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作品名:千尋の百合 作者:さとのこ

最終回   終章」」
 我が背よ、我がもとへ戻りたまえ。


 たった一日。短い不在に何を心乱すかと笑う者もいるかもしれない。けれど、一日が千
秋に感じられるほどの不安を抱き、よもや、もしもと怯え続ける時間を過ごすことは、責め苦にも等しい苦しみであったろう。だから、夫の帰還に際した山辺皇女の安堵する様は尋常なものではなかった。ものも言えぬまま夫に取りすがり、泣き伏した。幼子のように泣き続けた。結い上げた髪を乱し、顔を朱に染めて泣きじゃくった。
(愛しい妻よ……)
 震える華奢な体を抱きしめ、額の花鈿に口づける。自分のものだと誰憚ることなく口にすることのできる愛しい女。
 これほどに愛おしい者を危険に晒そうとしている。
大津皇子は心を定めた。
何も話していない妻でさえ、その時の来るのを悟っている。もはや誰の目にも事態は明らかなのだろう。
父帝の加護を失った自分は、頼りなく、寄る辺無い身の上と捉えられている。それは皇子にとっては屈辱的なことではあったが、認めざるを得ない現実であった。
我が身一つのことであれば、一命を賭してでも一矢報いずにはおかぬとも言えた。
だが今は、妻と子、そして姉上を守ることを優先せねばならぬ。 
今が、決断の時。
「泣くな、山辺。お前が嘆く必要はない。お前が俺を失うことは無い。俺はお前を離さない。いずこに行こうとも連れてゆく。お前は俺を失って生きられる女ではない。
 覚悟せよ、山辺。お前にだけ、話しておく。
 俺はいずれ立つ。手にし得るもの、全てを手に入れる。だが、それは今ではない。今はその時ではない。
 今は退く。父上が吉野へと身を寄せたように、俺も京を離れ、遠き地で力を蓄える。口惜しいが、今の俺には雌獅子と戦う力は無い。
 経験も知識も人脈も足りない。
 時は来てはおらぬ」
 皇子の手が山辺皇女の頬に触れる。
「山辺よ、決して俺の手を離すな。お前だけは連れてゆく。お前の命は俺と共にある」
 皇子の言葉に、山辺皇女は心を震わせた。幸せな想いが胸から溢れ出る。
 ここまで自分の心を理解していてくれたのかと、最後の最後に抱きしめる者として自分を選んでくれたのかと、天にも昇る心地で夫の言葉に聞き惚れた。
 恋しい、恋しい、天にも地にも唯一人の我が背。
 この男の為であれば、幾度でも命を投げ出してみせると思っていた。この身に流れる血の最後の一滴を絞り取られても、息絶える寸前に夫の名を呟いてみせよう。
 真の恋を貫いてみせよう。
 けれど我が背は、連れて行ってくださるという。この世の果てまで、黄泉路までも連れて行ってくださるという。
 このわたくしを。わたくしただひとりを。
 なんという至福。
「お連れ下さいませ、我が君。いずこまででもお供いたします」
 ただただ、夫である自分を愛することしか知らぬ妻。
 自分を失い、独り生きてゆくことなど考えられもしない妻。
 この女だけは連れてゆこう。たとえこの先、どのような試練があろうとも。
 大津皇子は、固く妻を抱きしめた。


 身の回りの物だけ、取り急ぎまとめよ。
 大津皇子の様子から、もはや猶予の無いことを山辺皇女は知った。敵はすぐそこまで来ているのだろう。
 山辺皇女にしてみれば、我が子粟津王さえ抱きしめていればよいのだから難しいことではない。
 だが、宮内の者にさえ知らせてはならぬとの夫の言葉に目を見張った。自分達の住まう宮まで敵の手が伸びているという事実に恐怖を覚えた。
 その気になれば敵はいつでも自分達を殺せた。
 我が子と夫の身に、危険が迫っていたことにも気が付かなかった己の迂闊さが許せなかった。
 父帝を真似、僧籍に入ると言えばいらぬ疑いを招きかねない。よって出奔する。
 お前達を連れ、姉上を攫い、東国へと落ち延びる。そこで再起をはかる。
 あまりに急なこととて具体的な策を立てることすらできなかった。
 父帝が身罷られて未だ数日。敵がここまで苛烈であるとは予想もつかなかった。
 大津皇子は己の力不足に臍を噛む。己の慢心に歯噛みする。
 十分とは言えぬまでも、対抗し得ると思っていた。油断無く身構え、敵の裏をかき、隙を突き、一瞬の勝機を捉えられることさえ叶えば。
 しかし、敵はあまりにも苛烈に過ぎた。
 鸕野讃良大后。
 最愛の夫の死すらも彼の女傑を揺るがせることはできなかった。
「……恐ろしい女」
 我知らず、大津皇子は呟いていた。
 その言葉に、山辺皇女は応えた。
「わたくしには、大后さまのお気持がわかるような気がいたします」
 大津皇子の顔に心外そうな笑みが浮かぶ。
「馬鹿なことを。お前は大后様にはまるで似ていないぞ。お前は儚く、愛することしか知らぬ女。策謀を廻らすことなどできはしまい」
 ともすれば、己を軽んじているとも取れる夫の言葉に山辺皇女は苦笑する。
「大津様は、女人の心をお分かりにならない。だからそのようなことをおっしゃられるのです」
「では、山辺も鬼となるか」
「なりましょう」
 迷いのない妻の言葉に、夫は軽く目を見張った。
「大后様は大津様を攻撃しているのではありません。いえ、目的の為に邪魔な大津様を廃しようとしておいでですが、一番の目的は大津様ではないでしょう」
「目的とは、なんだ」
「ご自分の大切なものをお守りになることです」
「……っ」
 妻の言葉に大津皇子は言葉を失った。

 女は、大切なものを護るために戦うのです。
 功名でも欲でもなく、憎悪ですらなく、ただただ腕の中の愛しい者の為にのみ女は戦うのです。
 名を求めるならば愛する男の妻と名乗ればいい。夫の立身出世を手助けすればいい。欲するものは夫が与えてくれる。真に欲するものは愛する男以外の者には与えることは叶わない。
 戦いを求めるのは男達。名を欲するのは男達。
 名誉の為に容易く命を捨ててしまう男達。
 女達は命を護る。命は自らの命を懸けて生むものだから、女達はその尊さと儚さを知っている。
 だから戦うこともできるのだと、山辺皇女は囁いた。
 貴方の命もわたくしのもの。だからわたくしも戦えるのです。
 
 大津皇子は彼の女傑を思った。
 夫と共に吉野へと下り、その片腕として辣腕を揮った女。共に戦場を駆け、内裏においても知略を発揮し、夫と息子を守り抜いた女。
 その辣腕が愛ゆえの苛烈さであったとするならば、鸕野讃良大后ほど情の深い女はいなかっただろう。
 昔、幼い頃、あれほど欲した加護と愛情。自分には決して与えられることのなかった母の愛は、すぐ側にあったのか。自分に向けられた憎悪の裏側に。
 心に懸かる霧が少し薄れたような気がした。
 だが、それでも謎は残る。
 何故自分だけがこれほどまでに憎まれたのか。
 その問いに対する答えを、大后本人に尋ねてみたい誘惑に大津皇子はかられていた。



 秋の夕暮。
久方ぶりの晴れやかなお顔で、大津さまはお出かけになりました。
「すぐに戻る」
 大津皇子様は微笑んでいらっしゃいました。
 朝服(ちょうふく)の深い紫が、皇子様の匂い立つような美しいお姿を、いっそう高貴にみせてくれるようです。
 京を離れれば、当分このお姿を見ることはなくなります。私はしばし見惚れてしまいました。
 もちろん皇子様ならば、漁夫(いさりお)の姿をしたとしても、雄雄しくときめいて見えることでしょう。皇子様がいつ、どのようなお姿をされる時もお側にいることを許されたことが、こんな時でもわたくしは嬉しくて仕方ありませんでした。
 けれどわたくしに背を向け、出仕する皇子様を見送るわたくしの胸を、木枯らしがふき抜けたように感じました。
 どうぞ、一刻も早くお帰りください。わたくしの元にお戻りください。そうして、もはや誰にも脅かされることのない遠い地で、親子三人、静かに暮らしましょう。
 山辺皇女は胸の奥で静かに祈った。


 極近しい者、自分が捕らえられれば連座させられかねない者達に、大津皇子は己の意図を告げた。
 己に戦う意志はなく、世の趨勢(すうせい)に逆らうつもりもない。徒に世を乱すことも好まない。けれど時節は平穏を許さず、命を脅かされている。義はあれど理の無い戦は虚しい。よって妻子を連れ、しばし京を離れる。
 ただそれだけを告げた。たとえ戦ってでも身の潔白を証明すべきだと主張する者もいたが、大勢はその判断を是とすると答えた。
 誰の目にも劣勢は明らかであった。
 そして誰もが秀でて優れた皇子の命を惜しんだ。
 生き延びて欲しい。
 辣腕で知られた女傑を敵に回してでも、大津皇子に与することを選らんだ友と家臣達の願いであった。
 密やかに別れの宴が催された。
 酒を酌み交わし、再会を契りあう。
 大津皇子はその場に集った友の顔を見つめ、目蓋が熱くなるのを覚えた。共に政を志し、京の行く末を熱く語り合った。今は比べるべくもないが、いずれ、いつかは大陸の国々と肩を並べる国造りをする。その夢を共に追う仲間達。自分の為に戦うことも辞さない男達。次にこの顔ぶれ揃う時は、挙兵の時となるだろう。
「皇子様、時をお待ちください。いずれ必ず、内裏が貴方様を必要とする時がきます。貴方様で無ければならなかったのだと、気づく時が来る。それまで、ほんの暫くのご辛抱でございます」
「さよう、今は時が悪い。なれどいずれは貴方様とでは比べるべくも無かったのだと、誰もが知るところとなる。あのお方も、いつまでも支えきれるものではない」
 口にすることは憚るが、言外に異母兄弟の力不足を揶揄しているのだと気づき、皇子の口元にほろ苦い笑みが浮かぶ。
 あの男は、決して力が無いわけではない。ただ、比較の対象とされる者が傑出しているが故に、力不足と人の目に映る。
 あの父と母の子と生まれることは、いったいどれほどの重圧なのだろうか。
 不憫なことだ。
 不意に、心から思った。

 飛鳥の風よ、明日香川よ、遠く離れても我を忘るな。
 いつの日か還る。我を育みし飛鳥の大地に。
 いずこにあろうとも、常に思い続ける。
 目覚め、歩み始めた我が京。
 その蒼き日々に、必ずや我が足跡を残さん。

「京の酒ともしばしの別れか」
 そう呟き、最後の杯を煽ったそのとき、怒声が響いた。
「大津皇子様、朝命によりお迎えに参った。神妙にご同道願うっ」
 武官の叫びが宴の終焉を告げる。
 
「皇子様、お逃げくださいっ。」
 家臣達は皇子の周囲を囲み、彼の楯となろうとした。多勢に無勢、勝ち目は無いまでも、何とか皇子だけでも脱出させようと試みる。
 この場を抑えられた以上、自分達も咎は免れない。ならば、皇子だけ逃がさなければならなかった。
 この国の為に、必要な人であった。

 大津皇子の視界が赤く染まる。
 逃げ惑う女達。
 剣を取り、立ち向かおうとする家臣達。
 兵士達の怒号と追われる者達の絶叫。
 兵士と互角に戦っていた男が背後から貫かれる。血を吐き、声も無く息絶えてゆく。
 一人、また一人と捕えられ、引き据えられる。
切り捨てられる者、打ち据えられる者、地に伏し、命乞いをする者……
 彼らは、国と己の未来を大津皇子に託した者達だった。
 ともに未来を語り、夢を描いた者達だった。
 才の有る者も、無い者も、勇気の有る者も、気の弱い者も、皆それぞれに理想を描いていた者達だった。
 無為に殺して良い者など一人もいない。
ただ一人の男を殺す為に、巻き添えにして良い筈がない。
「止めよっ」
大津皇子はすべての終わりを宣言した。
「ここまでだ」
 遠くで、牡鹿の声が、聞こえたような気がした。

「弟よ……」
 遠い飛鳥の空を見つめ、大伯皇女は呟いた。
 射干玉(ぬばたま)の髪をさらりと揺らし、物思いにふける美しき斎宮。
 紅梅の花びらにも似た唇が溜息を零す。
 心は千千に乱れ、取り留めの無い想いに塞いでいる。
 美しい弟。猛き若者。
 折に触れ文を交し、孤独を慰めてくれた優しい弟。
 先日見(まみ)えた大津皇子の姿が胸に焼きつき、消すこともできず大伯皇女を苦しめる。
 思いつめた眼差しが心を乱す。
 大津の瞳。
 真っ直ぐに、射抜くような眼差しで自分を見つめる弟。
 取り乱し、気持ちを立て直すことも叶わぬまま、わたくしは心を奪われてしまった。
 どうか、どうか、弟だけは平穏でありますように。
 幸福でありますように。
日々繰り返してきた祈り。ただ一つの祈りを今日も大伯皇女は繰り返す。
信仰の日々の中で、全身全霊で祈り続けてきた弟の幸福。けれど今、思い浮かぶのは初めて間近に見た、若く美しい貴公子の姿だった。
一度会ってしまったら、もう忘れることなどできはしない。
我知らず、華奢な手が己の体を抱きしめる。
恋してはならない男(ひと)。
恋してはならない、巫女たる我が身。
どうか、無事で。たとえ二度と会うことは叶わなくとも、貴方が幸せならばそれでいい。それだけがわたくしの願い。
誰も、わたくしの弟を傷つけないで。
「大津……」


 捕らえられ、獄に繋がれた大津皇子は、もはや憤怒の感情すらも湧かぬのか、静かに、瞑想するかのように裁定が下るのを待っていた。火の気も無い薄暗い獄舎の中で、太刀は奪われ、縄を解かれることも無く、不気味な程の静寂の中、心を持て余す。
 既に死は恐ろしくは無かった。ただ、虚しかった。
 己を捕らえるに足るなんら根拠も無いままに、謀反人として捕らえられた。それだけの手腕を敵は有していた。
「川島皇子様の奏上により、大津皇子様の謀反は明らかとなった」
 根拠など、敵は必要としてはいなかった。名目があれば討ってでる。それこそが最も効果的な戦い方だった。
 大津皇子は甘かった。追い詰められていることを自覚しつつも、まだ正攻法に拘っていた。戦うことができると信じていた。
 敵が戦う猶予など与えぬ戦法で来るなどとは想像もしえなかった。
 経験が違う。器が違う。覚悟が違う。
 血の繋がりなど何の意味も無く、人を陥れることに躊躇いもない。
 己が名を血に染め、畏怖に塗れ、唯独り立つ女帝。
後の世に、彼の女傑は如何に名を残すのか。
「敗れた。完敗だ」
 甘さと未熟が彼を殺す。
 
 薄闇の中で、皇子は妻子を想った。
 我が一子、粟津王。男児である息子は真っ先に処罰されることだろう。
まだ稚(いとけな)い、恐れも疑うことも知らぬ我が子。
 無垢な瞳を護りたかった。かつての己のような不安な日々は断じて送らせまいと誓っていた。
 その平穏な日々を我が子であるが故に奪われることになってしまった。不憫な息子よ。父を許せ。
粟津王の暮らしは未だ単純で、笑顔と泣き顔しか思い浮かべることができない。これから過ぎる日々の中で、語り合い、笑い合うこともあっただろう。そんな日々は失われてしまった。
助命など叶うはずも無いが、それでも願わずにはいられない。
お前だけでも存えて欲しい。

妻よ。山辺よ。お前は俺を失っては生きられまい。お前の命は俺と共にある。
そうと知りつつ敗れた俺を許せ。
俺の側を離れるな。黄泉路をゆく時も、俺はお前を伴おう。最後の最後まで、俺はお前を離すまい。
山辺。愛しい、哀れな妻よ。
お前の最後が、苦しいものでなければいい。

 姉上にも、咎が及ぶのだろうか。
 国の平安を願い、俗世界と切り離されて生きる斎宮として封じられた姉上。
 姉を想ったとき、大津皇子の思考が止まった。大伯皇女を想う彼の感情は複雑で、言葉にすることは容易ではない。
 巻き添えを食わせてしまう罪悪感。心静かに、穏やかに暮らしていた姉を、己の短慮が政争の道連れとしてしまった。姉上の願いは唯一つ、弟である自分の幸福と穏やかな生活であったものを、そのささやかな願いすら踏みにじることとなってしまった。
女人としての幸福を奪い去られ、聖域とはいえ人里離れた山奥に封じられた姉上にとって、自分との繋がりこそが人の世との細い絆であったものを。
姉への罪悪感に心塞ぐような思いを抱きながらも、自嘲の笑みが口元に浮かぶ。

今度こそ、本当に、誰にも渡さずにすむかもしれない安堵。
誰よりも姉の幸福を望みながら、押さえ切れない独占欲がある。
 ことここに至っても、消しきれない迷いがある。
 先日目にした姉の姿は鮮やかで、もはや幼い姿を思い出すことができない。
揺れる眼差しと不安げに震える唇。
華奢な体、ぬくもりと吐息。
 童女の如く無垢な姉。
 聖域に隠され、人の世の悪意からも遠ざけられ、姉の瞳は清んだ輝きを失うことはなかった。
 抱きしめ、攫ってしまいたいと心から思った。
 姉と共に生きられるなら、落ち延びた後、二度と京に戻れずともいいと思った。
 規範に背き、姉の元に向かったことを愚かだったというものもいた。だが、あの時会っておかなければ、再会も叶わぬまま永遠に別れさせられていたかもしれない。
 姉上は人質に取られていたことだろう。
 華奢な体に縄をうたれていたかもしれない。牢に閉じ込められていたかもしれない。殺されていたかも、しれない。
 だから、あれは快挙だったのだ。
 自惚れでは無く、大伯皇女が自分に強い印象を受けたことを皇子は確信していた。これまで自分に注がれたどんな熱い視線にも劣らぬ一途な眼差し。二人の心はあの時確かに結び合っていた。
 この世界に、二人しか存在しないかのように。
 姉の澄んだ瞳には、唯一人自分だけが映されていた。
 自分の心からも他の全てが消え去っていた。
 ほんの僅かなひととき、だが、完全に満たされていた瞬間。
 二人は互いのものだった。
 姉上は、俺と共に逝ってくれるだろう。
 生き残っても、俺の為に祈り続けてくれるだろう。
 俺を想い、俺の死を嘆き、泣き続けてくれるだろう。
 その心から、俺が消えることはない。
 だから、姉上の為には願わない。
 生き残ろうと、殺されようと、姉上は俺だけのもの。もはや誰のものにもなりえない。
「姉上……」
 愚かしい幸福感に満たされる自分を、大津皇子は自覚していた。

          ・・・・・
   

 とうとう、漸く、この時が来た。
鸕野讃良大后の瞳に、暗い喜びが踊る。
 殺すことは容易い。いついかなる時もその命はこの手の中にあった。あって尚、握りつぶすことは叶わなかった。
 忌々しい子供。
 その容貌が許せなかった。有り余る才が許せなかった。
 大海人皇子様に良く似た容貌も、文武の才も、臣にも民にも慕われる心延えも、全てが許せなかった。
 その全てがあの女が我が背の君の寵を受けた証しに他ならなかった。
 煌くものなど何一つ持ってはいなかった女。ただほんの少し早く生まれただけで正妃に据えられた姉上。
 もし、唯一つでも叶わぬものがあったなら、これほどまでに姉を憎むことは無かっただろう。
 大海人様には数多の女人たちがいた。その中にはどうしてもわたくしが勝てぬ女もいた。その溢れんばかりの才でこのわたくしを打ち負かし、憎むよりも羨んだ女がいた。
額田。額田女王。
父、天智の大王と、夫である天武天皇が奪い合った女。
美しさと神性を備えた女。
天与の才を遺憾無く発揮し、愛と祈りと祝福を謡いあげた女。
他の男のものになってさえ、大海人様のお心を捕らえて離さなかった。
額田のようにこの自分を一度でも打ち負かしていたなら、わたくしは憤りながらも許すことができたかもしれない。
けれど姉は、ただただ優しいだけの、心弱く儚い女だった。
その弱さと儚さで夫の心を捕らえて離さなかった。
許せるわけが無い。
姉上様、貴女は大海人様の為に何をした。何を犠牲にした。何もしてはいない。何も失ってはいない。ただ、愛されただけ。
愛されただけ。
許せるわけが無い。
大海人様の守護の中にいる貴女に手出しはできなかった。どれほど憎くとも。
けれど見るがいい。貴女の息子の命はわたくしの手の中にある。娘は聖域にも俗世にも行き場を失い、縁(よすが)も無い。貴女の血を引く者に幸福は許さない。


灯火の点る薄闇の中、衣擦れの音がする。
密やかな足音。
近づいてくる。
聞きなれた兵士のものとは異なる足音に、大津皇子は耳を欹(そばだ)てた。
女人の足音。けれど軽やかな侍女のものではない。
静かな、威厳を秘めた一歩、一歩。
まさか。
こんな場所、暗く深い牢獄に立ち入ることが許される女など、そうそういるはずが無い。
一瞬、山辺が通されたのかとも思った。不憫に思ってのことではなく、無様に繋がれた己の姿を見せる為に連行されたのではないかと。だが、その足音は悠々としていて、心はやる様子も無い。
重々しいばかりにゆったりした足音。
「大津」
鸕野讃良大后がいた。

格子を隔て、叔母と甥は久方ぶりの再会を果たした。それはすでに勝者と敗者の立場に別れてのもの。心が通い合うことはなかった。
しばしどちらも何も言わず、互いの姿を凝視した。
甥は叔母の面に姉の面影を探した。母親似といわれる姉に似たところがあれば、それは母に似たところでもあるかと思ったからである。けれど、女傑として知られた叔母の眼差しは鋭く、精気に満ちて、とてもたおやかな姉の顔に似て見えるところは無かった。
「何をしに参られましたか、大后様」
 先に言葉を発したのは大津皇子の方であった。
「大后ともあろう方が、このような場においでになるべきではありません。人目もあります。お戻りください」
 不思議な程、静かな言葉だった。憎悪の欠片も感じられなかった。諦観、諦念。そんな境地を感じさせる声であった。
 鸕野讃良大后もまた、先ほどまで胸の中に滾っていた情念など微塵も感じさせぬ声で答えた。
「そなたの顔を見にきました」
「私の顔を」
「もう、随分と長いこと、そなたの目を見て話をしたことが無いことに気がついた」
「……」
 いつも敵同士であった。表面上、どれほど和やかに接していても、心の中は警戒していた。
叔母と甥ではあっても、最も邪魔な敵同士でもあった。
 何を今さら、と大津皇子は思った。恨み言の一つでも言って差し上げれば、叔母は満足して引き上げるのだろうかとも考えた。
 言って差し上げれば。そんな言葉が浮かぶくらい、不思議と皇子の心の中は凪いでいた。あまりに大きな敗北感に打ちのめされてしまったが為に、心の動きが鈍くなってしまったのかも知れなかった。
「……なぜわたくしが、これほどまでにそなたを疎ましく思ったか、わかるか」
 叔母の問いかけに、皇子は答えるのを躊躇した。息子の邪魔になる。そんな単純なものではなかったのかもしれないと、初めて思った。
 大后が答えを述べる。
「そなたが、わたくしに、似すぎていたからじゃ」
 ああ、そうかと皇子は納得した。
 
 誰も気づくことは無かったかもしれない。
 誰よりも豊かな才に恵まれた叔母と甥。
 叔母は女の身で兵法にも通じ、甥は文武共に秀でた。
 強靭な心に悲しみの影を宿していた叔母と甥。叔母は夫の愛を求め、甥は肉親の愛を求め続けた。
 何一つ自分より優れたところのない相手に、どれほどあがこうとも勝つことは叶わない。自分ではどうにもならぬことの為に、常に一歩先を譲らなければならなかった。
 心の強い有能な妹は、儚く優しい姉に正妃の地位を譲らなければならなかった。後から生まれたというだけの理由で。
 母を失った皇子は、大后を母に持つ兄の一歩後を歩かねばならなかった。後ろ盾をもてなかった彼は、自身を鍛え、磨いて立場を強くしてゆかねばならなかった。己の居場所を作る為に。
 勝つ為に、いつか望みのものを手にする為に、決して努力を惜しまなかった叔母と、甥。
 
「何か言いたいことがあるならば、聞こう」
 その言葉は大后が大津皇子に差し出した、最後の肉親の情だったことだろう。
「私の近しい者達は、全て滅せられるのですか」
 聞くだけ無駄と思いながら、それでも皇子は問わずにはいられなかった。幼い我が子、共に戦うと誓ってくれた友。その全てが自分との繋がりゆえに処罰されるのは耐えられない思いだった。
 大后は、ほんの少し躊躇した後、答えた。
「……そなたさえ退ければ、脅威となるものはおらぬ。わたくしとて、無益な殺生は好まぬ。可能な限り、存えるよう計ろう」
「そのお言葉を聞いて、安堵いたしました」
 口元を僅かにほころばせ、吐息を吐く。
 全滅は免れるなら、それでいい。それ以上望んでも甲斐のないこと。
 ふと、思いついて尋ねてみる。
「……石川郎女はどうなりますか」
 巻き添えにすることを恐れ、しばらく足が遠のいていたが、面影が心から消えていたわけではない。必ず守ると誓った女。子供の様に激しく、純粋な女。
 大后の言葉は素っ気無かった。
「あれはただの浅はかなだけの女。取り立てて対処する価値もない」
 酷い言いようではある。けれど大津皇子は安堵した。息子を悲しませたとはいえ、一介の郎女ごときを、大后はまともには相手にしないと知って心が少しばかり軽くなった。郎女を守るという誓いだけは守れたらしい。
 大后は、甥の口元に笑みが浮かぶのを見た。
「妻よりも、想い人の命乞いか」
 女として、妻としての心がざわついた。この甥もまた、妻に一途ではいられぬのか。父親の様に……。
 大津皇子の答えは揺るがない。
「石川郎女は誰のものにもなりません。あれは自由な女です。何度敗れても立ち上がり、また恋をして詩歌を読む。草壁を愛したのも誠。俺に恋をしたのも真実。恋をする度に磨かれて、美しさを増してゆく。死なせるには惜しい女です。
 だが山辺は違う。一途に、一筋に、愛することしかできない女です。一人残せば孤独に狂う。山辺は後を追うでしょう。俺は止めるつもりはありません」
 愛した女それぞれに、ふさわしい愛を贈る男。
 幾人の女を愛そうと、すべての女に誠を尽くす。
 権力を持つ者が、幾人もの妻を持つのは当たり前の時代。それが当たり前であったとしても、苦しまず泣かぬ女はいないだろう。
 それでも、これほどの男にこうまで愛され、理解されているならば、その苦しみにも甲斐がる。数ある女達の中から、自分は選ばれたのだと胸を張ることができる。愛されているのだと、信じることができる。
 大后は、面に出さず羨んだ。
この男であれば、女の焦燥を見逃しはしなかったのではあるまいか。愛が褪めても見捨てることなく、ただ利用するばかりでいたわりの言葉一つなかった父親とは、違う愛し方をしたのではなかったか。
こんな男も、この世にいたのか。
捕えられ、縄をかけられてもこの男の気品を損なうことはできない。ほつれた髪、青ざめた頬にさえ色香を漂わせて美しい男。
揺らがぬ、心。
女の情念が揺らぐのを僅かに感じながら、大后は無言で端正な甥の顔を見つめていた。

「どうぞ、もう、お引取り下さい。ご用はお済でしょう。ここは寒い。お体が冷えてしまいます。貴女のような方が、この様な所にいらしてはいけません。宮女達が不安に思っていることでしょう」
 それきり、大津皇子は目蓋を閉ざし、後は宿敵である叔母を見ようとはしなかった。一番知りたかったことさえ聞くことができれば、もはや叔母に用は無かった。身に覚えのない罪に問われた身で、礼を言うのもおかしなものであったし、恨み言を言おうにも、あまりにもあっさりと謀られてしまった為に、破れてもいっそ清清しい程の気持ちであった。今さら口にするような言葉も無かった。
 後は、残された時を心静かに過ごすことが、最後の望みであった。
(そういえば、大后と山辺は、父を同じくする姉妹であったな)
 勝者である天武方の大后と、敗者である天智方の生き残りである山辺。共に天智の大王を父とする異母姉妹でありながら、山辺は敗れた大友皇子の妹として礼遇された身の上であった。
 もっとも、そんなことは何の意味もないこと。
 甥が叔父と戦い、叔母が甥を滅ぼす。濃い血の繋がりは、己の野望の妨げでしかない。そんな時代である。
 大津皇子は瞑目し、もはや一言も口を開こうとはしなかった。
 無言のまま拒絶された叔母は、しばし甥の顔を見つめていたが、やがて何も言わずに立ち去った。
 何も言えなかった。
    

無言のまま歩みながら、鸕野讃良大后は心が波立つのを止められずにいた。
この期に及んで後悔することなどありえない。全て覚悟の上で事を成した。誰に謗られ、憎まれようとも、邪魔な大津を排除する。
けれど、どれほど念入りに策を練っていたとしても、予想できないことがある。
大津は、最愛の背の君、大海人皇子の若かりし日の姿に似すぎていた。
精悍な顔立ちも、鋭い眼差しも、背の高い、鍛え上げられた頑健な体躯も、用は無いと言わぬばかりの冷淡な表情も。
我が子草壁が受け継ぐことの叶わなかった大海人様の資質。
大津は正(まさ)しく、紛れも無く、我が夫の子であった。夫が心に掛けていた忘れ形見。
その大津を、わたくしが滅ぼす。誰よりも愛した夫の生きた形見を、面影を。
ちりちりと心の奥底が痛むのを感じる。
大津。あの男であれば、わたくしのような女でさえも愛し得たのであろうか。大海人様でさえ持て余した激しい気性、激情を、受け止めて包み込んでくれたのであろうか。石川郎女に自由を許したように、わたくしにもふさわしい愛を見出し得たのであろうか。
あの、男であれば。
さらに鸕野讃良大后は、甥の上に、かつて失った者達の影が重なることに、遅まきながら気がついてしまった。
陥れられ、父、天智の大王に討ち滅ぼされた母の一族。かつては力となり、尽くしたにもかかわらず、謀反の罪を着せられ滅ぼされた母の一族。
年若い皇子もいた。
繊細な皇子。狡猾な若者。悪意ある視線から身を守る為、心を失ったと周囲に信じ込ませていた有馬皇子。
その才ゆえに仕組まれ、謀反人として処刑された薄幸の皇子……。
打ち砕いた政敵。滅ぼした部族。罪無くして殺された人々。
そのいずれの時も、罠を仕掛け、追い落としたのは父上であった。母を苦しめ、その心を壊した父上。父上の生涯は血と憎しみに塗れていた。 

今、己は父と同じ非道の道を行こうとしている。父上の様に憎まれ、恨まれ、我が子の愛すらも失うことになりかねない、茨の生。
その恐れが、常に揺らぐことのなかった女傑をして、可能な限り大津皇子の周囲の者達を生かすと約束させた。
「取り返しのつかぬことをしたのかもしれぬ……」


 斎宮、大伯皇女は不安の中にいた。
 いつになく胸が騒ぎ、捕え処のない不安が湧き上がる。
 聖域にあって、最も神に護られているであろう我が身に、危機の迫るはずもない。
「これは……」
 弟、大津の身に異変が起きている。
 漠然とした、けれども押さえようもない自身の動揺に、皇女は確信する。
 終わりの時が来る。来てしまう。
 平安と静寂の中で過ごす日々も。
 弟を想い、無事を祈る日々も。
 いつか、再び大津と共に暮らす日を夢見ることも。
「神よ、どうかこの命をおとりください。弟の代わりにわたくしの命をお召しくださいっ」
 大伯皇女は天に祈る。
夕暮れの薄闇の中、伸ばした両手の間に星々が瞬く。風にたなびく比礼。翻る袖。大地に立ち、天に祈る。
 弟には護らねばならぬ者達がいる。妻と子、彼を守る者達。弟は死んではならぬ身。弟一人の命ではない。
 どうか代わりに、護るべきものを何も持たぬ我が命をおとりください。弟の代わりに死なせてください。
 大津を失っては、もはや生きる甲斐もない。
「大津……っ」
 血を吐くような叫びは、空へと吸い込まれ、消えていった。


 臣下より異変を伝え聞いた草壁皇子は、血の気が引き、自身の体が震えるのを止めることができなかった。
 朝服に包まれた自身の体を抱き締め、腕に爪をくいこませても、その痛みに気づけない程に心乱れていた。
 信じられなかった。
 大津が謀反。
 処刑される。
「あるはずがない……」
 母上が、仕組んだのか。
 実の甥を、私の異母弟を、父上の息子を、陥れたのか。
 そんなことがあるはずがない。父上が身罷られて、まだ日も浅い。葬儀どころか殯すらも明けてはいない。父上はまだ黄泉路の旅の途中に御(お)座(わ)すはず。
 今、大津を謀殺するなどと。
「許されるはずがないっ」
 母上は、大津を気にする必要は無いと仰せになった。私は私なりに最善を尽くせばよいのだと。ならば、大津を排除する必要などないではないか。
 大津と戦うのは私、同じ父上の血を引く皇子たる私の筈だ。
 母上ではない。母上ではないっ。
「母を、止めなければ。おやめいただかなければ。取り返しのつかぬことになる。……けれど、どうすればいい……」
 思いやり深く、我侭も言わず、優しいけれど心弱い。それが、草壁皇子であった。


 大津皇子は瞑目し、全てを拒絶した。
 どれほどの時が過ぎたのか。今が朝なのか、夕べなのか。薄暗い牢の中では知るすべはなく、また、意味の無いことだった。
 今、周囲にある物事に何の関心もなかった。
 ただ、考える時間だけがあった。
迷い、時に苦悶し、自身の心に問いかけた。
 この生において、己は何を成したのか。
 何一つ成しえなかったのか。
 存分に愛したか。
 確かに愛された。妻に。女達に。
 その想いに十分答えられただろうか。
 俺という男は。
 度重なる遷都と戦に財政は疲弊し、国民(くにたみ)は苦しんでいる。彼等の為に、何かをなすことはできたのか。
 何もできなかった。何も、何ひとつ。
 至尊の近くにあって、父の片腕となって、国の礎となることすら、できなかった。
 国を善き方に導く事など何一つできぬまま、謀反人として消えてゆくのか。皇子たる身が。
 喩えようもなく虚しい思いを抱いて、皇子は瞑目する。
 遷都を繰り返し、その都度造成された都はいまだ他国に誇れるようなものではない。都市としての機能は十分ではなく、整地すらも完全ではない。いつか、これが倭の京よと胸を張れるような宮城を作らねばならないと考えていた。飛鳥の地に、大陸の国々に劣らぬ美しい都を作る。そしてその都を、文化を、息子に、子々孫々に伝えてゆく。
 もはやその夢もついえるのか。
 それでも、己が騒乱の種とならずに済んだことだけは、重畳だろう。流される血は最小限ですむという。
 確かに、この身が存えれば、いずれ間違いなく至尊の地位を望んだ。この国を大陸の国々に劣らぬ国家とする日を夢見る己ならば。
 父上が甥と相争ったように、異母兄と、叔母を敵に回す日が来ただろう。避けようもなく。
 俺の死によって、国を二つに分けるような騒乱の芽が摘まれるならば、明日も何も変わらぬ平穏な日々が訪れるのならば、そう、悪いことでもない。
 皇子の顔にうっすらと、笑みが浮かぶ。
 それはまるで、悟りを開いたかのような、穏やかな微笑であった。
 妻山辺皇女が、自分の後を追ってくることに疑いはなかった。処刑されずとも、己のいない世に生きてゆける女ではない。
 ただ、待っていればいい。山辺が迷わずに翔けて来られる様に。
 けれど姉は違った。姉大伯皇女はどのような処遇をされるのか。
謀反人の弟に与した姉として共に処罰されるのか。永らく斎宮としての務めを果たした功績を持って、許されるだろうか。
姉上は、共に死んでくれるだろう。俺の為だけに生きてきた姉上だからこそ、共に滅ぶことも定めとして受け入れてくれるだろう。だが……。
大津皇子は大伯皇女に生きて欲しかった。
死しても共にありたいと思う心に嘘は無く、この世に一人残すことに不安もあった。
けれど、姉上には生きてほしい。生きて、自由に、何にも囚われることなく、詩歌を読み、人とふれあい、笑ってほしい。今まで奪われていたものをその手に取り戻してほしい。
少なくとも、斎宮の任は解任されるはずである。どこに行くことももはや自由。今度こそ、自分の為に生きて欲しいと心から願った。
姉上を護り、共に生きることはできずとも、その幸せを願うことはできる。天上から見守ることはできる。
いつの日か、姉大伯皇女が天寿を全うするその日まで。
「生きてください、姉上。広い空の下で、人々の中にあって、自由に、幸福に生きてください。俺を失う悲しみに打ちひしがれようとも、いつか立ち直って、微笑んでください。
 その時、俺はいつも側にいたのだと、貴女は気づくでしょう。」
 風の中に、陽の光の中に溶け込んで、絶えず貴女を抱きしめる。
 貴女を包む大気となり、貴女を護り続ける。
 貴女の裳裾を揺らすいたずらな風にもなろう。
時には頬にくちづけても許されるだろう。
もはや、禁忌は意味をなさない。
二人を分かつものは何もない。
 俺は貴女と共にある。
 愛する、愛する姉上。心の半分を分け合った女性(ひと)。

 捕えられた翌日、大津皇子の魂は、鳥となって空へ還った。
 磐余の池の畔、静かな景色を見つめながらの死。
 皇族ゆえに処刑ではなく自害を許された。
 詮議も碌にされぬままのあまりに早い処分は物議を醸したが、所詮大后の権威に逆らえる者など存在せず、全ては可及的速やかに執り行われた。
 大津皇子は悲劇の皇子として、千数百年も後の世まで語り継がれる。
 飛鳥の、皇子。


 山辺皇女は、自ら命を絶った。
 夫の自害の知らせを受けるや否や駆け出し、夫の元へと急いだ。
 裸足で髪を振り乱し、駆ける様は痛々しくも壮絶に美しく、彼女もまた、永く人々に語り継がれるいにしえの女性となった。

 カンザシガ、オチタ。
 跡形もなく崩れた結い髪から、簪が抜け落ちたことに気づき、山辺皇女は足を止めた。苦しい息の下、汚れを袖で拭うと、大切に袂に抱きしめる。
コレハタイセツナモノ。オオツサマガクダサッタハナノカンザシ……。
ほつれ、乱れた髪を大まかにまとめ、簪でとめた。まとまっていればいいといわぬばかりの乱れ具合だった。
 裳裾を踏んで幾度も転んだ。その度に起き上がり、駆ける。
 大津様の元へ行く。大津様は待っていてくださる。
 その想いだけがか弱い女の足を追い立てた。
 オオツサマノモトニユクノ。
 愛しい男は待っていてくれる。だから急がなくてはならない。
 ハシッテ、ハシッテ、ワタクシノアシ。
 限界を超えた体は感覚を失い、苦しい息の下、意識までもが朦朧とし始めていた。
 オオツサマ、オオツサマ、オオツサマ……。
イマ、マイリマス。

 大津皇子の横たえられた室に到達する前に、山辺皇女は侍女達の手によって、身体を調べられた。刃や毒薬を持ち込むのを恐れた為である。
彼女の処遇はまだ決まってはいない。謀反人の妻として、どのような罪科が下されるか決まる前に、殉死するようなことがあってはならなかった。

 彼女は、粟津王を連れてはいなかった。信頼する乳母に我が子を託し、夫の下へと駆けつけた。
「お姫さま、ともにお逃げください。今ならまだ間に合いましょう。幼い粟津王さまをおひとりにされるおつもりですか。大津皇子さまとて、御一子を他人の手に委ねることなど望まれますまい。母君さまが守って差し上げなくてどうなさるのです」
 厳しい乳母の言葉に山辺皇女は涙を流す。
「許して。わたくしは行かなくてはならないの。どこまでも大津さまのお供をすると誓っているの。大津さまを一人にはしない。一人では死なせない。……でも、粟津王をともに連れてゆくことはできない。」
 大津さまの資質を受け継ぐ、ただ一人の子。
「この子を、守って。できることなら……」
 生きてほしいとは、口にできなかった。後の禍根を防ごうと思えば、大津皇子の直系の男児が生を許される筈は無く、連座させられることは免れ得まい。
 お母様を許して。
 あなたを手放す母を許して……。
 想いを振り切るように駆け出した。

「……こんなに、冷たくなって。お可愛そうに。さぞお寒かったでしょう……」
 こんな粗末な筵の上に高貴なお体を横たえるとは、なんて非道な。
 山辺皇女は憤る。
 冷たい手。冷たい頬。重ねた身体からはもはや一切のぬくもりが失われてしまっている。
「温めて差し上げます。こうして山辺が温めて差し上げます。だからもう、お寒くはありません」
 頬に頬を押し当て、唇を重ね、もはや動かない夫の骸を抱き締める。
 見かねた衛仕が山辺皇女の体を引き起こそうと試みる。
「お気持ちはお察しいたしますが、どうかそれ以上、取り乱されませんように」
 あまりに哀れに見えた。髪振り乱し、泣きながら微笑む様は狂女のごとく凄まじく、鬼気迫り、そして美しかった。
「既に皇子様は事切れておられます。甦られることはないでしょう」
 息を吹き返すようなことがあれば、再び殺されてしまうのだ。苦しみは一度でたくさんだと衛士は思った。
 気さくで快活な大津皇子は、兵士達にも絶大な人気があった。文武両道に秀でた皇子は鍛錬も欠かすことなく、傲り高ぶることも無く。悲しみも同情も、彼ひとりのものではない。
「……いいえ、ここにおいでになります。大津さまは待っていて下さる。お約束くださったのです。わたくしを共にお連れ下さる、共に来い、と……。
 この冷たくなった骸の中に、大津さまの魂は留まっていらっしゃる。わたくしをおいてゆかれるはずがない」
 夫の端正な顔を、頬を撫でる。眉間にはしわが残っていた。苦しんだ証しであった。
「お苦しかったでしょう。お可愛そうに。……なんて、ひどい。わたくしの大津さまを苦しめるなんて、許せない」
 閉ざされた目蓋も、通った鼻筋も、引き結ばれた唇も、宮を出た時のまま。なのに、ぬくもりは感じられない。
 それでも、この腕の中に大津さまはいらっしゃる。まだ逝ってはいない。待っていてくださる。わたくしをおいて逝かれるはずがない……っ。
「……いま、いま参ります。どこまでもお供いたします。決してお寂しい思いはさせません」
 泣きながら、山辺皇女は微笑んだ。周りを取り囲んでいた衛士達には理解できない、幸せそうな顔で。
「大津さま、貴方はわたくしに、共に来いと行ってくださいましたわね。わたくしのことを決して離さぬと……。
そのお言葉だけがわたくしの誇り、宝物だったのです。」
唯一人の女ではなくとも、最愛の女にはなれずとも、最も身近にいることを許された女。悲しみも苦しみも分けていただくことができる妻。貴方を愛することだけがわたくしの生きる糧。
 山辺皇女は、髪に無造作に挿してあった花の形の簪を手にとり、喉を突いて果てた。大津皇子を失って生きることのできなかった彼女は、夫の後を追う以外の選択肢を持たなかった。
 大津皇子は、そんな妻を誰よりも理解していた。
『山辺は、俺を失っては生きられない』
 それが彼女の全てであった。



 大津皇子が真実謀反を企んだのか、実際には定かではない。ただ歴史は、優れた資質を持つ悲劇の皇子に対して同情的な見方をすることが多い。
 日本人の判官贔屓といってしまえばそれまでだが、皇子が没してから数十年後に編纂された日本書紀にも、彼は優れた人物として記されている。謀反人とされた以上、その扱いは慎重でなくてはならず、悪しざまに書かれていたとしても致し方のないことであったろう。だが、あまり多いとは言えない記載には、文武に優れ、眉目秀麗。奢らず、民に慕われ、明朗、と、賛美の言葉しか残されていない。皇子と同じ時代を生きた人達の、共通した認識。その才を、存在を失ったことを惜しむ人達の、共通の想いであったのだろう。

 鸕野讃良大后、後の持統天皇が、大津皇子を陥れたという確かな証拠もない。ただ、彼女が競争相手である草壁皇子の母であったことと、その辣腕振りからそういう風評が立ったのではないかと推測されるだけである。
 彼女が残した詩歌から、彼女がいかに夫である天武天皇を愛したかを窺い知ることができる。
 彼女の詩歌は美しい。

 天武天皇の死を嘆く挽歌が数首残されているが、中でも悲壮な一首はこの詩ではないだろうか。

『北山に たなびく雲の 青雲の
    星離(さか)り行き 月を離れて』

 星を子供達に、月を自らに喩え、流れてゆく雲に夫を見る。
 遠くへと、手の届かない彼方へと逝ってしまった愛する男性(ひと)
 計算ではなく、飾ることもせず、ただ悲しみだけが迸る。
 空を仰ぎ、髪を振り乱して嘆く様が想像できる様な気がするのである。
 


 大津皇子亡き後、内裏に君臨するはずだった草壁皇子は、病に倒れた。異母弟であり、政敵でもあった大津を母の手によって滅ぼされた衝撃は大きく、脆弱な心は耐え切れなかったのである。
 結局のところ、実母でさえも草壁皇子は大津皇子の敵ではないと判断した。それが彼の心を打ちのめしたのかもしれない。
 弱いなりに、無力ななりに、精一杯戦おうと意気込んでいた草壁皇子にしてみれば、母にすら見限られたと思えたのかもしれない。
 彼は、異母弟の死後、三年しか生きられなかった。

 母上、母上、なぜ大津を討ったのですか。大津を殺したのですか。貴女は何もわかってはいない。貴女は私をも殺してしまった。
 大津と競い、戦うことが私には必要だったのに。
 大津に向ける競争心こそが、私を奮い立たせていたものを。
 政敵だらけの内裏の中で、何とか立っていられたのは、大津への敵愾心が支えになっていたからなのに。
 貴女が壊してしまった。踏みつけにした。
 恐ろしい策謀で、大津を殺した。
 貴女の罪は私の罪。貴女は私ゆえに罪を犯した。
 父上の息子を殺してしまった。
 私の異母(おとうと)弟を殺してしまった。
 私は父上に、どう償えばよいのですか……。

 病に倒れた草壁皇子に代わり、天皇として即位したのは、母、鸕野讃良であった。後世に名高い持統天皇である。
彼女は息子に代わり、孫が即位できる年令になるまでの中継ぎの天皇として皇位についた。
彼女は夫、天武天皇の政策を継承し、次々と改革を成し遂げていった。律令を編纂し、『古事記』『日本書紀』の編纂を続行させ、税制を整えた。女性の身で天武天皇に並び称されるほどの功績をあげたのである。
最愛の息子すらも失った彼女にしてみれば、ともすれば夫のやり遂げることの叶わなかった政策こそが夫の形見であったのかもしれない。改革を成し遂げ、夫の無念を晴らすことでしか自分の愛情を表現できなかったのかもしれない。
あるいは、これくらいのことを成し遂げなければ、これまで流してきた数多の血が報われないと思ったのか。

 大后(おおきさき)に据えられ、政事の表舞台に立ち、そして天皇(すめらみこと)として立ってからというもの、彼女は独りになる機会が格段に減ってしまったはずである。常に誰かしらが側に控えている。彼女の用を承る為に。彼女を護る為に。広い宮城に暮らしながら、彼女は心安らげる場所を持てなかった。
 男であれば、心利いた女の寝所で一時憂さを晴らすこともできたであろうが、女皇であるが故に、尚風聞には気を配らねばならなかったのではないだろうか。
 宮城にある者は全て彼女の家臣。けれどその中に、独りでも心許せる者が存在したのであろうか。
 暗い孤独が老いた女帝を包み込む。
「なんという運命の皮肉か。
 姉上様の忘れ形見である大津が大海人様の容貌とわたくしの資質を受け継ぎ、わたくしと大海人様の子である草壁が、姉上様の気質を受け継ごうとは……」
 父に母の一族を打ち滅ぼされ、心を病んだ姉、太田皇女。
 異母弟を母に滅ぼされ、心砕かれた草壁皇子。
 ほんの一時、女帝は許されない夢を見る。
 もしも、大津が、我が子であったなら……。
 自分は歯痒い思いをすることもなく、安心して頼りになる息子を誇らしげに眺めていたのではないだろうか。
 大海人様とわたくしの資質を受け継ぎ、倭を導いて行く逞しい息子。大陸の国々と対等に渡り合い、文化を吸収し、倭の国の隅々にまで光をもたらす……。
 もし、そんな日々が訪れたなら、わたくしももう少し優しい女になれたのではあるまいか。誰とも競うことなく、策を立てることもなく、憎むこともなく……。
 息子を見つめ、微笑むわたくしの傍らには、あの方がいてくださったのではないだろうか。
 愛を失うこともなく。

 皇后鸕野讃良。持統天皇。
彼女は、ただただ夫を愛し、その愛を乞い求め、息子を愛し、護ろうとしただけの、悲しい女性だったのかもしれない。
 大切な者達の為に最大限己の能力を生かし、またその卓越した能力ゆえに大切な者達を遠ざけることとなってしまった、哀れな女性。
 彼女は、己の為の権力など、望みはしなかったのではないだろうか。


 川島皇子の記録は殆ど残ってはいないという。密告に対する褒賞もなく、内裏において優遇されることもなく、なんら変わることもなく。
 ただ、裏切り者として世間の目に晒されただけである。
 誰からも愛された大津皇子を裏切った卑怯者。
 彼が密告したという証しも、残ってはいない。

 彼に話し掛ける者はもはや存在しなかった。
 人目につくことを恐れて生きてきた彼は、いまや冷たい軽蔑の眼差しに晒されて生きていた。
 川島皇子。
 彼は何もしなかった。裏切ることも、協力することも、戦うことも。ただ、時の激流に抗う術を持たなかっただけである。
(……大津殿、貴方は今の私をお笑いになるか。哀れんで下さるか)
 誰よりも眩しく、輝いていた友。友と呼ばれることが自慢だった友。憧れていた、友。
ともすれば、私は心の奥底では、彼を嫉んでいたのかも知れない。
共に戦う決意をしていたなら、何かが変わったのだろうか。自害させられたとしても、少なくとも、大津皇子の盟友として、名を残すことができたのだろうか。
卑怯な裏切り者と呼ばれずにすんだのだろうか。
ただ、生きたいと望んだだけ。それすらも許されないことだったのか。 
 川島皇子の罪は、無力であったことかもしれない。
 彼も時代の犠牲者だったのだろう。


 大津皇子の死後、大伯皇女は斎宮の任を解かれ、京に戻った。
 彼女の余生が幸福なものであったかはわからない。
 京へ戻る旅の間も、辿りついてからも、弟のいない世を生きる悲しみを詩歌に残している。独り生き残ってしまった悲しみを詠っている。

『 見まく欲しり 我がする君も あらなくに
    何しか来けむ 馬疲るるに 』
(私が一目でも会いたいと願う貴方はいないのに、何をしにここに戻ってきたのだろう。馬を疲れさせてしまうだけなのに)

 大切な人を失った悲しみとやるせなさは、恋情を滲ませて艶めいてさえ感じる。
『馬が疲れるだけ』で、何の意味も無いことだと断言することで、その喪失感の大きさは、生きる気力さえも奪い去ってしまったと嘆いているようだ。

 大津皇子が自害して数年後に、許されてその亡骸を二上山に移葬した時にも、弟への思慕の情を詩に読んでいる。

『 うつそみの 人にある我れや 明日よりは
    二上山を 弟背と我れ見む 』
(この世に生き残ってしまったわたくしは、明日からは弟の眠る二上山を弟と思い、暮らすことでしょう)

弟の墓の近くで暮らせることに、慰めを見出せるほどの思慕を、彼女は抱いていたのだろう。年数を重ねても癒されることなく。
 大伯皇女が弟、大津皇子を失って生きる悲しみを謳った詩歌は、悲しみと共に禁断の想いが滲み出ているようで切ない。恋しい、愛しいといった言葉を使うことなく、焦がれるような恋情と喪失感が伝わってくる。言葉にできない想いは、秘められた分だけ妖しく薫る。

 大伯皇女のその後のことは、あまり詳しくは伝わっていない。謀反人の姉である彼女が華やいだ京で暮らせたとは思えず、また、内裏を敵に回してまで彼女の元に通った気骨ある者がいたとも考えにくい。
 だから、彼女の余生は寂しいものだったのだろう。斎宮として暮らした頃とは比べものにならない、孤独な生活をしていたのだろう。
 それでも、大伯皇女は幸福であったのではないだろうか。
 もはや誰を憚ることなく、一途に愛しい男(ひと)を想うことができる。
身体を失ってしまえば禁忌も意味を成さない。野にあって花を愛で、夜空を見上げては星の世界に心を遊ばせ、心の中の弟に話し掛ける。
「貴方を失っても、世界は変わらず美しい。貴方が愛したままに美しい……」
 美しいと感じる心は生きている。
 心が生きている限り、愛は死なない。
持て余すばかりの時間を過ごすならば、詩歌と、廻る季節と、想いだけを抱きしめて生きる方がいい。寂しささえも噛み締めて、想うことだけで生きられる。
大津皇子も、きっとそんな姉を微笑んで見つめていることだろう。
大伯皇女は風に耳を澄ます。
「大津、貴方の声が聞こえます……」
 生きてください、姉上。
 私はいつも貴女と共にある。
 日差しの暖かさに、私の眼差しを感じてください。
 そよ風に吐息を、肌に触れる水に唇を感じてください。
 私は、大気となってあなたを抱きしめる。
 私は貴女と共に在る。
共に過ごせた時は僅か。それでも、永遠を胸に刻むことはできるのだ。
焦がれるほどに恋しがり、ほんの数刻、戸惑いと恥じらいと、ときめきだけを共有した姉と弟。二人は、怒りや憎しみが芽生える時間すらも与えられることはなかった。
だから、美しい想いだけが大伯皇女の心の中に残ることができた。生涯、心に抱きしめてゆけるだけの想い。
その想いは、千三百年の時を経て語り継がれた。
弟を恋うる、姉の詩。


 人も通わぬ山中に、天を見上げる佳人がひとり。
 彼女は孤高。天界より追放された天女の如く。
 童女の如き無垢な心に、切ないばかりの憧れを宿し、空に囁く。
 天を翔ける弟よ、わたくしが見えますか。
 貴方の喪失が、今も胸に突き刺さる。
 最も神の近くに暮らした皇女は、地に落とされて空に恋する。
 贈るべき人を失った詩歌を、風に乗せて空へと贈る。
 弟よ、弟よ、愛しい、弟よ……。
 恋しさを絶つ術を知らず、拠り所も持たず、翼さえ持てず、地に生きる。
忘れ去られ、顧みられることもなく、静かに残りの時を過ごす。
香りを放ちながらひっそりと咲く、気高い山百合の花のように。







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