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作品名:千尋の百合 作者:さとのこ

第2回   大王崩御
大王崩御

 最初に「天皇」号を定めたとされる、天武(てんむの)天皇(すめらみこと)。
 戦いによって帝位を手中にし、以後、様々な改革を断行した賢帝として知られる。
 その改革は政治、宗教両面に及び、その後の国の行く末に、確かな道筋を示した。
 また多数の詩歌を残しており、恋の名手としても名を残す。


 祈祷の声が響き続けている。病を、悪霊を、退散せしめると高僧が声を張り上げる。
 天よ裂けよ。大地よ割れよ。風よ全てを巻き上げ地に叩きつけよ。
 あの方が、大海人皇子様がお隠れになる。わたくしを残し、天を駆け上ってしまわれる。
 そんなことが許せるものか。
「逝かせてはならぬ。断じて逝かせてはならぬ。神官達は何をしている。疫神はまだ払い清められてはおらぬぞっ。僧を増やし、命の限り経を唱えさせよ。天皇の身に万一のことあらば、神官共も僧共も、一人たりとも生かしてはおかぬっっ。」
 半狂乱の鸕野讃良大后に異を唱えられる者など存在しない。
天武天皇が意識をなくされてからというもの、鸕野讃良大后は一睡もせずに付き添い続けている。女人ゆえに祈祷の間に踏み入ることは許されなかった。せめてもと最も近い室に篭もり、数珠を手に祈り続ける姿は鬼気迫るものであった。
意を決した女官の一人が恐る恐る進言する。
「大后さま、これでは貴女さまのお体が持ちませぬ。身を横たえるだけでも違いましょう。少しでもお休みくださいませ」
「かまうな。我が背の君が疫神と戦っておいでのときに、休んでなどおられるものか。それよりも、祈祷の間に何か変わったことは無かったか。意識はまだ戻られぬのか」
 蒼白の顔。険しさを増した眼差しで、女官を睨(ね)めつける。威に気圧されながらも女官が応える。
「やはり、思わしくはないようでございます。長く患っていらしたお体に、この夏の暑さが災いしたとのことです。お薬湯を飲み込むお力も無いとのことで…………」
「黙りゃっ」
 女官の言葉を鸕野讃良大后の悲鳴のような声が遮る。
「縁起でもないことを申すな。我が君が病などに負けよう筈がない。まだ、成さねばならぬことを山ほども残しておられるのじゃ。あの方がおらねばこの国はどうなる。ようやっと国としての体制が整い始めたところで、死ねるわけがない。死んでいい筈がないっ」
全身を震わせ、今にも倒れそうな形相で、大后(おおきさき)鸕野讃良が虚空を睨む。
女官はもはや何も言えず、主の威に平伏(ひれふ)した。
        ・・・・・
(まだです。まだ逝かせはいたしません。草壁が皇位を継承するに、万全の体制は整っていない。大津めを叩き潰してはいない。貴方とわたくしが築いたもの、全てを草壁に受け継がせる為には、まだしばらくの時が要る。勝手に死ぬことなど許しません)
 我が背の君、大海人皇子様。わたくしのすべてであった唯一人の方。貴方を愛し、恋焦がれ、貴方とともにわたくしは生きてきた。血を流すことも、策略を廻らすことも、誰を陥れることも、貴方の為ならば厭わなかった。貴方の望むもの、目指すものの為ならば、誰に恨まれ憎まれようとかまわなかった。わたくしは貴方の為だけに生きてきた。
 俗世を捨て、政を離れ、遠い吉野へ落ち延びた日々すらも、貴方がいてくださったから幸福だった。あのまま二人、野に朽ち果てたいとさえ思った。
 甥を討ち、父上様の意に背こうとも、貴方の意思が全てに優先した。この国を導くのは大海人皇子様しかおられない。倭の国を太陽のように照らし、導く力をお持ちなのは貴方様しかおられない。その確信がわたくしを支え、今日まで走らせてきた。
 貴方の為にわたくしは存在するのです。
 そのわたくしの為に、貴方はまだ死んではなりません。断じて死なせはしません。
「薬師はまだかっ」
 赤く染まった双眸から、涙が一筋流れ落ちた。


 黒い雲が飛鳥の空を覆い尽くしているような気がいたします。不安に心がざわめき、重い空気に取り巻かれているように感じるのです。
 天武天皇、ご重態。その一報が届いてからというもの、邸内も風も鳥も鳴りをひそめてしまったように静かです。まるで嵐の到来を予感しているかのよう。
 わが君、大津さまは数日前から飛鳥(あすか)浄御原宮(きよみはらのみや)に詰めておられる為、お帰りになりません。きっと大津さまは、その場に集まった誰よりも心もとない思いをされておいででしょうに、わたくしはお側で手を握って差し上げることすらできません。
 夫のぬくもりを恋しがるかのように、山辺皇女は己の身を抱きしめた。
(大津さま、おつらい思いをされてはおりませんか。お食事はきちんと召し上がっていらっしゃいますか。お身の回りのお世話を安心して任せられる者はお側におりますか。
大津さまはたくさんのご友人をお持ちでいらっしゃる。共に笑うことのできるご友人。けれど今、お近くに心を開くことのできる方はおいでになりますか。大津さまのお心の奥底に存在する不安を察してくださる方はおいでになりますか。
ああ、今すぐお側に行ってお慰めすることが叶うなら……)
 不安の正体は、夫の身を案じてのものだと山辺は知る。 
何かが、大きく変わろうとしております。その中で、大津さまにはどのような荒波が押し寄せるのしょうか。
 讃良大后様を諌めることのできる唯一の方。大津さまの誇りの源たる至高の存在。大王の中の大王とも称された、天武天皇。
 束ねる方を失った国は、歴史は、どのように動いて行くのでしょうか。
         ・・・・・

天武天皇の六人の皇子達は、それぞれに割り当てられた室に篭もり、一報を待っていた。それが最悪の知らせではないように、快方に向かわれたと告げてくれるようにと、どの皇子も必死に祈っていたことだろう。
父帝の存在の大きさ、偉大さは誰もが知るところである。代わりなど存在するはずもない。
倭の歴史に、巨大過ぎる足跡を残した父。天武天皇。
ことに日嗣の皇子たる草壁は、一心不乱に平癒を祈っていたことだろう。
(父上、父上、父上……っ。どうか私をお見捨てにならないでください)
 重すぎる。国も、臣下も。政も、母も、大津も……。
(なぜ私を日嗣とされたのですか。私の弱さをご存知でいらした貴方が、なぜ)
 口惜しさに歯を食いしばりながら、草壁皇子は祈り続ける。
 もともと逞しいとは言い難かった皇子はこの数日で一層やつれ、頼りなげな風情を増していた。眉間に苦悩の影が宿る。
(私は凡庸な男です。母上の期待に応える力はありません。母の力無くして、政務を取り仕切ることなどできはしない。それは、家臣達も知るところです。
 皆の、落胆する顔が見えるような気さえします)
 重すぎる責務と期待に、草壁皇子が何とか応えようとしてきたのは、異母弟大津皇子に対する意地もあっただろう。
(母上のお心を、愛と嫉妬と憎しみとで占めていらした父上。父上がおいでくださらなければ、母上の期待は私一人に掛かってしまいます。……私には、耐えられない)
 偉大な父。辣腕を振るう母。なぜこの二人の血を引く皇子が私なのだろう。
(大津ならば……)
 大津ならば乗り越えるだろう。期待を糧とし、自ら先陣を切って嵐の中さえも切り込んでゆくことができるだろう。
母上でもいい。母上ならば誰よりも巧みに舵を取り、国家の次の道筋を定め、推し進めてゆくことだろう。
女人の身で大王の片腕と呼ばわれた母。その気性も能力も、私とは比べるべくもない母上。
 私にはできない。母に逆らうことすらできない私に、どうして一国の主が務まりますか。
(父上、父上、せめて私に時間をください。大津と和睦を結び、その助力を得られるようになるまで。母の支配から脱することができるまで。もう少しだけでいい。猶予を下さい……)
 己が弱さを知るが故の、血を吐くような心の叫びだった。
 けれど時はすでに遅すぎた。もっと、もう少しだけでも早く動くべきだった。
 鸕野讃良大后と大津皇子。その間に立つことができる唯一の存在である草壁皇子こそが、その時を見据えて動くべきであったのだ。けれど父帝の病の為、政務を代行するよう命じられた彼に、その余裕は無かった。皇太子としての誇りが異母弟に胸襟を開くことを許さず、己の無力を自覚するが故に、母后に意見することなど考えも及ばなかった。
 ともすれば、彼も夢見ていたのかもしれない。いつか、異母弟を自らの手で打ち負かし、母の期待にこたえられる日が来ることを。誰からも認められ、祝福されて帝位に昇る日のことを。
 あるいはそれも可能だったのかもしれない。彼の慈愛が脆弱さに勝り、大津皇子をして彼の治世の手助けを望む日が来ることがあったのかもしれない。
 騒乱の時代が長く続いたが故に、彼の穏やかな人となりは国と民の疲労を癒し得たかもしれない。
 彼は苛烈な人物ではなかった。凡庸でもなかった。情愛も深く、卑劣なこともしなかった。ただ、母と異母弟が秀で過ぎていた為に、彼の存在は霞んだものとなってしまった。
 それでも、彼は辣腕で知られた母后が唯一心を開く存在であったのだ。
 争いを好まぬ彼であれば、穏やかに父帝の真意を問い、真の日嗣が誰であるのかを明らかにすることができたのかもしれない。夫の意思であれば、母后も無下に退けることはしなかっただろう。
 けれど彼は、父帝が己に落胆していることに気づいていた。大津皇子のような逞しい息子を望んでいたことを。
 そして父帝は多忙の果てに病に倒れ、執務は母と己に託されてしまい、顔を合わせることすら難しくなってしまった。
 父の真の望みを知ることもできないまま。
長患いの果てにその時はあまりに突然訪れてしまい、彼は何一つ準備することができなかった。


 大津皇子は、身の内に滾(たぎ)る熱と悲しみとに交互に支配され、言葉もなく空を睨んでいた。
 父に寄せる思いは複雑で、ただ一概に悲しいとは言い切れなかった。
(俺は、どうすべきなのか)
 何が正しいのか。どう動くべきなのか。父上は何を望んでおいでなのか。
 この上なく偉大な父。その理想も功績も、越えることの叶わぬ峻嶺を見上げるかのよう。父の足跡を想うと心は昂揚し、時に敗北感に打ちのめされた。そしていつかは越えるべき目標となった。
(貴方は何を考えていらしたのか)
 俺から姉上を奪い、草壁を日嗣と定めた父。
 内裏で政事に参加することを許した父。
(貴方は何を期待し、望んだのか)
 父帝の為に戦うことは誉れだった。
 その治世を支えたいとも思った。
 草壁の為に、それができるのか。
 共に一つの天を頂くことができるのか。
 
 かつて父帝が僧籍に入り、吉野へと逃れられたとき、姉と自分は天智の大王の下に残された。幼い二人を危険な旅に伴うことはできないからと聞かされた。
 祖父天智の大王は二人を大層慈しんで下さったが、自分達が人質として残されたことに大津は気づいていた。祖父は庇護者であり、政敵でもあったのだ。
 やがて祖父天智の大王が亡くなり、大友皇子が立った時には、俺は己の意思で宮を脱出し、父上の下に向かった。まだ幼い自分が父上の役に立てるとは思わなかったが、大友皇子に人質とされ、父上の足手纏いになるくらいなら、途中で追っ手に討たれる方がましだと思ったのだ。
 夜を日に継いでの逃避行だった。父上と共に戦い、父上と共に死にたいと本気で願っていた。幼くとも、誰よりも高い誇りを持っていた。
 そうして無事に父上と合流できたとき、父上は喜んでくださった。生きては会えぬものと覚悟していたと、抱きしめてくださった。
 あの時のことを、俺は忘れてはいない。安堵も歓喜も全て覚えている。
 けれど今は父上のお心がわからない。
 父上、貴方は何を望んでいらしたのか。
 貴方の代わりに草壁を守るべきなのか。
 それとも俺は心のままに生きることを許されるのか。
 腰に帯びた愛用の太刀に思わず手が触れていた。
大津皇子は強大な敵が立ち塞がることに思い至る。
 鸕野讃良大后。
(もう少し、時があれば……)
 最大の政敵を前にして、今だ経験が足りず、誇るべき功績もなく。
(天は我に何を望むか) 
 天に二つの太陽は存在し得ない。
 月として生きるか。
 野に下り、狼として生きるか。
 それとも……。


 強い風が吹く夜であった。今宵も帰らぬ夫の身を案じながら、山辺皇女は寝仕度をしていた。乳母に髪を梳いてもらいながら、風に耳を傾ける。木々を揺らす音ばかりで、その中に馬の蹄の音は混ざってはいない。
「乳母や、大津さまがいつお帰りになってもいいように、すぐにお食事の用意ができるようになっているのでしょうね。脚を濯ぐ湯もいるのだから、かまどの火は落とさぬように言ってあるかしら」
 寂しさからか、皇女の口調にはどこか拗ねたような響きがあった。
「大丈夫でございますよ。かまどの火は熾火を残してございます。食材の用意もさせてございます。あとはお姫さまがおやすみになるだけでございますよ」
「まだ、やすみたくないわ」
 大津さまがお帰りになるかも知れないもの。唇を尖らせて皇女が呟く。
「いけませんよ。大津皇子様がお帰りになったときに、疲れたお顔でお迎えになるおつもりですか。よくおやすみになって、誰よりも美しい笑顔で皇子さまをお迎えになりたいのでしょう」
 夫を迎えてから、あまり口うるさいことは言わなくなった乳母が、珍しく世話を焼く。
「大津皇子さまがお帰りになったら、必ず起こして差し上げますから、安心しておやすみ下さいませ」
 言われるまま、山辺皇女はしぶしぶと褥に入り、夜具に包まれる。
(大津さま、どうぞ早くお帰りください。山辺はこんな風の強い夜の一人寝はきらいです)
 不安に押しつぶされそうになりながら、山辺皇女は固く目を瞑った。


 今、飛鳥(あすか)浄御原宮(きよみはらのみや)においてどのような事態が生じているのかは公にされてはいない。けれど、民は敏感に異変を察するものであるし、またどこからか漏れ聞こえてしまうものである。
 道で誰かに会えば互いに目を見交わし、溜息をつく。
先の大王がお隠れになった時のように、再び戦が起きるのではないかと、戸惑い怯える者達が天を仰ぐ。
 空は重苦しい雲に覆われ、星ひとつ見えない。木々を揺らし、戸を叩く風が不安を煽る。
 嵐の前兆であった。

 京が騒然とする中、宮中も物々しい雰囲気に包まれていた。天皇(すめらみこと)の死をはっきりと口にすることはできなかったが、それでも密やかに、次代の帝についての会話が交される。
「……やはり、草壁皇子様が継承されるのであろうのう」
「それは当然のこと。日嗣と定められたのはあのお方ですからな」
 期待というよりも諦観。確認というよりも否定されることを期待しているかのような会話である。
 草壁皇子は他の皇子達と比べても、決して見劣りするような皇子ではない。心優しく穏やかで、愚かな振る舞いで臣下を嘆かせることもない。奢り高ぶることもなく、どちらかといえば控えめに、与えられた責務を果たしてゆく。文句などつけようもない皇子なのだ。
 ただ、比較の対象たる大津皇子が秀で過ぎた。
 天智の大王によって切り開かれた道を、天武天皇が整え、国として形作った。その国を栄えさせ、富ませる者として、期待を寄せられるのが大津皇子であった。
朗らかで自信に満ちた皇子は誰からも愛され、慕われた。陽の光に花々が顔を向けるかのごとく惹きつけられた。奢りすらも許せるほどの実力を身につけ、また努力した。誰もがそれを知っていた。
眩いばかりの存在感。
彼こそが飛鳥の京の象徴の如き存在であった。
「なろうことならば、のう」
 可能であるならば。その先を臣下は口にしなかった。けれど、たまたま偶然通りかかった草壁皇子は聞き逃さなかった。
 可能であるならば、大津皇子こそを……。
 彼の耳は聞こえる筈の無い心の声を確かに聞いた。
(大津……)

 そうして悲劇の暗い影は、ゆっくりと飛鳥の空を覆い尽くしていった。


   
 天は太陽を失い、雷雲に覆われた。
 若獅子と牡鹿が頂きを目指し、疾走する。
 天下は大いに揺れ、地に裂け目が生じた。
 亀裂を覆う術無し。
 

 鸕野讃良大后は引き篭もり、誰にも、我が子草壁皇子とも会おうとはしなかった。幾日も不眠を通した目は落ち窪み、さながら幽鬼の如き相貌と成り果てていた。
 何人たりとも入室することを許さなかった。今の己の姿を見ることは許せなかった。
 今、自分は敗者の顔をしている。
 そんな自分を、認めることはできなかった。
 天武天皇がお隠れあそばされた。
 最愛の夫。生涯を捧げた太陽とも云うべき唯一人の男。偉大な君主であり、愛すべき我侭な男でもあった。自分の生きる理由であり、彼(か)の人の為であれば死さえも恐れはしなかった。
冷たく、残酷な男。
争乱の時に、貴方は誰よりもわたくしを愛され、必要とされた。わたくしを片時も放さず、共に戦場を駆けよとさえお命じになった。伴われた妻は私一人。
わたくしがどれだけ嬉しかったことか。
己の命が夫と共にあると信じることができた。共に討ち果たされ、野に屍を晒そうとも、魂が共に天を駆けることが叶うならば、本望ですらあった。
命も希望も生きる理由も、全ては貴方と共にあったものを。
酷い男。
貴方は、平時における慰めを、他の女に求められた。
眼差しも、恋の詩歌も私以外の女のものとなり、二度とわたくしに向けられることは無かった。
わたくしの心を踏みつけにし、気づかぬ素振りで、貴方はわたくしを片腕と呼ばわれた。
もはや女と見ては下さらなかった。
貴方の信頼は、わたくしにとってすでに屈辱でしかなかった。
それでも、信頼だけがわたくしの縁(よすが)であった。
そのわたくしを、わたくしの心を、貴方は最後の最後まで踏みつけになされた。

数日に渡り昏睡し続けた天武天皇は、亡くなる数刻前、俄かに意識を取り戻された。途切れ途切れの苦しい息の元、呟いた言葉は、
「……大津を、呼べ」  
 鸕野讃良大后の心は、引き裂かれた。


天武天皇の葬儀は、大王の名に恥じぬ盛大なものでなければならなかった。
 天皇の遺体を守る甲冑姿の武官達。
 鈍色(にびいろ)の朝服を纏った文官達は整然と整列し、女官達は衣の袖に泣き顔を隠す。
 楽の音が響く中、皇族達に周囲を守られた天皇の亡骸が安置されて、悲哀と喪失感が空気を埋め尽くす。
 偉大な大王の死を国中が嘆き悲しみ、民すらも地に臥して悲しみを顕わにする。
 草木も花も、主の死を悲しむかのように精彩を失い、内裏は喪の色に染まる…………。
 偉大なる大王の葬儀は、盛大なものでなくてはならない。
生まれたての赤子のような幼い国家。文化も歴史も誇れるものとて無い未だ若すぎる国の王の葬儀は、盛大なものでなくてはならない。
海を隔てた大陸の国々にその国威を示し、侵攻は容易ならずと見せつけなければならない。
偉大すぎる大王の死は、他国の侵略を招きかねない大事。一瞬の隙が戦火を招き、国を傾けかねない。
まして、次代の天皇が明確にならず、国が荒れかねないと知れれば、百済の悲劇は繰り返されかねない。
度重なる遷都と戦の為に衰えた国力を覆い隠す為にも、葬儀は壮麗を極めなければならなかった。
故に、殯(もがり)の期間は慣例よりも長いものとなるだろうと、誰もが思った。


草壁皇子の視線の先に、大津皇子の立ち尽くす姿があった。
鈍色(にびいろ)の衣を着た一群にあって、何故かこの男の姿だけが際立って見えるようだった。
薄墨(うすずみ)の色は、この男が持つ本来の華やかさをより引き立てているようだ。
(父上に、最も似ているのは大津だろう)
 母に言えば半狂乱になって否定するだろうが、実際に、兄弟の中でこの男ほど文武に秀でた男はいまい。
 今は自分の下座に座する大津。
 公に日嗣と定められた自分と対等の権力を握る異母弟。
 敵とするには危険すぎる男。
(討つべきか……)
 異母弟の持つ才を惜しみ、草壁皇子は心を決めかねた。

(やつれたな……)
 それが異母兄を見た大津の率直な感想だった。
 元々線の細い男だったが、ここ数日、父帝の死が重圧となって押し寄せていたのだろう。
(あの母親からの圧力も、相当身に堪えていたに違いない)
 何故か笑みが浮かんだ。
 政敵ではある。だが、母が異なるとはいえ、やはり兄。憔悴した姿を見れば心に掛かる。
僧侶達の読経の声が低く、厳かに響く。
同じ父のもとに生まれ、今、同じ悲しみに耐えている。明日には再び矛を交える身になるとしても、今、この時だけは同じ心を持っていると信じたかった。
 機会があれば、声をかけて見るか。そう考えてはいたが、やがて重臣達に囲まれ、二人それぞれに取り巻き達の中に紛れていってしまった。

 そして、異母兄弟が静かな心で相対する機会は失われてしまったのである。


 楽の音が響く。押さえた陰鬱な音色は聞く者の心の悲しみを、なお一層深いものとする。
 感受性が豊か過ぎるのか、楽の音に大津皇子の心も締め付けられた。
殯の宮へ進む葬列の中で、大津皇子はこれまでに無い程の深い悲しみに心揺れていた。それは、父帝が身罷られたと聞かされたときに勝るとも劣らぬ深い嘆きであり、人臣の目を意識して涙こそ流さなかったものの、気を抜けばその場で幼子のように泣き崩れかね無い程の慟哭であった。
父の側に立てるのはこれが最期。亡骸はやがて朽ち果て、父の面影すら残らなくなるだろう。
父上、どうか生き返ってください。この殯の間に目覚めてください。話したいことも、お聞きしたいことも、山程あるのです。
これまで、父に認められたい一心で己は駆け抜けてきたのだと、この最後の時になって気がついた。
父のように生きたい。父に負けぬ男になりたい。父の片腕となって共に国の礎を築きたい。
大国に侮られることのない文化。これが我が祖国と誇れる豊かな国。
もっともっと、才有る者達を唐へ送りましょう。彼の国の文化を学び尽くし、いつかはもっと遠い異国にまで手を伸ばしましょう。
戦の無い世を実現させましょう。
それこそが父上の目指された国づくりでしょう。
貴方がおいでになれば、それは夢ではなくなるのに。
一筋、零れる涙を、押さえることはできなかった。
自分は、父上の葬儀には出られないかも知れない。
それは漠然とした、けれど外れようも無い予感のような気がした。



 すべての儀式がお済みになり、ようやく大津さまはお帰りになりました。お疲れの為か、少しやつれていらっしゃるようでしたが、わたくしを見ると笑みを見せてくださいました。
「今、帰った」
 胸が塞がって何も言えず、わたくしは大津さまに駆け寄り、しがみつきました。
「お帰りなさいませ、我が君」
 大津さまの広い胸に頬を埋め、わたくしはようやく安堵することができました。
 大津さまがお帰りになった。
 大津さまはここに、私のもとにいらっしゃる。
 馴染んだぬくもりと匂いとに包まれて、わたくしは涙が止まらなくなってしまいました。
 わたくしの髪に顔を埋め、大津さまはそっと呟かれます。
「俺も、山辺が恋しかったぞ」
 悲しみと緊張の日々の中、大津さまは妻たるわたくしを思い出していてくださった。わたくしを想っていてくださった。
 もはや寂しかったなどと口にはできません。
「お疲れでしょう。ただいま膳と酒の用意をいたします。お食事をして、一息つかれたら、今日はもうおやすみ下さい。何もかも忘れてお休みください。お悲しみが癒えるまで、山辺はずっとお側におります。わたくしの胸でお休みください」
 幾日も幾日も望んでいたことがやっと叶いました。ほんの一瞬で、わたくしの心に日差しが戻って参りました。後はこの温かさを、疲れておやつれになった大津さまに分けて差し上げなくてはなりません。
 父帝を亡くされた大津さまを、決して一人にはしないと知っていただかなくてなりません。
 この先に何が起ころうと、大津さまを独りにはしない。
 それがわたくしの覚悟なのです。

 わたくしの髪が好きだと、大津さまはおっしゃってくださいます。艶やかな髪が肌をすべる感覚が快いというのです。
 普段わたくしの髪はきつく結い上げられ、風に揺れることさえありません。頭上で二つの固い髷に結い、象牙のくしでそれぞれの髷を止めている。大津さまと二人の時だけ、私は髪を下す。大津さまだけがわたくしの髪の感触を知っていて下さればいい。わたくしの髪に触れていいのは大津さまだけなのです。
 今宵も横たわる大津さまの裸の胸を、わたくしの髪が覆っています。わたくしの心が大津さまに絡み付いている様を見るようで、少し恐ろしいものを見ているような気持になります。まるで橘の若木に絡みつく蔦のよう。
 絡み合い、一体となっているかに見えて、決して一つにはなれない異なる蔓と幹。

 その夜は寝所の中で、大津さまはいつになくたくさんのお話をしてくださいました。
 幼い頃のこと、亡き母上さまのこと、父帝のこと、姉上さまのこと……。
「母上のことは、実はあまり覚えてはいない。亡くなられた時に俺自身が幼かったこともあるが、元々病弱な方であった為に、側に行くことは滅多に許されなかった。
 ただ、母上が亡くなられた時に、父上が常に無く悲しまれていたことは覚えている。肩を震わせて泣いておられる父上の後姿を見た覚えがある。
 母上のお姿はあまり覚えてはいないが、子供の頃、姉上がとてもよく似ていると思っていたな。顔立ちも気質も姉上は母上にそっくりで、姉上自身、母上の代わりを務めようと懸命だったように思う。姉上もまだ子供だったのに、より幼い俺を不憫に思っていたのだろう」
 懸命に弟君のお守りをされる、幼い姉君さまのお姿が目に浮かぶようで、それは微笑ましくもあり、妬ましくもあり、わたくしは少々複雑な思いで大津さまのお話に聞き入ります。
「天智のお祖父様の下に預けられたときも、さして不安は感じていなかったな。お祖父様は俺達を可愛がって下さったし、武術の鍛錬以外の時間は大抵姉上と一緒だったから、寂しいとは感じなかった。
 だが、父上が美濃で挙兵されたとき、俺は父上の下に向かう決断をしたが、姉上を伴うことはできなかった。あのときばかりはこれで二度と姉上には会えないかもしれないと思い、涙が止まらなかった。あの時も、姉上が励ましてくれた。泣きながら、無事を祈っている、きっとまた会えると信じていると言ってくれたから、俺は未練を断ち切って父上と合流することができた」
 大津さまは、妻たるわたくしに語りかけているようでいて、実は想い出の中の姉上さまに語っていらっしゃるのではないかと思ってしまいます。
 腕の中のわたくしのことなど忘れていらっしゃるかのように、一度もわたくしを見ては下さらないのです。
 静かに語り続ける大津さまのお声を聞きながら、わたくしは眠りに落ちてゆきました。
 大津さまのお声は耳にとても心地好くて、いつまでも聞いていたいと思うのですが、ここ数日の緊張から解き放たれ、久々に大津さまのぬくもりに包まれたことで、眠りの誘惑に逆らうことはできませんでした。

 最愛の、最愛の背の君、大津さま。わたくしの命であり、太陽でもあるただ一人の男性。
 大津さまの為にわたくしは生きている。
 大津さまのお側から引き離されてしまったら、わたくしには生きる甲斐がない。
 わたくしの命は大津さまと共にある……。

「山辺、眠ったのか」
 腕の中の重みが増したことに気づき、妻の身体を抱き寄せる。愛しいぬくもりに安堵し、黒髪にくちづけを落とす。
 そっと、少しやつれた頬に指を這わせ、微かな声で呟く。
「心配をさせたな、山辺。許せ」
 自分を慰めてくれる妻の存在を嬉しく思い、一層愛しさが込み上げてくる。
 こんな夜にも自分には妻がいて、悲しみを共に分かち合ってくれる。愛らしい顔にはこの数日の不安の影が残っている。
 愛しい妻。この身を案じて眠れぬ日々を過ごしたのだろう。自分もこのぬくもりをどれほど恋しく思ったことか。
 けれど……。
 遥かな地で、孤独な夜を過ごす姉を思い、大津皇子の心は重くなる。
(姉上、父上がお隠れになりましたよ。俺と姉上を守れる最後の存在が失われてしまった。
 内裏内はすでに嵐の予兆に満ちていて、俺も渦中から逃れることはできないだろう
 姉上は今、泣いているのだろうか。遠い伊勢の地で、深い森に閉ざされた神の宮で、父上を想って泣いているのだろうか。お慰めできない俺を許してください)
 心の中の姉は別れた時のまま。幼い顔立ちの美しい少女。
(遥かな地で俺の無事と平穏とを願い、祈りの日々を送る姉上。俺は、強くなる。そして今度は俺が姉上をお守りする。もう少しだけ、待っていてください。迎えに行けるまで、もう少しだけ……)
 時折使者を送り、姉の様子を伝えさせている。人伝に聞く姉は変わらず優しく聡明で、使える者達にも慕われているらしい。美しい姉、大伯。
 必ず、取り戻す。


  
 内裏の機能はほぼ正常に働き始めているかに見えた。
 遅れた執務、溜まりに溜まった政務を片付ける為に、文官達は墨をする時間さえも惜しんだ。
 廊下を走ることは禁じられているが、どうしても早足になってしまっているのは否めない。
 内裏は殺気立っていた。忙しさと、言い知れぬ不安に苛まれ、誰の顔にも笑顔はなかった。
 何かが密やかに進行し、水瓶に墨を落としたかのように空気を暗く染めていた。
 誰もが嵐の到来を予感していた。


不穏な空気を敏感に感じ取り、大津皇子は眉を顰めた。朝議の議題に知らないことが多すぎる。自分が除外され、あるいは無視されていると感じることは、決して快いものではない。まして今は廷臣達の支持が二つに分かれ、足元が定まらない時。もっと視界を良くしておかなくては、いつ足元を掬われるか知れたものではない。
今上座に座する草壁皇子よりも、この場にいない讃良大后のことを大津皇子は思った。
(何を企んでいるのか)
 権謀術数に長けた大后。あの老獪な執政者に立ち向かうには、己には経験も見識もまだ足りぬ。
 暗い影が覆い被さってくるかのような不安を感じ、また、そう感じる己を腹立たしく思い、皇子は表情を曇らせた。
 協力者が必要だ。頼れなくてもかまわない。安心して背後を預けられる者、力となってくれる者は誰か。
 言い換えれば、讃良大后に立ち向かう度胸を持つ者。陰ながらでいい、正確な情報をもたらしてくれる者はいるのか。
 内裏の中で孤立しているかのような錯覚に陥いり、大津皇子は不安を禁じえなかった。
 今は最も上座に座する草壁皇子は、思いのほか迅速に議題を処理している。天皇のご重態が続いたことで、ここしばらくまともに朝議が開かれなかった為、懸案が山積みされている。今は殯(もがり)の宮(みや)に収められている父帝の陵墓の整備もその一つだが、その件については予てから、大まかな構想はできていたので問題はない。
その場に鸕野讃良大后がいないことで、かえって心にゆとりを持つことができるのかもしれない。
 天武の天皇が崩御されてから、鸕野讃良大后は一切公の場所に姿を現してはいない。体調を崩し、静養が必要だと説明がなされている。日嗣である草壁皇子の力量を見せる狙いがあるのかもしれない。
 時折不快な視線に気づき、大津皇子はさり気なく背後に目を配る。何者かに見張られていると思うのは、錯覚ではないだろう。
(どう動く。大后)
 彼の敵は目前の異母兄ではない。その背後に立つ、国をも動かしうる強大な権力を持つ女こそが最大の壁。頚木(くびき)を失い、望まぬ自由を得た、老いた雌獅子が牙を剥く。
 時間が無い。そう感じることが焦燥を生む。
 父を失い打ちひしがれていた皇子は、偉大な大王が失われ、時が濁流の如きとなって自らに襲いかかろうとしていることに、遅まきながら気づき始めていた。

 草壁皇子は木簡に顔を隠して異母弟に視線を向ける。心ここにあらずと見える異母弟が、今、なさぬ仲の母のことを考えているであろうことは想像に難くない。
(母に立ち向かうつもりか、大津。お前に戦う術はあるのか。勝てるつもりでいるのか。
 最大の敵を前に、私がいることなど忘れているのだろう、お前は……)
 義を重んじ、臆することを知らず、豪放磊落。民に慕われ、臣下の信も厚い、弟。
その眼差しは迷うことなく最大の敵を見つめ、揺らぐことも無い。
(私を思い出せ。大津。ここにもお前を憎む男がいることを忘れるな)
 その眼中にないことを口惜しく思いながら、同時に存在を認められたいと望む自分がいることに、草壁皇子は複雑な思いを噛み締めていた。

        ・・・・・

鸕野讃良大后。数奇な運命を生きた女性である。
父に母の一族を討ち滅ぼされ、悲しみの内に母を亡くす。
叔父大海人皇子に嫁ぐも、立場もあってか、夫には多数の妻が存在する。同じ天智の大王を父に持つ姉妹だけでも、自身を含め四人が妻とされている。
甥である大友皇子と夫が大王の位を廻って戦った際には夫と共に吉野に逃れ、以来夫の右腕として戦場で過ごす。数ある妻女の中で、共に吉野まで落ち延びたと記載があるのは彼女のみとされている。大后として立てられてからも、夫に助言し、右腕としての務めを果たし続けた。
幼い頃から死と血の色に彩られた半生を生きた鸕野讃良大后。
彼女の謀略の冴えは、血の色に染められたさだめから身を守る為の武器であったのかもしれない。


心に暗い影を宿し、鸕野讃良大后は鬱々とした日々を過ごしていた。酒を運ばせ、酔うて見ても、心が晴れることはない。
「大后さま、ご膳の用意をいたしました。少しでもお召し上がりください。御酒ばかり過ごしていてはお体に障ります」
 ろくに食物を口にしない主を見かねた女官の一人が苦言するも、打ち沈んだ大后は聞き入れようとはしない。
「無用じゃ。下げよ」
 大后に長く仕えているらしい中年の女官は引き下がらず、なおも食い下がる。
「天皇さまのお好きな鹿肉(ししにく)をご用意いたしました」
 気の利きようで大后に気に入られている女官は、今も天皇が生きているかの如き言いようで、主の注意を惹くことに成功した。
「そうか、鹿肉か」
 主が箸をつけるのを見て、女官は安堵の溜息をつく。本来なら、幾日もまともに食事を取ってはいない者に肉など勧めてよいものではないが、何も口にしないよりはいい。そう判断した。少しでも召し上がってくだされば、空腹を思い出して下さるだろう。
 噛めば噛むほどに味わい深い鹿肉。吉野へ落ち延びた際には干し肉にして携行した。
大海人皇子様ご自身が、弓で狩ってこられた鹿肉。
(美味でしたわね。貴方……)
 飢えが満たされれば追われる恐怖も和らいだ。
 死んでなるものかと思った。
 大海人皇子様には天下万民の為に成さねばならぬことがあった。
 その為に私をご自身の片腕とされ、政務の一端を任せてくださった。
 今だ道半ばにして、行程は遥か。
 まだ、お後を追うわけにはゆかぬ。
 鸕野讃良大后が杯を置いた。
          ・・・・・

 大后の命にて、大津皇子の周囲には徹底して諜者が配された。大津皇子と彼を取り巻くあらゆる者達の動向が調べ上げられ、報告された。
 密かにとはいえ、不穏な空気は隠しようもなく、内裏内において大津皇子は急速に孤立を深めていった。
(さても冷たいものだな。どれほど親しく、時には共に一晩飲み明かした友も、政事がからむとこんなものか)
 無理もないことと承知はしていても、避けられ、遠巻きにされるのは心塞ぐものである。ことに大津皇子は後ろ盾のいない不利を横のつながりで補うべく、心を砕いてきたのだからなおさらである。結果として、彼は気さくで度量の広い人物と評されるに至ったほどだ。
 権力の前に人望は無力であると思い知らされた思いだった。
 周囲の者達に類が及ぶことを恐れた大津皇子は、女達の元へ通うことも文を贈ることも控えた。事情を知らない女達は彼の情の無さを嘆いたが、それが彼に示すことができる唯一の愛情だった。
(武力に重きを置かれた父上のおかげで、糧食も武器も備蓄させてある。力の差は歴然でも、油断を誘うことができれば勝機はある。だが……)
 己の成すべきこと、行くべき道に迷いは無かった。しかし、そこから起こりうる結果に対して、大津皇子の中に迷いが生じ始めていた。
 戦うか。
落ち延びて最も大切なものだけでも守りきるか。
 それを流れは許すのか。

 追い立てられるように、彼の運命は流れを速め始めた。


 大津皇子が他の女の家への通いを控えている。喪中であれば当然のこととはいえ、危急の時に、寄り添う者が自分であることに抑えようもなく喜びを覚える山辺皇女である。
(父帝の死をつらく思われておいでの大津さま。お慰めする手段を講じなければならないところだけれど、大津さまはいたって朗らかなご様子で、わたくしにはただ側にいさえすればいいと笑っておっしゃる。何も案じることは無いのだと、かえって気づかってくださる。
お優しい大津さま。お心の強い大津さま。
わたくしは特別なことは何もできないけれど、それでも、大津さまが許してくださる限り、お側を離れまい)
 大津皇子の夕餉の膳を整え、語らい、共に一つの臥所で休む。そんな当たり前の、心安らかな日々がこのままいつまでも続いてくれるようにと、山辺の皇女祈らずにいられなかった。


 務めを終え、屋敷に帰宅途中の大津皇子は、愛馬の背に揺られながら夕陽を眺めていた。黄金の太陽と、中紅花(なかくれない)に染まった空。少し前まではその美しさを愛でていられた筈の夕陽が、今は戦火を思い起こさせる。
(心の在り様の違いか)
 苦く自嘲し、溜息をつく。
大津皇子の足元に、男が膝を折り頭を垂れた。
「ご指示の通り、いたしました」
「成果は」
「申しわけありません。今のところは、まだ。ただ、懸念されていらした通り、お屋敷内にも内通者がいる模様です」
「そうか……」
 これで彼は己が宮の中でさえも安息を得ることはできなくなってしまったことになる。
「宮内の者達に、危害を加えられるようなことはあるまいな」
「その恐れは少ないかと。観察していたところ、欲に釣られただけの小者と見えました。万が一事が起こるようなことがあれば、真っ先に逃げだすものと思われます」
「わかった。引き続き動きに注意してくれ」
 男は一度も顔を上げぬまま礼をとり、そのまま皇子の御前を辞した。
 寒風が、大津皇子の額にかかるほつれ毛を揺らす。
締め付けられるかの様な息苦しさに皇子は嘆息する。
「とうとう、ここまで手が回ったか」
 苛烈な策士は迅速に罠を張り、きりきりと、きりきりと締め付けてくる。
 父帝の死から僅か数日。策謀は迅速に張り捲らされ、その想像を絶する速さに皇子はなす術も無く追い込まれていた。もはや、僅かな勝機を信じて立つか、自ら軍門に下るかを早急に決めなくてはならなかった。
 大后、恐るべし。
 鋭敏な皇子は、すでに時を逸したことを、心に感じ取っていた。

 成す術も無く運命に翻弄され、口惜しさに歯噛みする。
 無念の涙に袖を濡らし、明日こそはと天に吠える。
 同じ苦しみを知る者を一人だけ知っていた。
 至尊の位に限りなく近く生まれ、いかなる栄華も望みのままであった筈の者。
 強大な力に薙ぎ払われ、屈服することを余儀なくされた者。
 名のみを残され、常に周囲の視線に怯え続けていた男。
 この怒りを分かち合える唯一無二の友。
 川島皇子。

 久方ぶりに尋ねた友の邸は、常と変わらずにひっそりと静まり返っていた。
 皇族の住まう場所とは思えぬ程の質素な佇まいは、人目につくことを恐れ、身を隠すようにして暮らす主の心のありようをそのまま映している様で、大津皇子は心楽しまなかった。
 友といっても、川島皇子とは親友というほどの付き合いではない。ただ、天武方の皇族が支配する現在の内裏において、歓迎されざる天智方の皇族である川島皇子と、屈託無く接することができたのは大津皇子位のものだったということである。分け隔てをしない彼は、友と呼ぶ者が大勢存在した。その中で、川島皇子はその不遇によって大津皇子の関心を引き、己が運命と重ね合わせることで心を寄せた人物であった。

 喪の色が、これほど似合う男もそうはいるまいと思うほど、川島皇子は血色の悪い容貌の男であった。常に何かに怯えているかの様な態度と上目遣いは大津皇子を苛立たせることもしばしばで、その境遇に同情を覚えていなければ、果たして友となりえたかどうかは、大津皇子にしても自信がなかった。
 それでも彼の訪れを喜び、精一杯の朗らかさで出迎える川島皇子を、大津皇子は嫌うことはできなかった。
 その日も夜分遅くに尋ねた彼を、不安げな笑み浮かべながらも歓待する川島皇子の在り様は、皮肉にも父帝の崩御の前となんら変わることの無いように見え、何とはなしに大津皇子を安堵させた。
「おお、大津皇子殿。よく来てくれましたね。この大変な時に私のことを思い出してくれるとはありがたいことだ。お疲れでしょう。今御酒を運ばせます。ああ、御口に合うような美酒があればよいのだが……」
 落ち着き無く持て成しの手配を急がせる川島皇子を、大津皇子は穏やかに制した。
「酒ならばここにある。今宵は川島殿とじっくり語り合いたいと思い、持参した。なかなかの美酒ゆえ、川島殿の口にも合うだろう」
 腰に帯びた太刀を外し、傍らに置く。
 気安く聞こえるように、心がけたつもりだった。大して広くは無い邸内ではあったが、それでも人の耳はある。さり気なさを装った。
 だが、たった一言を耳にしたことで、川島皇子の表情は一変した。
「語り合う……とは、何を……」
 川島皇子は、怯えていた。
 しまった……っ。
 すでに、この邸にも手が回っていることを大津皇子は悟った。
 落ち着き無く視線を彷徨わせ、俯きがちな川島皇子。常よりいっそう青みを増した顔は唇まで震え、しきりと背後を意識しだしたように見えた。
 大津皇子が同士を求め、現内裏に不満を持つであろう不遇の皇子を尋ねることなどは、疾うに読まれていたのである。
 大后の手の者が隠れていると思しき庭園の繁みを、大津皇子は睨みつけた。
(敵は一人か。複数配置されているのか。今奴めを切っても俺がこの邸を訪れたことは隠しきれまい……)
 それでも、万に一つの確率であったとしても、間者を切ることで大后側にこの事態が知れることを防ぐことができるなら……と、大津皇子は脇に置いた太刀に手を掛けた。
 その手を止めたのは、川島皇子の手であった。
「……おやめください。お許しください。どうか、何も言わずにお帰りください。私は何もできません。お助けすることも、逆らうことも、戦うことも、何一つできません。ただ、時の過ぎるのを待つことしかできません。そうして生きてきました。そうする事でしか生きてこられなかったのです。
 お強い大津殿には歯痒く思われることでしょう。ここまで臆病とは思われなかったからこそ、尋ねてくださったのでしょう。ですが私は、先帝の血を引く皇子、反逆者の弟なのです。今、こうして生きながらえていることすら奇跡のようなもの。先の大戦で破れた先帝方の生き残りである私にとって、戦はいまだ終わってはいないのです。この身を流れる血を忌む者がいる限り、心休まる日は訪れない。
 ……私は、何もできません。貴方を陥れるようなこともしたくない。どうか、何も言わずにお帰りください」
 何も言わず、何も聞かず。それが、川島皇子に示すことのできる精一杯の誠意なのだと、大津皇子は知った。自分を裏切れば、大后側に取り入ることもできるだろう。だが、それもしない。助けることもしない。一切関わらない。それが彼の生きる為の処世術であり、大津皇子への友情であった。
 自分は何もわかってはいなかったのだと、大津皇子は眼を伏せた。
 孤独に生きる川島皇子。皇族でありながら、常に怯えているような彼を哀れんですらいた。だが、父と帝位を争った大友皇子の兄弟である彼が生を許されたのは、本来ありえないことであったのだ。皇女ならばともかく、皇子。再び騒乱の種ともなりえる男子。一挙手一投足が監視され、些細な失態が死を招きかねない。生を許された事も、彼にとっては幸運などではなく、ゆるゆると長い責めを負わされているも同然だったのだろう。
 川島皇子は、薄氷を踏むような思いで生きてきた。死に怯えながら、必死で家族を守って生きてきたのだ。
 なんと自分は浅はかだったことか。
 川島皇子はなおも取りすがり、懇願する。
「お許しください。貴方を裏切りたくは無いのです。貴方は私を友と呼んでくださった。内裏の寵児たる貴方にそう呼ばわれることが、どれほど私にとって誇らしいことだったか。
 罪人(とがにん)の烙印を押されて生きる私も、その時だけは自分が皇族なのだと、貴方に友と呼ばれるに足る身分なのだと、思い出すことができた。貴方とご一緒にいるときだけは、私も日の光を感じることができたのです」
 川島皇子の顔が歪む。
「……しかし、それでも、私は弱い。私は、草壁様とも、懇意にしていただいていたのです」
「……っ」
 帝位を争う二人の皇子の、どちらの手を離すこともできなかった川島皇子。庇護する者を持たない彼にとって、有力な皇子のどちらかの手を取り、どちらかを切り捨てることなどできなかったのだろう。
 それを責めることは、大津皇子にはできなかった。
 己が手を押さえる友の手に、更に手を重ね、大津皇子は声を上げた。
「……川島殿は、あまり体調が良くないようだな。良い酒を手に入れたから、共に楽しみたいと思ったが、出直すことにしよう。酒は見舞いの品として残して行くゆえ、落ち着いたら味わってみてくれ」
 庭に潜む者に聞こえるよう、声を上げながら、蒼ざめた友の顔をじっと見つめた。一点の翳りも無い笑顔を浮かべ、重ねた手に力を込める。
 案ずるな。
 声に出さない想いは、震える川島皇子にも通じた。 
 こうして会うのは、これが最後となるかも知れない。だが、川島皇子よ。君が示してくれた友情を、俺は忘れぬ。
 鮮やかな笑みを残し、大津皇子は友の邸を後にした。

 大津皇子が立ち去った後、川島皇子は立ち上がることもできずに呆然と座り込んでいた。
取り返しのつかぬ事をしたのかも知れない。
 大津殿は殺されてしまうかも知れない。
 私は従わなかったことで処罰されるかもしれない。
 大きすぎる力には逆らえない。
 大津殿を死なせたくない。
 叶うならば、叶うならば……っ。
「……愚かなことをなさいましたな。皇子様」
 暗い声に驚き、川島皇子は硬直した。顰めた声。庭からのものであった。
「……何故あのまま語らせなかったのです。大津皇子様はその為に皇子様のもとを訪れたのでしょうに。一言あれば、反逆の意志を確認することかないましたものを」
 声が川島皇子の心と身体を縛る。
 己の背後には、常に影が纏わりついていた。それは不審の目であり、死の影、一族と己の死であった。飢えた山犬のようにこの身の血肉を狙い牙を剥く影。
 それが今、実体を伴って現れた。
 川島皇子はそう思った。
「……まあ、よいでしょう。ここを大津皇子様が訪れた。それは証言していただけますな、皇子様」
 川島皇子は頷いた。
「……よろしい。それで十分です。これですべて終わらせることができる」
 暗い声に、僅かに笑みが加わった。
「何を、何を言っているのだ。大津殿は何も申されなかったのだぞ」
 自分の所為で、大津皇子が破滅する事態だけは避けられたはずだ。その事実に、川島皇子はすがった。だが……。
「……それを、誰が証言すると言うのです。大津皇子様は貴方様のもとを訪れた。貴方様はそれを証言する。……それで、終わりです」
 自分に出来得る唯一の抵抗は、失敗した。
大津皇子は殺される。京随一の貴公子、天に愛でられた寵児。世の耳目を気にすることもなく、私を友と呼んでくれた男。
大津皇子が破滅する。
 彼を裏切るのは私。破滅させるのは私。私の名は裏切り者として、歴史に刻まれる……。
「……ああ、あ、あ、あぁぁぁっ」
 何も言えない。もはや許されない。すべては決まり、全ては終わった。
 川島皇子は叫び続けた。
 

 包囲網は完成してしまった。逃げる術は無い。
 後、幾日生きられるのか。
 やり残した事がある。やらなければならなかったことも。
 妻子のことを思えば、断じて負けてはならない戦であったのだ。
 己の不甲斐なさに大津皇子は身を震わせる。これほどの不安を感じるのは、幼年期以来のことだった。初陣の時ですら、これほどの恐怖を覚えたことは無い。
 ふと、心に日頃は押し隠している面影が浮かぶ。
彼の女(ひと)はご無事であろうか。
 神の宮で厳重に守られているとはいえ、神に仕える者の人事にすら横槍を入れる大后のこと。油断はできない。むしろ、目ざわりな自分の唯一人の同母の姉を捨て置くとは思えない。質に取ることはできずとも、さり気なく人を配することくらいはしかねない。

 大津皇子は、最後の迷いを断つ覚悟を決めた。


 心が騒いでなりませんでした。いつもの時刻になっても、大津さまがお帰りにならないのです。わたくしがお待ちしていることを、不安な思いでお待ちしていることを、大津さまはご存知のはずなのに。
油断のならないこの時に、もしやあの方の身に何かあったのでは、と思うと居ても立ってもいられず、家の者に辺りを探しに行かせようかと思ったほどです。
ただ遅くなっただけならばいい。他の女人のもとにお通いになったのならば、それでいい。恐ろしいのはわたくしのもとにお帰りにならないことだけ。
 まだ暗殺などの恐れはないと思ってはおりました。仮にも一国の皇子の身に異変があれば、内裏が揺れることになります。彼の方もそんな事態をお望みではないでしょう。
 何の連絡も無いまま、時だけが過ぎてゆきます。

 そうして、大津皇子様は京から姿を消されました。
 ある、月の明るい宵のこと。





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