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作品名:タージ・マハルに雪は降るか? 作者:さとのこ

第1回   1

タージ・マハルに雪は降るか?



さとのこ


「タージ・マハルに行きたいな」
と彼女は言った。
「なんでそんなところに行きたいんだ?」
と彼氏は答えた。


 彼女のつぶやき


 昼下がりのファミレス。少し遅めのランチを取りながら、彼女はため息をつく。最近ため息をつくことが多くなったような気がする。楽しいはずなのに、楽しくない。何かが足りない。何かが違う。
「前から行ってみたいって言ってたじゃない。世界一壮麗な霊廟。王様がお妃様に捧げた愛の証。ロマンチックよね〜」
 女のわがままを受け止めて、叶えてしまう度量の大きさ、経済力、愛情の深さ。どれをとっても理想だと彼女はうっとりと呟く。
「国民にとってはとんでもない馬鹿王だろ? それで国庫空にして国傾けて息子に玉座奪われてるんだ。ロマンチックじゃすまないだろう」
最近、彼氏と彼女の会話は平行線を辿ることが多い。
夢見る彼女と合理的な彼氏。感性が違いそうな二人が出会って恋に落ちた。お互いにないものに惹かれたのか。彼氏は彼女をかわいいと思い、彼女は彼氏を素敵だと思った。
彼女は彼氏の好みに合わせ、甘さを抑えたファッションを心けるようになった。本当は今でもピンクが大好きだったけれど。
彼氏は彼女に合わせたプレゼントを欠かさない。誕生日や記念日毎にちょっとしたアクセサリーを送ってくれる。ブランドのロゴマークのついた袋に入った贈り物。
「海外旅行ならニューヨークかロンドンがいいよ。あの街はいつだって刺激に満ちていて、行く度に何か新しい発見がある。ブロードウェーのミュージカルを観たいって言ってただろう? どうせなら本場の『オペラ座の怪人』見てみたらいいじゃないか」
 彼氏の言うことはいつだって正しい。合理的で、思いやりもあって、一緒にいれば間違いはない。
 彼は滅多に笑わないけれど、わたしには微笑んでくれる。子供を見るときのような苦笑気味の笑顔。
「いいよね、I♡NY 五番街とかも見てみたいな。」
「こら、おねだりは駄目だぞ。旅行だけでも結構かかるんだから」
「いいじゃない。誕生日のプレゼント、早めに用意すると思えば」
 彼氏はスマホに見入っているが、向かい合わせに座る彼女には彼氏が何を見ているのかはわからない。早くも旅行の情報収集か、メールでも見ているのか。
「シャネルのね、バッグがかわいいの。ピンクなのに大人っぽくてね。こんなの使いこなせるようになったら、あなたも自慢に思ってくれるんじゃないかな〜」
「何が自慢だ。バッグ一個で何十万だろう。俺には理解不能だ。それより、本当に旅行に行きたいなら、どこに行きたいのかもっと考えろよ」
「じゃあ、パリかミラノ」
「目的が見え見えだな」
「えへへ♡」
 彼女は可愛く舌を出してみせる。笑顔で、自分が可愛く見えるように、自分自身を演出する。
 彼は出来る男。仕事帰りに待ち合わせをしても、スーツがよれていることはない。彼に言わせると、スーツは成功したビジネスマンの戦闘服なのだそうだ。だから金もかけるし見栄えも気にする。
歳はそれほど離れてはいない。けれど、渋めのスーツ姿の彼と向かい合う彼女は、見ようによってはある種のおこづかいをもらっているように見えるかもしれない。
時々冗談で言ってみる。
「パパ、おこづかいちょうだい?」
「冗談に聞こえないからやめろ」
 渋い顔で彼氏が答える。それでも、スマホから目は離さない。
 彼女がため息をついていることにも気づかない。
 でもね…。


 彼氏の思考


 くだらないことだと判ってはいても、つい、考えてしまうことがあるんだ。
 たとえば、地球上にある水は宇宙のどこから来たのか、とか。
 細胞を活性化させ続けることができれば、二百年生き続けることは可能なのだろうか、とか。
 人の本質は善なのか、悪なのか、とか。
永遠の愛は本当に存在するのか、とかさ。
 それから、昔、インドに美しい美しいお妃様がいて、絶大な権力を持つマハラジャに愛されて、死後も愛されて、この世でもっとも美しいお墓を作ってもらった。
 完全なるシンメトリー。美しい白亜の建造物。タージ・マハル。
 マハラジャとお妃様の愛は、長く長く後世にまで語り継がれていった。それは本当。でも、本当に、マハラジャはお妃様の死後、何十年も一途に想い続けたのだろうか。

彼女はタージ・マハルに憧れている。旅行に行くならタージ・マハルに行きたいという。
彼女は考えないのだろうか?
 あの建造物の為に当時の人達がどれほど税を搾り取られ、国が疲弊したのか。あんなものを作らずにその資金を民に使ったなら、どれほどの人達が飢え死にせずに済んだのか?とかさ。
 今の時代に考えても仕方のないことだ。それでも、彼女といると何故か考えてしまうんだ。
 永遠の愛は本当に存在し得るのか?

 彼氏が彼女に言う。
「そろそろ事務所に帰るぞ。旅行のことは後にして、まずは資料を読み込んでおこう。手伝ってくれるんだろ?」
 彼の家は法律事務所を営んでいる。彼は少し前まで有名弁護士の下で働いていて、最近父親を手伝うようになった。近頃はデートの途中から秘書的な仕事を手伝わされることも多い彼女はちょっと複雑だ。



 其の1 いずみさんの幸福な日常。


 ぱりぱりのレタスときゅうりとミニトマトのサラダ。
 半熟の目玉焼きは二個ずつ、カリカリに焼いたベーコンを添えて。
 トーストに塗る苺ジャムはわたしの手作り。ちょっと甘すぎたけど、けっこう上手にできたと思う。
 明るいダイニングキッチン。下ろしたばかりのチューリップのエプロン。
 コーヒーメーカーから芳しい香りが漂い始めたら、春樹さんを起こしにゆく。
「春樹さん、朝食の支度ができましたよ」
「んー…」
 春樹さんは朝が苦手。いつも起こすのに時間がかかる。
「ほ〜ら、卵が冷めちゃうから、お・き・て」
 こうして、わたしと春樹さんの一日が始まるの。

 夫、春樹さんはわたしより六歳年上。職場の先輩だった。
 カッコよくって仕事もできて、ちょっと厳しいところが女子に大人気。もちろんわたしも憧れてた。
 二年前に結婚した時には、教会から並んで出てきたわたし達を泣きながら見ていた人が何人もいたくらいよ。
 ちょっとかわいそうだったけど、嬉しかった。
 わたしは就職して二年で寿退職して、夫の希望もあって専業主婦になった。夫は転勤の多い部署についたから、いつでも、どこにでもついてゆくにはそのほうが都合が良かった。わたしも、できるOLってわけじゃなかったしね。
 朝夫を送り出すと、最初にするのはお洗濯。二人分だから大した量はないけど、溜め込むのきらいだから二日に一度はお洗濯してる。その後はお掃除。ハンディタイプのモップをかけまくったら、次は掃除機の出番。わたし、けっこういい主婦してるでしょ?
 お昼を簡単に済ませたら、午後はテニスクラブにゆく。愛する春樹さんのために、プロポーション維持の運動は欠かせない。
 テニスクラブでのお友達は三人。四十代の小さな会社の社長夫人と、三十代の専業主婦二人。たまに四人でお茶して帰る。
 話題はもっぱらテニスのコーチのこと。背が高くて筋肉質で、茶髪で色黒、ちょっとエッチな三十代。プロなんていってるけど、嘘っぽい。でも、三十代後半の、色っぽい奥様はかなり気になっているみたいね。
 テニスが終わったら、帰りはスーパーによって夕食のためのお買い物。春樹さんは牛肉が好きでお魚が苦手。お肉をたくさん食べる春樹さんのために、お野菜は一杯出すようにしている。春樹さんは最近運動不足のようで、お腹に貫禄が出てきちゃったから、お食事でコントロールしなくちゃね。だから今夜の夕食は、赤身のお肉を使ったビーフシチュー。
 あのね、春樹さんの実家って、けっこうお金持ちなの。小さなマンションを経営していて、悠悠自適。もともと土地を持ってた家柄だったらしくて、お家もとっても広い。
 わたし、玉の輿を射止めちゃった。
 でも、わたしだって努力したのよ?
 英語とパソコンのスキルを活かして、レベルの高い人材派遣会社に登録して、一流企業に派遣してもらえるようにがんばった。無論、外見も磨きに磨いたわ。月に二回のエステサロンと、週三回のジム通いは欠かさなかった。
 目指せ、玉の輿! それがわたしの内緒のモットーだったの。

 春樹さんは真面目人間。計画性が高くて実行力もある。頼りになるだんな様ってカンジ。
 スーツ姿も素敵だけど、パジャマを着たよれよれの春樹さんを見るとうれしくなっちゃう。わたしだけが知ってる姿だと思うと、身長百七十六センチの彼がかわいく見えてくるの。本当よ? わたしだけに油断した姿を見せてくれるんだって思うと、伸びかけた髭だってかわいく見えるものよ。
 だから、朝の会話が『おはよう』『コーヒー』『行ってくる』だけでも平気。
 テニスの後で思いっきりおしゃべりすればいいんだもん。
 寂しくなんてならないわ。

 この間、赤ちゃん欲しいって、言ってみたの。そしたらね、まだ早いよ、ですって。
 結婚前に約束したの。子供はマンション購入の頭金を貯めてからにしようって。その時にはわたし、共稼ぎするつもりだったから、ハイって答えた。赤ちゃんなんて、実感もわかなかったしね。
 本当に赤ちゃんが欲しかったわけでもない。
 ただね、退屈なの。毎日毎日同じことの繰り返し。当たり前のことだって判ってはいるけど、実際にやってみると、専業主婦ってけっこう籠の鳥っぽい。閉じ込められて、身ぎれいにして、ご飯をもらって。違うことっていえば、自分で住処の掃除をしていることくらいじゃない? 赤ちゃんまで計画して生ませられるなんてね。 
 どうしても今、産みたいってわけじゃないし、今の生活がいやなわけでもない。ただね、考えちゃうの。
 わたしはこの先の人生、何回お洗濯するのかなって。

 春樹さんはこの頃とても忙しい。
 大きな商談をまとめようと必死になってる。この間も名古屋まで出張だって言ってた。彼の場合浮気の心配はあんまり無いから、私はお泊りグッズをバッグに詰めて笑顔で送り出す。
 春樹さんも一人で残すわたしのことを心配したりなんてしない。
 信頼されてるからね。私は良い妻だって。
 春樹さんが出張に行っても、心配はない。どんな難しい状況でもはねのけて、サクッと商談をまとめて帰ってくる。
 わたしのところに帰ってくるって判ってるから、寂しがる必要もない。
 大事にされてるのもわかってるから、わたしは幸せなんだってこともわかってる。
 ただね、それでもね、この頃LOVEが足りない気がするの。
 最近キスしてくれない。話し掛けても上の空。夜は疲れてさっさと寝ちゃうし、話し相手もしてくれない。
 ねえ、猫を飼うなら餌だけじゃなく、愛情も必要だと思わない? 餌でお腹が、愛で心が満たされなきゃ、満足なんてできないわ。
 今、わたしの心は空腹で、愛情に飢えている。
 だからね、わたし最近テニスを始めたの。

 ウェアにシューズ、ラケットとタオル、すべてブランド物。ウェアだけで五万円かかったって夫は文句なんか言わないわ。だって運動して、わたしのスタイルが一段と素敵になれば喜んでくれる。仕事を忘れてわたしを見てくれるんじゃない?
「あなたの為にキレイになったのよ」
 こう言ってキスしたら、カルティエのイアリングくらい買ってくれるかしら?
 

 隣町にあるテニスクラブ。ジムも併設のちょっとグレードの高いクラブ。
 夫にはテニス教室に通いたいと言ってあるけど、受講費はナイショ。
「いずみさん、良くなったよね、腕に筋力もついてきたし、球も早くなった」
 そう言ってわたしを褒めるコーチの唇はわたしの耳元。右の二の腕をさすりながら左手はウエスト。これってかなりはっきりしたセクハラじゃない?
「もう少し腰を捻るとスピードのあるサーブになるんだけどな」
 コーチの指導は本当かどうかわからない。体を密着させながらの指導なんて、嘘くさいもの。
 でも、いいの。だって久しぶりにわたしドキドキしてる。汗とオードトワレの香り。陽に焼けた肌。熱い手、吐息。
 一番丁寧にコーチングしてくれていると思うのは気のせいではないと思うわ。だってお友達のマダムがご機嫌斜め。
 ちょっとのけぞって、コーチの胸をポニーテールでくすぐれば、コーチも意味深な笑みを浮かべるわ。
 これよ、これ。これなのよ! アイ・コンタクト。駆け引き。なんでもいいわ。ただわたしを見て、集中して、かまって欲しいだけ。
 これくらいのスキンシップ、許されるわよね?

 今日は休日。でも、今日はわたしがご機嫌斜め。
「春樹さん、今日は買い物に行く約束よ。どうしてゴルフウェアなんて着ているの?」
「ん? 言ってなかったかい? 接待だよ。T商事の部長とコンタクトをとる為にセッティングしてもらったんだ。苦労したんだよ。うちは同業だから、うかつに近づくと警戒されるからね」
 偶然を装うのは骨が折れると春樹さんはブツブツ言っている。
 ねえ、わたしは? わたしとの約束を破ることはなんとも思わないの? 約束も契約と同じようなものよね。あなたの中でわたしの優先順位はそんなに低いの?
「今日は遅くなると思うから夕食はいいよ。君も好きにしていたらいい。なんだったら一人で買い物しておいでよ。たまには好きなものを買ってもいいよ」
 少しは気を使ってくれているの? それともモノでごまかそうとしているの?
 ニャーッ ニャーッ ニャーッ 
 気づかないの? あなたの子猫が泣いているわ。心を空かせて泣いてるの。
「お夕食くらい一緒に取れない? わたし、食べずに待ってるから」
 あなた、少し顔をしかめて
「待たれてると思うと焦るから、待たないでくれ。今日はどうしてもT商事と繋ぎをとりたいんだ」
 ニャーッ ニャーッ ニャーッ ニャーッ ニャーッ!
 
 何よ! バカ! バカ! バカ! 春樹さんのば〜か!
 楽しみにしてたのに! 久しぶりのお出かけだったのに! 一人でお買い物したってイミないのに!
 一緒にいたかったのに…
 似合う服を見立ててなんて言わないわ。あなたのセンスなんて期待してない。
買い過ぎだって怒ってよ。わたし欲しいものいっぱいあるのよ?
手を繋いで歩きたい。笑い合いたい。お話したい。それだけなのよ?
なんで、叶えてくれないの?
 だから、わたし、少しくらい遊んだっていいわよね?
 刺激が欲しいの。退屈なの。コーチが差し出してくれる物はおもちゃだってわかってるけど、私、欲しくてたまらない。
 身体だけじゃないの。わたし、心も飢えている。
 コーチは春樹さんとは正反対。計画性のない遊び人。奥様達のアイドル気取りで、わたしにまでキスしたわね。
 わたし、ふざけないでっていいながら、ときめいてた。
 だって、あんな感じは久しぶり。春樹さんは忘れてしまったかもしれないけど、ドキドキして、ワクワクして、すっごく楽しい。
 わたし、恋、してるかもしれない。
 この頃一人でいても、思い出すのはコーチのこと。
 明日はもう少しだけ、彼に優しくしてみようかな。



 彼女のつぶやき


 愛とはなんとも欲張りなものでもあるらしい。満たされていても満たされない。もっともっとと欲しがって、気がつくと足元を見失っているのね。
 いずみさんが悪いのか。春樹さんが悪いのか。
 そんなこと、わたしにわかるわけもない。
 だけどお妃様、貴女の気持ちが少しはわかるような気がするの。
 きっとお妃様も満たされなかった。
 男の人が必死で働いて勝った小さなダイヤモンドのリング。それは小さくても全力で示した男の誠意。それがわかるから、大きさよりも誠意を喜ぶ女もいるのよね。
 お妃様、貴女の王様は大き過ぎて、精一杯がわかりづらかったんじゃないかしら。
 大金持ちの王様の、精一杯の愛情表現ってどんなもの?
 国一番のダイヤモンドも、マハラジャは笑って差し出してしまうのでしょう? 金貨も指輪も望むだけくれるのでしょう?
 なんでも有り余っている王様の精一杯の想いって、どうやってみわければいいのかしらね。
なんでも持っている王様の心を計るにはどうしたらいい?

 可哀想な王様。半端な努力じゃ努力と認めてもらえない。
マハラジャは偉大な存在でなければならないから、必死で努力する姿を見せることもなかったかも知れない。悩んでも、迷っても、そんな自分は見せられない。だって王様は偉大でなきゃいけないものね?
 だから、貴女はより最高のものを望んだのか。
 もっと大きく、もっと美しく、永遠に残る愛の遺物。
 タージ・マハル。
 タージ・マハル。
 満たされない心も眠る墓標なのかな。



其の2 あみちゃんの愛し方


 う〜ん、やっぱり、今日も卓也クンはカッコイイ(ハート)
 少し背が伸びたね。長めの髪も似合ってる。校則厳しいから染められないけど、茶髪にしてもきれいだよね。だって、顔がいいんだもん。どんなおしゃれだって決まっちゃうよ。やっぱ、男は顔だよね。
 この間着てたTシャツ、あれはいまいちだったよ。安っぽくて色が下品。卓也クンにグリーンは似合わないよ。着るならブルー。黒もいいけど、コバルト・ブルーならもっと身長高く見えると思うよ。リーバイスのGパンも、卓也クンなら裾切りなしではけちゃうね。脚、サイコーに長いもん。
 なんだか眠そう。そっか、そろそろ中間テストだもんね。勉強してるんだ。
 そうだよね、実は卓也クンってけっこう努力家。試験前夜には徹夜だってしちゃうんだよね。あみが一緒に暮らしてたら、夜食作ってあげるのにな。ちゃんと作れるよ。インスタントラーメンくらい。毎日作ってるから得意だもん。
 昨日は帰ってくるの遅かったよね。友達とマックとゲーセン行ってたんだよね。一緒にいたのは新井君と太田君と加藤君。女の子いなかったからあみ、先に帰ってきちゃったけど、ちゃんと待ってたんだよ。部活だったら終わる時間わかるから迎えにいってあげるけど、友達と遊んでるんじゃいつ帰るかわからないからね。女の子がいたら、ほってはおかないけど。
 K高二年E組、サッカー部でポジションはフォワード。家族は四人、二歳年下の妹がいるんだよね。卓也クンに似てなくて、あんまりかわいくないけど、仲良くしてあげるよ。だって、卓也クンの妹だもん。


「卓也ぁ、あんまり気にすんなよ。考えすぎかも知れないじゃん?」
「そうだよ。男襲うよな変態、そんなに多くもないだろ? 怖がることないって」
 いたいけな高校生である彼らは知らないかもしれないが、世の中にはそういう嗜好を持つ人物はかなり存在する。
「怖がってなんかいない。気味悪いだけだ」
 どこかから、誰かに見られている。そう自覚するようになって既に数ヶ月が経つ。常に誰かの視線を感じ、監視されているように感じる不快感は耐え難いものがある。まして、その緊張が家族に及んでいるとなればなおさらだ。
 敵は庭先にまで侵入し、洗濯物に魔の手を伸ばしてくる。父親の衣類と一緒に干してあっても、確実に自分の衣類だけを持ち去ってゆく。父親も自分も同じような柄物のボクサーパンツをはいているのに、どうして自分の物がわかるのか。その不可解さがより一層不気味さを増幅する。
 すぐそこにまで、変質者が近づいてきている。
 敷地内に潜入し、犯行を繰り返している。
 今一番心配なのは妹だ。まだ中学生の妹。怖がって、最近では母親と一緒に寝ることもある。
家族に危害が及んだとしたら。
 そう考えるだけで恐怖に怒りが加わり、思考をまとめることも難しくなる。
「ま、気晴らし、気晴らし、遊んでこーぜ」
「俺、今月ピンチーっ」
「ダッセー!」
 気を使ってくれる仲間達の存在が、卓也には嬉しかった。


 いつになったら気づいてくれるの? あみは毎日卓也クンのこと見てるんだよ。卓也クンがチェックのパジャマ好きなことも、グレイが好きっていってるけど、ほんとはAKBが好きなことも、背中に小さな痣があることも、全部知ってる。
 この間、買ったばかりのGパンに履き替えてた時、上半身裸だったよね。ちょっと筋肉ついた? カッコよくってどきどきしちゃった。
 あみの、卓也クンだよ。誰にもあげない。


 着替えの最中に、ぞくりと肌が粟だった。
 悪寒。
 自室の窓から外を見渡したが、道路にはそれらしい人影はないようだった。
「気の、せいか」
 卓也は俯いて髪をかきあげた。最近神経が過敏になっているようで、ちょっとした物音にも心臓が跳ね上がる。臆病な様ですごくいやだが、実際に被害を受けている状況なので、仕方ないことだろう。
 休日の午後、本来なら一番リラックスできる時間のはずなのに、人に合うことすら煩わしい。誰を見ても警戒してしまう。見えない犯人の影を探す。
「でてきたら、絶対に殴る」
 そう思っていてはいても、本当は出てきて欲しくはない。できることならどこかに行っちゃってほしい。死んでくれてもかまわない。
 迂闊にでてこられても、女だったりしたら殴れない。男だったりしたら………。考えたくない。
 男が男をつけ回す。下着を盗む。それは、健全な十七歳の男子高校生にとっては、想像することすら拒否したいおぞましい発想であった。
 世の中にはいろんな人達がいる。テレビではそういっているし、実際そうなんだろうとも思う。
 だがしかし、それは個人的な嗜好の問題であって、犯罪行為に及ぶとなれば話は別だ。
 犯罪に男も女もない!

 この間、双眼鏡新しいの買ったんだよ。そしたらね、卓也クンのおへそまでクッキリ見えて最高! 三万円もしたけど、軽くて使いやすくって、あみのお気に入りになっちゃった。もっともっと卓也クンのこと知りたいよ。
 来月、誕生日だよね。十七歳。プレゼント考えてるんだ。コバルト・ブルーのTシャツ。卓也クンに似合うものは、あみが一番わかってるんだよ。だって、あみが一番卓也クンのこと好きなんだもん。一日中、卓也クンのこと考えてるんだよ。

 母親が蒼ざめた顔で家族に告げる。
「ベランダに、Tシャツが置かれていたわ。青い、男物のMサイズ…」
 母親の手にした新品のTシャツを目にして、少年が顔をこわばらせる。
「まさか、この間の、切り裂かれていたTシャツの代わりかな…?」
 笑おうとして笑うことなどできず、卓也の顔が引きつる。
「捨ててしまいなさい。気味が悪い」
 父親が吐き捨てる。
 もう、何ヶ月も家族は不可解な事件に悩まされていた。主に、高校生の長男が。
『誰かに見られているような気がする』
 少年がそう告げたとき、家族は意に介さなかった。娘ならともかく、息子に変質者が付きまとうなどと考えられなかったのだ。
 だが、ある日手紙が届き、その内容が彼の行動を監視していたとしか思えないような内容であったときに、家族は漸く状況を理解した。
 誰かに見られている。
『…今日は危なかったね。遅刻しそうだからって、信号を無視しちゃダメだよ。あみ、心配しちゃった。なんなら、起こしてあげようか? 目覚ましは六時半にセットしてるんだよね。ケータイの番号教えてくれたら、モーニング・コールしてあげるよ(ハート)』


 サッカーしてる卓也クンってサイコー。
 足、速いよね。真剣な顔、鋭い目、あんな野性的な卓也クンを見ると、あみ、カンジチャウ。
 Tシャツが汗で張り付いて、身体の線がクッキリ見えるから、胸の筋肉も肩甲骨もそのまんま見えるの。
 ぐっしょり汗で濡れたTシャツ、においを嗅ぎたいのに、あみの手に入るときには洗った後だから、残念。
 卓也クンの汗、なめて見たいよ。
ゴールを決めると、ホントに飛び上がって喜んでるよね。嬉しいんだよね。子供みたいにかわいい笑顔。
 それをずうずうしく見てる女の子達、ハラタツ。
 あみの卓也クンだよ。誰もみるなっ。


 高校の掲示板に注意を喚起する張り紙がされた。
“最近、我が高の周囲において、車中から女子生徒に向かって汁の残ったカップラーメンのカップや、蓋の開いたドリンクのボトルを投げつけられる事件が発生しています。今のところ被害は制服を汚されるくらいですんでいますが、この先大きな事件に発展しないとも限りません。生徒諸君はくれぐれも注意をし、用の無い者は速やかに下校するよう心がけましょう。また、なるべく一人にならず、複数で行動するように………”
 主に女子生徒に対する注意である。
 けれど、卓也は気づいた。自分を応援してくれている女の子達が嫌がらせされていることに。


 あのね、卓也クン。あみ、また卓也クンの為にお買い物しようと思ってるんだよ?
 盗聴器。卓也クンの声、もっと聞きたいから。キャッ(ハート)
 今までは、卓也クンの姿を見るのが一番だったから、あんまり考えてなかったけど、最近、卓也クンってば、カーテン閉めちゃうんだもん。見るの難しくなっちゃった。
 時々、ガラス叩き割って会いにいっちゃおっかなって思うんだけど、寝てるの起こしちゃうとかわいそうだもんね。
 だから、盗聴器。卓也クンのいない間にお部屋に入るのなんて、簡単だよ。だって、昼間はママさん一人しかいないんだもん。ママさんが台所にいる間に、ベランダからはいっちゃえば二階なんてすぐなんだよ。
 この間、ベッドの下にでも隠れられないかなって試してみたけど、ちょっとムリだった。
 あみ、ダイエットしなきゃだわ。


「…また、下着がとられてたわ」
「また…?」
 卓也の家では不可解な事件が頻発している。母ではなく、妹でもなく、息子の下着が盗まれる。これで今年に入って八度目。代わりの衣類が置かれていることもある。それは玄関先であったり、庭先であったりするのだが、なぜか番犬は吠えない。
 犬が警戒しないほど親しい知人の犯行かもしれないと思うのは、決して快いものではない。
そろそろ警察に届け出ようと思うのだが、なかなかできずにいる。『息子の下着が盗まれました』 なんか、言い辛い。『娘の下着』と違って、なぜか笑いの要素が含まれているような気がするのだ。込められた思いは切実なのに、おまわりさんに笑われるような気がするのはなぜだろう。
「そんなことも言っていられないだろう。盗まれているだけならまだしも、そんな変な奴、いつ危害を加えるほうに動くか判らない。何かあってからでは遅い。明日にでも警察に相談してみよう」
「でも、お父さん、そのために犬まで飼ったのに、まるで吠えないのよ。なんだか気味が悪すぎるわ」
 洗濯物は、特に卓也の物は二階のベランダに干すようにしている。それでも盗まれてしまうのだ。犯人はベランダをよじ登っているのだろう。執念じみていて、いっそう不気味さか込み上げてくる。
 十六歳の少年は、嫌悪感に吐き気すら覚えていた。
 以前、二階のベランダにも防犯カメラを設置していたのだが、レンズに赤いインクをかけられて何も写せなくなっていた。
 壁にも飛び散っていた赤いインク。
 執念、深かさを、感じて怯えた。

 犬なんて飼ってもムダだよ。だって、あみ、とっくにジョンとは友達になってるもん。ソーセージ三本もあげれば吠えたりしないんだ。もう、あみとお友達だから。
 もし犬が邪魔なんてしたら、許さない。本当は、卓也クンがかわいがっているのを見て、悔しくて仕方ないんだ。だって、あみに向けてくれるはずの笑顔を、犬なんかに見せるなんて、許せない。殺しちゃいたい。卓也クンの泣き顔も見てみたいよ。
 全部知りたい。卓也クンの笑顔も泣き顔も、怒った顔も、妄想しているときの顔も、全部。
 カーテンなんて、閉めてもムダダヨ。


 それから間もなく、周辺を警戒していた警察官によって、挙動不審な人物が職務質問され、連行された。
 住所不定。中村悠太郎。三十六歳。
 彼は自動車の中で寝泊りし、コンビニエンスストアーの深夜バイトで生活費を稼ぎつつストーカー行為を繰り返していた。
 連行された時、彼は女装をし、顔には派手な化粧を施し、某男子高校生宅に侵入したところをその家の主婦に発見され、庭に逃げ出した主婦の悲鳴を聞いた隣人によって通報された。
 彼は某高校生の自宅向近くにあるマンションの屋上に忍び込み、そこから少年の自室を除くのが生き甲斐だと笑いながら告げたという。
自分の名を問われると、あみちゃんと答えた。



 彼氏の思考


 これも愛、か。言うなれば狂気の愛。
 好きなあまりに狂ったのか。狂っているからはまり込んだのかは判らないが、きっと、本人は幸せだったのだろうな。
少年は、その後どうなったのだろう。
犯人が掴まったことで開放感を得たのか。それともその正体の異様さに、心くじけてしまったのだろうか。少なくとも十代の健全な少年に受け止めきれることではなかったろう。
ある意味“あみちゃん”は、少年の心に影響を残した。“あみちゃん”がそれで満足したかどうかは判らないけれど。 

 マハラジャはタージ・マハル作りにのめり込んだ。国費を費やし、国を傾け、いったいどれほどの人達を不幸にしたんだろう。ただ本人と、おそらく愛する妻の幸福の為だけに。
 愛する妻が、それ程の無理を望んだのかどうかは別として。



 其の3 幸子(ゆきこ)さんの真実


 鏡の中のワタシは今日もきれい。瞳をきらきらさせて微笑んでいる。
 ヘアスタイルは完璧。昨日行きつけのヘアサロンのトップスタイリストに頼み込んで丁寧に仕上げてもらっただけのことはある。でも、ファンデのノリにはちょっと不満。それは不摂生のためじゃなく、夕べ眠れなかったせいね。久しぶりに、あの人に会える。そう思ったら、もう眠ることなんてできやしない。
 もう一度グロスを重ね塗りする。パッションレッドの唇をあの人は綺麗とだと思ってくれるかしら。それとも、やっぱりもっと淡い色の方が可愛いかしら。
 あの人の目に、一番綺麗に映る色はどれ?


 今朝のアタシのうきうきした気分を押しつぶすように、あいつはしかめっ面をしている。引き立てのコーヒーの香りでも、奴の機嫌は直せないみたい。超絶不機嫌。
 わかってはいる、わかってはいるけど、腹が立つ。奴がアタシに腹を立てていることも、アタシの外見が気に入らないことも、生まれついて威張りくさったヤツだっていうことも! でも、部屋に入ってくるなり不機嫌っていうのはどういうことよ? 礼儀や社交辞令って言葉を知らないのか!? 少しは味わって食えよ、そのパンは夕べ小麦粉を捏ねて、一晩寝かせて、今朝焼いたばかりなんだぞっ!
 ああ、いけない。興奮すると地が出てしまう…。
「一哉兄さん、別に食べたくなければ無理に食べなくていいのよ? そんな顔で食べられたんじゃ、アタシまで食欲がなくなるわ」
 ダイニング・テーブルはそれほど大きなものではないのに、向かい合う二人の距離は果てしなく遠い。見詰め合う眼差しときたらまるで敵同士のよう。それはそうだろう。兄は幸子を説得する為に、忙しい合間を縫ってわざわざ静岡から上京したのだから。
「お前が考え直せば飯だってもっとうまく食えるようになる」
 色あせた青いポロシャツとジーンズ姿の大男は、うまくもなさそうに四つ目のクロワッサンを手に取った。とりあえずは美味しいのだろう。まずかったらこんなに勢いよくかぶりつかない。子供の頃から見ているのだから、兄の考えていることなど手にとるようにわかる。
「俺には、お前が考えていることがわからん」口の中のクロワッサンをコーヒーで咽に流し込みながら、一哉はぼそりと呟いた。
「わかる必要なんてないでしょ? アタシはアタシ、一哉兄さんは一哉兄さん、別の人間なんだから」
 そう、別の人間。考え方も感じ方も違うのは当たり前。後はさっさと諦めて干渉するのを止めてくれれば、言い争うこともなくなるのに…。
「そうはいくか。お前が間違ったことをしているのがわかっているのに、止めなかったら兄じゃないだろうっ。」
 昔っから責任感がやたらと強かった一哉兄さん。長男に生まれた自覚をアタシが知っている限り、五歳の頃からもっていた兄さん。五歳違いの兄さん。
 一哉兄さんと次男の文也兄さんとアタシ。子供の頃はいつも一緒だった。責任感が強くて要領の悪い一哉兄さんは、文也兄さんとアタシの子守りをさせられた挙句に、何かあるとアタシ達の代わりに謝っていたっけ。
「いい加減に悪ふざけはよせよ、親父達も随分心配してるんだぞ、幸彦」
 兄の言葉に、アタシの頭にカッと血が上った。
「幸彦って言うなっていってんでしょっ。幸子だ、幸子! 『ひ』を入れるな!」
 アタシは五年前、十八歳のときに男をやめた。高校卒業と同時に東京に出てきて、それからずっとショーパブで働いている。派手に地道に働いてお金を貯めて、三年前胸を作った。そして今度は来月、下半身の工事をする。それでアタシは完璧な女になれる。
 兄がいらだたしげに溜息をつく。
「お前わかっているのか。取っちまったらもう取り返しがつかないんだぞっ? 胸くらいなら後で中身を抜けば済むかもしれないが、取っちまったらもう、終わりだ。まともな結婚も子供作ることもできなくなるんだぞっ!」
 男性自身を切り取るということに、兄は生理的な嫌悪感、もしくは恐怖を感じるらしく、顔をそらせてアタシと目を合わせようとはしない。まあね、健全な男にとっては何より恐ろしいことだからね。ムリもないけどね。
「だからナニ? アタシにとってはいらないモノを取るっていうだけのことよ? こんなモノが有った所為で、アタシはずっと苦しかった。本当のアタシになりたくて、子供の頃から苦しんでいたのよ」
「少しは親の気持ちも考えろよ。母さんはお前の電話を受けてからずっと頭痛で寝込んでるんだぞっ!」
「父さんと母さんには一応悪いとは思ってるわよ。でも、ひとり息子だったらまだしも、他に二人も息子がいるのよ? 別にひとりくらい娘になったっていいじゃない」
「そういう問題じゃないっ」
 同じ会話を電話でもした。三年前、胸を作るときにもした。兄は頭っから否定する。決してアタシの気持ちを理解することはない。アタシも、説得できるなんて思ってはいないけど…。
「一哉兄さん、アタシは兄さんにわかってもらおうとは思ってない。わかるはずがないもの。でもね、言うことだけは言わせてね。アタシはアタシなりに子供の頃から苦しんできたの。どうしても、自分が男の子だなんて思えなかった。男の子でいることに耐えられなかった。だって、アタシが好きになる子はいつだって男の子だったのよ。背が高くてがっしりした感じの男の子。女の子を見ても一度も感じたりしなかった。むしろ悔しかったわ。生まれついて女だっていうだけで、当たり前にリップをぬって、かわいいスカートをはいて。
アタシがしたくてしたくてどうしようもないことを当たり前にしている女の子達が憎かった」
「それはしょうがないだろう。女の子がすることなんだから」
「わかってるわよっ。アタシがいいたいのはね、自分が女の子だってことにあぐらをかいて、努力もしないのが許せないのよ! 細く華奢に見せるために、アタシがどれほど苦労していると思う? カロリーを徹底的に抑えて、着る物は地味に見えないように気をつけながら膨張色を避けて、毎日毎日二時間かけてジムに行ったりストレッチしたり……。
 ……アタシだってもっと小さく生まれたかった」
 幸子さんの身長は百七十四cmもある。ハイヒールを履くと百八十近くなる。
 理解しがたいとでもいう様に、一哉が両手で頭をかきむしる。思考が混乱したときの昔からの癖だ。
「おまえ、わかってるのか? 今はいいかも知れない。若いうちならそれなりに綺麗にも見えるだろう。だがな、年くったらどうする。今のところ、日本じゃニューハーフが水商売以外の仕事につくのは困難だぞ? 若いうちにどれだけ稼いだって老後の資金までは稼げないだろう。老いたニューハーフの末路なんて哀れなもんだぞ。今のうちに子供でも作っておけば老後の面倒をみてもらうこともできるかもしれないが、お前にはそんな気はないというし。
 いいか、好きなことだけを好きなだけして、後は俺や文也に頼ろう何て考えるなよ。ナニを切るときが俺達との縁を切るときだからな」
 アタシは笑いたくなった。この人はな〜んにもわかっていない。アタシ達の苦しさってそんなもんじゃない。寂しくて貧しい老後を恐れるのはアタシ達だけじゃないし、就職に困っているのもアタシ達だけじゃない。生きるのが下手な人なんていくらでもいる。そういう苦しさに性別なんて関係ないのよ。
アタシ達、生まれ間違った者の苦しさは、世界中を敵にまわすことと同じくらいキツイ。常識に背き、当たり前の幸福を捨て、親にさえ見離されて。自分の体すら味方になってはくれない。容赦無く痛み続け、拒絶反応を示す。同じ悩みを持つ者以外に理解してくれる人はいない。差別してはいけないと言い、理解してあげなくてはいけないといっても、本来の性になれておめでとうとは言ってはもらえない。
「…年取ったら、ですって? 笑わせないでよ、兄さん。そんな先のこと、アタシは知らない。考えたくもない。どうにもならなくなったら潔く死ぬだけよ。兄さん達に迷惑なんてかけないわ」
 兄が激昂する。
「軽軽しく、死ぬなんて口にするなっ」
「軽軽しいわけがないでしょっ!」
 アタシの両目から涙が溢れて止まらない。こんなことを簡単に口にするわけがない。悩んで悩んで苦しくて、どうにもならなくてまっとうな道を踏み外したっていうのに。この石頭は軽軽しくと説教する!
「アタシが自分を変だと思い始めたのは小学生のときよ。男の子が乱暴で怖かった。野球もサッカーも興味なかった。こっそり立ち読みした少女漫画のすてきな恋に憧れていたわ。それもどういうわけか、かわいいヒロインよりカッコいいヒーローに夢中になってた。もちろん口にしたりはしなかった。自分を変だと思われるのが怖かったもの。まだ、ニューハーフなんて存在を知らなかったから、そんなに深く悩んではいなかった。
 でも、中学生くらいになると、もう自分が普通じゃないことから目をそらすことはできなかった。ふっくらと柔らかく成長し始める女の子達が羨ましくて、がりがりにやせて背ばっかり伸びて、かわいくない自分がいやだった。
 中二のとき、好きな子ができたの。もちろん男の子よ。同じクラスの子で、ちょっと大人っぽいカッコいい子だったわ。アタシ、彼に近づけなかった。彼の眼に自分がかわいくなんて映らないことはわかってたし、女の子たちと比べられたくなかった。この頃、アタシはよくぼんやりと女の子を見てたから、周りの子達からはスケベ呼ばわりされてたのよ。笑っちゃうでしょ? アタシは女の子が好きで見てたんじゃない。セーラーやヘアアクセサリーやブラジャーが羨ましくて見てたのよ!」
 初めて聞く弟の言葉に、一哉は返す言葉もなく、聞き入っている。
「本当は、義務教育を終えたらすぐ家出するつもりだった。早く本当の自分の姿になりたかったから、働いて性転換手術の費用を貯めたかった。さすがに勇気が出なくて、そのときは思いとどまったけどね」
 咽が渇いて、アタシは冷めたコーヒーを一気に飲み干した。興奮しているせいか、やけに咽が渇く。コーヒーメーカーの残った分を自分と兄のカップに分けると、半分ほどしかなかったけど、それも一気に飲み干した。
「高校に入ってからが最悪だった。誰も彼もが色気づいて、アタシが気に入った男の子は次々と頭としりの軽そうな女たちにかっさらわれていった。しかも、よりにもよってアタシにまで女が付きまとってきた」
 もう、名前も覚えてはいない女たち。カワイイふりをして経験豊富な娘もいたし、本当に純情そうな娘もいた。けれど、アタシにとっては大した違いはなかった。どうでもいい相手だったのだから。何人かとは付き合ってみた。抱いてもみた。でも、自分から望んだことは一度もない。相手の娘のご要望にお答えしただけ。
「体はそれなりに気持ちよかったけどね、心は苦しくて最悪だった。アタシが欲しくても得られない華奢でやわらかいからだが羨ましくて羨ましくて、ねたましくて、…自分の体が疎ましかった」
 あのときの自分を思い出すと今も涙が止まらなくなる。惨めな自分。優しくない、身勝手な自分。生きていても仕方がないような気がして、生きていてはいけないような気がして、アタシは、とことん自分を追い詰めた。
「…アタシは、あのままでは生きられなかった。嘘の自分が嫌で嫌で、消してしまいたかった。
 …だから、家をでたんだ。本当の自分になるために」
 部屋の中はしんと静まり返って、兄一哉の息遣いがはっきりと聞こえてくる。ショックを受けているんだね、兄さん。ごめんね。
「あのままの姿では、もう、これ以上は生きられないと思ったから、手術を受けることにしたんだ。今、生きられるか死ぬしかないかって悩んでいるときに、二十年後、三十年後のことなんて考えられないよ。そんな、先のことはどうでもいい。どうでもいいんだよ、兄さん」
 一哉兄さんはもう、コーヒーもクロワッサンも口にしようとはしなかった。物なんか食べられる気分じゃなかったんだろう。黙って、アタシの顔を見つめていた。

 兄一哉は蒼白な顔をしたまま、一言も話すことなく帰っていった。大きな体が震えているように見えた。ごめん、兄さん。ごめん。
 一哉兄さんの使ったカップを、アタシは自分の頬に押し当てた。兄さん、一哉兄さん。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない、兄さん。
 アタシはショッキング・ピンクのケースに入れたスマホを手に取った。
「…あ、文也兄さん? うん、今一哉兄さんが帰った。真っ青な顔をしてね。かわいそうだった」
『なんだ、本当に告白したのか?』
「まさか。そんなこと言わないわよ。ただ、手術受けるのを止めたら死んじゃうって脅しただけ」
『お前、そんなことをあの兄貴に言ったら殴られかねなかったろう?』
「今のことだけを言ったんじゃないもん。家を出る前のことをちょっと言ってみただけ」
『あー、家を出て性転換しろ、なんてことを言ったのが俺だってばれたら、俺が兄貴に殺されかねないな』
 次兄の文也は全てを知っている。軽い性格のくせに妙に鋭敏で、アタシの異変にもいち早く気づいてくれた。
「あのとき、文也兄さんが言ってくれなかったら、アタシは今こうしてはいられなかった。文也兄さんが言ってくれたんだよ。“死ぬくらいなら逃げろ”って。“死ぬくらいなら家出して、手術でも何でも受けろ。死なれるよりその方がずっとましだ”って」
 文也兄は、スマホの向こうで小さく溜息をついた。
『ああ、その方がましだろう? 死んじまう以上の親不孝なんて、ちょっと思いつかないからな』
 アタシが死ぬほど思いつめていることも、誰に恋しているのかも、いつの間にか察していた二番目の兄。アタシを責めることなく、仕方のないヤツだって苦笑いして送り出してくれた、優しい兄。
「ねえ、文也兄さん。一哉兄さんの婚約者ってどんな人?」
『………』
 一哉兄さんは、来月結婚する。そんな忙しい兄に心配かけて、アタシって悪い妹よね。
『俺も一度会ったきりだが、大人しそうで、けっこうかわいい感じの人だったな』
「…ふぅ〜ん、かず兄らしい選択をしたわけだ」
 優しい、かわいい感じの人と二人で幸せな家庭を作り、子供を作り、一緒に老いていくんだね。
「かず兄は幸せになるね」
『ああ、なるだろ。兄貴としてのかず兄を見れば、父親になった姿は容易に想像できる』
 やんちゃなすぐ下の弟と、泣き虫の末の弟の面倒をかいがいしく見てくれた小さい頃の一哉兄さんを、アタシも文也兄さんも覚えている。
「こういうわけだから、アタシは向こうに帰れないけど、父さんと母さんにはふみ兄からよろしく言っといてね」
『手術、再来月にはできないのか?』
「けっこう評判のいい先生でね、順番待ちが厳しいのよ。それに、アタシが出席できるわけないじゃない」
 母は未だに泣いているらしい。父も許してはくれない。
「ふみ兄も、アタシのことなんて忘れちゃっていいよ。アタシはふみ兄のおかげで今けっこう幸せだからさ、心配してくれなくて大丈夫」
 本当だよ。
『バ〜カ! 妙な気を使ってんじゃないよ。運良くお前には兄貴が二人もいるんだ。馬鹿な弟の面倒くらい、俺と兄貴とで何とかみてやれるよ』
「…ふみ兄も、アタシを弟って言うんだ」
 文也兄さんの声が少し緊張した。
『あのな、幸彦。こればっかりはお前だって強制はできないんだぞ。お前は女になりたかったのかもしれないが、俺達は弟でいて欲しかったんだから。お前が自分を曲げられないように、俺達もなかなか受け入れられないものがあるんだ』
「うん、わかってる」
 わかってるよ。許してくれないのは愛されてるから。弟として、息子としての僕を惜しんでくれるから、家族は女になろうとするアタシを否定しようとする。
「アタシ(・ ・ ・)の(・)こと(・ ・)、かず兄の婚約者さんに言ってなかったとしたら、別にムリに言うことはないって皆に伝えておいて。アタシは生まれ変わったんだから、静岡にいた僕はもうこの世にいないも同じだから」
『幸彦…』
「相続とかも全部放棄するから、書類送って? こんな親不孝して、親子でなんかいられない。けじめは、つけるよ………」

さすがの文也兄さんも、アタシがわざと手術を来月にぶつけたんだってことまでは気がつかなかったみたいね。一哉兄さんが結婚するのに合わせて、アタシは完全な女になる。
アタシは、弟。血の繋がった同性。一哉兄さんの恋愛対象としては、世界でもっとも遠い存在の一人。血のつながりはどうにもならないけど、せめて、異性になりたかった。意味のない、どうでもいいことだけど、それでもいいから、この後どんな人生になってもいいから、女になりたかった。
「一哉兄さん、気づいてないでしょう? さっき兄さんは、アタシのことを綺麗って言ってくれたんだよ…」
“若いうちならそれなりに綺麗にもみえる”
アタシの、一生の宝物。この言葉を、アタシは死ぬまで抱きしめていく。



彼女のつぶやき


 タージ・マハルに眠るのは、絶世の美女と謳われたお妃様。その名は美しい美しい墓廟と共に、後世にまで語り継がれた。
美しさゆえにマハラジャに愛されたお妃様。愛されたがゆえに建てられたタージ・マハル。そして、タージ・マハルゆえに名を残した美しきお妃様。宮殿の光、その名はムムターズ・マハル。
なんて綺麗な物語。なんて素晴らしい愛の霊廟。お妃様の名前までキレイ。
王様は愛していたからお妃様の願いを叶えた。お妃様の死が苦しかったから思い出にすがらずにはいられなかった。
最高のデザイン。最高の大理石。美しい霊廟。お妃様の願いのために。お妃様への想いのために。
それが愚かなことだったとしても、愛は止められない。たとえ、それが人を傷つけるとしても。



其の4  廻る因果の美智代さん


 離婚って、簡単。結婚するときにはあんなに忙しく、追いまくられて急かされていたのにね。煩雑な打ち合わせや手続きに追われて駆け回って、挨拶に招待状、ホテルの担当者達へのチップに至るまで神経とお金を使いまくったわ。なのに離婚は紙切れ一枚、署名して判を押すだけ。それで他人の関係の出来上がり。
何もかもすべて残していこうかと思った。何もいらない。欲しくない。できることなら思い出まできれいさっぱり捨ててしまいたい。でも、他人の手で捨てられるのも思い出たちが可哀想だから、やっぱり持っていくことにした。段ボール箱五つ分の衣類と嫁入り道具の家具類、電化製品に至るまで、全部残さず持っていく。
 残していくのはあなただけよ、和喜。五日前までのわたしの夫。あなたなんて、グリーティングカードをつけて彼女にくれてやるわ!

 まるでデジャ・ビュ。
「…すまない、本当に、すまない。悪いのは俺だ。許してくれ」
ほとんど一言一句、あの時と同じ。
「君が嫌いになったわけじゃないんだ。仕方なかったんだ。自分でもどうにもできなくて、結局、こうなってしまった。本当に、俺が悪かったっ」
 謝られれば謝られるほど、わたしは脱力するようで、疲れる。和喜、あなた気づいてないでしょ? 今とほとんど同じセリフを、あなたは四年前にも言ってるのよ。もっとも、前のときは六年続いたんだったわね。あたしの結婚生活は三年。半分しかもたなかった。
 隣でうつむく若い女。名前はなんていったっけ。ますみ? まさみ? まあ、どっちでもいいか。名前なんて。問題なのは年よ、年! よりにもよって十九歳ですって? 馬っ鹿じゃないの、和喜。あなた自分の年、わかってる? 三十六よ? ほとんど親子くらい年が離れているじゃない!
 高校出たての女の子身ごもらせるなんて、本当に、最低。情けなくて涙も出やしない。
 女の子は泣き続けているだけ。可愛らしくうつむいて、和喜に寄り添って。
 これは、四年前のわたしとは少し違う。わたしは泣いたりしなかった。自分の恋人を、古い義務や責任で縛ろうとする女から助けてあげるんだっていきまいてた。わたしも、馬鹿だった。ふう…。
 夫はそれから一時間近くも謝り続け、別れてくれと頭を下げ続けた。女の子はほとんど泣きっぱなし。自分のためにここまでしてくれるなんて、と感動しているんでしょうね。
 わたしは黙って見ていた。こんな茶番に真剣に付き合う気にもならなくて、ろくに話も聞かずお茶を入れなおし、時計を見上げては溜息をついた。とりあえず、言いたいことだけは言わせてやろうと思った。わたしが何か言うとしたら、それは最後。
 さあ、好きなだけ謝りなさい。言い訳しなさい。大して価値のない、あなたの誠意をわたしに見せなさい。あなたの気のすむまで。

 二時間謝り続け、疲れの見え始めた夫がわたしを見つめた。返事を待っているのだろう。どんな返答を? “わかったわ”? “あなたの好きにして”? それとも、“わたしを捨てないで”?
 わたし、こんな男のどこがよかったんだろう?

 結局わたしは、何も言う気になれず、黙って離婚届にサインした。子供のできなかったわたしに勝ち目はない。生まれてくる子に、罪はないからね。
 サインしてから、わたしはじっくりと、寄り添って座る元夫とその恋人を見つめた。まだ子供のような娘と、子供じみた男。こんな連中が、これからままごとみたいな結婚ごっこをするのかと思うと、なんだか笑ってしまう。
 わたしの三年間って、なんだったんだろう?
 こんなお子チャマカップルを前にしていると、自分が随分とふけちゃったような気がするわ。わたし、まだ二十九歳なのに

 わたしの前の奥さん、今さらだけど、わたし、あなたに謝りたい。あなたの幸福を壊して手に入れたわたしの結婚生活は、こんなにもろく、短く終わりました。わたしがいなければ、あなたの結婚生活は最低でも後四年は続いたのかもしれない。和喜がこの娘と出会うまでは続いたのかもしれない。それとも、他の女に出会うまで? 愛って、虚しい。
 だからこんな男、あなたにあげるわ、お嬢さん。
「慰謝料と財産分与だけはきちんとしてね。和喜は離婚二度目だから大した財産はないけど、わたしもそれ相応の権利は主張させてもらいますからね。まあ、幸にもわたしには子供はいないから養育費はいらないし、慰謝料も分割払いにしてあげるわ。
 これから大変ね。前の奥さんとの間の子供の養育費とわたしへの慰謝料。それに出産費用も稼がなくてはならないなんて。まあ、これだけ大変なら余計なエネルギーなんて残らないでしょうし、浮気の心配だけはなくなるんじゃない? よかったわね、お嬢さん」
 思いっきり小ばかにした表情で、わたしは余裕たっぷりに笑って見せた。お子チャマカップルの引きつった顔を見て、ちょっぴり溜飲が下がる気がする。つまらない些細な復讐だけど、わたしには必要なもの。
「ねえ、お嬢さん。一つ聞いていい? 別に意地悪で聞くんじゃないのよ?」
 わたしの前置きを聞いただけで、女の子が怯えたのがわかる。そんな弱気でよくもまあ、他人の夫を盗めたわね。
「あなた、これが和喜にとって二度目の離婚だって知ってるんでしょ? わたしのときも略奪婚だったの。和喜はこれで二人の妻を捨てたことになる。それでもあなたはこの人を信じられたの? 自分だけは違うって?」
 ああ、本当に、意地悪で聞いてるんじゃないのよ? 純然たる好奇心。意地悪にしか聞こえないかもしれないけど。
「お嬢さん、わたしはあなたを責めないわ。あなたを責める資格なんてわたしにはないのよ。かつてあなたと同じ事をしたわたしにあなたを責める資格なんてない。それに、あなたはわたし以上にこの人を愛しているのかもしれない。こんな不誠実で、だらしのない人だと知ってもなお信じられるというなら、その想いはきっとわたしよりも強い。だから、わたしは喜んで身を引くわ。たとえ、あなたが和喜と別れたとしても、わたしはもう、この人とは暮らせない。土台に信頼のない関係なんて、わたしには耐えられないの」
 女の子の、怯えて引きつった顔を見て、わたしは少しだけ悲しくなった。わたしの結婚生活も、無駄に壊されたことになるのかもしれない。このお嬢さんも長くは和喜を引き止めてはおけないのかもしれない。
 和喜。根性無しの浮気男。頭より下半身で判断して行動する男。こんな男に引っかかるなんて、女ってなんて悲しくて愚かなんだろう。
「一週間くらい時間をちょうだい。荷物をまとめるのは業者に頼むとしても、とりあえず、引越し先は自分で探さなきゃならないから」
 わたしの口調は、子供に言い聞かせるようだった。


 何がいけなかったのだろう。私は何を間違えたのだろう? どうして泣くこともなく男と別れられるような女になってしまったんだろう? たった三年で、わたしは変わった。変わってしまった。…変えられてしまった。
 和喜の女好きは病的なものだった。三年の間に浮気は4回。そのうち二回は前の奥さんが相手だった。子供達に会いに行くといって、ついでに先妻とも会っていた。わたしは一晩中、和喜の帰りを待っていた。
 わたしは和喜を疑うようになった。上機嫌なとき、後ろめたそうなとき、妙に優しいとき。大抵和喜は女の気配を漂わせていた。
 優しく抱きしめられながら、わたしは冷めた目で窓の外をみていた。和喜の心がそこにないのに、抱きしめられても虚しいだけ。心が、凍るほど寂しかった。
 寂しさを埋める為に、わたしは仕事に励んだ。家事も完璧にこなした。自分の価値を情けない夫に見せ付けるつもりでわたしは夢中で働いた。本当は、浮気の一つもしてみようかとも思ったけれど、結局しなかった。和喜の為に、和喜なんかの為に、自分を貶める気にはならなかった。
 多分その頃には、わたしはすでに和喜を愛してはいなかったのだろう。何もかも捨てて、すがりついてまで、和喜を取り戻そうとはしなかった。和喜が女を替える度に、わたしの中の和喜への愛も死んでいったのだと思う。
 そして、もしかしたら、気のせいかも知れないけど、和喜はそれに気づいたのかもしれない。もう、わたしに自分は必要ないと。わたしが自分を愛していないと。
 鈍感だけど、自己防衛本能だけは発達してた和喜。コバンザメみたいに、誰かと寄り添い、寄りかからなければいられない、和喜。


 荷物を積み込んだ業者のトラックを見送って、わたしは愛車に乗り込んだ。業者さんに鍵を預けておいたからトラックより先にマンションについている必要はないけど、一刻も早くここから立ち去りたかった。そこら中に人の気配がある。若い女に夫を奪われた哀れな女を見送るご近所の皆さんらしい。奇異の目っていうやつ?
 もしかしたら、夫婦で引越しなんて勘違いしている人もいるかもしれない。家の中の物はほとんど残らず運び出してしまった。ちょっとひどかったかしら?
 でも、かまわないわよね? ほとんど全部わたしが買った物だもの。
 実は和喜の収入より、わたしの収入の方が断然多かったの。おまけに和喜ときたら、前の奥さんに慰謝料代わりに前の家の物をほとんど渡してしまったし、養育費も払わなくてはならなかったから、わたしが家財道具を揃えたの。四年前。離婚後、ほとぼりが冷めるのを待つために、一年経ってから入籍したけど、同居はすぐにしたから。和喜は何にも持ってなかったんですもの。お茶碗も箸もベッドも何一つ。可哀想だった。
 そして今、二人で暮らしたマンションはもぬけの殻。マンションは賃貸だったから持って行き様がない。礼金敷金はサービスよ。
 バイバイ、和喜。今度こそ幸せになってね。
 三度目の正直? 二度あることは、三度ある? あなたはどっちになるのかしら?



 彼氏のつぶやき


 女は強い。女は怖い。
 弱そうに見せて男の懐に入り込み、喉元に牙を剥く。
 浮気されて捨てられて、慰謝料請求か。でも、復讐は既に済んでいるのはないかと思う。自業自得とはいえ、男は既にぼろぼろだ。哀れなのは、一番の被害者は、この男の面倒を見る一九歳の娘じゃないか?
 永遠の愛なんて本当に存在するのか。愛という名の欺瞞。その本質は欲望に過ぎない。

恋人を可愛いと思う。笑っている顔が可愛い。俺に合わせてくれているのがわかるから健気だ。喜ばせてやりたいと思うし、時々なら甘やかしてやるのも悪くない。
 だが、そこまでだ。俺は何もかも捨ててまで女に尽くしたりはしない。俺は俺だ。自分の立つ位置を確認しながら、一歩ずつ進んでゆく。キャリアを積み重ねてゆく。その方が彼女だって安心なはずだ。いずれ結婚することになるのなら、経済観念はしっかりした男の方がいいに決まっている。
 何が女は哀れで可愛そうだ。
 男だって哀れだ。金の無い男が女達にどんなふうにあしらわれるのかを知っている。
 合コンで俺に群がった女達。甲斐甲斐しく酌をし、話を振る男達。
 将来性、金の有る無しで男の値打ちも変わるらしい。

 誰がタージ・マハルになんか行きたいものか。女の死を悼んで国を傾けたヘタレな王様。その残骸。その時代の飢え死にした民がどんな思いでその霊廟を見ていたのか聞いてみたいものだ。



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