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作品名:あっかんべ 作者:やま

最終回   1
 「あっかんべ」  作 大山哲生

永禄の頃のことである。(1570年頃)
 京都の右京に康成という男がいた。康成は小さい頃から、絵を描くのが上手であった。
 でも、康成の家は大変貧しかった。近所の家の手伝いなどをしながら口に糊していており、絵のけいこもままならなかった。それに絵を描くための紙もなかなか手に入らなかったので、地面に絵をかいてけいこに励むこともあった。
 あるとき康成は、ある家の旦那からふすまに絵を描いてほしいと頼まれた。康成は絵の具を持っていなかったので、墨と筆だけを持ってその家に行った。
「今日は何を書いてくれるのか」と旦那は聞いた。康成は「今日は、スズメの絵を描きます」と答えた。旦那は少しがっかりしたようすであったが、頼んだ手前仕方がない。「それではよろしく頼む」と言った。
 康成は、ふすまにスズメを五羽描いた。それはみごとなスズメであったが、もっと賑やかな絵を期待していた旦那にとってはあてがはずれたものだった。「スズメがたった五羽かいな」と旦那はつぶやいた。それでも康成にはしぶしぶ約束の金をわたした。

 次の日、その家は大騒ぎになった。朝起きると、部屋の中でスズメがチュンチュンと飛び回っていたというのである。それはよく見ると、康成が描いた五羽のスズメが絵から抜け出て飛び回っていたのだ。
 旦那は大変驚き、わざわざ康成の家まで来て改めて礼をいった。そして前よりももっとたくさんの金を置いていった。
 この話は京都の町に広まり、康成という絵の名人が右京にいるらしいと皆が噂しあったのであった。

 スズメの話は、狩野派の棟梁・狩野永徳の耳にも入った。永徳は、早速康成の家に使いをやり、康成を弟子入りさせた。
 康成にとっては夢のような話であった。狩野一派と言えば、有力大名の城や大寺院の障壁画などを手がけていた絵の名人集団であったからである。「これでおれも好きな絵が思い存分描ける」と康生は喜んだ。もう、近所の手伝いもしなくてよくなった。そして、紙に絵を描ける幸せを感じていた。
 永徳は言った「まずは、狩野派の技法をしっかりと学んでもらいたい。そのためには、旅をしていろいろな絵を見て来い」といって、康成に旅に必要な金をわたした。

 康成はまず京都のふすまなどを見て回った。今までは、いい絵だなと思って見ていたが、今度は自分がそういう絵を描かねばならない。
 絵の具は、胡粉と膠を混ぜるのであるが、溶いた時の温度によって色が微妙に違ってくる。康成は絵の中の色を見ながら、どれくらいの温度で溶かれたかを考えていた。
 こうして各地を旅しながら、多くの名人上手の絵を見てまわった。
 ある日のこと、康成が大津の宿から京に戻るときに峠道で足をくじいた。痛みで歩けそうになく難儀していると、通りがかった娘が「どうなされました」と声をかけた。康成は「たいしたことはござらん」といって立ち上がろうとしたが「あっ痛っ」と言うなりまたしゃがみ込んでしまった。娘は「私の家で足を直されてはいかがですか」というので、娘に言われるまま肩を借りて娘の家に行った。そしてその家で十日ほど療養に努めた。娘の名は、悦(えつ)といい大変かいがいしく介抱してくれたのだった。
 ある日、康成は悦に「悦よ、わしの嫁になってはくれまいか」といった。悦は、恥ずかしそうにうつむきながら「私もあなた様の嫁になりとうございます」といったのである。
 その夜、康成は悦を抱き夫婦の契りを結んだのであった。

 康成は京の町で所帯をもった。康成は悦を大切にし、悦は康成をよく支えた。
康成は悦を嫁に迎えてから絵にもますます精進し、棟梁・狩野永徳にも一目置かれるまでになった。
 次の年には、子が生まれた。康成は子を大層かわいがった。
「悦よ、わしはいい嫁をもったものじゃ。こんなかわいい子を授かったのだからな。悦もこの子もわしの宝じゃ」と康成は寝物語に悦に言った。
 そして十年が過ぎた。子どもは四人に増えていた。一番下の男の子は生まれたばかりであった。

 ある日、康成は狩野永徳に呼ばれた。
「こたび、ある大名から洛中洛外図を屏風絵にするよう依頼があった。今回それをそなたにまかせたい」という話であった。
 それは康成にとっては願ってもない名誉なことなのであった。
 次の日から康成は京の町をまわり、町の風景や人々のようすを小さな紙に記していった。
 しばらくすると、いよいよ大きな和紙に向かい全体の構想をまとめる。まず、墨であらかたの構図を描き、その上から色をつけていった。
 二年が過ぎたころ、立派な洛中洛外図が右隅を残してほぼ完成した。

 一番下の男の子は、数えの三つでかわいい盛りであった。最近、あっかんべを覚えて兄弟にも康成にもあっかんべを得意そうに見せてくれる。それがとてもかわいいのであった。康成は家に帰るとまず一番下の子に「あっかんべ」と言うのが日課のようになった。そういうとその子は小さな指で「あっかんべ」をして見せてくれるのであった。康生はこの子を大層かわいがった。
 ある日、康成が家の近くまで戻ると、家の前がなにやら騒がしい。康成の頭に不吉な思いがよぎった。家に飛び込むと、一番下の子が寝かされ悦がそばで泣いている。
「どうした」と康成は大声を出した。隣のばあさんが「この子はそこの小さな川でおぼれた死んだんだよ」と説明してくれた。
 康成は、遺骸にとりついて泣いた。康成は、この子のかわいいあっかんべを二度と見ることはできなくなったことをまだ信じられなかった。
 康生は泣きながら「あっかんべ、あっかんべ」と叫んだが、その子が二度とあっかんべをすることはなかったのであった。
 康生は村の人の助けを借りて、なんとか子どもの野辺の送りをすませた。
 康成も悦も三日三晩泣き暮らした。康成の頭の中には小さな手であかんべをする子どもの顔がぐるぐると回っていた。

 康成は気を取り直し、再び洛中洛外図にとりかかった。右の隅を描ききればこの絵は完成する。康成は、絵の前でしばし考えていたが、胡粉を膠で溶いて絵を描き始めた。それは、様々な洛中の人々に混じって、小さな男の子があっかんべをしている絵であった。
 狩野永徳は、その洛中洛外図を見て「見事じゃ。よく描けている。狩野派の技法をこれほどみごとに駆使した絵はなかったぞ。人々のざわめきが聞こえるようじゃ」と最大の賛辞を送った。
 その絵は、屏風にされ、とある大名の屋敷に運ばれたのであった。

 あれから数百年経つ。現存する洛中洛外図は三十から四十あると言われている。もし、洛中洛外図屏風の右隅で男の子があっかんべをしていたら、それは康成という絵師が胡粉と膠に涙を練り込んで描いた屏風絵に違いない。


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