飛鳥の皇子
山間(やまあい)の道を騎馬の若者が駆け抜ける。 うっそうと茂る緑の影の中、整えられているとはいえない険しい道を、全力で駆けて行く。 追われるかの如く必死に、恋しい者の下へ駆けるかの如く一途に、険しい道なき道を突き進む。月光の下、露に濡れつつ、後に残した者のことさえも忘れ去り、矢が孤を描くが如く駆け抜ける。 想いは唯一人の女(ひと)の下へ。 会いたい。ただ、会いたい。そして奪い取られたぬくもりを取り戻す。 心の中で、幾度この道を駆けたことだろう。 無力な少年だった頃も、成長し、周囲を警戒しなければならなくなった現在も、気がつけば心はこの道を駆けていた。 想像の中ではこんなにすすきが茂ってはいなかったが、緑の叢を、雪の原野を、心の中では幾度も歩いてきた。 そして今、自分は姉上を目指し、走っている。この道の先に姉上がいる。 思い出すのは小さな手。母の代わりに包み込んでくれたか細い腕。幼くも気品に満ちた顔立ちも、豊かな黒髪も、詩歌を読み上げる優しい声も、何一つ忘れてはいない。忘れるはずがない。 若者は歯を食いしばる。 ようやく、会える。馬よ、もっと早く駆けてくれ。
その夜、草壁皇子は久方ぶりに母の住まう宮を訪れた。 内裏では毎日のように顔を合わせてはいるが、息子として母に会いたいと思ったのは本当に久しぶりのことだった。会えば無言の圧力が掛かる。そんなことを考えて、なんとなく間遠になってしまっていた。ことに、父帝が亡くなられてからというもの、母も人を遠ざけていたこともあり、殆ど顔をあわせる機会が無かった。 これではいけないと、草壁皇子は思い直した。母が引き篭もるほどに心弱っているのならば、自分こそが力にならなくてはいけなかった。 そんな後悔の念にかられ、彼は意を決して母の元を訪れた。 彼は袖に隠した数珠をそっと握り締めた。母に会う勇気を与えてくださいと願ったのかもしれない。父帝の死以来、肌身離さす持ち歩くようになった数珠。生前は心休まることの無かったであろう父帝が、安らかに眠れるよう、御仏に祈りたいと思ったのだ。 彼はそんな若者であった。 女官に先導され、母の篭もる室へと向かう。草壁皇子と入れ違いのように室から出てきた者があった。見たことのない顔。下位の役人にも見えそうな、見栄えのしない男が母の側近くにいたことを不審に思いながらも、おそらく母の子飼いの小者であろうと深く考えることはしなかった。 「母上、ご無沙汰をしてしまい、申しわけありません。その後お加減はいかがですか」 久方ぶりの息子の訪れに、母、鸕野讃良大后が晴れ晴れとした顔を向ける。 挟軾(きょうしょく)に力なく凭れる母は、少し老いて見えた。 「おお、草壁か。よう来てくれました」 いつもは何か言いたげな、少し眉を寄せた表情で自分を見る母が、今宵は心から自分の訪れを喜んでくれているのを見て、草壁皇子は少し安堵した。 母上は思いの外お健やかな様子でいらっしゃるようだ。 母上は見舞いが遅くなったことを不快に思ってはいらっしゃらないようだ。 そのどちらにより安堵したのかは、草壁皇子自身にもわからなかった。 「この頃は些細な用事に追われてなかなか時間が取れず、見舞いが遅くなってしまいました。お許しください」 草壁皇子は母の前に、深々と頭を下げる。 「気にするでない。政務を優先するは当然のこと。そなたがそうして励んでいてくれるからこそ、わたくしも養生することができる」 いとおしげに息子を見つめる大后の瞳は和やかで、とても辣腕で知られる女帝とは思われない。微笑んだ顔は息子の目にも美しく見えた。 けれど、草壁皇子は母の様子にただならぬものを感じ、僅かに身構えた。 (何かが、おかしい) 父、天武天皇に心酔していた母が憔悴してしまったのは無理のないことだと思う。父上がご危篤となってからは寝食を忘れて神仏に祈り続けていたと聞く。父上を愛し、父上の為に生きてきたような母上。父上の死と共に抜け殻の如くなられたとしても不思議はない。 けれど、何かが違う。母上は抜け殻になどなってはいない。ゆったりと、動くことすら難儀そうに見せながら、瞳は輝きを失ってはいない。まるで、内に秘めた炎が透けて見えるかのようだ。 (何を目論んでおられるのか) 母、鸕野讃良大后の力は誰よりも知る草壁皇子である。見間違えようがなかった。 (大津か……) 母が動こうとしていることに、草壁皇子は動揺した。彼は、異母弟との和睦の道を探るべきかと思案していたのだ。先の大戦によって生まれたこの国の傷はまだ完全に治癒してはいない。記憶する者の心の中で、今も血を流し続けている。 まして、相手はあの大津。内裏は完全に二つに分かれるだろう。大津を支持する者達と、鸕野讃良大后を支持する者達……。 分ってはいても、やはり直接母が動くということ自体に彼は傷ついた。母は政務を自分に任せても、大津の対処はご自分で動かれる。私では対応できないと思っておいでなのだ。 予てから薄々分かってはいたことではあるが、やはり実の母にすら大津に劣ると思われている事実は、繊細な草壁皇子を打ちのめした。 「草壁、顔色が優れないようじゃ。無理をしているのではあるまいな」 母の顔で大后が息子の顔を覗き込む。自分より遥かに背の高くなった草壁皇子の頬に手を沿え、目を細める。 「天武天皇様に、よお似てきたのう」 息子の顔に夫の面影を重ね、鸕野讃良大后はうっとりと見惚れる。 大海人皇子様の忘れ形見がここにいる。わたくしにはまだこの子がいる。それが、最愛の夫を失った彼女の最後の生きる縁(よすが)だった。 しかし、すでに幼子ではない草壁皇子は、母と共に感傷に浸ることはできなかった。 「母上」 「何か」 母はまだ微笑んでいる。この笑みが怒りに変わる瞬間を思い、草壁皇子は僅かに躊躇した。しかし、これだけは確かめねばならぬと思い直し、意を決した。 「父上は、真に何も言い残されなかったのでしょうか」 「なんじゃと」 母の瞳が、冷徹な政治家の目に変わる。 「父上は、何一つ遺言を残されなかったのでしょうか」 震えぬように、草壁皇子は両手を握り締めた。 「生前の父上が、私のことを頼りなく思し召しておられたことは存じております。私も努力はいたしましたが、ご期待に添えなかったことは事実です。そのことで、父上がお考えを新たにされたとしても無理のないこと。むしろそう考える方が自然なように思えます」 「何が言いたい」 草壁皇子は大后の威に押されながらも、最後の一言を言い切った。 「次代の天皇位に就く者について、父上には何かお考えがあったのではありませんか」 鸕野讃良大后は溜息をついた。眉間にしわを寄せ、額に手を当てる。 「何を言い出すかと思えば……」 苦い思いが込み上げる。 夫、天武天皇が死の床で最後に発した言葉を、彼女は封印した。外部に漏らすことは一切許さなかった。『大津を呼べ』ただその一言のみが最後の言葉。あと一言あれば天武天皇の意向を知ることができただろう。けれど、夫は最後の言葉を直に大津皇子に伝えようとした。 『皇位を継げ』 『草壁を支えよ』 夫の意思がそのどちらであったのか、今となっては知る由も無い。けれど、その一言の為に鸕野讃良大后は夫を憎んだ。 なぜ、最後の言葉を託す者が草壁ではなかったのか。妻たるわたくしではなかったのか。 向ける者を失った憎しみは、捌け口を政敵に求めた。 (なぜ、最後の最後まで……) 夫が自分を軽んじていたとは思わない。わたくしは信頼できる片腕であり、良き友でもあった。世継ぎとなる息子を産み、共に国の礎となるべく奔走した。 わたくしは常に大海人皇子様と共にあった。けれど、夫の目に、ただの女人として映ることだけは無かった。わたくしの一番の望みは適えられなかった。 大后は息を大きく吐いて気を取り直した。今は、この息子を何とかしなくてはならない。 「なぜ、そのようなことを思う」 母の問いに草壁皇子の顔が曇る。 「比べれば、一目瞭然でしょう」 「誰と比べるのじゃ」 「……大津、です」 武芸に優れ、学問を好み、詩歌の才にも恵まれ、誰からも愛される男。 容姿に優れ、才に溢れ、それでも奢ることなき稀有な皇子。 口惜しさに、草壁は唇を噛み締める。 幼い頃から幾度も見てきた息子の表情に、母は苦いものを噛み締める。 (まだ、苦しむのか) 頼りない息子。決して劣っているわけではないのに、秀で過ぎる異母弟の呪縛から逃れることができずにいる。 不憫な草壁。 「ならば尋ねる。草壁、そなたは大津がおらねば心安らぐのか。あの男が生まれておらねば、そのように己を卑下することはなかったのか」 「母上……」 射抜くような母の眼光に圧され、草壁皇子がたじろぐ。 「草壁、そなたは何もわかっておらぬ。己自身も、皇位につく者の務めも」 揺るぎない母の眼差しに、草壁皇子は吸い寄せられる。 「なぜそなたが天皇に相応しくないなどと思うのか。そなたは心穏やかで寛容。決して下々の者に無理難題を押し付けたりはせぬ。勉学に励み、詩歌の才も十分ある。体は幾分虚弱じゃが、病弱というわけではない。武芸も幼い頃から励んでいたな。父上が武を重んじられた故に、その期待に応えようと努力を惜しまなかった。 草壁、その努力こそが肝要なのじゃ。より良き君主となるべく努力すること。臣下の意見を聞き、民の為に最良の治世を敷くこと」 ことの初めから完璧であることはない、と母は息子に言い聞かせた。 「確かに、大津は稀に見る大器じゃ。あらゆることに秀でているかも知れぬ。だがな、だからといって天皇としても優れているかといえば、必ずしもそうではない。宰相よりも賢者である必要はなければ、将軍を打ち負かすほどの武の力量も必要ではない。要はどれだけ国民(くにたみ)を思い、努力できるか。それだけなのじゃ」 母の言葉に、草壁皇子の瞳が揺れる。慰めと励ましの想いが心を温めてくれるかのようだった。 「大津などと己を比べる必要はない。どれだけ国民の為に尽くせるか、それだけを考えよ。天武天皇も、わたくしの父、天智の大王も、国の行く末を最優先に考えて行動された。それ故に偉大なる大王と賞されたのじゃ」 涙が、草壁皇子の瞳から溢れた。臣下からは期待されず、母の期待には応えられず、全てを投げ出したいとすら思っていた心に、母の慈愛の言葉が温かく沁みた。 「ありがとうございます。……母上」 ・・・・・ 息子、草壁皇子が辞去したあと、鸕野讃良大后はは人払いをし、己が居室に篭もった。 彼女は、苦悶の中にいた。溶岩にも似た暗く熱い感情が心の奥底から沸き上がり、皮膚のすべてを伝って流れ落ちるかの様な苦しみだった。 (何故、何故、何故、……わたくしはこの苦しみから解放されぬのか) 血を吐くような叫びであった。 (負けてなどおらぬ。何一つ負けてなどおらぬ。わたくしほど優れた女人はおらぬ。わたくしほどあの方を愛し、尽くした女はおらぬ。 ……なのに、何故っ) いつも、いつも、いつも比較され、苦しめられてきた。何一つ劣ってなどおらぬのに、負けは常にわたくしと決まっていた。そして取るに足りぬ女であるかのように、自己憐憫の海に沈められてきた。二十余年もの間。……なのに、何故、わたくしはあの女の呪縛から逃れられないのかっ。 (太田の姉上様……っ) 憎んでも憎んでも余りある、同じ母を持つ姉。心弱く、取り立てて才も無く、私より抜きん出て美しいというわけでもなく。 ただ先に生まれたというだけで、生きていれば大后とされていた女。儚く優しげに見えるというだけで、大海人皇子様のお心を掴んだ女。 死んでなおかつわたくしを苦しめる女。 (何故、よりにもよって、わたくしの息子に姉上の面影が宿るのか) 自信も無く、己の非才を嘆き、言葉一つに心振るわせる息子。 ただ静かに微笑んでいた太田の姉上様。 何故姉上の息子よりも、わたくしの息子の方が姉上に似ているのか。 何故姉上に似た息子をわたくしが守り、励まさなくてはならぬのか。 大いなる矛盾に鸕野讃良大后は身悶えた。 優しく、儚く、美しいだけの姉上様。大海人皇子様の腕の中で、微笑んでいただけだった姉上様。そしてその愛らしさ故に誰よりも愛された姉上様。 「憎い……っ」 少女の様な儚さ、愛らしさ故に寵愛を独占した姉、太田皇女。彼女があと数年生きながらえたとしたら、あるいは他の女人に大海人皇子の寵を奪われることがあったかも知れない。容色の衰えと共に愛を失う虚しさを味わったのかも知れない。 けれど彼女は若く愛らしいままに時を止めた。人々の記憶の中に、大海人様のお心の中に、美しいままの姿を残して。 そして、妹鸕野讃良の心に、決して消えない敗北感を刻み付けた。死者に勝利する術などあるはずも無い。 大后となっても、女人の身で政務に携わる立場となっても、他にどれだけの自負があろうとも、もはや姉に勝利することだけは叶わない。 (なればこそ……) 決して、草壁を敗者にすることだけは許さない。 わたくしの息子が姉上様の息子に負けることなどあってはならない。 断じて。 「我が君、大海人皇子様、わたくしは貴方様に背きましょう。貴方様が何を望んでいらしたとしても、もはやわたくしは従いませぬ。わたくしはわたくしの想いを貫きまする。 大津と戦い、追い落とし、討ち滅ぼして見せましょう。 大津の幸福は許さない。何もかも奪いつくし、名も誉も泥に塗れさせてみせる。 我が君、許せぬとあらば、わたくしを罰しに参られませ。怨霊となってでも、この世にお留まりになればいい。……のうのうと姉上様のもとになどいかせるものか」 姉に愛を。自分には信頼を寄せた男を、彼女は今も愛し、憎んでいた。
我が夫、大津皇子様が京から姿を消されたのは、ほんの一昼夜ほどのことでした。誰にも、わたくしにさえも行き先を告げずに行かれ、戻られてからも何もおっしゃっては下さいませんでした。 けれど、お顔にははっきりと書いてございました。迷いを断った、と。男らしいお顔に晴れ晴れとした笑みを浮かべて、そう物語っていらっしゃいました。 だから、わたくしにはわかってしまいました。 姉君様に会いに行かれたのだと。
騎馬が駆け抜ける。 夜道を、昼尚暗い山道を、可能な限り全力で疾走する。 決して遠い道のりではない。駆け抜ければ半日ほどの行程である。 けれど、遥かなる伊勢。 天皇の許しなくしては参拝すら許されぬ神域。男子禁制の神の宮。 禁じられたが故にその道程は永遠となった。 姉をいつか取り戻す。その夢の為に、彼は予てから最短の道筋を調べ、準備した。いつでも旅立てるように用意した。 今すぐ取り戻すことは叶うまい。けれど、もう待たない。 無謀と謗られようとも、俺は立つ。 その為に、最後の覚悟を決める為に、大津皇子は最愛の姉の元へと駆け抜けた。
深く暗い樹木の緑に守られた神の宮。昼の陽の光も疎らな山道。時折遠くで鳥獣の鳴き声が聞こえる。 しん、と張りつめた大気。風すらも神の息吹の如く感じられる。 冷気は霊気の如く満ち、木は神の気の如く立つ。 日の暮れた聖地に踏み入ることの恐怖。 許されざる罪を犯しているかの如き怯え。 圧倒的な孤独と威圧。 豪胆な若者でさえも、俗人たる身を拒絶されていることを実感する。 闇が全身を包み、恐怖を増幅させる。 月光すらも射さぬ森。 遠くに獣の気配を潜ませる闇。 しんとした静寂と、澄んだ虫の音が共に存在し、若者を押し包む。 眼が、青白い二つの光を捕える。 牡鹿。 闇の中に、遠くに、森の主の如き巨大な牡鹿が佇んでいる。 ここは、神が住み参らせる 声が、聞こえたような気が、した。 縄張りを荒らす者を威嚇しているだけなのかもしれない。 けれど、静かな怒りを湛えて人間を見据える牡鹿に、若者は神の威を感じた。 去(い)ね 馬上から降りた若者は膝をつき、頭を垂れる。 お許しください。どうかお見逃しください。 この一時の代わりに、残る生涯、御国を支えます。
強い想いなくして、この道を踏破することは不可能だったろう。 彼に迷いはなかった。幼子のように一途に姉だけを欲していた。 その心の叫びが神々に届いたものか。 彼は姉の住まう斎王寮に到達した。
深い森に抱かれた神の住まう社(やしろ)。伊勢神宮。獣の遠吠えを遠くに聞きながら、今宵も衛士達が至宝の護りに就く。数多の神宝と斎王が安らかな夜を過ごす為に、彼らは今宵も篝火を焚き続ける。
衛士の詰問に、若者は「大津皇子よりの使者」とのみ応えた。 身分卑しからぬ若者。けれど高貴の身であれば、こんな夜更けに供の一人も連れぬなどとはありえない。衛士は対応に窮し、宮司に対処を求めた。 宮司は使者と名乗る若者を見るなり、眉を顰めた。 「この様な時分に使者殿が到着されるとは、よくよくの重大事とお見受けする。なれどここは周知のとおり、男子禁制の神の地。使者殿をお通しすることは叶いませぬ。まして斎王様は一日の務めを終えられ、ご休息なさっておられます。 ご用件は私が承り、明日にでも斎王様に言上いたしましょう」 若者は一瞬苛立ちを見せたが、思い直したように笑みを浮かべた。 「斎王様は抜かりなく守られていると知って安堵した。だが、こちらも火急の用にて駆けつけた身。簡単に引き下がるわけにはゆかぬ。 宮司殿、大津皇子より託された物がある。至急これだけでも斎王様にお届け願えまいか」 若者は手にした布袋から一枚の板切れを取り出し、宮司に手渡した。 「これを見れば斎王様は事態をお察しくださるだろう」 板切れには子供の様な字で詩歌の様なものが書きなぐられていた。 宮司は大津皇子様も奇妙な物をお送りになったものだと訝しく思いながら、僅かに目を細め、板に手をかざした妖しい気配の無いことを確認し、呪詛は掛けられてはいないと安堵する。ただの板切れであれば斎王様を害することはないと思い直し、すぐにお届けする旨を使者に伝えた。敬愛する斎王様が日頃から気にかけておいでになる弟皇子様のこと。お喜びになるだろうといたって気軽に引き受けた。
奥へと歩み去る宮司の背中を見つめる若者は、一見至極冷静であるかに見えて、実は逸る気持を抑えかねていた。おっとりとした宮司の遅々として進まぬ歩みに苛立ちながらも、この慎重さが姉上を守っているのだと言い聞かせて己を宥める。 胸の鼓動の高鳴り。落ち着かぬ心。 姉上が来る。姉上に会える。 若者は大きく息を吸い、呼吸を整えた。
一日の務めを終え、夕餉も済ませた斎王は、すでに寝仕度を整えていた。女官の手で丁寧に梳られた黒髪は光沢を放ち、肩から背へ、腰へと流れ落ちていた。 「いつ見てもおみごとな御髪(おぐし)でございますね」 女官達はほっと溜息をついた。 「艶やかで豊か。とても心地好い手触りで、私は毎夜この刻限を楽しみにしております」 櫛を手にした女官は羨望の眼差しで斎王の黒髪を見つめている。 彼女達の敬愛する主(あるじ)は美しかった。生来の美貌に加え、天皇の代理として斎王に任じられたという自覚が気品と威厳とを添え、儚げな姿に意外なほどの凛とした風情を漂わせていた。 斎王として奉じられて十余年。すでに若さの盛りは過ぎてしまったとはいえ、美貌の斎王の上に年月は振り積むのを忘れたかのようであった。 美しい斎王。その心は塞いでいた。 父帝の死を伝えられて以来、心安らぐ時はなかった。もとより天皇の代理たる斎王の身。父帝の死に際立ち会える筈もなく、病が重いと知らされた日から覚悟はしていた。それでも、娘として父の死に平静ではいられず、人目を忍んで涙にくれる日々を過ごしていた。 その想いは複雑であった。新たな天皇が立たれれば、新たな斎王が任じられる。己がこうして伊勢にあるのも父帝の喪が明けるまでのことだろう。 都に、人の世に帰る。 弟に、会える。 大津の心は安らかであろうか。 ・・・・・
「斎王様、京よりのお使者が参られまして、この品を献上するよう言い付かったそうにございます」 銅鏡を前に、物憂げに取り留めない女官達の話を聞いていた斎王が振り向き、首を傾げる。 「今の時節に使者が送られて来たのですか」 「弟皇子様からとのことです」 斎王の顔色が変わった。 「早よう、これへ」 ほの暗い灯火の灯りの中でも、それとわかるほどに斎王に瞳には焦燥があった。 ずっと、ずっと案じていた弟からの使者。 父上様がお隠れになり、弟は今、内裏でどのような立場に立たされているのかと、ずっと気に掛かっていた。 寄る辺ない身の上の弟。常に人の目を意識しなければならなかった弟。たまに送られてくる便りにはっきりと記されることはなかったが、弟の苦悶は己が身の上のこととして感じられた。 その弟が何を訴えてきたのかと、不安のあまり、気も遠くなりかけながらも、斎王は差し出された板を受け取った。 「……これは……」 板を受け取った手が小刻みに震える。 木簡というほどきちんとした形ではなく、子供の手習いの為に与えるただの木切れ。 板面に書かれていたのは拙い文字。手本として与えられた詩歌の難しい字だけを抜書きしてある。弟に字を教えた幼い自分の字と、その字を真似た弟の字。 「ああ……っ」 (大津が、来ている……っ) 立ち上がり駆け出す斎王を、不意を突かれた宮司は留める事ができなかった。 裾を翻し、髪を振り乱したありえない姿で使者の元へと向かう。 「斎王様、お留まりくださいっ。俗人にお姿を現すなどと、許されません」 女官達に阻まれ、歩みを止められた斎王が苦しげに叫ぶ。 「手を離しなさい。わたくしを止めてはなりません」 敬愛する斎王の、いつになく激しい有様に動揺した女官達は、驚きのあまり手を離した。 威厳も品位も慎ましさもかなぐり捨てたかのように、斎王は駆けた。必死に、息も絶え絶えになりながら、あらゆる制止を振り切って。 「大津……っ」 斎王が絶叫した。
静寂に包まれていた斎王寮。奥でなにやら騒ぎが起きているようであった。 訝しんだ宮司の一人が様子を見に行こうとして、慌てて引き返してきた。 「み、皆の者、控えよ。斎王様のおなりなるぞっ」 血が沸騰するような錯覚を使者である若者は覚えた。 もはや耳を澄まさずとも奥の騒ぎは聞こえてくる。複数の人間が、おそらく斎王の後を追ってきているのだろう。 衛仕達は慌てて跪き、顔を俯ける。斎王を守ることが務めの彼らは、使者を残して退出することはできない。せめても神聖なる斎王の姿を見るまいとの配慮であった。 宮司、衛仕の誰もが跪く中、不遜にもただ一人立ち尽くす若者。 京よりの使者は顔を背けることもなく真っ直ぐ前を見つめ、斎王の到着を待った。
誰の制止も、姿も彼の瞳には映らなかった。 己の心の臓の鼓動が意識しすぎてうるさかった。 全身が熱を帯び、汗ばむ。 複数の足音。諌める声。度合いを増してゆく周囲の緊張。 若者は真っ直ぐに前を見つめ続ける。 そして、斎王が姿を現した。
束ねられてすらいない乱れ髪が揺れている。 簡素な寝衣に包まれた肢体は華奢で、苦しげな呼吸の度に胸のふくらみが上下するのを隠せない。 薄闇のような灯火の灯りの中では駆けてきた女の顔が上気しているのはわからない。けれど、灯りを反射した瞳は熱を帯びたように煌いている。 無骨な衛仕、表情乏しい宮司、女のあられもない姿を隠そうと右往左往する女官達のただ中にあって、一人光沢を放つかのように女が立っている。 うっそうと茂る草むらの中に、隠れるようにひっそりと咲く白百合の花の様に。 風にゆれ、俯く姫百合の花の様に。 儚く可憐な斎王、大伯皇女がそこにいた。
「大津……っ」 「姉上……っ」 感極まり、二人はそれ以上の言葉を口にすることができなかった。触れることを恐れるかのように、大伯皇女は後数歩を残して立ち止まった。大津皇子も土足で無下に踏み込む様なことはせず、ただ、貪る様に姉の姿を見つめ続けた。けれど、投げかけあった二人の言葉は周囲の者達の耳にも届き、仰天させるに十分であった。 許可無く押し入ってきた若者。斎王の実弟。皇子。 そして特別の計らいを持って、大津皇子は斎王寮に立ち入ることを許された。
我が夫、大津皇子様は、この夜いずこに赴かれたのか、ご自分の口から語ってくださることはありませんでした。ただ、いつになく心晴れ晴れとしたご様子と、精気に満ちたお顔から、私がかってに推測したに過ぎません。 姉君様に会いに行かれた。 積年の思いを果たされた。 そのことで大津様は活力を増し、一段と凛々しく美しくおなりになりました。 束ねた御髪は乱れ、全身汗まみれになっていても、大津様はお美しい。黒曜石の瞳は輝きを増し、凛々しい口元には笑みを浮かべていらっしゃる。これほどに、自信と活力に満ちた大津様をわたくしは知りません。まるで少年のような大津様。 それは、かつてないほど私の心を波立たせました。 やはり、叶わない。大津様の迷いを断ち、生きる意欲に満ち溢れさせることなど私にはできない。そう、思い知りました。 けれど、それでも大津様がお帰りになるのはわたくしのところです。戻るなり抱きしめ、くちづけて下さるのはこのわたくしなのです。 だから、わたくしは負けてはおりません。勝つことはできなくとも、決して負けることはない。 喩えそれが、儚いかりそめの勝利であったとしても。
寝衣であった大伯皇女が身支度をする間、大津皇子は別室で待たされることとなった。小さく簡素な居室は、とても皇族を通すような場所ではなかったが、禁を犯した彼を内密に迎える為には致し方のないことだったろう。 実のところ、彼はそんなことには気づいてさえいなかった。 心が思いがけぬ程に衝撃を浮け、他のことは何一つ考えられない有様であった。 (なんということだ。あれほどまでにたおやかな女人におなりだったとは…………) やや乱れた黒髪と、薄い寝衣。呼吸を乱し、僅かに開いた赤い唇。上下する豊かな胸元。 丁寧に手入れを施された髪は射干玉(ぬばたま)色の光沢を放ち、豊かに流れ落ちていた。 幼い頃の面影はそのままに、落ち着きと憂いとを身に備え、姉は、匂い立つほどに美しい姿で立っていた。 (胸が、苦しい) 彼は圧倒され、平常心を失いかけていた。 (忘れるな。何ゆえこの地まで駆けつけたかを思い出せ) 呪文のように、彼は自分自身に言い聞かせた。
慌てふためく女官達に手早く仕度をされながら、大伯皇女もまた、波立つ心を押さえかねていた。 (大津……。なんと凛々しく、立派な若者となったのでしょう……) 大伯皇女もまた、突然訪れた弟の姿が心に残り、平常心を取り戻すことができずにいた。 すっきりと背の高い、鍛え上げられた体躯。精悍なのに、理知的でもある顔立ち。表情豊かな唇と、強いまなざし。どこで着替えたのか、身なりは下級の武官の出で立ちであったけれど、匂い立つような高貴さは隠しようもなかった。 父である天武天皇に似ていると思った。面差しはとてもよく似ていた。けれど、目の前に立つ若者には父帝がすでに失っていた若さと躍動感が漲っていた。 (なんと美しい若者……) ときめきと息苦しさとに苛まれ、思考すらも定まらない。 彼女の心の揺れは、大津皇子よりも深刻であった。 斎王として異性と身近に接することを禁じられた彼女は、今感じているような戸惑いとは無縁の人生を生きてきた。無縁であったが故に、湧き上がる感情を封じる術を知らず、隠すこともできず、奇妙に浮き立つ想いを心のどこかで楽しんでいた。 (……弟。大津は、弟……) 心の揺れを抑える為に、彼女もまた呪文のように自身に言い聞かせ続けた。
姉弟は向かい合って座りながらも、どちらも次の言葉を紡ぎだせずにいた。 小さな灯火の光の中、少し俯き加減の姉を、大津皇子は黙って見つめ続けた。 弟の視線を受けることがなぜか気恥ずかしく、大伯皇女は顔を上げることができずにいた。 引き離されてから、あまりにも長い時が過ぎてしまったのだと二人は気づいた。 心の中の面影とあまりに違いすぎて、目の前の素晴らしい異性をもはや意識せずにはいられなくなっていた。 十余年もの長い間、互いの無事と幸福を願い、祈り続けてきた姉弟。心の中に互いの幼い姿を大切に抱き続けてきた姉弟は、予想もしなかった事態に遭遇し、密かに取り乱していた。側に控えている者達に悟られぬように願いながら。 浅ましい、と彼女は嘆いた。戸惑いながらも、己が感じているものが恋心であることに気づいていた。 口惜しい、と彼は悔やんだ。最上の女を目前にしながら、触れることさえ許されないとは。 幼い思慕と信じていたものが、一瞬にして激しい恋情へと昇華したことを自覚していた。 この時代、婚姻の上での禁忌は少ない。皇族ともなれば、叔父が姪を娶ることも、孫ほどに歳の離れた妻を娶ることも許される。現に父帝、天武天皇は実の姪を四人も娶っている。母さえ異なれば、兄妹が結ばれることも許される。母を同じくする者同士の婚姻でさえ、まれにではあっても存在した。同父同母の姉弟兄妹の婚姻だけは、数少ない禁忌であった。 この世界でただ一人、己だけがこの女性を手に入れることが許されない。 何よりも強い絆と信じていたものが、今は酷く辛いものに感じられた。 意を決し、先に口を開いたのは大伯皇女であった。 「立派に、なりましたね。大津。こうして健やかな貴方の顔を見ることがかない、夢を見ているようです」 「姉上もご健勝のご様子。安堵いたしました」 胸に秘めた思いの欠片を滲ませて、二人は微笑み合った。 ようやく再会のかなった姉弟であったが、触れ合うことは叶わなかった。皇族といえど、俗人。一定の距離をおいて相対ことが求められた。 「何が、あったのですか」 急な訪問の理由として考えられることは一つだった。けれど、弟に否定されることを願って姉は問うた。 弟は重い口を開いた。 「少し、気がかりなことがあり、非礼を承知で参りました」 姉は無事なのか。 鸕野讃良大后の手はまだ及んではいないだろうか。 不安に苛まれ、居ても立ってもいられず、大津皇子は密かに伊勢を目指した。差し迫った状況が、心の箍(たが)を外してしまったのだ。 姉上に会いたい。もはや抑え切れなかった。だから、駆けた。 「見ての通り、わたくしは息災です。心静かに過ごしています」 静寂と祈りの日々。毎日決まった日課を果たし、世の平安を神に祈願する。穢れを知らず、心浮き立つこともなく、日々淡々と過ごしている。それが斎王たる者の生き方であった。 「お健やかなご様子を拝見し、安堵いたしました」 そう口にしつつ、弟の表情が晴れないことに、大伯皇女は気がついた。 「他にも、気がかりがあるのですか」 幼い頃、姉は弟の小さな変化も見逃さなかったことを、大津皇子は思い出した。 「お身の回りに、変わったことはありませんでしたか」 「変わったこと、とは」 姉を不安にさせることを恐れ、大津皇子は僅かに躊躇した。 「不審な者、変事などはありませんでしたか。近頃は何かと物騒なことも多いので、案じられます」 思いつめた弟の顔を見て、大伯皇女は僅かに顔をほころばせた。 「それだけの為にここに来たのですか」 「はい」 「困った子……」 姉である己の身を案じる余り、禁を犯してまで駆けつけてくれた弟。けれど、その結果として自身が失脚するようなことがあればなんとする。大伯皇女はそう諭すつもりでいた。 けれど、 「私の周囲には、既に諜者が配されております」 弟の言葉に、大伯皇女の顔が凍りつく。 「それは……」 姉の問いに、大津皇子は無言のまま頷いた。 「何という……」 恐れていたことが起きてしまった事に、大伯皇女は気がついた。 「事態は、既に動き出しています」 大伯皇女は両手で顔を覆い、嘆息した。 これまで表立って庇うことなかったにしても、精神的な枷となっていた天武天皇が身罷られた今、この国の実質上の支配者である女傑を止める(とどめる)者はいない。鸕野讃良大后は、いよいよ息子を脅かす者を粛清にかかったのだ。 長年押さえられてきた憎しみの感情が、大津皇子に向かって流れ始める。 「ならばなおのこと、何故ここに来たのですか。禁を犯したと知れれば、それだけでも十分貴方の立場を危うくすることでしょう。むしろ貴方は貴方の大切な人達の側にいて、守って差し上げなくてはならないでしょうに」 咎めるようなまなざしで、姉は弟を見据えた。今のこの時期に、あえて危険を犯した弟の気持を図りかねた。 天皇の代理である斎王たる己が身が、害される事は考えにくい。警護の者達は十分配されている。まして聖なる地を血で汚すことを恐れぬ者はいないだろう。 大津皇子の周囲の者達こそ、身の危険に晒されていると考えるべきだろう。 「どうしても、姉上にお会いしなければならなかったのです。 ……心を定める為に」 見つめ返す弟のまなざしに、姉は怯んだ。言葉を返すことができなかった。 「今こそ、誓いを果たします」 「大津……」
弟の瞳は、その昔、泣きながら自分を見つめたときと同じだった。明日には潔斎の為、京を離れる姉にしがみつき、離れようとしなかった弟大津。自身の悲しみを抑え、大伯は弟を慰め続けた。 「泣かないで、大津……」 膝を抱え、俯く弟の頭を抱きしめ、頬を寄せる。 姉の瞳からも涙が零れた。 これから先、誰がこの子を守るのだろう。この子の涙を拭いてあげるのだろう。この冷たいまなざしに満ちた宮城で、弟は独りで生きてゆかなくてはならない。 「いかないで下さい」 弟が呟いた。 「独りにしないで。姉上、どこにも行かないで」 「大津」 母を失ってから、姉弟は二人寄り添って生きてきた。父は自分達だけの父ではなく、大后を向こうに回してまで庇ってくれる者とてなく。 「ト(ぼく)定(じょう)で定められたことよ。神様が選んでくださったの。だからもう、動かすことはできないわ」 「嘘だっ。亀の甲羅のひびなんて、なんとでも読めるよ」 確信があっての言葉ではない。けれど、自分達姉弟がそれくらいには疎まれていると、幼い大津も自覚していた。 自分達の母と大后の他にも父帝の妃は数多(あまた)おり、母と同じ天智の大王の血を引く叔母もいる。皇子もいる。なのに何故、自分達姉弟だけがこんなにも疎まれるのか、幼い二人には理解できずにいた。 そして、明日には永遠にも等しい別れが来る。 「どこにいても、あなたを想っているから。会えなくてもあなたを愛しているから」 弟のいまだ華奢な肩を抱き、泣き顔に頬を寄せながら、大伯皇女は繰り返し呟いた。 「きっと、いつかまた、会えるから」 大津皇子は頷いた。 「必ず、姉上を取り返しに行く」 それは、果たせるはずのない約束のはずだった。
あの日から、一途な弟はこの時に備えていたのだと大伯皇女は気づいた。知識も、武芸も、好感の持てる人柄も、何もかもがこのときの為に身につけていったもの。立つべきときに支援を得る為に、自身を鍛え、磨きあげてきた。 弟の心に潜む孤独の深さに、大伯皇女は胸が塞がれる思いだった。弟はこの十余年、自分以上に孤独に苛まれていたのか。誰を愛し、娶り、また戯れに恋を語っても、喪失感が癒されることはなかったのか。 華やかな恋の噂は伝え聞いている。素晴らしい妻を迎えたことも知っている。今は弟を取り巻く優しい人達がいることも知っている。 それでも、姉である自分を失った痛みが癒えることはなかったのか。 「可哀想な、大津」 これほどまでに見事な若者に成長しても、心の中には別れたときの幼い弟がいる。それが嬉しかった。それが悲しかった。 「危険なことは、しないで。貴方の幸せ以外に、わたくしの望むことはないのですよ」 我知らず、大伯皇女は弟に向かって懇願するように手を合わせていた。真実、弟の無事と幸福だけが、彼女の願いであり、生きがいであった。 「相手は、あの大后様。無謀なことはしないで……」 「嫌だっ」 姉の言葉を大津皇子ははねのけた。 「もう、嫌だ。姉上をこんな所に閉じ込めておくなど、耐えられない。自由に外に出ることも、人に会うことも許されず、人としての幸せの全てを封じられて、姉上が生きたまま涸れてゆくのを黙って見過ごすことなどできない」 「大津……」 「俺が挑んだわけじゃない。向こうが仕掛けてきたのだ。姉上を閉じ込めただけでは飽き足らず、俺をも葬り去ろうとしているのは大后の方だ。 ならば受けて立つ。降りかかる火の粉を払うだけのことだ。そして姉上を解き放つ」 弟は、泣いているのだと思った。怒りながら、それでも泣いているのだと大伯皇女は悟った。だから、思わず弟の側に歩み寄り、宥める為にその頭を抱きしめた。 「わたくしは、不幸ではなかったのですよ」 弟からは、微かに香と汗の匂いがした。 「何に煩わされることもなく、心静かに祈りの日々を過ごしてきました。貴方に会えないことは寂しかったけれど、日がな一日、貴方のことを考えて、無事を祈り続けることが許されたのは、この地に封じられたからこそ。もし、京に残ることが許されていたなら、今ごろはどなたかを婿に迎えて、夫と子供の世話に追われて、貴方のことを考えるゆとりはなかったかもしれない。お父様の選んだ、お父様のお役に立つ殿方の為に、生きることを余儀なくされていたかもしれない」 腕の中で、弟の体が強張るのを大伯皇女は感じた。 「それはそれで幸福であったのかも知れないけれど、政争から遠く離れたこの地で暮らすことができたことを、わたくしは心からありがたいと思っています」 本当ですよと、大伯皇女は囁いた。 姉に抱きしめられ、戸惑っていた大津皇子は、ようやく僅かに頷いた。 「……それが真実ならば、父上を恨まずにすむ」 伊勢に姉を封じたことが、姉を閉じ込めたのではなく守ったということならば。 姉を神域に送ることで、政争に巻き込むこと無く、真に姉を誰かに奪われることを避けることができたというのならば。 無関心だと思っていた父が、実は誰よりも自分の望みを理解してくれていたということになる。それならば、心に蟠り(わだかまり)など、残ることはない。 「可哀想な大津。貴方は、泣きたかったのですね」 大津皇子は、大伯皇女の腕の中で、素直に涙を流した。 父帝が身罷れたときでさえも、彼は泣くことができなかった。激しく動揺し、深い慟哭の中にあっても、心の奥底に翳り(かげり)があった。父の死によって訪れるであろう嵐を思い、身構えながら、心の中で叫んでいた。 父上、貴方は何を考え、望んでいらしたのか。 父は、草壁と比して自分達姉弟を軽んじていたのか。 母を早くに亡くしたこと以外、母が大后になる前に身罷ってしまったこと以外に、劣るようなことはなかったはずなのに。その思いが、父帝に完全に心を開くことを許さなかった。 けれど、誰よりも想いを共有することができる姉に抱きしめられることで、彼はようやく心のままに涙を流すことを自分に許した。 思わず、大伯皇女は弟を抱きしめる腕に力を込めた。大津皇子は姉の華奢な身体を抱き返した。幼い頃のように。 「大津、危ないことはしないで。大后様がどれほどの権力(ちから)をお持ちであるかは、外の世界を知らない私にもわかること。まだ若い貴方に太刀打ちできるとは思えない。 貴方に万一のことがあれば、わたくしは生きる甲斐もない……」 心からの言葉であった。 「……姉上と二人、いずこかへ逃げてしまおうか」 「逃げる……」 「東国でもいい。いっそ大陸に渡ってしまってもいい。どこか知らないところへ。誰も俺達を知らないところへ」 誰も自分達を知らないところで、二人、寄り添って生きる。 名も無く、身分も立場も無く。 敵も無く、守るべきものも無く、ただ、二人。 幼い頃、互いの存在だけが縁(よすが)であったように。 弟の語る言葉に、大伯皇女も想いをはせる。 ずっと、二人で生きてきた。会えなくなっても、互いを慈しむ想いが消えることはなかった。互いの上に父の面影を、母の面影を重ね、満たされぬ心を癒しあってきた。 二人きりで、生きることができるなら……。 大津皇子が姉の頬に手を添える。 聖域に暮らす姉は、警戒することも無く弟の顔を見つめ返す。 やわらかなまなざしと温かな微笑み。それが異性に対してどれほどの力を持つのかすらも知らぬままに生きてきた大伯皇女は、弟が唇を寄せかけても顔を背けようとはしなかった。自分の身に危機が迫っていることに気づいていなかった。 今は豊かな黒髪を緩く結い上げ、上質の唐衣に身を包んだ大伯皇女は花の様に美しい。 黒曜石のような澄んだ瞳は灯火を映し、清らかにきらめく。 紅に染められた唇に視線を吸い寄せられ、大津皇子は熱い吐息を吐く。 魅せられた一瞬に成す術もない大津皇子に対して、大伯皇女は全くの無防備であった。 顔を寄せられても警戒することなく、優しい笑みを浮かべていた。 唇が互いの吐息を感じるまでに近づき、大津皇子が瞼を閉じたとき、大伯皇女がつぶやいた。 「……大津?」 あどけない、姉。 微笑を浮かべる姉を見て、既の処で弟が踏みとどまったことにさえ、姉は気づいてはいなかったろう。 姉の清らかな微笑を、曇らせるようなことはできない。大津皇子は苦い笑みを浮かべた。 誰よりも、誰よりも大切な姉、大伯。 「二人で、逃げる……」 優しい笑みを浮かべたままの姉が囁く。 「そんなことは、できないでしょう。貴方の大切な人は、もはやわたくしだけではないのだから」 大伯皇女は弟から、少し身を離した。 「すでに貴方は独りではなく、たくさんの大切な人達に囲まれている。貴方とともに在り、貴方を守ろうとしてくれる人たちがいる。その人たちをおいて、どこに行けるはずもない」 姉はこの上もなく美しい笑みを、弟に向けた。 「無茶をしないで。貴方に何かあれば、貴方を取り囲む人たちにも咎が及びかねない。貴方はすでに、独りにはなれない立場なのですよ」 姉の言葉に、大津皇子は胸塞がれる思いだった。自分は孤独ではなかった。妻があり、友もいる。けれど姉は。姉こそが孤独であったものを。 弟の想いを察して、大伯皇女はもう一度大津皇子を抱きしめた。 「わたくしは、自分を不幸だと思ったことはありません。孤独だと思ったこともない。今はこうして貴方にも会えた。とても、幸福ですよ」 大伯皇女の言葉が大津皇子の胸に慈雨のように染みてゆく。 姉は、優しく愛らしかった姉は、日の光のようにまぶしく暖かな女性へと成長していた。誰よりも大切な、唯一人の女性(ひと)。 「朝まであまり時がないわね。お話を聞かせてね。山辺皇女のことや、粟津王のこと、お父様がお隠れになったときのこと。聞きたいことがたくさんあるわ」
姉と弟、二人きりで過ごせる時間を、二人は大切に語り合った。 一目を忍ぶ逢瀬のように、互いにだけ聞こえる声で、顔を寄せ合い微笑みあう。時折手がふれあい、寄り添い、そのぬくもりに生きて再会できた喜びを確かめ合う。 決して超えられない一線がある。けれどそれこそが決して切れることのない絆なのだと、この夜、大津皇子は切ない思いの中で知ることができた。 夢にまで見た姉との再会に、大津皇子はまた新たな幸福を夢に見る。 妻がいて、息子が楽しげに笑い、自分達家族を微笑んで見つめる姉上がいる。 姉上が自由に野を歩み、詩歌を読む。優しい伯母の後を粟津王が追いかけ、その後姿を山辺が微笑んで見守っている……。 自分はこの大切な家族を守る剣(つるぎ)となろう。いかなる敵からも、嵐からも、大切な者達を守れる強い男であろう。力をつけ、智恵を磨き、この身を楯にしても家族を守れる男になろう。 間に合うならばと、大津皇子は思った。
夜の明けるのを恨めしく想いながら、大津皇子は暇を告げた。日の光も射さぬ早朝、山の冷気の中、見送りに出てきた姉の姿をじっと見つめる。 大伯皇女は周囲の者達が止めるのも聞かず、斎王寮の外まで弟を見送りに出てきてしまっていた。 一晩中語り明かした為に、目の下に薄くくまができていたが、それが尚一層儚げな雰囲気を姉に添えていると大津皇子は思った。 次はいつ会えるとも知れぬ弟との別れに、胸がふさがれ、大伯皇女はろくに言葉を紡ぐことができなかった。だから、たった一言。 「……気をつけて」 それだけを呟いた。 晩秋の風が、大伯皇女の衣の袖を揺らす。 再び弟は、人目を避け、独り山道を駆けて行くのか。 冬の到来を前に、飢えた獣が闊歩する山の道。標(しふべ)も無い道を独り行くのか。 独り険しい道を行く弟。 大伯皇女は涙を隠さなかった。流れ落ちるにまかせ、拭いもしなかった。 その姿を見て、大津皇子は姉には恥じらいというものが無いのだと思った。 それは慎みが無いというのとは違う。 夕べ、姉が寝衣のまま駆けてきたときにも思ったことだが、その心は童女の如きままなのだろう。 斎王とは神の最も側近くに仕える者。そのまなざしも微笑みも、存在そのものが貴いが故に、恥らうどころか、隠すべきと考えることすらも無いのだろう。 その姿を現すことさえも慈悲。 意識することはなくとも、誰もが神の威にひれ伏す。 心気高く、慈愛に満ち、地上に光を齎(もたら)す。 その心、完全なる無垢。 こんなにも稚(いとけな)い人を、高貴な女性を、俗世に連れ戻したいと願っている自分は、あるいは罪を犯そうとしているのかもしれない。 大津皇子は思わず、姉の華奢な身体を両手に抱きしめていた。 「大津……」 「もう少しだけ、このままでいさせてください。姉上」 姉上は必ず自分が守る。姉上が望まない限り、男達の欲望など決して近づけはしない。 誰よりも美しく、穢れない俺の姉上。 昨夜、触れそこなったくちびるがもの問いたげに震えるのを見つめながら、大津皇子は熱い吐息を吐く。腕の中の姉のぬくもりと華奢な体の感触。ほのかに香る姉の香りを記憶に焼き付ける。 戸惑うようにおずおずと抱き返してくれる姉の手を感じ、大津皇子は姉を抱きしめる腕にいっそう力を込めた。 馬を伴い、進んできた神官の言葉に、大津皇子はようやく姉から身を離す。 「必ずまた、近いうちにお会いします。それまで、お心安らかにお過ごしください」 馬上に身を躍らせると、離れがたい思いを引き千切るように、一気に馬を駆けさせた。
遠ざかる馬上の弟を見送りながら、大伯皇女は込み上げてくる不安な想いに心震わせていた。 大津は、運命(さだめ)と戦うつもりなのだろう。 はっきりと口にしたわけではなかったが、迷いを振り切った様な弟の瞳に、大伯皇女はそう確信した。 弟は、父、天武天皇の皇子であるということ、天智の大王の直系の孫であるということを心の拠り所としている。偉大な二人の大王の血脈を受け継ぎ、その二人の名に恥じぬ存在でありたいと望んでいる。 二人の大王に並び立つことが叶う場所は、ただひとつ。 この姉の為に、無茶なことはしてくれるなと大伯皇女は祈った。 けれど、この姉を守る為に、弟は無茶な戦いを挑もうとしている。 天下第一の実力者となった雌獅子に、若すぎる獅子が挑もうとしている。それは限りなく無謀なことに思えた。 山に分け入る弟を想い、大伯皇女は神に祈る。 ……どうか、弟をお守りください。 険しい山道で迷わぬように。 恐ろしい獣の牙にかかることが無いように。
弟の無事を願い、大伯皇女が詠んだ詩がある。 『我が背子を 倭へ遣るとさ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし』
密かに伊勢を訪れた弟を見送る際に、姉、大伯皇女が詠んだとされる詩歌である。 陰謀渦巻く倭へと帰還する弟の身を、案じる心情にあふれた詩歌である。 もう一首残されている。
『ふたり行けど 行き過ぎかたき秋山を いかにか君が ひとり超ゆらむ』
独り危険な山道を行く弟の無事を願い、不安な思いを込めて詠んだ詩とされている。一種の恋情を滲ませた、弟を想う詩歌として名高い。 けれどこの詩歌、たった一つの言葉を置き換えるだけで、込められた想いはまったく違ったものとなる。 『秋山』を、『鸕野讃良大后』に置き換える。すると詩の意味は、「二人で挑んでも勝つことの困難な相手に、貴方は独りでどう挑むつもりなのでしょう」そうならないだろうか。 鸕野讃良大后の権力知力財力を秋山の豊かさになぞらえ、謀略の才を獣の牙に置き換える。広大な山に独り挑む若者。 歴史的には謀反の疑いは冤罪との説が有力ではある。けれど、ともすれば、大津皇子は強大な力に挑もうとしていたのではないだろうか。そんな気配を感じる一首である。
幼い我が子を腕に抱き、山辺皇女は夫、大津皇子の無事な帰りを祈り続けていた。 少し前までは、暗殺の危険だけはまだないと考えていた。皇位継承者がはっきりとは定まらないこの時に、迂闊な真似をすれば草壁皇子にも疑いの目が向けられる。それは避けたいことだろうと思っていたのだ。けれど、何事にも秀でた夫を退けるのは難しいと悟れば、どんな恐ろしい手段に訴えてくるかわからない。そう思い至ったとき、山辺皇女は気も狂わんばかりの恐怖に囚われた。 大津様がお戻りにならなかったらどうしよう。 大津様の身に危害が加えられていたとしたらなんとしよう。 大津様のおられない世など、空ろで寒々しく、生きるに値しない。 腕の中で眠る我が子の温もりに、救いを求めるように山辺皇女は頬を寄せる。
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