じていた。それを言葉で表すことなど、今まで考えたことなどなかった。それに追い付かない表現力の乏しいわたしを、まざまざと見せつけられた。
 
 パパはわたしの乏しい表現力を鍛えてくれるように、内なる思いと言葉がぴったりくるようになるように訓練してくれた。しっくりいくまで何度も何度も言葉を変えて表現の方法を試した。ときどきぴったりくるようなときは、わたしの内に煙が立ち昇るような感覚があった。
 もっともっとそうしていきたいと思った。内と外が一致する感覚を、瞬間ではあるが味わうことができるようになった。


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