ある中流男性の日常
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情け容赦ない騒音が、私のささやかな安眠を妨害する。 さもありなん。目覚まし時計に血も涙もあるはずはない。
やはり朝は来る。と言うより、来てしまう。目覚めさせられて、起きて、食事をし、顔を洗って着替えて出社。疲れていても、睡眠不足でも、出社すれば恐ろしくろくでも無いことが待っているとしても、容赦無く叩き起こされる。 こんなことをもう、二十一年も繰り返してきた。毎日毎日二十一年。ほとほとうんざりだ。単純計算でも、二十一年×(365-休日118)=5187 五千回以上も繰り返してきてしまったことになる。その間、希望に満ちて出社時刻を待ちわびたことなどほとんどない。 …いや、あるか。妻とけんかして家にいづらい、そんなときなら。会社にいる方がいくらかましだ。 ……よそう。こんなことを考えていても無意味に虚しくなるばかりだ。どうせ、うだうだ独りで拗ねていても、結局今日も会社に行かなくてはならないのだから。
食卓は今日もにぎやかだ。ご飯と解凍した冷凍ハンバーグを焼く匂い。朝食のトーストの香ばしい香。コーヒー。息子の汗臭い制服の臭いと娘の付けた香水だか整髪剤の匂い…。 私の名は鈴木正男。無数にいるであろう同姓・同名の御仁には申し訳ないが、いかにもありきたりの姓にありきたりの名前である。これ以上自分に相応しい名前は思いつかないような気がする。私という男の性格や生き方を、これ以上は無い、というほど端的に現しているではないか。鈴木正男。ゴンザレス鈴木でも、綾小路千代麿でもない。極々平凡なサラリーマンにして、家庭に居場所を持てない男。どこにでもいる、取り立ててとりえもないつまらない男。 たまには自分の生活と日常を、振り返って見るのもいいかもしれない。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 私には家族が三人いる。妻と二人の子供達。高1の長男と中二の娘。長男の猛はサッカー部に入っていて、部活やら朝練やらで滅多に顔を合わせることもない。会っても会話がない。一人ででかくなったような顔をして、父である私を無視するのだ。もっとも、話しかけられたとしても「うん・ああ・いいんじゃないか」位のことしか答えられない。ああ、「母さんに聞きなさい」と言うのもあるか。 朝は騒がしく、賑やかだ。もっとも、妻がうるさく一人でしゃべっているだけで、他の三人は生返事を返す程度の会話でしかない。 「ああ・うん・わかった」 ……そうか。子供達は私に似ているのか。生返事は無礼なのではなく、最低限の思いやりなのかも知れない。反応を示しているだけでも、無視するよりはましなのかも知れない。 それでも妻のテンションが下がることは無い。 「何してるの! 猛、いつまでも食べてないで学校に行く仕度をしなさいっ。また遅刻する気なのっ? 先生に呼び出されるなんてお母さんいやですからね! 美弥、食卓で髪をいじらないでって何度も言ってるでしょ! お父さん、食事中に新聞を見ないでっ」 私は十代の子供達と同じレベルの扱いを受けている。 妻の叫びに、息子は口いっぱいほおばったまま「む〜ん」と答え、娘は「え〜、いーじゃーん」と答える。妻はといえばとりあえず返事があれば満足するらしく、弁当を作る手を休めようとはしない。作っている弁当は三つ。息子の分と娘の分と息子の分。……間違えたのではない。息子は弁当を二つ持っていく。朝練のあった日は午前中、無い日でも時間を見つけて二つ目の弁当を食わないと身がもたないのだという。 ちなみに私も弁当を持っていきたいといった事がある。切ったり炒めたりの手間が増えるわけではない。詰める作業が一つ分増えるだけだ。三つ作るのも四つ作るのも大して違わないと思ったのだ。 あえなく却下された。その詰めるのが手間なんだと言われた。「配置や配色を考えるのがどれだけ大変だか、ちょっと考えればわかるでしょう!」と、言われた。それほどの大仕事だとは知らなかった。 ちなみに妻も勤めている。妻の靖子は事務職だ。そして職場付近のファミレスや喫茶店で昼食を取るのが貴重な息抜きなのだと言っては、時に三千五百円もするランチビュッフェに行ったりするらしい。私は社食の定食五百五十円(給料日前はかけそば二百三十円)。…別に、大した事ではないが。 娘の美弥は、…美弥は、口を利いてくれない。父親のパンツを割り箸で摘む年頃になったらしい。 あの虚しさは、体験したものでなくてはわからない。冷たい目つき。反抗的な言葉。もう随分と長いこと、娘は私に触れようとはしない。汚いものを避けるように。料理の盛られた皿を、自分の箸で一緒に突付いたっていいじゃないか。昔は、ほんの数年前は、「お父さん大好き!」と、抱きついてくれたじゃないかッ。 私は、何も言わない。言う気も無い。ただ、「ああ」とか、「わかった」とかいうだけである。ほかに何を言えと言うんだ? 会話のネタもろくに無いのに。 息子が何を考えているのか。娘は何を感じて私に冷たいのか。ほとんどすれ違いで一日に顔を合わせるのは数十分。休日も子供達は外出している。私は寝ている。会話など成り立ちようも無い。 子供達に対する愛情だろう。妻の作る弁当はそれなりにうまくできている。。 ちなみに、我が家の朝はトーストとコーヒー、他に野菜スープかサラダと決まっている。弁当作りに時間がかかるから、朝食にまで手をかけてはいられないのだそうだ。 炊き立てのご飯に味噌汁、焼き鮭に生卵。漬物と熱いお茶。そんなものを望んでも、叶えられることは無いだろう。別に、贅沢を言う気もない。 「私だって忙しいの! 出勤前なのよっ。お父さんみたいに顔を洗って髭そって終わりじゃないの!」 こう言われて、どんな言葉なら反論ができるだろう。逆に化粧でもしてみたら、妻はなんと言うだろう。……よそう。自分で想像して気分が悪くなった。四十男の女装。厳つい骨格に剃り残した髭。せめて自分で喜んでいればともかく、見たくもない姿。私の女装姿など、ほとんど視覚への暴力だろう。 まあ、いいさ。また出張でもあれば、夢の朝食にありつく機会もあるだろう。 そういえば、昔、新婚だったころ、憧れの朝の風景を経験したことがある。 「あ・な・た、起きて(ハート) 朝よ?」 朝食はやはりトーストとサラダと目玉焼きとコーヒーだったが、それでも一味違っていた。違っていたような気がする。新婚2・3ヶ月くらいまでのことだ。
車輪の付いた四角い箱に押し込まれて、駅までの道のりを輸送される。路線バスという名の金属製の箱。鮨詰めというほどではないが、よほど運がよくなければ座れない。乗車時間は二十分。開放されたと思うと、再度別の金属の箱に詰め込まれて三十五分の道のりを輸送される。通勤ラッシュ。何百何千という人間がほとんど同じ行動をとっているというのに、そのほとんどが他人であり、互いに何の興味も持っていないという現実。その現実に気づき、薄気味悪さを感じたのはいつのことだったろうか。 いまやそんな感性さえも擦り切れてしまって久しい。 箱詰めの輸送から開放されると、馬鹿でかい化け物が私を食おうとぱっくり口を開けて待ち構えている。上下ではなく、左右に開閉されるガラス製の歯。(別名自動ドアという)エレベーターという名の食道を上へと飲み下され、化け物の内臓、職場へと送り込まれる。 バケモノの体内は無機質で簡素。個性の無い背広姿の男達、何を考えているのかわからない今時のOL達。忙しいといいながら、楽しげに電話でゴルフの予定を打ち合わせている上司。こっそり私用メールを打っている部下達、同僚達。 ここで私は一日の内、意識のある時間の大半を逃げることもできないまま過ごし、完膚なきまでに打ちのめされ、疲労困憊の末に排泄(終業)される時刻を待つ。 会社という名の怪物。残酷極まりないバケモノ。 こんなことを、こんな生活を、二十一年も過ごしてきた。まだ更に二十年以上の年月を過ごさなくてはならないらしい。空しい。 何で私は耐えているのだろう。耐えられるのだろう? これといった喜びも楽しみもな無い暮らし。笑いを忘れた年月、生活。愛想笑いは笑顔の内には入らないだろう。 そろそろ、グレてもいいんじゃないか?
夜の町。肩をいからせて歩く俺。金に不自由は無い。出所(でどころ)は秘密だ。知らない方がいいこともある。遊び仲間は多数。女は複数。酒はバーボン。タバコはマルボロ。三つ揃いのスーツにエナメルの黒靴。夜でもグラサンは外せない。定宿のホテルの窓から見える不夜城の夜景は、時には一人で眺めるのもいい。 ホテルの部屋で女が待っているが、今夜は行く気にならない。女に飽きたわけではない。だが男には、たまにはひとりで飲みたい夜もある。孤独の中で眠りたい夜もある。 不夜城のネオンの海の中、漂い続ける俺……。 これで、グレていることになるのだろうか。飲酒・喫煙・不純異性交遊をしても成人が咎められることは無い。よほど大酒を飲んで暴れでもしない限り、自分の勝手。大人が本気で道を踏み外そうと思えば犯罪に手を染めるほかは無い。 犯罪。私が犯罪者などになれるはずも無い。私は、小心者なのだ。 毒にも薬にもなれず、平均点の人生を生きてきた。一浪して入った大学は二流。会社は中小企業。人より遅く課長になり、人より長く課長職についている。犯罪歴が無いことは、長所に数えられるのか、当たり前のことなのか? デスクの上に積み上げられた書類に印を押し、パソコンの画面を睨んで一日を過ごす。昼休みとコーヒータイムが心の支えだ。先月から禁煙しているのでタバコは吸えない。健康の為と吹聴しつつ、実際は小遣い節約の為だ。月三万円だった小遣いは、高校に進学した息子の学費が向上したのと引き換えに五千円減らされた。 フロアの隅に設置された喫煙所における、他の喫煙者達とのささやかな共犯意識にも似た連帯感を捨て、私は牛丼に卵を入れられる贅沢を択んだ。 ただ、それだけのことだ。
昔は女子社員がお茶を入れてくれたものだが、今は性差別撤廃のスローガンのもと、自動のコーヒーメーカーが設置されている。お茶が飲みたければ急須へ湯を入れる。自分で。 ただ、誰かにお茶を入れて欲しい。「ありがとう」「どういたしまして」 そんなささやかな会話をしたいと言っても、誰も聞いてはくれないのだろう。 「だったら自分でお茶を入れて皆さんに配ってみたらどうですか?」 そんな返答が聞こえてくるようだ。 缶コーヒーは甘すぎるが、ブラックで飲めるほどコーヒーの味がわかるわけでもない。ペットボトルのお茶なんぞに小銭を使うくらいなら、自分で出がらし茶を入れるくらいなんでもない。近頃は、私もお茶を入れるのが上手になったような気がする。 窓から見える景色は隣のビルの壁。ビル街の歪な欠片のような空を見つめ、今が晴天であることを知る。 窓辺に佇み、たそがれる男。心に巣食う思いは一つ。「どこか、遠くへ行きたい…」 誰でもいい。誰か、私を連れて行ってくれないか? どこでもいいから。 日常から逃げ出したいのではない。日常が私を締め出すのだ。
友がいて、心弾む会話が有り、気負いもてらいも無い場所。見くびられることも愛想をつかされることも無い安逸。私の居場所。私を受け入れてくれる場所。私の声を聞き、望みを叶え、我がままさえも許してくれる……。 私はそんな場所を、最近思いもかけず身近に見いだした。 居間の隅に設置された旧式のパソコン。ゲームの中で、私はつかの間英雄になる。鋭い眼差しの端正な若者。大振りの剣を振るい、群がる敵を切り倒す。敵は吹き飛び、私はより強くなってゆく。私の前に立つことは許さない。襲い来る敵を一顧だにせず切り捨てる。 快感。時々叫びそうになる。 「くたばれッ、部長! 吹き飛べッ、専務!」 大太刀を一閃し、群がる敵を一気に切り飛ばす! 「クソ生意気な若造めっ、上司の苦労を思い知れ!」 叫ぶわけにはゆかない。あくまで小声の独り言。真夜中の密かな楽しみだ。 「くたばれっ、くたばれっ、おもいしれぇぇっ!」 いま、私は完全なる勝利者だ!
子供達は自分専用のパソコンを欲しがっているらしいが、そんなものはバイトして自分で買えと言ってある。当然だろう。一家の大黒柱である私ですら買えないのだ。 職場には私専用のノートパソコンがある。情報の漏洩防止の為、社外に持ち出すことはできない。ちょっとだけ、貸してくれないだろうか。福利厚生の一環としてでもいいから。
長い髪を揺らして振り向き、恥ずかしそうに微笑む若い女。濃紺の制服にブラウスの白さが眩しい。 「課長、お茶をどうぞ。一休みなさってください」 「ありがとう。いい香りだね。ほっとするよ」 お茶よりも、女の微笑みに癒されている自分を自覚している。寄せられる好意は心地よく、ひと時、心に翼を得る。 「小野君、コピーを頼む」 「はいっ」 小野美由紀。入社二年目の部下であり、男子社員達のアイドルであるらしい。 だが、奴等は知らない。 書類の端にクリップ止めされたメモには私からの短いメッセージ。 『8時にいつものホテルで』 美由紀は嬉しそうに頬を染め、小さくうなずく。
もう、こんなことを続けてはいけないと何度も思った。若く前途ある美由紀の時間を無駄に犠牲にしてはいけない。そう説得する度に、美由紀は泣きながらすがり付いてくる。 「それでもいいんです。何も望みません。ただ、課長の側にいたいんです。課長の心を癒してあげたい。それだけでいいんです」 ホテルの一室で親密なひと時を過ごした後、毎回繰り返される小さな修羅場。わかっている。私はこうしてすがりつかれることで、美由紀が今この瞬間も私を愛していることを確かめずにはいられないのだ。何一つ約束できない。何も与えてやれない。家庭を捨てることなどできはしない男を、この女はまだ愛してくれているのかと。 愛しているから、泣かせてみたくなる。 「愛しているんです」 私の冷え切った心と身体を温めてくれるのは、美由紀の熱い体と温かな涙だ……。
「課長、何やってるんですか。早く書類下さい。もうちょっとで終業時間なんですから」 「あ、ああ、すまない。これを十部ずつ頼むよ、小野君」 あまやかな妄想は、冷たい現実の声に破られる。気がつけば、私の前に広がるのは荒野にも似た無味簡素なオフィスの風景だ。私を愛する女などどこにもいない。 小野美由紀は、私から書類を受け取ると、即座に踵を返して立ち去った。まるで用などないと言わんばかりに。若い連中に見せる笑顔と私に向ける笑顔には明らかに違いがある。出世争いに出遅れた中年男など、小野美由紀に限らずとも、女子社員たちには魅力どころか、存在すら眼中に入ってはいないのだろう。 窓辺にある私の席からは、夕暮れ迫る空を見上げることができる。隣のビルに切り取られた歪な空。妄想などすると、よりいっそう現実が虚しさを増すような気がするが、それでも、夢を見ずにはいられない。
私の上司は無能ではない。切れ味が鋭いとはいえないかもしれないが、要所要所を抑えた攻撃で、堅実に商談をまとめてゆく。たとえ、押さえた要所が自分の部下の泣き所だったとしても、躊躇はしない。すべてを自分の手柄にして出世の階段を昇って行く。懸命に努力なんかしなくとも、要領さえ良ければ生きていけるという格好の見本だ。 「鈴木君、例の商談、後は君に任せたからね。よろしく頼むよ」 杉野部長は非常に機嫌がいい。 「君になら任せられると判断した僕を失望させないでくれよ?」 ふんぞり返った部長はいかにも期待しているかのごときセリフで私に仕事を押し付ける。 「ですが、部長。クライアントは部長を直接指名してきているのに、私ごときが応対してもいいものでしょうか」 私は、何とか逃れようと、ささやかな反抗を試みる。 「何、心配はいらんよ。君のこういったときの判断や対応の正確さについては、私は特に信頼しているんだ。君になら任せられる。自身を持ちたまえ!」 「ですが、部長、これはちょっと私には荷が重いのではないでしょうか。これだけの事態を治める力量が私にあるとは思えないのですが…」 「甘ったれたことをいうなッ。これは仕事だぞ。任された以上、全力で取り組め。失敗は許さんからな!」 勝手なこと言うなと、叫べるものなら叫びたい。この男は、相手方の専務を接待中に自分が泥酔し、ホステスにからんだ揚句に持ち帰ろうとして失敗。自棄(やけ)で暴れたついでにテーブルをひっくり返した。それらすべてを接待相手を含む周囲のせいにし、「こんな店、二度と来るか!」と叫んでさっさと帰宅してしまったと言う豪傑だ。支払もせずに。 一度や二度のことではない。酒さえ飲まなきゃいい奴というのはどこにでもいると思うが、この男の場合は普段からろくでもない奴が、酒が入ると最悪というパターン。もっとも友人になりたくない男だというのに、それが自分の上司だと言うのだから泣けてくる。 この男のせいで、私には影で渾名がつけられた。部下達は私を『トラブル処理課課長』と呼んでいるらしい。なんだかカッコ良さげな渾名だが、実体は尻拭い専任課長だ。クレーム対応ならばいい。確かにそれは仕事だ。クレームは原石に似て玉石混合、時には素晴らしいアイデアを生み出してくれることもある。だがしかし、私の場合は単なる上司の尻拭いだ。上司の失敗や愚かさを謝罪するのが最重要の任務なのだ。今日は午後から、部長が踏み倒したクラブの支払と弁償、相手方の会社に謝罪行脚の旅に出る。商談が結べる可能性は無いだろう。そして、取引の失敗は私の営業成績に書き加えられることになるのだ。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 今夜もまた、私はパソコンの前に座るのだろう。大太刀を振って振って振りまくり、二、三十人まとめて部長を叩き切るまで眠る気にはならないだろう。どこかに残酷極まりない処刑ゲームなど無いものだろうか。この男の手足を、せめてゲームの中でくらいは切り刻んでやったっていいじゃないか。
私は上司には恵まれなかったが、部下には恵まれているらしい。一人、素晴らしく有能な男がいる。岡村。K大卒で海外留学経験もあり、当然英語は堪能。英語が苦手な私も何度か彼に助けられている。いかにもスポーツマンといった感じの偉丈夫で、女子社員の視線を独り占めしている。 営業成績は当然トップ。私の課の実績をかなり引き上げてくれている。 はっきり言って、ムカツクタイプだ。 「課長、先日の件、先方の了解が取れました」 奴は朝だというのに爽やかな笑顔で歩み寄る。奴が着ているのは背広というよりスーツ。量販店で買ったものではないだろう。わざと逆立てた髪を整髪剤で固め、一部の隙もない。こいつはホストになっても十分稼げるだろうと常々思っている。 「何、本当か。他社に決まりかけていると聞いていたが…」 このとき、ヤツの口の端が上がったのを私は見逃さなかった。 「運良く、先方の担当者は女性だったんですよ。ちょっとプライベートで話をしたら、尽力してくれると約束してくれました」 つまり、たらしたということだ。この男、能力はあるが、実はあまり節操が無い。相手が六十近くても、女であれば仕事の肥やしにできるらしい。 「さすがだな。君に任せておけば安心だと思っていたよ」 ヤツがふっと鼻で笑う。 「これくらい、容易いことですよ。仕事ですからね。手段は選びません」 それはそうだろう。スパイ映画のヒーローを気取って、実際に成果を上げられる男など滅多にいない。学歴があり、ルックスにも自身があり、女どもは自ら食ってくれと身を投げ出してくるとなれば、この世に敵などいないと思うのも無理もない。 だが、若い。青臭い。顔良し、頭良し、学歴高し。色々恵まれすぎた部下なんぞ、上司にしてみれば目の上のたんこぶ、めざわりでしかない。さりげなく謙遜し、見え透いていても上司をたて、より高い成果を記録させようというしたたかさが無い。 「だが、あまり苦情などがきても困るな。くれぐれも程ほどにしておいてくれよ? ……色々とな」 なけなしの親心でやんわり注意してやる。私はなんて部下思いなんだ。 そんな私の配慮など、上司の心部下知らずな若造には通じない。 「ご心配なく。ちゃんと大人の付き合い方は心得ていますよ。短い間でも真心のこもったお付き合いをすれば、女性は楽しかった思い出として片つけてくれますし、二十近くも歳の離れた男に滅多に醜態なんて見せませんよ」 こいつ、自分で今のセリフをカッコいいとでも思っているのだろうか。はっきりいって、ろくでなしのタラシ、結婚詐欺師の言い訳にしか聞こえない。 だが、まあ、世の中なんてこんなものだ。運のいい奴、調子のいい奴がおいしい思いをし、うまい汁を吸う。毒にも薬にもなれない人畜無害なその他大勢は、傍から指をくわえて見ているしかない。 いいさ。好きなだけ奢るがいい。自惚れるがいい。今夜の私の獲物はきさまだ。部長の次に残酷に殺してやる。とりあえず、二十人位殺しておこう。 「この件に関しては、上もかなり心配していたようだからね。君の評価は間違いなく上がる。ボーナスは期待していいと思うよ」 「ありがとうございます」 ヤツの心の声が聞こえる。“そんなの当たり前だろう?”“あんたとは違うよ” この違いはなんだ? こいつがあの部長のすぐ下にいたなら、何か事態は変わるのだろうか。いいや、こいつのことだ。陰険部長すらも笑顔一つで手玉に取り、出世の足がかりにしていることだろう。もしくは、狐と古狸の熾烈な化かし合いか。 ふんぞり返った陰険古狸と、小ざかしいたらし狐のバトルシーンを想像し、私は小さく含み笑いを漏らした。そして、公課表を取り出し、一連の顛末を書き記すと、最後にこう書き足した。 『モラルの面において多少問題あり』 出世レースから早々に離脱してしまった男にも、これ位の楽しみがあってもいいだろう。
バブルのドサクサにまぎれてお気軽に入社してしまった世代にとって、厳しい就職戦争を勝ち抜いてきた若い世代は脅威だ。追い抜かれるのは時間の問題。いずれ自分は閑職に追いやられ、十も年下の上司のご機嫌を伺っていることだろう。 逃げ出せるものなら逃げ出したい。辞めていいならいつでも辞めてやる。家族がいなければ。親の顔を思い出さずに済むならば。 自分一人なら、ホームレスになったって、生きていける。青空の下、何にも縛られることなく生きることができたなら、たとえ飢え死にしたって本望だろう。 ホームレスが、そんなに気楽なものでも楽なものでもないことは知っている。昼休みを待ちわびる以上の空腹を知らないくせに、勝手なことを言うなという者も当然いるだろう。 だが、競争に敗れ、踏みつけにされてもなお、リタイアは許されない。『こんな会社辞めてやる!』そう一声叫んで飛び出す妄想さえ、再就職の難しい非才の身には恐ろしくて考えられない。ホームレスくらいしか、夢みるものがない。 …家族の笑顔さえ、見失って久しい。
長い、長い午前の勤務時間が終わった。ようやく昼休みだ。 溜息をつき、パソコンをログオフにする。軽く伸びをして周囲を見回す。仮にも管理職にある者が、真っ先に社食に飛んでゆく訳にはいかない。経費節減の為、昼休みのオフィスは薄暗い。それでもデスクで食事を取る連中の為に、全面消灯は改められた。だだっ広いオフィスである。窓からの自然光位では殆ど文字を読むのも困難な程の暗さになってしまう。 『こまめなOFFで大きなエコ』という謳い文句の社内エコ活動。エコと言う美名に隠れた経費節減。企業も真剣に取り組むはずだ。 確認を済ませると、財布と携帯をポケットにねじ込み、ようやく立ち上がる。エレベーター前はまだ混雑しているが、階段を使って社食に行くつもりなどない。オフィスは3Fにあり、社食は地下1F。下りの階段位大した労働でもないと言うかも知れないが、急いで行ったところで食堂にはすでに長蛇の列ができているのだ。どこで待とうと大した違いはない。取り合う程うまい定食があるわけでもない。それよりも、待っている時間を有効に活用すべきだろう。午後の予定を再確認するのもいい。他人の目には無駄にボーッと立っている様に見えても、実は頭脳労働の真っ最中なのだ。 午後、午後の予定は……。 四時に、某社を訪問しなくてはならない。移動時間と手土産を買う時間。その前に銀座に謝罪と弁償をしに行く時間を考えると、二時には社を出ることになる。帰りは直帰でいいだろう。 某社への訪問。例の、部長の尻拭いだ。何とかアポイントを取ることができたが、相手の会社が指定してきた面会時間は四時。向こうは定時が五時だから、面会に一時間以上割くつもりはないとの意志がはっきりと見えている。食欲が萎える。 とりあえず腹を満たさなくてはならない為、きつねそばを注文することにする。当然の如く社食内は満席で、きつねそばを乗せた盆を捧げ持ったまま、しばし彷徨うことになる。 ようやく見つけた席は相席。六人席に同僚らしい女性社員ばかり五人が座っている中の隅の席。最悪だ。 トレーを置き、椅子を引くと、えっという視線が向けられる。いやそうな顔をするな。私だってこんな席に座りたくはなかったんだ。異世界に迷い込んだ異分子の心境になる。 『女三人寄ると姦しい』というが、それが五人もいると喧しいこと甚だしい。 「なに、あのドラマの展開、サイアク〜」 「信じらんないよね?」 「あんな女選ぶなんて、○×△の格が落ちちゃうよねぇ?」 「いえてる〜」 うるさい女ども。どんな女を選んだとて、お前等より格下ということはないだろう。 「なんか、最近のランチ、こってりしすぎてない? あたしダイエットしてんのに、食べられるものないよ〜」 「うわ、なに、この腹のニク!」 「さわんないでよっ」 「ちくわの竜田揚げ、残しちゃおっと」 バカな女ども。本気でダイエットする気なら、多少の揚げ物より控えるものがあるだろう。そのデザートはなんだ。わざわざ売店かコンビニで買ってきたものだろう。本気で痩せたきゃそんなもの食うな! 味気ない食事。味気ないきつねそばを音をたてて啜る。さっさと食べてこんな席を離れたい。そば一杯食べるのに、五分とかからない。だが、慌てることなくゆっくりとお茶を飲み干す。ささやかな嫌がらせだ。 トレーを持ち、立ち上がると、明らかにほっとした空気が女達の間に流れる。 「やっと行った」 「や〜っぱ気をつかうよねぇ?」 今、気をつかったのか? いつ、どこで気を使っていたというんだ? 騒々しくも無神経な女ども。お前達のせいで、私は殆んど食べた気がしなかったぞ。 「キャハハハハハッ」 逞しき者、汝の名は女也。
そろそろ外出の準備をするべく資料を片付け始めた頃、本日の訪問予定の会社から連絡が来た。専務に急用ができた為、面会時間を一時間早めて欲しいということだった。 チャンス到来! 私は平静を装いつつ、腕時計を見る。午後一時三十分。 「わかりました。では三時にお伺いしますのでよろしくお願いいたします。わざわざご連絡ありがとうございました」 受話器を片手に見えない相手に深々と頭を下げる。電話が切れたと同時に速攻で机上を片付け、行動予定表に『直帰』と書き込み、上着片手に会社を飛び出す。一時四十五分。 先に回るはずだった銀座の店への謝罪は後回し。ひたすら時間との勝負になる。 手土産のクッキーの詰め合わせを購入し、袖の下代わりのビール券を三万円分買い込み、両方の領収書を大切に財布にねじ込む。自腹になんてされてはたまらない。駅に駆け込み最初に来た電車に飛び乗る。二時二十五分。 十五分後、目的地の駅に到着。目的の会社まで徒歩五分。楽勝である。だが、ここからが一工夫だ。 一番近いコンビニに飛び込み、一番小さな水のペットボトルを購入。そしてコンビニの物陰、路地裏に隠れ、ペットボトルの水を掌でワイシャツにしみ込ませる。濡らしすぎず、滲む程度に胸元、背中、両腕と濡らしてゆく。こめかみに流れる程度、額を濡らしたら完成。ポイントは、濡れた両手を髪の毛で拭くことだ。 これで時間的余裕はほぼギリギリ。ここから訪問先まで全力疾走! 受付嬢が私を見て、目を見開く。どうやら成功である。 「……○×商事から、まいりました、鈴木、…です」 日頃から運動不足の私はニ三分走っただけで息も絶え絶えになれる。その上全身びしょぬれとくれば、かなりの距離を必死で走ってきたように見えるはずだ。 相手の都合に合わせ、遅れないように全力で走ってきた男。 このシチュエーションだけが私の武器になる。 受付まで迎えに来た秘書らしい女性に専務のオフィスに案内されると、案の定、面会相手は驚き、恐縮した様子で出迎えてくれた。 「なんだか、こちらの都合で随分無理をさせてしまったみたいだね」 「とんでもありません。こちらこそ、貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございます」私の息はまだあがっている。
迫真の演技で相手の出鼻を挫くことに成功。誠意を見せ付けることができた。 この後の謝罪は難しくはない。ただひたすら平身低頭。下手に下手に詫びまくる。一旦怒りの矛先を向け損ねた相手は、無礼極まった当の本人以外の人間を相手にして、調子を狂わせてしまい迫力が出ない。 「本当に、申し訳ありませんでした。大変失礼いたしました」 腰の角度は九十度直角。目を閉じ頭を下げ続ける。 「まあ、君も、何かと大変だな。あの部長の下では苦労が耐えないだろう」 歯切れは悪いが労いの言葉を聞くことができた。これでゲームセットだ! 「専務のような寛大な上司の下で働けることなど、滅多にあるものではありません。これも私の勉強です」 殊勝にして勤勉、礼儀正しい男を演じきった。間もなく、終了のゴングがなる。 そう油断しかけたとき、専務は最後のジャブを浴びせてきた。 「だがな、君、謝罪というならなぜ本人か彼の上司が来なかったのだね? 君、課長だろう?」 勝敗はついた。何とか判定勝まで持ち込めたと思う。いつも通り虚しさ交じりの苦い勝利。満身創痍の気分で帰途につく。どんな会社の上層部でも、そこにいるのは海千山千の化け狸か古狐ばかりだ。小心な私ごときが正面から立ち向かって歯が立つ相手ではない。 それでも、戦わなくてはならない。 『嫌です・出来ません・お断りします』サラリーマンが口に出来ない三大文句。 何とか今日一日は乗り越えた。それでもまた明日はやってくる。ろくでもない、つまらない残酷な一日を、毎日毎日迎えている。 多くを望んだりはしない。取り立てていいことなんて無くていい。ただ、何事も無く平穏無事に一日が過ごせさえすればいい。それだけが、私の願いだ……。
真夜中だ。大声は出せない。 私は冷やしたビールもどきを用意し、居間のパソコンの前に陣取る。今宵のゲームは「何とか無双」。タイトルなんかどうでもいい。キャラクターが人間だろうがロボットだろうが何だってかまわない。要は、敵を切って、切って切って切りまくれさえすればそれでいい。 「くたばれ杉野ぉぉぉっ。死ねッ、死ねッ、死ねッ、死ねぇ!」 愛用の斧を振り回し、立て続けに部長を切り飛ばしてゆく。 「岡村ぁ! てめぇなんかこうしてやるっ、、こうしてやるっ、くたばりやがれぇぇっ」 夢中になった私は思わず声に出して叫んでいるらしい。それが、たまたま起きた妻や隣の部屋で寝ている息子の耳に入っているかもしれないなんて考えもしない。ただ必死にストレスを吐き出し、画面上の登場人物に叩きつける。その結果、私に対する家族の反応が一層冷たくなっているかもしれないなんて、今この時にどうして考えることができる? 某社の訪問後、謝罪に向かった銀座のクラブの対応は最悪だった。年増のママは不機嫌な面を隠そうともせず、ねちねちと嫌味を言われ続けた。最近は経費節減の為、接待にこの店をつかうことも稀になっていたこともあり、まるで手加減は無かった。残念ながらこの店相手の妙案などは思い浮かばなかった為、いかなる対策もとることが出来なかった。 自分の落ち度でもないことで謝罪し、頭を下げ続けた。 そして言われた。 『とーぜん全額弁償してくれるんでしょうね?』 端の端とは言えども銀座のクラブ。割れたグラスにカーペットのクリーニング代。あれやこれやと請求されたら、いったいどれ位の額になるものか? 『当社の杉野宛で請求書をお送りください』 また、経理の連中に攻撃される。今度はただでは済むまい。 部長、岡村、社食の女ども。某社の専務と周りのおべっか使いども! 戦斧よ、唸れ。血の雨を降らせ! 名ばかり銀座の女ども、口やかましい経理の犬どもっ! 「てめぇら全員皆殺しだぁっ!」 ・ ・ ・ ・ ・・ 私は夜毎、大量殺戮者に変貌する。これまでに殺した数は数千を下らない。その半数以上が杉野部長であり、岡野でもある。 ゲーム会社さん。今夜もありがとう。あんたがたのおかげで、私は前科者にならずにすんでいるのかもしれない。 夜は、熱く更けてゆく。
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今さら言うまでもなく、満員電車は苦しい。大して広くもない金属の箱にこれでもかと人間を押し込め、酷い時には足の置き場にすら困る場合もある。揺れた拍子にうっかり爪先でバランスなど取ろうものなら、踵の下に他人の足が置かれている場合もある。そんな時、足をどけてくれと言うこともできず、やむなく爪先立ちのまま次の揺れを待つことになる。人の背に挟まれ、転ぶことも出来ない それでも男達は可能な限り、必死につり革にしがみつく。両手で、爪先だって。身体を捻ろうとも掴んだつり革は放さない。つり革はつり革であってただのつり革ではない。そこにあるのは自分の人生。退屈でも平穏な人生に男達はしがみつく。 痴漢冤罪。 この言葉が持つ破壊力を、恐れない男はいない。これまで積み上げてきた何十年もの努力と実績を、家族の信頼と幸福を、一瞬で破壊し、踏みにじる。
身体をくの字に曲げ、つり革にしがみつく男。おそらく背伸びしているのだろう。天井付近の手すりを関節が白くなるまで握り締めているサラリーマン。掴めなかった男達の何人かは、両腕で自分の鞄を抱きしめている。今や通勤電車の中は、男達にとって恐怖と緊張に満ちた危険地帯。性悪な女達の罠がどこに張り巡らされているか分らない戦場となった。 少し前までは、確かに通勤電車に乗ることはささやかな楽しみであった。 私は性犯罪者ではない。そんな卑劣かつ破廉恥な男ではないし、そんな度胸もなかった。だがしかし、どうせ押し付けられるなら、むさい親父よりも若いOL風の女の方が嬉しいのは確かだったし、不可抗力とはいえ、そのやわらかな感触に胸をときめかせていたのは事
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