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作品名:タージ・マハルに雪は降るか? 作者:さとのこ

最終回   2

其の5 朋絵さんのプライド、意地と涙


 馬鹿だ馬鹿だとあまり連発しないで欲しい。生まれてこの方、そんな言葉を言われ慣れてはいない。常に賢く「いい子のともえちゃん」だったのだから。お勉強はした。幼稚園児の頃からキッズ向けの英語教室に通わされていたくらいよ。そんな頃から先生のお気に入りの良い子だった。そのまま小学校、有名私立中学校、持ち上がりの高校、そして某国立大学の法科へと一直線! 当然浪人留年の経験は無し! がり勉でありながら、決してそうは見せない筋金入りの優等生。それがわたし、戸川朋絵の輝ける経歴なのだ。
 今は離婚を専門に扱うとある有名女性弁護士の相談所で新米ながらも弁護士として充実した日々を過ごしている。そんなわたしのどこが馬鹿? 何で馬鹿? わたしの熟慮の末の決断を聞いた親友由美は、聞いた瞬間から、何度となく同じ言葉を繰り返した。
「あんたって、本当に、ばか…」
 まあ、確かに、わたしだって少しはそんな気もするけどね。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけもったいなかったかな、てね。
 荷造りを手伝いに来てくれた親友には聞こえないように、わたしは小さく溜息をついた。

 天まで届きそうなくらい高いわたしのプライドは、おそらく同じくらい高いプライドを持った彼、正行になら理解されるだろうと思ったわたしの予想はもろくも崩れた。結局別れることになった。六年にもわたる同棲生活のピリオドは、結局わたしが打つ結果になった。結果的に、だけど。
「何言ってるの、別に正行さんだけじゃないでしょ? 男の人なら大抵期待するわよ。むしろ、あっさり『今までありがとう、じゃあね』って言われなかっただけ、かなり良かったじゃない」
 考え方を換えればそうかもしれない。
 同じ弁護士となった正行はあっさり就職先を決め、その職場をこれまたあっさり辞めて関西の某有名弁護士の法律事務所に転職を決めた。そしてわたしについてきて欲しいといったのだ。ある意味当然。わたしは六年もの間、陰になり日向になり正行を支え、そして正行にも支えさせた。部屋を共有し、書物を共有し、時間と楽しみを共有した。そのわたしに、あっさりさよならなんて言わせない。
「ほんっと、朋絵って贅沢よねぇ」
 そう由美は言うけれど、そこが見解の相違なのよ。
大手の弁護士事務所に転職を決めた若手弁護士に結婚を申し込まれて断った。
もったいない? 別にそうは思わない。
「正行さん、いい人だったじゃない。ちっとも偉ぶらないし、優しいし、将来有望でけっこうハンサム。憧れてる人、かなりいたのよ?」
 そう、かなりいた。わたしの足元にも及ばないような女達が、常に正行の周りを物欲しげにうろついていた。それを見て、わたしは密かに笑っていたものだった。
 バスと89、ウエスト67、ヒップ86のナイスバディに加え、芸能プロダクションからもお誘いのかかったこの美貌。この完璧なわたしに立ち向かう勇気のある女なんていなかったから、わたしは正行の浮気を心配したことはない
 頭脳明晰な美男美女カップル! それがわたしと正行だった。
「絶対にお似合いだったのに。すごくすてきだったのに…」
 そうだったね。由美、あなたも正行に憧れていたひとり。もうとっくに卒業したと思ってたけど、切ない想いは残るものなんだね。
 働き者の由美はせっせとダンボールの小山を作ってゆく。持ってゆくものの荷造りは引越しの業者にセットで頼んだから、今由美がまとめてくれているのはほとんど捨てるものばかりだ。わたしは少し色あせたセーターをたたむふりをしながら、せっせ、せっせと働く由美をこっそり見ていた。才能豊なわたしにも苦手なものがあるとすれば、それは整理整頓。できないわけじゃないけど、とにかくめんどくさい。逆に、由美は料理裁縫炊事洗濯、なんでもござれ。得意料理はさばの味噌煮。魚だって自分でおろす。わたしが男だったら確実に嫁にしたい女だったりするのよね。
 由美は高校時代からの親友。付き合いの歴史は正行よりも長い。無論、一緒に暮らした正行との付き合いのほうが濃密だったに決まってるけど、プライドを忘れられる分、由美といられる時間はあたしにとっては貴重なものだったりする。それも、由美が去年結婚なんてしたりするから、最近では本当に少なくなってしまったけど。
 わたしは由美の目を盗み、冷蔵庫からビールを取り出しこそこそと部屋の隅に隠れた。
 外でのわたしはシャネルの鎧を纏い、血の様に紅いルージュを引き、視線一つで敵を威嚇する女になる。知識と弁舌で男達と対等に戦おうと思えば可愛らしさなんて邪魔になるだけ。ナメてくださいと言ってるようなもの。でも、由美のかわいさを見ているのは楽しい。癒されるってこういうのをいうのかも知れない。由美の旦那がそんな由美の良さを理解しているのかは知らないけど、してなかったら本当にもったいない。宝の持ち腐れよ。
 だから、今日はどうしても由美に来て欲しかった。正行のいなくなった部屋に一人でいたくなかった。うっかりすると、自分が後悔してしまいそうで、困る。
 隠れて飲むビールはおいしい。もやもやした気分まで洗い流してくれるような気がする。


 あの日、いつになく嬉しそうな正行を見て、ああ、とうとうとわたしは思った。前々から正行が故郷に近い大阪に勤め口を探しているのは知っていた。大学時代から、いずれは関西で暮らすと言っていたのだから、話が決まったのならさぞや嬉しかろう。
「なんかさ、太田先生が俺のことを知っててくれるとは思わなかったから、感激してさ、らしくもなくあがっちゃったよ」
 いいえ、十分正行らしい。自分で思ってるほど、あなたは沈着冷静な人ではない。
「なんかいいよなぁ、大阪。空気が熱いって言うのかな。人間同士が正面から向き合ってるって気がするんだよな。東京じゃあこうはいかないよな」
 自分ひとりの思考に夢中で、わたしが上の空なのにも気づかずに同意を求める正行。そうかもね。たしかに東京は礼儀正しい分少し冷たく感じるかもね。
 でもね、正行。あなたはここでは大阪弁を使わない。大学に入って半年もしないうちに、口調はほとんど標準語になった。郷土の誇りというのなら、堂々と方言を使えばいいじゃない!
 幸せそうな正行はひとり悦に入っている。
「太田先生の事務所ってさ、繁華街じゃなくて住宅地っぽいところにあるんだ。人通りの多いところに事務所を構えなくても、顧客には不自由しないってことなんだよな。おかげでマンションも近くに探せそうだから、通勤はすごく楽そうだ。ホント、もう通勤地獄はうんざりだから助かるよ」
 わたしは段々ムカムカしてきた。今夜はわたしが当番だから、かなり頑張ってポトフを作った。昨日の晩から下ごしらえをして、今日はとんで帰って煮込めるだけ煮込んだ。なのに、正行は上の空のままジャガイモを口に運ぶ。たこ糸で縛ったかたまり肉の労をねぎらいもしない。
「感動もいいけど、さっさと食べてくれない? 片付かないのよ」
 感動を共有しようとしないわたしに気分を害された正行がすねる。
「いいじゃないか、片付けなんか明日でも」
「明日は正行の当番じゃない。あなたが洗ってくれるわけ?」
わたしはとっくに食べ終えてしまった。正行の皿にはまだ半分近くポトフが残っている。
 空いた皿やお茶碗を重ねて、わたしはさっさとキッチンに運んで水をかけた。
「優しくないねぇ、朋絵さん。そんなんじゃいいお嫁さんにはなれないよ?」
 缶ビール二本でほろ酔いの正行。安上がりな男だ。そして、おそろしく鈍い。わたしの不機嫌の理由を察することもできない。わたしは、来るべき時が来たことを知り、戦々恐々としているというのに。
 そして、正行が言った。
「一緒に、来てくれるだろ?」
 それはきめ台詞のつもり、正行?


わたしが幸せを逃したことを由美が悲しんでいる。自分のことのように悲しんでいる。かわいい由美。わたしはあなたが結婚を決めたとき、心から喜んではあげられなかったというのに。大切な親友を奪われたような気がして、心の中であなたの恋人を憎んだ。
「なによ、由美ったら。わたしが大阪に行けばよかったって言うの? そうなったらなったで寂しくて大泣きするくせに」
「あたりまえでしょっ。でも、喜ぶわよ。ちゃんとおめでとう、って言えるわよ。幸せになってね、わたしを忘れないでねって…」
 由美は子供のように手の甲で涙を拭っている。由美、あなたは嘘がつけない。弁護士には不向きな人。
「だって、わたしだって忙しいんだもの」
 わたしは余計なことは言いたくなかった。相手が由美だろうと言いたくなかった。だから、一番の本質を一言だけ漏らした。なのに、由美は離してはくれない。
「そんなの理由にはならないでしょっ」
 いいえ、なるのよ。それが理由。わたしにとってはそれが大切で、踏みにじった正行が許せなかったの。たとえ贅沢と言われても、わがままと言われても、それだけは譲れない。
「あんなに、幸せそうな二人だったのに…」
 幸せだった。正行は誰よりもわたしの近くにいて、わたしを理解してくれているはずだった。なのに、彼は一番大切なことだけは目を背けた。わたしの気持ちより、自分の感情を優先した。だから二人は終わったの。わたしが終わらせたんじゃない。正行が背を向けたの。

 二人で徹底的に言い争った。一晩中、争い続けた。論争のプロ同士、かつてないほどの熾烈な攻防だった。どっちも弁護士の誇りにかけて譲れない。
「俺がいつかは大阪に帰ることは解ってたはずだ。それを承知で一緒に暮らすことにしたんじゃないのか? 結婚を前提にした同棲だったはずだ」
「はず、筈って仮定ばかりね。確証もないのによくも勝手に思い込めたものだわ。それに忘れてもらっては困るけど、一緒に暮らす話が出たとき、結婚なんて言葉は一言も出なかったわよ。部屋代と参考文献を割り勘にできれば経費節減になる。浮いたお金を将来の備えにできる。それで一緒に暮らすことにしたのよ」
「それだけじゃなかったっ。君も俺も将来のことを視野に入れていた。君とならいずれは自分達の事務所を開ける、そう思っていた」
「あなたの将来設計は完璧だったようね。あなたの行きたいところにわたしが黙ってついてゆく。あなたの立てた計画を二人で遂行してゆく。わたしは文句も言わず、異議を唱えず、従順に!」
「そんなことは言ってないっ。だが、不都合はなかったはずだ。 君の弁護士資格は東京に限ったものじゃない。向こうでキャリアを積めばいいだけの話だ」
 わたしが、別れを決意したのはこの瞬間だったと思う。彼は、正行は、わたしがもっとも言われたくなかった一言を口にしてしまった。禁断の箱を開けてしまったのだ。


「何がいけなかったの?」
 由美にはわからなかったらしい。そうかもしれない。大抵の女は喜んでうなずくのだろう。もしかしたら、頬を染めて涙ぐんだりもするのかもしれない。由美を見ているとそう思う。
「由美、由美、あなたは見ていたわね。高校時代、大学時代のわたしを」
 親友がうなずくのを見て、わたしの中の堰が壊れた。あの夜から一度も流したことのない涙が溢れた。
「わたしは怠けたりはしなかった。必死に努力し続けた。成績が良かったのは人よりたくさん勉強したからよ。遊びたい誘惑を退ける為に、唇を噛んで勉強したわ」
 高校時代。華やかに笑いさざめく女の子達、気楽に誘いをかけてくる男子達。塾があるからの一言で退けるわたしを、皆が影で何て言っていたか知ってるわ。
『がり勉。気取った勉強虫』
 それでも、いじめられることはなかった。わたしは便利に使われていたからね。宿題でわからないところはわたしに聞けばいい。面倒な委員会はわたしに押し付ければいい。先生達のお気に入りのわたしを敵に回すと面倒だ……。
 大学時代はそこそこには遊んだ。コンパもいった。バイトもした。委員会や部活に取られていた時間を少しまわせばいいだけ。それでうるさい周囲を黙らせられるなら、大した浪費ではない。
 そうして優秀な成績で大学を卒業し、司法試験も一度で合格した。わたしは弁護士になるために、精一杯努力した。
 それでも、就職は楽ではなかった。いくつもの弁護士事務所を断られた。わたしが、女性だから。
『うちは扱う判件も多くて、時間は不規則になりがちでね。深夜までどころか泊り込みもしょっちゅうだ。女性に気を使ってあげるのも難しいんだよ。今は特別扱いもできないからね』
 誰が特別扱いを頼んだの? 不規則な仕事だってことくらい、覚悟の上で職業として選択したのよ。
『うちは体力的に厳しいんじゃないかな。けっこう強面な連中を相手にすることも多いんだよ。女性に何かあると後々厄介だからね…』
 たとえ男性弁護士だって、凶暴な連中と取っ組み合ったりはしないくせに。
 中でも最悪だったのは、時代遅れの男尊女卑。
『ああっ? 女弁護士? 遊びじゃないんだよ、お嬢さん。女に庇われたり攻撃されたい男がどこにいるんだよ』
 女だから? 女に用はない? 無能だからいらないと言われた方がまだましだった!
 何が時間が不規則よ。何が体力よ。男女雇用機会均等法くらい知ってるから特別扱いなんていらないわ!
 二十数件断られて、わたしはようやく小さな事務所に職を得た。法律相談所というより、離婚に関するカウンセリングを主とするような事務所だった。
 わたしがやりたかった不動産関連の仕事ではなかった。
 正行は、大学卒業後も順風満帆だった。東京でも大手の法律事務所に知人の口利きで入ることができた。名うての弁護士の後ろをついて回ることで名前を売ることもできた。荷物を持って歩くだけ、自動車を運転するだけ、一緒に挨拶するだけ。それだけで、和喜の名前は周囲にインプットされてゆく。わたしの名が離婚カウンセラーの影で薄れてゆく間に、正行は一人前の弁護士の階段を駆け上がってゆく。
 悔しいと思って何が悪い? わたしは悔しかった。笑っている正行が憎かった。意地でも表情になんか出さなかったけど、妬んで妬んで眠れなかった。正行は、そんなわたしの感情になんて気づきもしなかったけど。その程度の関心しかなかったってことなのだろう。
 その正行が、言った。
「一緒に来てくれるよな」ですってぇ? 
 瞬時にわたしの頭は沸騰した。大人気ないと笑わば笑え! わたしが欲しくて欲しくて仕方がなかったもの、女だというだけではねつけられ、寄せつけてはもらえなかったものをいとも簡単に手に入れて、それを簡単に捨て去って、わたしについて来いという。大して価値のあるものを手にしているわけではないから、鼻にもかけずに捨てろという。 

「由美、由美、どうして? 男は女の為にキャリアを捨てたりしない。いつだって捨てるのは女の方。何もかも捨てて、黙ってついてゆくことを求められて、従って当然、逆らえば生意気。わたしはちゃんと戦ったのに!
大学入試は女だからって手加減してはくれなかった。司法試験だって正々堂々と挑んだわ。ほんの数年の腰掛だろうからなんて、舐めた問題を出してくれたりはしなかった。学生の間は平等に競わせておいて、社会は女を差別する。今の時代になってもまだ女は軽んじられるのよ。……どうして?」
わたしは由美にすがり付いていた。何もかもが不安定で、自信がなくて、怖くて寂しくて寒かった。積み上げてきた何もかもが一吹きで飛ばされてしまいそうなくらい不確かなものに感じられるのが辛かった。
「どうして………? 女にだって大切なものはあるのに」
 わたしは、何一つ手を抜いたりはしなかった。正々堂々と戦ってきた。戦ってきた!
 睡眠時間を削って辛いのは男達ばかりじゃない。気が狂いそうな程暗記をするのを快感だなんて思ったことはない。受験で苦しみのたうつのは男達ばかりじゃない。なのに!
 由美はわたしを抱きしめていてくれた。何も言わず、ただじっと、暖かい手で抱きしめてくれていた。その温もりだけが、わたしに残された確かなものに思えて、もっと涙が止まらなくなった。


 とある医大で、入試問題に不正があったとニュースになったのは少し前のこと。
 数回受験に失敗した人と、女性の受験生が点数操作をされたという。意図的な減点。
 女性は離職率が高いから入学者数を抑えたとおめおめと発表がなされた。
 大学側の関係者は、医学に関わる人が多いのだろう。
 命に貴賎なしという人々が、性別で以て人を差別するのか。
 自分達とて血を吐くような努力をして医師になり、研鑽を積んできたのだろう。その辛苦を忘れたのか。どうして忘れることができるのか。それとも、最初から、不正を大して罪なことだと思わない、バレなければいいのだと嘯ける様な人達も紛れてでもいたのだろうか。
 受験に失敗し、医師になることを諦めた受験生もいるだろう。医師になり、苦しむ人たちを助けたいという願いを捨てた人達もいるだろう。
 背負っていた家族の期待という重い荷物を捨てるとき、彼女達は泣ける場所を持っていたのだろうか。
 彼らが医師になり、その生涯を医学の道に捧げていたら、救われた命はどれほどあったのだろう。
 夢と努力を諦め、志とは違う道を歩んだ人達は、笑えるようになるまでどれほどの月日を要したのだろう。
 女性達の人生をかけた夢を、努力を、その将来を、女ゆえに軽いものだと考える人がいるのだとしたら言い方を変えよう。
 娘の為に、家族の為に、その将来の為に必死で稼いで学資を貯めた父親達、男性達の努力と希望をも貴方達は踏みにじったのだ。
大学関係者にも娘を持つ人達はいただろうに。彼等は何も考えなかった、感じなかったのだろうか。
 不正があった医大はそこだけではなかったという。

 わたしは心の狭い、いじけた人間だからつい考えてしまう。
 これは、本当に医大関係だけのことなのか。
 時代錯誤な男尊女卑がまかり通る先進国とは名ばかりのこの国で、本当に、受験・入社試験・資格試験・昇進試験等において性差別はなされていないと何を根拠に信じればいいのか。有り得ないはずの不正が実際に行われていたと知ってしまった今となって、どうやって………。
 性差別、点数操作など有り得ないとのんきに信じていた頃のわたしには、もう戻れそうにない。

由美は、その夜一晩わたしの傍についていてくれた。
わたしは泣いて泣いて泣き疲れて眠ってしまい、夕食まで由美が用意してくれた。簡単なものしか用意できなかったと言いながら、テーブルの上に供されたのはけんちんうどん。ごぼうも人参も豆腐もちゃんと入った醤油風味。おいしい。
「ごめんね、引越しの手伝いに来てもらって、夕食まで作らせて。ご主人は大丈夫? いきなり泊まるなんていって怒ってなかった?」
「大丈夫。久しぶりに思いっきりおしゃべりでもしておいでって言ってくれた」
「はいはい、お優しいだんなさまでお幸せですねぇぇぇぇっ」
 わたしは思いっきり熱いうどんを啜った。

 由美は、正行に憧れていた由美は、正行ではない人と出会って恋に落ち、結婚して、来年にはママになるという。
 由美は変わらないだろう。何年経ってもかわいくて、優しくて、ふんわりと柔らかい存在のまま、静かに幸せに暮らしてゆくのだろう。
 わたしのようにはなれなかった由美。由美のようには生きられない、わたし。
 わたしは独り、歩いてゆく。



 彼氏の思考


美しい美しいお妃様は、世界で一番美しい墓廟を夫のマハラジャにおねだりした。
愛の証しに私にください。夢のように美しいタージ・マハルを。
 なぜ、それがお墓だったのか。二人で暮らす宮殿や、静かな離宮ではなかったのか。
 その答えは、誰も知らない。もう、知りようがない。

タージ・マハルに眠る女性(ひと)。貴女は世界でもっとも愛されたのかもしれない。白亜の宮殿は今もその愛の伝説を物語り、世の女性達に溜息をつかせ続ける。
けれど、貴女を知る者はない。何を思い、何を考え、何かを感じていたのか。貴女の愛、貴女の涙、貴女の苦悩。知る者はない。貴女の為に涙するものも、今はもういない。
マハラジャは貴女を愛した。貴女の死後も想い続けた。国を傾け憎しみを背負う程に。
だが本当に、彼は貴女のことを理解していたのか?
最高の墓を作るなら、小さくても美しければ良かったのではないか? 常に貴女の好きな花で飾り、炎熱の季節にも水を絶やさない。マハラジャは独り霊廟に篭もり、貴女に語りかける。そんな墓でも良かったのではないか?
女の考えることなど男に解るはずもない。女は感性の生き物。泣き叫ぶ女の悲鳴は耳障りなだけだ。

僕の恋人も思考よりも感性でものを言う。
「タージ・マハルに行きたいわ」
 ただ行って、見るだけ。それに何の意味がある?
 金はもっと有効に、有意義に使うべきだろう。
 だから僕は溜息を一つつく。しようがない奴だ。
 NYに行こう。そこは人種の坩堝。様々な人がいて、ありとあらゆる感性が渦巻いている。法律事務所に努める君と僕には必ず役にたつ。
 


其の6 炎に身を焦がす、夏子


 女であるということは、損なんだろうか。得なんだろうか。わたしの場合、プラスマイナス鑑みて、どちらかといえば損なことの方が大きいといった感じだ。別に自分を男だと思っているわけではない。ただ、自分が女だと思うのがあまりしっくりとこないというだけのこと。時折、男に生まれたかったと思うだけのこと。それが、わたしにはとても損なことに感じる。

 わたしには恵美(めぐみ)という三歳違いの従妹がいる。これがもう、ものすごくかわいい。お嬢様学校に通っているから、校則がうるさくておしゃれにも限界があると嘆いてるけど、リップもアクセもいつもすごく似合うものをつけててかわいい。ファッション・センスも抜群で、娘に甘いパパさんがふんだんにお小遣いをあげているから私服もかわいい。何より笑顔がかわいい。笑い声がかわいい。ちょっと泣き虫で気の強いところが最高にかわいい。
そう、わたしはこの従妹が大好きなのだ。少し虚しいけれど。
わたしはコーヒー党だけど、常に紅茶も欠かさない。銘柄はキャンディ。名前がかわいくて恵美のお気に入り。恵美専用のマグにミルクティを入れて、シナモンクッキーを添えて出してあげる。好きな食べ物まで女の子らしい。恵美愛用のクッションは空色。魚が空を泳いでる感じのイラストがシュール。恵美が持ち込んで以来、この部屋に定位置を占めるようになった。どちらかというとメタルっぽい感じのものが多いわたしの部屋の中では異彩を放っているように見えるけど、気にしない。恵美の居心地が良くなるのなら、ピンクのバケツだって置いてあげる。
 もうじき、恵美が来る。久しぶりの訪問。ここしばらく恵美は受験勉強で忙しくてここには遊びに来なかった。だから顔を見るのも久しぶり。寂しかった。
 わたしが勉強を見てあげられたら良かったんだけど、わたしでは恵美を甘やかしかねないと家族に反対されてしまった。
 二人っきりで受験勉強。二人っきりの時間。くぅ〜っ
 そろそろ約束の時間。もうじき会える。胸がときめく。冗談じゃなしに。

 わたし、頭、真っ白。思考停止。今、何て言った? 聞きたくないけど、もう一度聞かせて? 何をされたって?
「キス、されたの…」
 わたしは、瞬時に凍りついた。
「…誰に?」
「正樹、先生に…」
 紅茶の香る部屋の中。フローリングの床に敷いたラグの上にちょこんと座って、恵美はうつむいている。両手でマグを握り締めて、顔を恥ずかしそうに赤らめて。
「…きのう」
 その瞬間、わたしの頭の中で何かが爆発した。沸騰した。煮えたぎった。よりにもよってわたしの従妹に、恵美に、なにをしたですってぇぇぇっ?
「抱きしめられてキスされたの…」
 チュドォォォ…ンン!
 誰か、バズーカ砲持ってこいっ。ヤツは、恵美の家庭教師・正樹は、わたしが叔母に頼まれて推薦した友人、いや、元友人だ。その正樹が中学生を、未成年を襲った。わたしの恵美を抱きしめたぁ?
「なんてヤツ…っ」
 友人に裏切られた悔しさに自分の迂闊さも加わって、わたしは血管が切れそうなくらい激怒した。
 正樹は念には念を入れて吟味した友人だった。成績優秀なのはもとより品行にも問題がなく、何よりどうせ付き合うなら年下よりはお姉さまがいいという年上趣味。間違っても義務教育中の子供なんかには手出ししそうにない安全な男を選んだつもりだった。不覚にも顔だけは、恵美の希望を入れてそれなりのそこそこ美形という条項を入れなくてはならなかったが、それ以外は完璧に安全な先生を紹介したはずだった! (…い、いや、そもそも男なんかを紹介したのが敗因かもしれない)
 二十歳の男が、教え子の女子中学生なんかに手を出すかっ。友人の信頼を裏切るかっ。見損なったぞ、大馬鹿野郎っ!
 わたしは混乱した。大事な大事な恵美が危険だったなんて。ファースト・キスを奪われるなんて。わたしが紹介した男のためにっ。
 ああ、恵美のかわいさを、純真で穢れないプリティさを、甘く見すぎていた!
「ご、ごめん、恵美。ごめん。わたしが迂闊だった。そんなヤツだとは思わなかった。信頼できるやつだと思ったから家庭教師頼んだのに、まさかそんな卑劣な真似をするなんて」
 恵美はかわいい。誰からも好かれる明るい性格と、八重歯がチャームポイントの女の子。ずっとわたしが大事に守ってきた従妹。本当の姉のようにわたしを慕ってくれるかわいい恵美。その恵美を、わたしが窮地に陥れる手助けをしてしまったなんて。
「ゆるせないっ」
 わたしは泣きながら立ち上がった。正直何も考えられなかった。ただ、元友人正樹を殴って蹴飛ばして張り倒して、二度と未成年に、恵美に手出しできないようにしてやらなきゃ気が治まらなかった。
 殺してやりたい。わたしは本気でそう思っていた。
 そのわたしを、恵美が、止めた。
「やめて、警察になんて電話しないで!」
 警察…? 何で警察?
 ああ、玄関横のカラーボックスに、わたしはスマホとホルダーを設置していたんだ。だから、玄関に向かって突進しようとしたわたしが通報すると思ったのか。
 恵美は、わたしの足にしがみついていた。必死に、一所懸命、自分を守ろうとするわたしを止めていた。まるで、わたしが正樹をいじめようとしているみたいに。
「あ、あのね、正樹先生はすごく優しくって、お勉強もすごくわかりやすく教えてくれて、一度も怒ったことがなくって、笑顔がすてきで、だから、ね…」
 恵美、恵美、なにを言ってるの? 自分が何を言っているのかわかってるの? きっと、わかってない。気づいてはいない。その涙が、一途さが、かわいさが、今、どれだけわたしを傷つけているかなんて、きっとあなたは考えたこともない。かわいくて優しくて、残酷な、恵美。
「先生が来てくれる土曜日がすごく楽しみだったの。大っきらいな数学も、先生にほめてもらいたくてがんばったの。だから、わたし、いやじゃなかったの」
 恵美が必死にすがりつく。訴える。あいつを守ろうと訴える。顔を真っ赤にして瞳を潤ませて両手でわたしの足にしがみつく。
「今日は、報告に来ただけなの………」
 何を報告するというのだろう。好きな人ができた? 初めてキスした? それをわたしに報告するの?
 いまわたしが泣いているのは、悔しさと怒りのためではない。純粋な悲しみのための涙だ。大切な想いを失いかけていることに気づいた悲しみ。もとより、叶うはずのない想いだったけど、こんなにも唐突に、自分のミスで失う日が来るとは思わなかった。
「正樹が、好きなの?」
 できる限り、精一杯優しい声でわたしは聞いた。恵美は小さくうなずいた。
 それで、わたしの失恋は決定した。

 脱力感でいっぱいで、わたしはそれ以上演技することができなかった。ムリして笑っても、きっと恵美は不自然さに気づく。だから、今日は駅まで見送らず、玄関で別れた。
 恵美は、自分が帰った後もわたしが泣いているなんて思わない。小さな妹が恋をしたことに戸惑っている、くらいにしか思ってない。そうだろう。それでいい。気づかれないように、決して知られないように、わたしは細心の注意を払って恵美に接してきたのだから。
 恵美専用のマグとクッション。
「もう、あんまり出番はなくなるんだろうな…」
 恵美の好きな紅茶。恵美と一緒に撮った写真。恵美と一緒に遊ぶ為に買ったゲーム。
 彼氏ができれば従姉の所なんか、足が遠のいて当たり前。そんな時間があったら彼氏に会いに行くだろう。
 正樹はいい加減なヤツじゃない。きっと受験が終わるまで我慢して我慢して、恵美が卒業するまで待って行動を起こしたんだろう。きっと本気で恵美を好きなんだ。だから恵美も怖がらなかった。
 わたしには、ヤツを責めることはできない。正樹はわたしの想いを知らない。誰だって想像もしないだろう。わたしの想い人が同性の従妹だなんて、普通はありえないと思うだろう。だから、正樹はわたしを裏切ってはいない。きっとそのうちに、わたしに恵美と付き合うことになったと知らせに来るだろう。真面目に、少し照れた顔をして。あいつは、そういうやつだ。
 わたしは立ち上がり、ユニットバスに向かった。そして少し温めの湯をバスタブに張り、おもむろにTシャツを脱いだ。ブラもとり、Gパンも脱ぎ、靴下も下着もとった。まだ蛇口をひねったばかりでお湯は数センチしかたまってはいないけれど、わたしは全部脱ぎ捨てた。そして、忌々しい体を見る。
 洗面台にセットされた鏡はわたしの上半身を、白い身体を映し出す。全体的にやせているから、わたしの胸は決して大きくはない。でも、小さくても確かに膨らんでいる。紛れもない女の胸。女の体。
 わたしの部屋のユニットバスは淡いブルーで統一されているから、日焼けしていない肌がいっそう青白く見える。体は骨太のはずなのに、今は妙に華奢にさえ見える。ショートカットにした髪はカラーリングなんてしてないから真っ黒、目ばっかりが大きく見える。
「こんなの、いらない…っ」
 女の体なんていらない。
 わたしは恵美が好きだった。誰よりも大事な従妹。大好きな女の子。この気持が変だなんて思わない。あんなにかわいい、優しい女の子をどうして好きにならずにいられるだろう? 何もかもがわたしとは正反対の女の子。この気持ちは多分に憧れ的な要素を含んでいる。それは認める。でも、それだけじゃない。それだけだったら、恵美の体を見たいなんて思わない。
 わたしは恵美を見たかった。柔らかい体を、すべてを知りたかった。抱きしめた感触を想像して身悶えした。触れたい、抱きしめたい、香りを嗅ぎたい、くちづけたい。恵美の代わりにつまらない自分の体を抱きしめて、その感触に恵美を思った。危険なのは正樹じゃない。わたし。恵美が信頼して、安心して二人きりになっていたわたしこそが、恵美を抱きしめたいと望み続けていた。
 ユニットバスの冷たい壁に背を押し付け、座り込む。どれほど壁が冷たくても、わたしの火照る体を冷やしてはくれない。呼吸が苦しい、酸素が灼熱化して肺を焼く。苦しくて苦しくて自分の体を抱きしめても、わたしの両手は抱きたいのはこれじゃないと泣き叫ぶ!
「恵美…っ」
 自分の手にすら余るささやかな胸のふくらみは、いくら弄っても恵美の変わりにはなりえない。触れて欲しいのは恵美の手。感じたいのは恵美の体温。小さな唇の感触をわたしが知ることは永遠にない。
 わたしはなぜ女なのか。なぜ恵美を守れる強い腕と逞しい体を持ち得なかったのか。男に生まれたかった。男に生まれたかった。どんな男だったとしても、恵美を得られるならば決して諦めたりはしなかった。
 泣いて駄々を捏ねても恵美を得られるわけではない。この想いに恵美が気づいてくれるわけでもない。わかってはいても涙は止まらない。止められない。子供のように泣き続けている自分。

わたしは、性同一性障害じゃない。自分が女だとわかっている。わたしの望みは恵美を抱きしめて守ること。奪って壊して自分だけのものにしようとする男の欲望とは違うと思う。それに、わたしは男に興味はないけれど、恵美以外の女の子にも興味はない。かわいいとは思ってもそれだけ。それなら男にだって理想のタイプがある。
ただ、恵美だけが欲しかった。恵美にずっと好きでいて欲しかった。誰よりも、一番好きだと、言って欲しい。わたしが恵美を愛したように。


 大学なんて休んでしまいたかったけれど、単位がギリギリの講義があったりしたものだから、とりあえずアパートを出た。駅に続く道も、車窓から見る景色も、何もかもすべてが空ろに見えてわたしは泣きたくなる。一晩泣き続けたのに、涙はまだまだ涸れてはくれないらしい。自分のあまりの女々しさにいやになる。
そして大学の敷地内に入るなり、今一番会いたくないやつに会ってしまった。
男友達その2・拓郎。嫌味でおせっかいで厄介な男。

「不毛だ。あまりにも不毛だ」
 あきれ返った白い目でわたしを見るな。
こいつはわたしと同期ながら一つ年上。浪人とか留年したわけじゃなく、大学に入ってすぐに休学して、アメリカなんぞに遊学した所為らしい。その頃はまだ友人じゃなかったから、本当かどうかは知らない。こいつの言うことを信じるしなかい。
「五歳年下の同性の従妹に七年恋煩いした挙句、安全確実と思った友人に掻っ攫われるとは、何たる不毛、不覚!」
「総括してくれてありがとう」
「馬鹿じゃないのか?」
「余計な一言だっ」
 こいつは、わたしの恋を知っている。わたしが話した。信頼しているとか頼っているとかじゃなく、色々あって話さざるを得なくなった。そしてそれ以後、人の顔を見るたびに心配しているんだか面白がっているんだかわからないコメントを吐く。
 それでも、まあ、わたしが唯一愚痴をこぼせる相手ではある。
「それでどうするんだ?」
「どうするもなにも」
「諦めるんだろうな?」
「そんな簡単にいくか」
「じゃあ、まだまだ不毛にして従妹君には迷惑なだけの横恋慕を続けるのか」
 こいつの言うことはきつい。ときどき、いや、しょっちゅう、何でよりにもよってこんなヤツに白状しなきゃならなかったのかとわたしは大いに後悔する。
「勝手に思ってる分には誰にも迷惑はかけないだろうっ」
「いや、俺が迷惑する。当然ね」
「………」
 こいつは、拓郎は、去年わたしに交際を申し込み、しつこくしつこく付きまとい、その結果どうしてわたしが付き合うことができないかを聞き出してしまった男だったりする。
そして、未だに諦めてはいないらしい。
 男女交際を断ってもかわらず友人であり続けてくれた男。愚痴を聞いて、悩みの相談に乗ってもくれる男。同性が好きだと言っても退かないあたり、かなりの粘着質だとは思うが、おそらく、多分、わたしはこいつに愚痴りたくて今日ここに来ているのだと思う。
こいつに話したことはかなり後悔しているが、独りで抱え込まなくてすむようになったのはやはりありがたいと思う。こんなに口が悪くなければもっといいのだけど。
 拓郎はかなりいい男だと思う。自由人を自称してるから、まだどこぞへふらふらといってしまう可能性は高いが、友人としては最高の部類に入ると思うし、意外に気がきいていたりもする。しばらくみないと思ったら、バイクを飛ばして伊勢志摩までいってたなんてことをさらりと言う。貧乏旅行で寝袋持参してたくせに、真珠のピアスなんかを買ってきたりする。むろん安物だし、女っぽいものはつけないと散々言っても懲りずに買ってくる。
「ピアスなら男だってつけてるからかまわないだろう」なんていうが、真珠のピアスをつけてる男なんてちょっと見ないと思う。それに、そんなお金があるならユースホステルにでも泊まればいいのに、こいつは野宿しても土産は買ってくる。
 下心が有るのかないのか。飄々とした顔でポケットから小さな包を取り出し、わたしの掌に置く。そしてそのまま照れたように去っていく。
 去っていく後ろ姿を見つめながらわたしは途方に暮れる。
 友達として受け取っていいのか。それ以外の想いも受け取ることになるのか。
 拓郎は何も言わない。
 わたしはいつかこいつにほだされるのかもしれない。拓郎の為に装う日が来るのかもしれない。拓郎は女らしくしろとは言わないし、今のわたしだから面白いのだとも言ってくれる。それでも、ピアスやスカーフといった装身具を買ってくるのは、やはりそれなりの下心があるということなのだろう。
前に、どこかで聞いたことがある。男は脱がせる為に女にドレスを贈るのだと。
 だったら、いずれは拓郎もわたしに女物の服を送るのだろうか。今はまだ貧乏学生で、学費と趣味にバイト代と仕送りのほとんどが消えてしまっているらしいけど、自分で稼ぐようになったら、そのときには、わたしに覚悟を決めろと迫るのだろうか。
 かつて口説かれたときのやつの目は真剣だった。
『お前に惚れた。俺と付き合え』
 今は冗談ばかり口にする拓郎。それでも、私のことを友達とは言わない。
 待っていてくれるのだろうか。わたしの恋が終わるのを。
それまでは猶予をくれると思っていてもいいのだろうか。
 今はまだ、拓郎は何も求めては来ないけれど。
「拓郎」
「うん?」
「あんたって、いいヤツだよね?」
 わたしはときどき確かめる。
「よさんか、馬鹿者。その後にずっとお友達でいてね、と続くのなら聞かんぞ」
「言わないよ」
 いいヤツとは言っても、いい男だとはまだ言ってやらない。それは将来のお楽しみにとっておく。いつか口にする日が来るだろうから。
 でも、まだ言えない。恵美を恋しく思っている限りは言える言葉じゃない。初めから実るはずのない恋だとわかっていても、断ち切れなかった想いは自分の意思では殺せない。こんな虚しい恋、止められるものならとっくに止めている。でも、できない。夕べあれだけ泣いて身悶えても、やはりわたしは恵美が好き。こんなにも愛しい。だからもう少しだけ、恵美への想いに胸を焦がしていたい。焦がれる想いに身を焼き続けていたい。
 拓郎が許してくれるなら、待っていてくれるなら、わたしはもう少しこの男に甘えていたい。

 一歩先を歩く拓郎のジャケットの裾を掴む。拓郎が立ち止まる。
「どうした?」
 わたしは拓郎の背に額を押し付けて、そのぬくもりを少しだけ分けてもらう。
「もう少しだけ、ね」
 恵美への想いを抱きしめ続けるわたしを拓郎が抱きしめていてくれる。そんなイメージを脳裏に描きながら、わたしは拓郎の大きさに甘えている。



彼氏の思考


 タージ・マハルが完成までの長い年月、マハラジャは亡き妻を思い続けていたのだろうか。二十二年間も泣き続けることなんてできるのか。心は変わることはなかったのだろうか。女に不自由することなどないはずの立場で。
 妻を愛しすぎたマハラジャは、その霊廟の完成後、再び華麗かつ壮大な夢をみる。タージ・マハルと対をなす漆黒の霊廟、自らの荘厳なる慕廟。それは計画のみで実現することはなかったけれど。
 それは既に妻への追憶・感傷などではなくなどではなく、壮麗な建物を作ること自体に夢中になっていたのではないのだろうか。
 愛ゆえに。その言葉を使えば全てが許されるとでも思っていたのか。
 マハラジャの夢は財を傾け、国を傾け、結局自らが王位を負われる原因となった。
 王位を追われたマハラジャは、幽閉された城からタージ・マハルを見つめては涙に暮れる数年を過ごし、今は妃とともに眠る。

 国民(くにたみ)を苦しめた無駄に豪華な霊廟は現代において有益な観光資源となり、ITによってインドが国力を増してゆくようになる以前から、国に貴重な外貨をもたらした。
 荘厳な霊廟は100%無駄にはならなかったようではある。



其の7 幸福の庭の布由香さん


 温かな日差しの中、満開の薔薇が咲き誇る。そして、そのどんな薔薇よりも誇らしげに貴女が微笑む。
 大輪の花より少し小ぶりの花弁を愛する人。コーヒーより紅茶が好きで、掃除が好きで、食べてくれる人がいれば料理も好き。でも、裁縫はちょっと苦手。そんな女(ひと)。
 花々を引き立てるために白いブラウスとクリーム色のスカートを身につけているのに、花の方が霞んで見えるよ。愛したものに囲まれて、誰よりも幸せに貴女は微笑む。

 四季折々の花々が満開になる頃、貴女からの季節の便りが届く。そして文面の最後に添えられる一言が、僕をこの庭へと引き寄せる。
「…また、お茶を楽しみにいらっしゃいませんか? 誠二さんの送ってくれた黄薔薇が来週くらいには満開になりそうです」
 その言葉が、社交辞令ではないことを僕は知っている。もう、思い出話を語り合える人は限られてきてしまったから、あなたは本当に僕の訪れを待っていてくれる。
 布由香さん。僕の義理の姉。亡くなった兄貴の妻。兄が亡くなってから四年も経つのに、未だに夫を愛し続けている。
「去年あなたがくれた黄薔薇が今年もきれいに咲いてくれたから、どうしてもあなたに見て欲しかったの。紅い薔薇は今年は虫がついてしまってあまり楽しめないけど、白い薔薇は来週くらいが見ごろでしょうね。良かったら見に来てちょうだいね」
 兄貴が送った紅い薔薇。
 貴女の好きな白い薔薇。
 そして、僕が送った薔薇の苗は黄色。
知っていますか、義姉さん。黄色い薔薇の花言葉を。僕は黄薔薇に自分の想いを重ねて貴女に送りました。兄を愛し続ける貴女。そんな貴女に憧れる自分。貴女に伝えたい一言があるけれど、それを告げてしまったら貴女はもう僕をここに呼んではくれないだろう。告げた瞬間に、僕は貴女と最愛の夫との時間を邪魔する部外者になってしまうから。

ダイニングテーブルの上に並べられた貴女の手作りの料理の数々。大して手間の掛かるものは作っていないと貴女は少し照れたように微笑むけれど、僕は知っている。一人暮らしの僕を気遣って、栄養バランスを考えて作られた貴女の心づくし。サンドイッチだけでも五種類の具を用意してくれている。サラダと野菜スープと紅茶とピクルス。そして、貴女の手作りのデザート、アップルパイ。
義姉さんは優しい。とても優しい。だから僕は誤解してしまいそうになる。知っていますか、義姉さん? 男を陥落させようと思ったら、胃袋を攻めるのが最強最良の手段なんだそうですよ。毎回毎回来るたびにこんなにもてなされてしまうと、僕なんかは簡単に貴女に恋してしまいますよ。もう、とっくに手遅れだけど。
けれど僕は知っている。貴女が僕に優しいのは僕が貴女の義弟だからだ。愛する夫の弟だから、貴女は僕を気にかけ、気遣ってくれる。それは誤解してしまいそうなほど優しく、温かく、幸せな空気を身に纏って微笑む。
ふっと空気が変わる。暖かな日差しにあふれた庭にほんのかすかな影がさす。殊更優しく、幸せそうに貴女が微笑むとき、それは大抵兄貴のことを話題にするときだ。
「このごろ一段と祥さんに似てきたみたいね」
 目を細めて貴女が僕を見つめる。
「そうかな。僕の方が背は高くなったみたいだし、兄貴みたいにハンサムだなんて言われたことはないけどな」
兄貴の祥は子供の頃から優秀で、挫折知らずで成長した挙句、ルポライターを職業に択んだ。そして異境の地で帰らぬ人となった。交通事故だった。紛争に巻き込まれて華々しく死んだのならニュースにくらいはなったかもしれないけど、兄貴らしくもなく地味にひっそり命を落としてしまったから、知らせを受けたのは死後半月も経ってからだった。
「誠二さんは言わないのね」
「何を?」
「忘れろって」
 兄貴と僕は早くに両親を失い、二人っきりの兄弟だった。兄貴が二十四で結婚したとき、布由香さんは二十歳、僕は十七歳。古い一軒家を借りて三人で暮らした。僕が大学に入るまで。兄貴と布由香さんが二人っきりで過ごせた期間は二年に満たない。しかも兄貴は仕事で一年の半分近くを海外で過ごしていたから、二人の思い出を作る間もなかったんじゃないかと思う。
「ありがとう」
「え?」
「言わないでくれて」
 気づきたくはないけれど、僕は貴女の瞳が潤んでいることに気がついてしまう。布由香さん、貴女はまだ兄貴を愛している。思い出を語るだけで泣いてしまうほどに。
「不思議なの」
「何が?」
「祥さんは海外にいることが多かったから、なんだか今もどこか遠くを旅しているような気がして、死んでなんかいないような気がして、しかたがないの。待っていれば、いつか帰ってきてくれるんじゃないか、て」
 ちゃんと荼毘に付された兄貴の骨を受け取って、墓も作った。関係者からのお悔やみの言葉も聞いた。葬儀のときの、義姉の美しい喪服姿が痛々しくて、僕は肩を抱かないようにするのにかなり苦労した。震えていた細い肩。それが兄の葬式の際、もっともくっきりと残る僕の記憶。
「まだ、わたしが祥さんを好きなままでいることを許してくれるのは、誠二さんだけになってしまったわ」
 貴女が許して欲しいというのなら、なんだって許すよ。そのまま、時を止めてたゆたっていたいのなら、そうすればいい。僕は変わらずにこうしていよう。
「…兄貴が、愛した人が死んだからって、自分の中の想いまで死ぬわけじゃないのかもしれないね。存在が失われたからって、心の中の面影まで死んでしまうわけじゃない。義姉さんは今も心の中で兄貴と語り合っているのかもしれない」
 布由香さんが嬉しそうに微笑む。
「誠二さんは詩人ね」
 違う。僕は詩人なんかじゃない。ただの卑怯者だ。
 貴女にはずっと兄を思い続けていて欲しい。僕はこれ以上貴女の心に近づけないのなら、他の誰のものにもなって欲しくはない。ずっと、夢の庭で兄貴を想い続けていて欲しい。それなら僕はガーディアンでいられる。貴女と貴女の庭を守る守護者。

貴女が僕をこの庭に呼ぶのは、僕が兄貴の弟だから。僕に会いたいわけでも、必要としているわけでもない。残酷な女(ひと)。無邪気に微笑んで僕の心を踏みにじる布由香さん。
初めて兄貴に貴女を紹介された時から、僕は貴女に憧れていました。年上なのに、大人なのに、少女のように微笑む貴女に。
「お茶が冷めてしまったわね。待ってて、すぐに入れなおしてくるから」
 ティーポットを手にキッチンへと向かうあなたの背中を見送りながら、僕は小さく溜息をつく。いつまで、こうしていられるのだろう。貴女の心は亡き兄とともにあり、過ごす時間は僕と共にある。この花の庭で、貴女と二人きりで時を過ごすことを許されているのは僕ひとり。
 いつの日か、貴女もこの庭を出てゆく日がくるのかも知れない。兄貴を忘れて、他の誰かに手をとられながら。けれどその手は決して僕の手ではありえない。

 義姉さん、布由香さん、知っていますか。兄は貴女に秘密がありました。きっと細心の注意を払って貴女から隠し続けた秘密を、僕は預かっているんです。
 布由香さん、変だと思いませんでしたか? 兄貴の残した生命保険の保険金は二千万円。兄はそのうちの一千五百万円を貴女に、五百万円を僕に残した。成人した弟に残すにしては、少し多すぎるとは思いませんでしたか?
 優しいお兄さん。きっと貴女はそう思っただけなのでしょうね。
 兄はあの国に、もう一つの家族を持っていたんです。子供は男の子が一人。今年七歳になるそうです。僕は会った事はないけど、写真を見ました。母親似らしくて、兄に似ているとはあまり思えなかったけど、兄貴は自分の子と認めていました。認知はしなかったようだけれど、僕に残した保険金の大方は実は子供とその母親に残したものでした。僕は管理を任されて、その礼に百万円もらいました。
 彼の地の母子と、あなたの心を守る為に。


 僕は兄貴にもらった金を投資に使い、そこそこの利益をあげている。蓄えは数倍に膨れ上がり、その気になれば事業も起こせる金額になった。
 兄貴の忘れ形見に残された保険金は勝手に投資するわけにもいかないから、とりあえず、何かあったときの為に自分の蓄えを増やしておかなくてはならないと思ったのだ。母子に残された保険金は半分を信託財産とし、残る半分をとりあえず毎月の養育費として少しずつ送っている。会ったことのない甥っ子は、将来カメラマンになるのが夢だと手紙に書いてきた。たどたどしいアルファベットの英語で書かれた手紙を見ても、血の繋がった甥だとはあまり実感できなかったけれど、それでも僕は写真に写った甥っ子の顔に兄貴の面影を捜す。
 兄さん。長くはなかった人生の、大半を思うままに生きていった兄貴。妻を愛し、けれど妻以外の女性との間に子供を残した男。いつかは義姉さんに子供のことを話すつもりでいたのか? それとも生涯隠し続けるつもりでいたのか? きっとあんたのことだから、うまくごまかしてしまうつもりだったんだろう? 義姉さんは優しいから、許してくれるとでも思っていたのか。
 年の離れた二人っきりの兄弟。僕は子供の頃から兄貴の後を追って歩いた。兄貴に負けまいと意地を張った。いつだって、兄貴は大きくて、立派で、強くて賢い、遠い存在だった。兄貴も、二十歳そこそこで親代わりをしなければならなかったのだから、大変だったのだろうとは思う。傍からはそうは見えなかったけれど。
 有名大学を途中で退学し、写真の専門学校に入りなおし、卒業するとカメラ片手にアメリカに渡った。帰ってきたときにはコンテストのトロフィーをトランクの底に入れていた。
自由に、気ままに、思う様生きた男。僕の兄貴。
 あんたは僕の憧れで、今は憎い恋敵。あんたが背負うはずだった重荷と難題は、僕の背にずっしりと残された。外せない枷とともに。

 薄曇りの空を背景に、色とりどりの薔薇が咲き乱れる。おかしなもので、他にも花が咲いているのに、なぜか人の目は薔薇ばかり映してしまう。花々の女王といわれる所以か。あでやかにして高貴、気高く孤高の、薔薇。散りゆく花弁まで美しいなんて、まるで兄貴を連想させる。思い出の中の兄は今も美しいまま。散った花びらを掃除するのは弟の僕。これからも、花の庭と花を愛する人を守り続けるガーディアン。
 温くなった紅茶の渋みが舌に残り、僕はティーカップをテーブルに戻した。そして薔薇をよく見るために立ち上がる。
 花の庭はとても小さくて、ほんの数歩で端から端まで歩けてしまう。雨上がりの五月の空の下、ほのかに暖かな空気とさわやかな風が心地いい。むせ返るような緑の風の中に、芳しい薔薇の香が漂う。そう、きっと僕も薔薇が好きなのだろう。兄のような花。義姉の愛する花々の女王。
 ふと、思い立って僕は義姉が残念だと言っていた紅薔薇の前に立った。少し黒味を帯びた花弁。その深みに翳りすら感じさせる深紅。柔らかな光と色彩の中で、視線と意識を引き寄せて離さない兄貴の薔薇。
「そういえば、花の数も少ないな?」
確かに緑に例年のような勢いはなく、つぼみの数も少ない。隣に咲く白薔薇と、少し離れたところに植えられた黄薔薇は瑞々しく勢い盛んなのに。
今年も、義姉は手を傷だらけにして丹精したのだろうに、もっとも愛しているはずの深紅の薔薇に元気がない。
「……えっ?」
 しゃがみこみ、根元や土の状態を見ようとした僕はその小さな存在を認めて、小さく息を飲んだ。紅薔薇の陰に、隠すようにして植えられたミニバラ。掌ほどの大きさの苗で、花の色は同系色の、赤。
 兄の薔薇のような気品があるわけではなく、風格もなく、翳りよりも愛らしさをその小さな花弁に感じさせるちっぽけな愛らしいミニバラ。
「義姉さん、まさか……」

 いつ、どうして気づいたんですか。誰が貴女に伝えたんですか。誰があなたの幸福を壊したんですか。貴女は独りで泣いていたんですか。
 ここは貴女の夢の庭。兄と暮らし、兄を待ち続け、兄が死んだ後もここで貴女は兄を想い続けた。
たった一人、兄を思い続けたこの花の庭で、貴女は……。

 そして僕は小さな幸福の足音を聞く。紅茶を入れなおしたティーポットを手に、キッチンから戻る貴女は真っ直ぐに僕を見つめ、微笑んでいる。
 花々の中にあって、花々よりもなお鮮やかに微笑む女性(ひと)。
「おまちどうさま」

 いつか僕は彼女の手をとり、この花の庭を出て行くだろう。愛と優しさと、ほんの少しの寂しさを抱いて、兄の思い出が眠るこの庭を出る。二人で、ずっと一緒に、生きて行く。春も夏も秋も、薔薇の咲かない、冬も。貴女の心から、兄貴の影が完全に消える日は来ないだろう。兄を思い出すたびに、きっといつだって貴女は泣くのだろう。僕はそんな貴女を見守る唯一の男になろう。貴女の中の兄貴の影ごと貴女を抱きしめる。兄貴と一緒に貴女を抱きしめる。
 いつか、僕達は三人で暮らすのだ。



彼女の決意


 困惑した表情で彼が彼女に聞く。
「この案件は何が問題なんだ?」
「ああ、特に問題はないらしいんだけど、亡くなったお兄さんの支援者が、今頃になって保険金で支援したお金の一部を返還するように求めてきたとかでね」
「なんだ、そういうことか。支援者ってことは賛同して投資したんだろう。リスクは覚悟していたんだろうに」
「それがね、その支援者って人、お兄さんの友人で未亡人となった布由香さんに横恋慕してたらしくて。弟さんとの結婚を阻止しようとしているみたいなの」
「それで金返せか。くだらん」
 彼はデスクの端に調書をを放り投げる。
「疲れたわね。コーヒーでも入れましょうか?」
「ああ、頼むよ」

 ブルー・マウンテンの甘やかな香りが事務所に広がる。今日は休日で二人の他には誰もいないから、内緒で来客用のブルマンを淹れてしまった。
 コーヒーの芳香で心を落ち着ける。
 今日、もう一度、わたしはあなたに尋ねるわ。

「タージ・マハルに行きたいわ」
 両手で持ったコーヒーカップの中に囁くようにわたしがつぶやく。
「なんだ、まだそんなことを言ってるのか。NYに行こうって決めたばかりだろう?」
「夕日に白亜が染まるのを見たいわ」
「だから、そんなところには行かないって………」
「インドってね、灼熱のイメージだけど場所によっては雪が降るところもあるんですって。タージ・マハルはどうかしらね。一面の銀世界の中に佇む白亜のタージ・マハルなんていうのも素敵よね?」
 わたしは、微笑む。タージ・マハルを夢見るように微笑む。
「………どうした?」
 彼が訝しげに眉を寄せる。
 
 ごめんなさい。わたし、出会ってしまったの。
 わたしの言葉に耳を傾けてくれる人。一緒に夢を見てくれる人。
『わたしね、タージ・マハルに行きたいの。昔からの夢なのよ』
『タージ・マハルってインドの?』
『ええ、そう。インドの王様が最愛のお妃様に捧げた愛の証。世界一美しい霊廟よ』
 彼が笑う。
『それはすごいね。ロマンチックだ!』
 それから、照れながら呟いた。
『あなたの夢が叶うとき、となりに僕もいられたらいいな』

 彼はわたしの夢を否定しない。一緒にタージ・マハルに行ってくれると言った。
 彼は貧乏学生で、わたしの分まで旅費を出したりはできない。カルティエのバッグなんて買えないし、お昼はいつもハンバーガー。
 でも、彼には夢がある。
『僕は、必ず弁護士になります。弁護士になって、あなたと二人でタージ・マハルに行く。だから、それまで待っていてくれませんか?』
 人が聞けば愚かな選択というでしょう。既に有能な弁護士で、いずれはお父様の弁護士事務所を引き継ぐ貴方を捨てて一介の学生を選ぶなんて。
 でも、彼はわたしの欲しかった言葉をくれたから。
『二人でタージ・マハルに行く』
わたしはもう、あなたとはあわない。会わない。合わない。


 タージ・マハルに雪は振る?
タージ・マハルに雪が振る?
人は夢み、望み、憧れ続ける。
永遠の愛。
幸福な明日。
揺るぎのない平和と幸福。
愛したら愛され、信じれば信頼を得る。
努力すれば報われ、願い続ければ望みはいつか叶う。
 
タージ・マハルに雪が振る。
 タージ・マハルに雪が振る。
それは奇跡、それは夢。
それは憧憬、それは、愛。
宮殿の光と称えられたのは絶世の美貌。語り継がれるのは愛の形見。
ただ、タージ・マハルの名のみが虚しく語り継がれてゆくばかり。




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