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作品名:とある中流男性の日常 作者:さとのこ

第2回   2
実だ。いい匂いのする髪が頬に当たったり、背中にすがりつくような形でOLさんが寄りかかってきたり、向かい合った女子高生の胸が押しつけられたりした日には、密かにときめいていたことも否定しない。そう、なるべくなら、むさくて厳つい野郎どもより女の子の近くにいたいと思ったとしても、いったい誰に責められる? 原始以来の男の本能だ。生殖本能がなくなったら、人類は亡びるんだ。
 だが、そんなささやかな男達のパラダイスは今や戦場と化し、一つの手すりを奪い合い、可能な限り女達から遠ざかって身を守ろうとする。
 痴漢冤罪。なんと言う恐ろしい言葉なのか。『この人痴漢です!』その一言を発せられたが最後、男は社会的信用を失い、人格を疑われ、品性下劣のレッテルを貼られ、家族すら冷たく白い視線に晒され、職も住む場所すらも失いかねない。
 現行犯もクソもない。女が一声叫べばその手がどこにあろうとも、ただ隣にいたというだけで性犯罪者と周囲の乗客の目に映ってしまう。無実を立証するのは限りなく、困難かつ不可能に近い。
 どれほど無実だと主張し、泣き叫んだとしても、世間は『か弱い女性』の肩を持つ。
何よりも恐ろしいのは、示談金という僅かな金を目当てに、面白半分に叫ぶ女達がいるという事実だ。
『この人痴漢です!』
 何も考えず、ただぼんやりとそこに立っていたというだけで。ただ、下げていた右手に何も持っていなかったというだけで。その手がたまたま隣にいた女性の尻に当たっていたというだけで! 
 そんなこと、誰にでもあるだろうっ? 男だろうが女だろうが、学生だろうがオヤジだろうがジイさんだろうが。日本に通勤ラッシュという言葉が発生して以来、都心に勤める者は否応もなく箱詰にされ、身動きも取れないままに立ってきた。当たり前に立っていただけだ! 座れるものなら座っているっ!

「この人痴漢です!」
怒りのあまり、幻聴が聞こえてきた。やけにリアルな幻聴。周囲は静まり返り、電車の発する騒音が耳につく。
「なにトボケてるのよ! 次の駅で降りなさいよ! 警察に突き出してやる!」
 幻聴ではない!
 一瞬で全身にいやな汗がわき出す。目眩がして、息が苦しい。今この瞬間から起こるであろう悪夢のような日々を想像し、死にたくなる。泥棒呼ばわりよりも、殺人鬼呼ばわりよりも恐ろしい言葉。痴漢、変質者! この難局をどう乗り切ればいい? どうやって逃げればいいっ?
「…ち、ちがう、私は何もしていな、い……?」
 女の手は、若いフリーター風の男の手を掴んでいた。
 …よかった…!
 私は、男にとって牢獄よりも辛いかもしれない場所となった満員電車の中で妄想し、その妄想に怒るあまりに現実と混同し、うっかり道化のように大声を出してしまっていたらしい。だがそんなことは、自分の身に起こったかも知れない悪夢よりも残酷な日々を思えば瑣末なことだ。
 私の心臓はまだ動悸が収まらない。瞬時に最高潮に達した緊張の為、貧血を起こしたように気分が悪い。破滅するかどうかの瀬戸際だったのだ。無理もないだろう。
 周囲を見渡すと、同じように内心胸を撫で下ろしているであろう男達の顔が見える。男達によらず、女達の顔にも一様に同じ思いが浮かんで見える。
『バカナヤツダ』

 こんなことで人生を棒に振るとは『バカナヤツダ』
 恥ってものを知らないのかしら? 変態じゃない? 『バカナヤツダ』
 あの程度の女に手を出すとは『バカナヤツダ』
 あんな大声を出して、注目されるなんて『バカナヤツダ』
 顔、見られてるよね。逆恨みで復讐でもされたらどうするのかしら。『バカナヤツダ』
 乗り合わせた乗客達は誰もが一様に冷たい視線を向けている。そして安堵している。女達は自分が痴漢の被害に会わなかったことに。男達は渦中に置かれずに済んだことに。
 無責任に非難し、素知らぬ顔をしながら興味津津。面白がっている者さえいるだろう。正義面して、女の見方のようなふりをして、痴漢呼ばわりされている男を睨んでいる者もいる。
 実際のところ、その男が本当に痴漢行為をしたのかどうか。そんなことは私にはわからないし、どうでもいい。ただ、関わりたくない。
 犯罪に気づき、その手をとって、『何をしているッ?』と叫びでもすれば、私はヒーローになれたのかもしれない。職場でも一目置かれ、家族からも見直されるかもしれない。日頃私に無関心な連中も、私を取り巻き、褒め称えてくれるだろう。
『お帰りなさいっ、お父さん!』
 家族の笑顔。抱きついてくる娘。息子の瞳は尊敬に輝き、私の身を案じていた妻の瞳は安堵の涙を滲ませている……。
 だが、それがなんだというんだ?
 一時的にヒーローとして祭り上げられ、持ち上げられたとしても、わたし自身は何も変わらない。虚しい騒動よりも、平穏を愛する男だ。
 ほんの一時期、瞬間風速的にヒーロー扱いされる位なら、このまま街の片隅に捨てておいて欲しい。狂熱が冷め、現実に戻って行くのを見る位なら、儚い幸福など知らない方がいい。
 なぜ、『不幸な針のムシロ状態』は半永久的に続き、幸福は一瞬で過ぎ去ってしまうのだろう? 栄光は必ず過去の記憶となり、いずれ忘れ去られてゆく。犯した罪は消えることなく、その身のどこかに烙印を残す。

「ちがうっ! 俺は何もやってねぇ!」
 不幸な男の虚しい叫びが響き渡る。
 申し開きは警察でしろと誰かの声がする。
 男が本当に罪を犯したのか。その真実を100パーセント知るのは当の本人しかいない。けれど、その事実を100パーセント証明することは本人にもできはしない。
「誰か助けてくれっ」
 男の虚しい戦いの日々が始まるのだろう。

 男が本当に痴漢をしたのか? その答えは男自身にしかわからない。女の勘違いということもあるし、掴む手を間違える事だってあるだろう。
 だが、怒り狂う女を見ていて、確信したことがある。女にだって、罪はあるよなぁ…。
 被害にあった女は、別に美人というわけではなかった。スタイルが並外れていいというわけでもない。少なくとも私の好みのタイプではなかった。だが、露出が激しかった。
 通勤ラッシュの電車に乗るのに、透けたブラウスとミニスカートはないだろう。
乗客は七割位が男、その殆どが地味な背広姿だ。女性も大半が通勤に相応しいシックな装いをしているというのに、その女の姿は異様に見えた。ピンクのブラが白い袖の無いブラウスから透けて見える。胸もとのボタンは四つも外され、胸のふくらみが見え隠れしている。側に立っていたら目のやり場に困った事だろう。派手なアクセサリー。日に焼けた剥き出しの腕。
混雑した車内で、いやでも目を引いてしまう装いだ。
 無論、今の時代、こんなセリフを口にすればセクハラ騒ぎになるのは知っている。だが、これは、あんまりではないだろうか?

 男の体には犬が潜んでいる。それは血統も毛並みもいい犬かもしれないし、野良の駄犬かもしれない。どんな犬が潜んでいるかは男の外見からは判断できない。粗野ななりでも女性を大切にする、とらさんのような男もいれば、スーツで決めた鬼畜野郎も存在する。男を顔や身なりで判断してはいけない。やはり心を見て欲しい。
 そして男の中の犬は、鎖につながれようが檻に閉じ込められようが、どれほどきつくしつけられようが、決して狩猟本能を失うことはない。従順に尻尾を振り、毛並みを撫でられていても、ふとした弾みで牙を剥く。本能を失うことは死ぬことだ。
 女性達よ。どうか男を哀れんでください。飢えた犬に、生肉を見せびらかすようなことはやめてください。見るなというなら隠してください。生足だのヘソ出しだのノーブラだので見せつけておいて、見るな、触るな、近寄るな!はあんまりじゃないですか。
 妻がいても、恋人がいても、どんなに幸福な生活をしていても、狩猟本能は眠らない。うまそうだと思えば食べたくなる。腹が減ってりゃまずそうでも食いたくて狂いそうになる。そういうものじゃないですか?
 自分の中の犬を押さえ込む為に、男は心の中で自分と格闘しています。押さえられなかった者、はなから押さえる気のない変態野郎と、血の滲む思いで歯を食いしばっている男達を一緒にはしないで下さい。
 できるものなら、頼みたい。誰か、か弱い男達をお守りください。男達は常に戦っています。心の中に潜む犬と、世間を相手に戦い続けているんです。

 事件後数時間が経過し、パソコンに向かいながらふと、思った。あれは、示談金を目的としていたのではないだろうか。そう疑われても仕方ない状況、装いだったのではないだろうか。
 僅かな小遣い銭欲しさに他人を奈落の底に突き落とせる人間は、確かに存在する。軽薄で考えなしの女ども。まるでゲームのように名も知らぬ男の運命を翻弄し、葬り去る。その男の人生が崩壊することなど、意にも介さずに。
自分の身近に、すぐ隣に、こんな恐ろしい状況が存在していたことに、私は心のそこから、息もできないほどの恐怖を覚えた。
・ ・ ・ 

タバコが吸いたい。吸いたい、吸いたいっ。
食後になると、どうしてこんなにタバコが吸いたくなるんだ。禁煙なんて、拷問以外のなにものでもない。精神も肉体もキリキリと締め上げられているようだ。
今、私は禁煙の誓いを破る寸前まで追い詰められている。理由は明白だ。私は今朝の経験を、記憶に残る恐怖の残滓を緩和したいのだ。消し去ることは出来なくても、ニコチンによる陶酔感はいくらかでも心を軽くしてくれる。これまで数々の不幸な記憶を薄めて忘れやすくしてくれたように。
禁煙をはじめて早二ヶ月。我ながらよく続いているものだと思う。正確にいえば、続いているのではない。続けざるを得ないのだ。
小遣い減額。学費、教育費優先。この言葉を前にして、抗うすべはない。

一月の小遣いの中で、五千円の占める割合は大きい。もともと昼食代込みで三万円だったものから引かれるとなると、六分の一の金額が削られてしまったことになる。苦しい。
そうなると、必然的に無駄なものを省かなくてはならなくなる。その結果として、無駄なものの最たるものとして、タバコが上げられてしまったのだ。…妻に。
「お父さん、タバコよ。タバコをやめなさいよ。健康にも悪いし、人にも迷惑じゃない。今、喫煙者は肩身狭いんでしょう? ちょうどいい機会じゃない。禁煙よ。決まり!」
 家ではベランダで吸っていた。街中でも喫煙を許してくれる店はどんどん少なくなってゆく。肩身が狭いというより、迫害されている気分だった。
 職場でも、廊下の隅に設置された空気清浄機の前で立ったまま吸わされていた。ゆったりと腰をおろし、雑談でもしながらのんびりと過ごす。そんなひと時は失われて久しい。
 禁煙に成功すれば、私も優越感に満ちた目で、喫煙者を眺めることができるようになるのだろうか。


「鈴木さんっ」久しぶりに、四歳年下の同僚に声を掛けられた。確か、苗字は小松。それほど親しい間柄ではないが、同じ課長ということで、何かと顔を合わせる機会がある。
 手持ち無沙汰な昼休み。職場に戻って新聞でも読むかと思っていた矢先のことだ。
 私は茶を入れるために給湯室に入ったところだった。
「ご一緒しませんか?」
 小松は廊下の隅、喫煙所を顎でさした。手はすでに胸ポケットを探っている。
「いや、悪いが、禁煙しているんでね」
「えっ、禁煙? 鈴木さんが?」
 そんなに驚かれる筋合いはない。私はもともと、それほどヘビーなスモーカーではなかったのだ。だから、こうして禁断症状も軽くて済んでいるのだと思う。
「よかったら一本、どうですか?」
 空気を読めない男は悪気もなく、禁断症状に苦しむ男にタバコの箱を向ける。
 思わず、手が出そうになる。わたしの肺も咽も脳も、まだあの陶酔感を忘れてはいない。欲しい……っ。
「…いや、やめておくよ。やっと、二ヶ月我慢したところなんだ」
 苦しげな私の表情に、小松はやっと気づいたらしく、
「あ、すみません。気がつきませんでした」
 恐縮した様子で立ち去ってしまった。
 もう一言勧めてくれれば、私もせっかくの好意を無にしたりはしなかったかも知れないのに……。
 急須の蓋を開けると、中にはすでに出がらしの茶葉が入っている。淹れかえるのも面倒だったので、そのまま給湯器の湯を注ぐ。
「鈴木さん、一本どうですか?」
 空気の読めない男がまた来たか、と思ったら、小松の手には缶コーヒーが二本握られていた。
 煎れたばかりの茶を処分し、小林が差し出してくれた缶コーヒーを受け取り、禁煙の休憩室へと向かった。そこはすでに人が溢れていたが、それでも何とか座れる席を確保することができた。
「鈴木さん、開発部の尾崎、知ってますか?」
 開発部第二課の課長の名が尾崎だということくらいは知っている。
「あいつ、今度九州に転勤になるらしいんですよ」
「九州? それはまた随分と遠くだな」
 そんなことより、久しぶりに飲む缶コーヒーの甘さに舌が出そうになる。
「当面は単身赴任だって言ってましたよ」
「単身赴任っ?」
 私と小松は、同時に溜息をついた。
 単身赴任。なんと羨ましい。自分の部屋、自分だけの空間を持てるということだ。職場で何があろうと、部屋に帰れば思いっきり羽根を伸ばすことができる。気兼ねも遠慮も気まずさもない。本当の意味で一国一城の主になったような気がすることだろう。
 小松は呟く。
「嫁さんの親が体調悪くて、当面呼び寄せることはできないらしいんですよ。たまんないですよね。子供なんてすぐに成長しちまう。一番かわいい時期を見逃してしまうんですよ」
 小松は私より四歳年下だが、結婚が遅かった為、子供はまだ幼児の域を出ていないだろう。自分の身に置き換えて、その辛さを実感しているらしい。
 並んで座る二人の男。同じ課長職にあり、妻と子がいる。なのにこの違いはなんだ? 単に子供の年齢の問題なのか?
「まあ仕方ないさ。サラリーマンの宿命だ。国内で済んだだけ、まだよかったじゃないか」
我が社は海外にも営業所を持っているから、語学力に問題がなければ海外に飛ばされることも十分ありえるのだ。もっともそれは、当然出世コースになるわけだが。
「サラリーマンは、辛いッスよねぇ」
 溜息混じりに小松が呟く。
「そうだな。つらいな」
 それでも、我々はまだ幸せな立場にいるのだろう。テレビのニュースでも新聞でも、世の中には仕事に就けない人があふれかえっているらしい。我々は正社員で、安定した収入があり、ボーナスももらえる。ただ、銀行に振り込まれたボーナスを、明細書の額面以外で目にする機会がないというだけで。
 おそらく小松は、まだ恋愛感情の残り香が香る程度には妻を愛しているのだろうし、幼児期の子供なら目に入れても痛くないほどの愛情を感じていることだろう。
 自分が転勤を命じられたら。単身赴任になってしまったら。子供の成長を一時期でも見逃すことになってしまったらと、戦々恐々としているのだろう。
 この違いはなんだ?
 同じ課長職。私は禁煙し、無料の茶を飲んで時間をつぶそうとしていた。対して小松は禁煙することなどなく、あまつさえ私に缶コーヒーを奢れる程度には小遣いに余裕をもっているらしい。家族の人数の違いか? 子供の年齢か?
 そんな単純なことなのか?
「あ、俺、一服してから戻りますんで、先に行きます」
「ああ、ごちそうさん」
 いつか小松も、真夜中にストレスを発散するすべを探すのだろうか。弾まない家族との会話に気詰まりなものを感じ、仕事も家庭も何もかも、投げ出してしまいたいと思う日が来るのだろうか。
「お前が羨ましいよ、小松」
 また、長い午後の勤務が始まる。


 平穏は、ある日突然破られる。
 退屈であろうと気詰まりであろうと虚しかろうと、単調な日々こそ幸福なのだと、失ってから思い知る。
 会社が、吸収合併されるという。

 その日社内を駆け回った衝撃は、業務を一時停止させるくらいの威力が十分あった。電話によるたわいもない問い合わせにすら対応することができず、後日あらためて連絡するといった体たらくが続出した。冷静になって考えればいたし方のないことだったと言えるが、その時には動揺と焦りで先走り、怒声までが飛び交う始末だった。それほど会社に愛着など感じていないはずの若い連中が顔色を失い、顔を寄せ合って話している。
「どうなっちゃうの?」
 女子社員のこの言葉が全員の不安を代弁しているだろう。
 情報が足りない。先が見えないことがいっそう不安を煽りたて、狼狽させる。部長が招集され、それ以下の社員、中堅管理職にはあらためて説明があるので、とりあえず待機するようにとのお達しだった。部下達の不安を押さえることが、今は最大の任務だろう。
「なにをしている。勤務時間だぞ。立ち話なんぞしている場合じゃないだろう」
 私は自分の動揺を押し隠し、とりあえずパソコンに向き直った。
「落ち着きなさい。別に今すぐ会社がどうこうなると言うものではないだろう。倒産したわけじゃない。社名が変わっても事業は存続するんだ。むしろこの先業績を上げられない方が問題だぞ。うちの課は成績がいいわけじゃない。何か通達がある前に、一つでも多く商談をまとめておけ」
 我ながら、かなりカッコいいんじゃないか?
 部下達はそれぞれの席につき、とりあえず仕事をすることにしたらしい。
 私はパソコン越しにさり気なく部下達を見渡した。仮にも課長職にある。万一リストラをしなくてはならなくなった場合に、誰が切られて誰が生き残るか位の検討はついている。
 岡村。いつもは自信満々の男がひどく蒼ざめている。それはそうだろう。吸収合併を仕掛けてきた企業とは以前小さな取引があった。奴はそこの専務の女性秘書と一時親密な間柄にあったはずだ。仕事の肥やしにしたわけだ。自分の過去の不行跡が今降りかかってくるかもしれないとなれば、冷静ではいられないだろう。ザマアミロ。
 比較的冷静なのは野郎どもより女子社員の方だ。いざとなれば結婚してしまえばいい、位に思っているのだろう。気楽なものだ。
 今の時代、キャリア志向の女性は少なくないが、私の部下の女子社員はキャリアを積むより、エステやジムで自分磨きを優先するタイプが多い。以前聞いたことがある。
『免許を取って車を買うより、車持ちの彼氏を捕まえる方がいい』
 逞しいものだ。リストラされたとしても、その後については自分でなんとかしてくれるだろう。頼られても困る。
仕事をする部下の顔はどれも心ここにあらずといった感じで、今日はろくな仕事にならないことは明白だ。まあ、当然だろう。こんなときでもてきぱき仕事ができるような社員が揃っていたなら、吸収合併なんて事態にはならなかったはずだ。


 吸収合併。経営陣は入れ替わり、社内全体のスリム化を測られる可能性は十分ある。リストラ。営業所の閉鎖。存続企業は名の知れた大手だ。当然エリートぞろいだろう。中小企業の粋を出ない我が社のエリート連中では太刀打ちできまい。
 では、私はどうか。
 うだつのあがらない営業第三課の課長。別名『トラブル処理課課長』。無名の地方大学出身で、出世コースからは早い段階で外れてしまっている。意欲も気力も無く、ただ穏便に定年退職できる日を指折り数えている中年男。
 愛社精神など無い。仕事に対する誇りもとうに無く、プライドすらも捨て去って久しい。それでも、リストラは困る。今さらこの歳で、再就職活動などしたくない。というか、まともな仕事につくことはすでに不可能に近い困難だろう。せめて子供達が社会人になるまでは今の生活レベルを保たなければならない。たぶん。

 終業時間を過ぎて、ようやく今後の説明がなされた。当面は今の体制を維持することになったそうだ。それはそうだろう。社名が変わったからといって、その日からいきなり人事やら経営方針やらが変えられるはずもない。当たり前のことを検討するのに、ずいぶんと時間がかかったものだ。
 部下達は誰一人帰ろうとはせず、待っていた。いつもは一分たりとも無駄にせず、速攻で帰宅する連中である。よほど不安だったのだろう。気の毒に。
 当面は現状維持、と言うが、当面とはどれほどの期間をいうのだろう。経営陣の首がすげ替えられ、存続会社から新たな社長や役員達が送り込まれてくるまでの時間。
 私は、どうなるのだろう?
 そわそわと落ち着かず、浮き足立っているにも関わらず、私の頭の一部は妙に冷めていた。狼狽したところで、事態は変わらない。どんな不本意な決定がなされようと私に抗うすべはなく、間違っても事態が好転する可能性はない。リストラか、降格、よくて現状維持。課長のまま居残れたとしても、収入のダウンは避けられないだろう。
 妻に、なんと言われるだろう。
 子供達に同情を期待しても、虚しいことだとわかってはいる。
 今、このとき、誰とだったらこの怒りと不安を分かち合えるのだろう?
 何十人もの人間が同じフロア、同じ建物に押し込められているというのに、心を分かち合えるものはいない。都会の孤独。
 小松、お前はどうだ? 女房と子供を愛していて、小遣いにも不自由のなかったお前は、私よりも深い絶望感を味わっているのだろうか?

 本当に追い詰められたとき、どん底まで落ちたと嘆くとき、おそらく人は母親の顔を思い出すのではないだろうか。呆れても溜息をついても決して見捨てない相手。ばかな子だね、と溜息をつきながら、それでも温かく迎えてくれる人。いくつになっても子供扱いしてくれる、唯一の人。
 無性に、母親に会いたいと思った。
「じゃあ、課長、俺達お先に失礼します」
 うっかりもの思いに沈んでいたらしい。部下の声で我に返った。
「ああ、お疲れさん。まだ何も決まってはいないんだから、変に落ち込むなよ」
「わかってますよ。大変なのもキツイのもこれからでしょう?」
 部下達は一人、また一人と帰っていった。これから暗澹たる気持で帰宅し、家族に説明するのだろう。今、このフロアに申し分なく幸福な者は存在しない。
 妻に、どう説明しよう?
 実の所、不安材料には事欠かないが、実際にはまだ何も決まってはいない。予想できるのは最悪の状況ばかりではあっても、奇跡的に現状維持できる可能性もないわけではない。
『まいったな。会社が吸収合併されることになったそうだ。身分や収入が保証されるかどうかはまだ未定だそうだから、一応覚悟はしておいてくれ』
 こんなものか。また、家族に冷たくされるな。
 家族が私のことを第一に案じてくれる筈はいない。
 お袋に会いたいと思った。切実に思った。
 田舎の両親は兄貴夫婦と暮らしている。三人の孫の面倒を見ながら、兄貴の嫁さんともまあまあうまくやっているらしい。心配を掛けるわけにはいかないとわかってはいても、それでも、情けないくらいに母親が恋しかった。
『しょうがないねぇ、ばかな子だねぇ。ほら、こっちにおいで』
 幼い頃はそう言って、頭をなでてくれたものだ。
 こういう場合、親父にも兄貴にも会いたいとは思わない。成人した男にしてみれば、たとえ親兄弟であろうとも、男は皆ライバルなのだろう。
 リストラされるかもしれない、なんて、かっこ悪くて言えるものか。
 終業時間を一時間近く過ぎていることに気づく。
「そろそろ帰るか」
 気の進まぬまま、重い足取りで、帰路につく。


 現実とは常に想像を凌駕するものだと思い知らされる。人の予想しえる範囲などは限られ、突きつけられた現実に狼狽し、取り付くろうこともできないまま茫然自失のていをなす。想像したこともない事態に取り乱し、私は外に飛び出していた。
   ・ ・ ・ ・ ・ ・
 案の定、妻は叫んだ。
「何ですってぇッ?」
 食事時、いつになく沈んだ様子で帰宅した私に家族は胡散臭げな視線を隠そうとはせず、箸を持ったまま問い詰めた。こういう場合、よいニュースが聞ける可能性は限りなく低い。よせばいいのに食事中に聞いてしまったために、以後の料理は口の中で砂と化した。
「そんな、リストラされるかもしれないなんて…。まだマンションのローンだって残っているし、子供達の教育費だってまだまだかかるのに、どうするのよっ」
「何だよ、俺、大学進学無理なわけ? 受験から解放されるわけ?」
「お父さん失業しちゃうの? それってカッコワルいんですけど」
 今さら嘆くまい。妻子の反応は予想通り。何も衝撃を受けるようなことではない。とはいえ、あまりに芸がないほど予想通りの反応に、私はつくづく嫌気がさした。
 本当に誰一人、私のことを案じる気持ちは持たないのか。
 私は一日中生きた心地もないままに過ごし、不安を抱えたまま帰宅した。家族という重い荷物を背負った身に、これほど過酷な一日はなかった。家族の生活、住宅ローン、子供たちの進学。その全てを背負い、不安な一日を過ごしたことなど想像だにせず、己のことばかり心配して私を責め立てる。
 これが家族というものなのか。
 私は、溜息をついた。
「あいにくだが、一サラリーマンの身では会社の経営や人事に口出しできるわけがない。なるようにしかならんとしか言えないな」
 「そんな、無責任な…っ」妻が悲鳴のように叫んだ。
 無責任。妻の放った一言が私の勘に障った。
「無責任っ? だったら私にどうしろというんだ。私は罪を犯してくびになったわけでも、仕事を放棄して無収入になったわけでもない。毎日真面目に働いて、働いて働いて、揚句にこの状況を突きつけられているんだ」
 自分が押さえようもなく興奮し始めていることを自覚している。だが、止まらない。
「誰が好き好んでこんな状況になっているものか。何とかできるものならとっくにやっている。企業間の問題に、社員が口出しできるわけがないじゃないかっ。俺にどうしろと言うんだっ」
 家族は誰一人として口を挟めず、私に集中している。こんな状況は久しぶりだ。
「まったく、なんだって言うんだ。三人もいながら、ただの一人も私の気持ちを思いやる者はいないのか。私はこれまで築きあげてきたすべてを失うかも知れないんだぞ。不安でないわけがないだろう。そんなこともわからないのか。期待するだけ無駄なのか。俺は生活費だけ運んでくればいいのか」
 情けなかった。涙が出るほど情けなかった。仕事を失うかも知れないこのときに、家族の中における自分の存在感のなさを思い知らされるとは…。
 いたたまれず、私は食卓を立ち、玄関に向かった。
「お父さん、どこに行くのっ?」
 今さらながら、妻が慌てて追いかけてくる。
「俺の勝手だろう、ほっといてくれ」といった大人気(おとなげ)ないセリフも言えず、
「少し、頭を冷やしてくる。」
 精一杯の虚勢を張って、私は夜の町に飛び出した。

 現実は、想像を凌駕する。自分がキレて外に飛び出す事態が起こりうるなどと、想定したこともなかった。当たり前に暮らし、真面目に働き、平凡で退屈な人生を生きてゆく。誰に何を期待することも無く、期待されることも無く、ただただ凡庸に生きる男。それが私だ。腹を立てても、それを表に出したことなどはもう、何年も無い。
 だが、私が生きた人間であり、感情が摩滅してしまったわけではないことの証しであるかのように、今、私の中の怒りは収まらない。
 何もかもが面白くない。腹立たしい。
 私は夜遊びをするタイプではない。だからオヤジ狩りやユスリ・タカリといったたぐいのことをあまり身近に感じたこともなく、深く考えたこともなかった。だが、久しぶりに夜の繁華街を歩いていると、なんだかそんなことも起こりうるような気がして薄気味が悪い。なのに、その薄気味悪さを感じる自分にさえ憤りをおぼえる。
(何がオヤジ狩りだ、暇を持て余したガキどもが。世のサラリーマンをなめるんじゃない。本当に疲れてストレスを溜めまくった大人がキレたらどれほど恐ろしいか、今に思い知ることになるぞ。そうだ。束には束でかかればいいんだ。大人が一致団結して素行の悪いガキどもを矯正する日が来るんだ。いつか必ずな。そのときになってほえ面をかくなよ)
 いつか遭遇するかもしれない「オヤジ狩り返し」を想像し、私の興奮は一気に高まる。その興奮は道路の隅に投げ捨てられた空き缶にさえ向けられた。
(何が第3のビールだ。そんなもんが旨いわけがあるか。カロリーが低くて身体に良くて値段も安くて、その上旨いってんなら、とっくに本物のビールは淘汰されて消えてるだろう。それでも本物のビールは消えずに金のある奴に飲まれ続けている。そうだ。科学の進歩だかなんだか知らないが、何千年もの歴史のあるビールを一朝一夕に超えられるわけがないんだ。なのにどうして真面目に働いているサラリーマンがビールくらい思い切り飲めないんだ。こんなことは理不尽じゃないか。ガキの小遣いに税金を使うくらいなら、労働して税金を納めている大人に還元しろ!)
 私の怒りは加熱してゆく。
(まったく世の中のお偉いさんは何を考えているんだ。もっと国民のことを考えた政治をしてくれなきゃ困るじゃないか。税金を取るばかりが能じゃない。税金を上げるというならその前に給料を上げろっ。餓死者を出すまで取り続ける気か! 途上国も途上国だ。核なんかに金を使うくらいなら、自分の国の飢えた連中を助けてやればいい。やりたいことだけやりまくって、それで援助しろとはどうゆう了見だ。そんな金出しているくらいなら自国民を潤せ。今の時代は核なんか持ってる方が危険なんだぞ。銃の法則、「撃たれる前に撃て」が戦争でも成り立つ世界だ。「危ない武器を持っていそうだから攻撃したけど、よく調べたらありませんでした」ですんでしまう。核なんか持ってみろ。「落とされるかと思ったので、先に落としてみました」で済んでしまうんじゃないか。無駄なものに金を使うくらいなら俺によこせ。俺の方がよっぽど世界の平和を考えているぞ)
 頭に血が上った私の思考は、無意味にグローバル化してゆく。
『世界で一番賢いのは俺じゃないのかっ?』
 妄想が、止まらない。


 失敗した。選ぶ店を間違えた。
 一人渋く熱燗でも傾けるべく、居酒屋を選んだつもりだった。さびれた店内に低く流れる有線放送の演歌。肴にはあぶったイカと心づくしの煮物。ちょっと年増のいい女が、一杯お酌でもしてくれれば最高だ、くらいに思っていたのだ。
 そこでは過去を問われることも無く、同じような境遇の男達がたむろし、干渉することも無く同じ空間を共有する…。
 私の住む地方都市の駅周辺には、そんな渋い店は存在しなかった。
 ファミレスよりはましだろうと選んだ居酒屋は、賑やかな喧騒に満ちていた。各ブースに分かれた店内は、そこかしこから笑い声が溢れ、子供達の甲高い声が響いている。
 子供達。今時の居酒屋は家族連れをターゲットとしたファミリー居酒屋なのだそうだ。
 私は六人用のブースに一人納まり、所在無くビールを飲んでいた。子供達の声。明るい母親と思しき声、少し酔った様な父親の声。私以外のブースは全て幸せに満ちているように思えた。
「お父さん、次焼き鳥食べたい。塩味にしてね」
「塩味か。おまえ、大きくなったらのんべえになるな」
「なんで?」
 目を細めているであろう父親の顔を想像して、私は溜息をつく。十何年後に、息子と飲む光景を想像しているのだろう。
 笑い声がいちいち勘に障るのは、私が羨んでいるいからだ。店中探しても、他店を探しても、一人で居酒屋に入っているものなど私くらいのものだろう。賑やかな家族連れの中で、一人ぽつんと座っているのは、喩えようもなく寂しかった。思わず泣きそうになって、慌ててビールを一息に飲み干した。

 居酒屋のチェーン店が家族連れをターゲットとしているなんて、考えもしなかった。私にとって居酒屋とは、職場の同僚との懇親会。宴会コースと飲み放題だ。親睦を深め、慰労しあうという建前の元、存分に飲める数少ない機会でしかない。家族を連れてくるなどと、考えたことも無かったのだ。
 子供達を連れての外食など、もう何年も行ったことがない。確か、息子がまだ小学生の時以来だろう。
『今日は外で食べるぞ』そう言った時の、子供達の嬉しそうな声を今も覚えている。あの頃は、猛も美弥も可愛かった。
 過去が楽しいことばかりだったわけはないが、なぜか今、思い出すのは子供達の笑顔ばかりだ。あの頃は、妻とももう少し会話していたような気がする。
 私はジョッキに半分ほど残っていたビールを口に含んだ。冷たさと炭酸の爽快感と麦の香が溢れてくる。どんなときでもビールは旨い。ビールだけが心の友、私の気持を理解してくれているかのようだ。
 それは、ある意味虚しいことなのかもしれない。だが、今の私には慰めが必要なのだ。
 妻がなんだ。子供がなんだ。家族がなんだ。合併もリストラもクソ食らえだ。
 卓上のインターホンを押し、私はビールの追加を頼んだ。
「大ジョッキを一つ!」


 ビール三杯と焼き鳥とたこわさびとさつま揚げ。それにしめとしてガーリックチャーハンを食べて私は店を後にした。それで何とか二時間を費やすことができた。あまりに早く家に帰っては格好がつかない。居心地の悪さを無視して何とか二時間居座ったが、それ以上、一人でねばることはできなかった。
 それでも、まだ家には帰りたくない。私は次の居場所を求めて深夜の街を歩き出した。
 夜風が火照った顔にあたり、心地いい。徐々に酔いが冷めてゆくのを感じながら、居場所を求めて独り、夜の町をさまよい歩く。街灯に照らされた薄暗い町。閉ざされたシャッターに、まるで自分が拒絶されたような寂しさを感じる。
彷徨って、寝静まった街を照らすかのような明りを見出した。
 ファミリーレストラン。最初から、ここに来ていればよかった。家族連れが大挙して訪れることを予想して避けたそこは、居場所の無さそうな客がポツン、ポツンと席を占めていた。家族連れもいるが、六人席に一人で座っている者もいる。何より、お代わり自由なコーヒーと、飾りにサンドイッチを頼んでいれば、乏しい小遣いを圧迫する恐れもない。
 
 深夜のファミレスには孤独が満ちていた。疲れた顔でもそもそとスパゲティを啜る女。食事が終わってもいっこうに席を立とうとはせず、文庫本を読み続ける男。肘をついて居眠りをしている若い男。ぼんやりと、恋人を待つように外を見つめる若い女。
 おかしなものだ。朝の通勤ラッシュや大都会の交差点。何千もの人間がひしめいていても、人は孤独の中にいる。他人と他人がすれ違い、目もあわせずに行過ぎる。誰かかがその場で倒れたとしても、暇な人間以外立ち止まることはないだろう。
 なのにここには、連帯感がある。孤独な者どうし、決して声を掛け合うことはないものの、互いの孤独を知るがゆえの奇妙な連帯感がある。
 行き場を持たないのは、自分ひとりではない。
 その現状に救われるような錯覚を覚えるのだ。所詮、何一つ問題が解決するわけではなく、孤独な者は孤独なまま。それでも、世界に見捨てられたのは自分ひとりではないと思えることが、ささやかな安堵感をもたらしてくれるのだ。
 ウェートレス達も慣れていて、たまに水のお代わりを進めには来るものの、特に急きたてることもなく居座ることを許容してくれている。こんな光景は、毎晩のことなのだろう。
 たぶん、ファミレスに居座る客は、まだ幸せな者達なのではないだろうか。彼らには帰る場所がある。真に帰るべき場所を持たない者達は、漫画喫茶とやらに寝泊りするのではないだろうか。一畳ほどの空間を一晩借り、身体を伸ばすこともできないまま仮眠をとる。三日生き延びるだけの金も持たず、つかの間の安らぎと、また明日が来る事への虚脱感を抱いて。今の私よりも悲惨な人達は確かに存在する。
報道番組でみる無気力な若者達の心境を、察する日が来るとは思いもしなかったが。
 
 人間、暇を持て余すとろくなことを考えない。酔いも冷め、興奮も収まった私はファミレスで独り、自分の人生を考えている。
 なぜ、私はここにいるのだろう。何を間違えたのだろう。そもそも私の人生は、幸福なのか、失敗だったのか。答えのない虚しい問いを繰り返し、私は二時間近い時間をファミレスで過ごした。
 もうじき、日付が変わる。そろそろ帰っても大丈夫だろう。うまくすれば子供達は自室に入って寝ているかもしれない。これ以上の騒ぎはうんざりだ 。
 どれほど不満があっても、また明日も私は出勤し、荒波にもまれ続ける。来月、自分はどうなっているのかと不安に思いつつも、その日常を自分から投げ出すことはできない。
 サラリーマン。組織の中の小さな歯車の一つ。それが私なのだ。

 最終のバスに飛び乗り、揺られながら、通り過ぎてゆく家々の明りを見ている。乗客も疎らなバスの中は、少し寂しくて妙に居心地がいい。運転手さん、このまま、私をどこかに連れて行ってはくれないか。このバスが、行き先不明の長距離バスならいいのに。一晩中走り続け、朝目が覚めるとそこは知らない町、私を必要としている人がいる町。暖かく迎えてくれ、微笑みかけてくれる人たちがいる町。そうだったらどんなにいいか。 
 昔は、確かにそんな場所を持っていた。失敗しても、叱られても、必ず帰ることのできる場所。怒りながらでも、必ず私を迎えてくれる人のいた場所。
 帰りたくても、帰れない。気まずさと気恥ずかしさ。けれど結局はそこに帰るしかない、諦め。昔、子供の頃、同じような気分で夜道を歩いて帰ったことがあった。
(母さん…)
 あなたの息子は四十を過ぎても、十歳の頃と同じようにとぼとぼと夜道を途方にくれて歩いていますよ。
 あと、バス停二つで下車しなければならない。
「……帰りたくないなぁ」

 虚しい想像は停車場を告げる車内アナウンスによって破られ、私はいつもどおりのバス停で下車した。
 そこで予期せぬ顔を見つけ、私は目を見開いた。
「猛、お前何してるんだ」
 息子が、気まずそうな顔をして立っていた。
「親父が、タクシーを使うわけがないから、帰ってくるならこれだろうと思って待ってた」
 私の行動は、息子に読まれていたらしい。
「…そうか。面倒をかけて悪かったな」
 家出親父と迎えに来た息子。妙な構図に戸惑い、互いに目を合わせることもできず、黙ったまま歩き出した。
 久しぶりに並んで歩いた息子は背が伸びて、もう私とほとんど変わらない。後一、二年もすれば追い抜かれていることだろう。だが、顔つきにはまだ幼さが残り、身体は未完成な年代特有のひょろりとした頼りなさがある。成長期の微妙なバランスの悪さが、今の息子をそのまま象徴しているのだろう。
「…悪かったよ」
 息子が、ポツリと言った。
「なんか、いきなりで、現実感なくて、実感できなかった」
 少しうつむき加減のまま、ぼそぼそと謝罪の言葉を述べる息子は、もしかしたら私よりも大人びているのかも知れない。
「俺、バイトするよ。いざとなったら大学にいくのはニ、三年後でもいい。とりあえず美弥を高校いかせるのを優先すれば、何とかなるんじゃないか?」
 息子は息子なりに、未熟ななりに考えたのだろう。親を気遣い、助けようとしている。
 意外な息子の成長を垣間見て、私の中に少し誇らしい気持が湧き上がる。
「生意気を言うな」そういう代わりに、私は少し歩を緩め、息子に問い掛けた。
「お前、将来何かなりたいものでもあるのか?」
 息子は驚いた顔をして、少し考えて、答えた。
「まだ、考えてなかった。そういうのは大学いってから考えればいいと思ってたし、今のところ、部活に夢中で考えたことなかった」
 子供の頃はプロ野球選手になりたいといっていた息子は、中学からサッカーに夢中になり、そして夢中でありながらも今は職業の選択とは別だと思っているらしい。まだ十代なのに、いつの間にやりたいこととやれることの違いに気がついたのだろう。
「サラリーマンになる気はあるか?」
 父親の職業を息子がどう思っているのか、なんとなく聞いてみたくなった。
 息子は意表を突かれたのか、少し戸惑った顔をして、けれど否定することもできない様子で、小さく答えた。
「なんかさ、今までは将来はなんとなくサラリーマンになるんじゃないかと思っていたけど、親父の話とか聞いてると、サラリーマンはいやなことばっかりでなりたくないかな」
 精一杯気を使っているらしい息子の言葉に、なんだかこそばゆさを覚えて、私は笑いたくなった。
「なりたくないか。だったら何かの職人か、フリーランスの仕事を探すしかないな」
 息子よ、お前の未来はまだ何も決まってはいない。どんな夢でも見るのはお前の自由だ。家や親に縛られることなく、やりたいことを真っ直ぐに目指すことが許される。
「フリーランスって、カメラマンとか?」
 息子の瞳が少し輝いたように見えた。フリーランスのカメラマン。確かにサラリーマンよりは十代の若者の憧れを刺激する言葉だろう。
「カメラに興味があるのか?」
「ッてゆうか、そういう仕事なら、リストラとかないし、自分ががんばれば収入とかも上がりそうだし、やりたくないことはやらなくて済みそうだし…」
 今の私の状況を考えれば、息子にはサラリーマンは残酷で哀れな仕事に思えるのかもしれない。父親がリストラされた場合の自分の境遇を思えば、それも無理はないだろう。
 息子は未熟ななりに何かを感じ、考えている。そして成長するのだろう。
「そうだな。お前にサラリーマンは似合わないかもしれないな」
 私の言葉に息子が目を丸くして振り向いた。私が気を悪くするとでも思っていたらしい。私は笑いながら、年長者らしい表情を取り繕って、話し続けた。
「だがな、フリーの仕事はフリーの仕事でそれなりに大変だぞ。独りで戦うだけじゃなく、独りで潰れる覚悟が要る」
「潰れる覚悟?」
 フリーという響きに繋がる華やかさと競争の厳しさは想像することができても、十代には潰されて淘汰される自分を想像することはできないのだろう。
「確かにがんばれば収入は上がるかもしれない。だが、それなりの収入を得られるようになるまでは、何歳になろうと半人前扱いだし、そこそこの生活水準を維持するのはサラリーマンより不安定で難しい。勤めていればこそ、社員一丸となって何かに取り組むことも立ち向かうこともできるが、フリーの仕事はそれこそ友人でもライバルだから、よほど余裕のある奴でもない限り、何かあった際の手助けは期待できない」
 別にサラリーマンを勧めているわけではない。だが息子には、できれば安全な人生を進んで欲しいと思う。夢を持って生きて欲しいと思うことと相反するようでいて、結局は息子の幸せを願う親心だ。
「独りで戦い、独りで稼ぎ、成功するときもひとり、失敗して、借金を抱えて潰れるのもひとり。…おっと、家族がいれば背負う者もいるか」
 息子は、なんともいえない複雑そうな顔をして、足元を見ている。夢が一つ壊れたというところか。
「大成功できるのはそれこそ一握りの幸運な奴だ。大抵は、生活できるレベルを維持できれば成功とみなされる。だが、失敗した場合はそれこそ悲惨だぞ? 借金を頼もうにも、一個人相手では銀行は相手にもしてくれない。保証の無い仕事の恐ろしさだ。抵当にすべてを取られて、それでも払いきれない借金が残る。自己破産すれば借金からは逃げられるかもしれないが、その後の人生、二度と信用は得られない。同じ仕事は続けられなくなる」
「父さん、随分詳しいんだな?」
「昔、そういう知り合いがいたんだ」
 彼は、幼馴染だった。腕利きのフリーカメラマン。私より遥かに強気で、自信家で、沢山成功をしたけれど、最後には全てを失った。彼が、自殺したことまでは口にしなかった。まだ高1の息子に、聞かせる話ではないだろう。
 いつに無くたくさん会話し、男同士で向き合った。思いがけず非常に有意義な時間を過ごすことができた。
 息子の前には無数の未来が広がっている。フリーのカメラマン、サッカー選手。警察官になるかもしれないし、教師になるのもいいかもしれない。あるいは、サラリーマンか。
 息子は真剣な顔をしている。混沌とした未来の中に、息子なりに自分の道を見据えようとしているように見えた。
 そんな息子の反応を楽しみながら、少し羨んでいる自分がいる。
「まあ、それでも、やりたいことがあれば誰が止めようと止められるわけがない。本当にやりたいなら恐れずに進めばいい。まずはやりたいことを見つけることだな」
「やりたいこと?」
「ああ。それがカメラマンみたいに職業にしてしまった方がいいものなら目指せばいいし、何か趣味の範囲で納まるものなら無理して冒険することはない。結局、お前次第だ。お前が何をしたくて、そのためにどんな我慢ができるか、だな」
 後数分で家に辿りつく。こんな風に息子と二人で話す機会はこの先いつあるかわからない。貴重な時間を味わいつつ、もう少し、父親らしい顔を見せておくか。
「猛、たとえ私がリストラされようと、お前が心配することはないぞ。お前と美弥が大学を出るまで、私がなんとしても面倒を見てやる」
「…親父。ひとりで、無理すんなよ」
 まだ、夕食時のことを気にしているのか、息子の顔は固い。
「俺、本気だよ。家のローンとか大変なら、学校やめて働いてもいいよ。今、親父の年代の再就職ってすごく大変なんだろ? 無理すんなよ」
 息子なりの気づかいに照れくささを覚えつつ、私は息子の後ろ頭を小突いた。
「お前の父親を見くびるなよ。高校中退の小僧を頼るほど落ちぶれたりはしないぞ。転職なんてわけはないんだ」
 私の虚勢に息子が訝しげな顔を向ける。コノヤロウ…。
「私は営業職だ。これほどつぶしの利く職業はないんだぞ」
「つぶし…?」
 息子の予想を裏切るのは気分がいいものだ。
「商品の内容や会社の大小を問わなければ、どんな会社にも営業部門は存在する。セールストークもビジネスマナーも、一度身につければどこでだって通用するんだ。収入や役職は落ちるかもしれないが、転職先には困らない。それこそ歩合制の仕事にでもつけば、実力に応じて収入も上がる。自慢じゃないが父さんは、忍耐力と持久力には自信があるんだ」
 鍛えられているからな。そう言って、笑って見せた。
「まあ、小遣いなんかは自分でバイトでもして稼いでもらうかもしれないが、大学くらいは出してやるから心配するな」
 息子は、何も言わなかった。頼むとも、無理するなとも言えなかったのだろう。
 我が家の明りは煌々とついていた。妻も娘も寝てはいなかった。私は心配をかけたこと
を詫び、翌日の出勤を口実に早々にベッドに入った。
 妻も娘も、なぜか優しかった。


 3

 今日もまた疲れ果て、ぼろぼろになって帰路につく。朝よりは少しましな混雑具合の電車に揺られ、朝の倍以上の時間を待ってバスに乗る。乗り合わせた乗客はどの顔も疲れ果て、朝のような緊張した面持ちの者は殆どいない。空ろな眼をして手すりに掴まる者、座席に座って居眠りをする者、座席を譲るのが嫌で寝たふりをする者…。たまに、小煩い学生達が騒いでいるのが勘に触るが、だからといって咎める者もいない。キレた学生に殴られるなど誰だってごめんだろう。今の世の中、恐ろしいのは交通事故よりも人間の暴力だ。まして学生が相手となれば大抵の場合は未成年。大した罪には問われない。殴られ損だ。
 立っている老人の前で座席に座り、ゲームに興じている若者よ。君は、自分が周囲の人の目にどう映っているか考えたことがあるだろうか。誰もが自分のことは棚に上げ、非常識な奴だと呆れている。

 朝、バスに乗り込んだ停留所より二つ手前で下車する。別に健康の為に歩こうなどと考えているのではない。そんな健康的な生活をしているわけがない。降りてすぐの所にコンビニがあるのだ。手押しのドアを押し開くと、明るい光と商品に満ちた空間が広がっている。小腹の好いている私の目に、唐揚げやら弁当やらがやけに美味そうに映るが、私は小さい缶ビールを一つだけ買い、そこから歩いて数分のところにある公園へと向かう。
 バス停二つ分くらいなら、他の家族にとってはご近所だろうが、町内活動にほとんど参加していない父親にとっては、顔を知っている人間などほとんどいない程度の距離、挨拶をされたりさせられたりしないですむ程度の距離になる。
 日の暮れた公園には人影は疎ら、たまに犬を散歩させている人やジョギング中の人が通るくらいで、ベンチに座り込んでいる者など私くらいのものだ。
 私は時たまにこの公園に来て、三十分程の時を過ごす。冬は寒さに、夏は暑さと蚊に悩まされるが、ここで一息つくことで家に愚痴を持ち込まずに帰ることが出来るようになる。
 プルトップを引き上げるとプシュッと小気味良い音がして、麦の香りがかすかに漂う。カンを素手で持つには冷たすぎるほどよく冷えたビールを咽に流し込む。口内から咽へ、咽から食道へと快い刺激が流れ込んでゆくのを感じて、私はほっと溜息をつく。家にあるビールもどき(たまに買い忘れられていることもある)とは違う、本物のビールの味。これでなくては私の疲れは癒されない。
「うまい…」
 こうして外で独りで飲んでいるときが一番美味い。たとえそれが安い焼酎でも、偽物のビールであったとしても、家で飲むより格段に美味いと感じてしまう。
 今日も、合併による社内の体制の変更についての発表は無かった。意識するまいと思っても、やはり呼び出しや社内放送に敏感に反応してしまう。自分の生活と人生がかかっているのだ。やむを得ないことだとは思うが、ただ待っているだけというのも疲れるものだ。気もそぞろな部下達を注意しながら、実は自分自身が一番怯えている。
 薄暗い外灯の下、ぼんやりベンチに座り込んでいると、つい余計なことを考えてしまう。
 私は、幸せなのだろうか?

 私は不幸ではない。大した努力も必要なく、毎日淡々と過ごしている。とりあえず帰る場所があり、家族は健康。子供達も非行に走ったりせず、それなりに元気に過ごしている。妻は不満も多そうだが、だからといって離婚を望むことも今のところなさそうだ。
 誰も私に望まない。期待しない。私に対して興味が無い。空気のような存在、というと聞こえがいいが、空気中の酸素を給料に置き換えると、私の置かれた立場がわかりやすいような気がする。
 帰る場所はある。だが、帰りたいと望む自分がいない。何よりも困るのは、自分の心だ。たとえ家族が私の帰りを温かく迎えてくれたとしても、私はそれを喜ばないだろう。
『鬱陶しい』
 寂しいと想う私がいる。家族の身を案じる私がいる。家族を守ることが私の責任であり、


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