『七』
「私の記憶は、ここまで…、あとは、もう何も…」 麗子の長い髪が揺れた。暗がりの中で、彼女の瞳が白く映え、私をじっと見ていた。 私も、彼女を見つめ続けた。風が吹き上げるのか、土の蒸れる匂いが鼻をついた。 杉の若木のあたり、祠の影がおおって、真っ黒に塗りつぶされていた。 「…!」 私は、息を飲んだ。 暗がりに、杉の若木だけが浮かび上がる。背後からの残照、この木だけ照らしていた。 人間の記憶、本当にあいまいなんだろうか? 私は、このすくっと伸びる若木が、あの頃、この場所になかったこと、はっきりと憶えていた。
―私たちは、再び、この奥殿まで、辿り着いた、筈だった。
―記憶の前後が不明確だ。
へび男は、私と麗子が救助された一週間後に、発見された。 木の根を掴み、薄汚れた衣服をまとって、うつ伏せになって、死体で発見された、と大人たちから伝え聞いた。 憐れな男を、死にいたらしめた直接の原因は餓死だったという。 彼はなぜ、見世物小屋に戻らなかったのだろう?彼は見世物でないと生きていけない、そう言ってたじゃないか。下界に戻れない何かが、空白の時間にあったに違いなかった。
激しい頭痛が、今度は嘔吐を伴って私を襲う。口中に苦味を覚える。 「覚悟は出来てるんです」 麗子のその声も、苦痛だった。 頭を抱え込んだ私の体を抱きかかえるように、麗子が激しく腕を掴んだ。 「いてて…、頭割れそう」 私は彼女の手を乱暴に振り払った。 その拍子に足が縺れ、地面に倒れこんでしまった。 「田丸さん!大丈夫ですか!」 麗子が近寄ってくる。 「待って!」 助け起そうとする彼女を、私は声を張り上げて制していた。 ムッとする土むくれの匂いがある。爪を土に立ててみた。黒土が、爪の間に入り込む感覚、気が遠くなるような、指の先の、鋭利な感覚。 「結城さん、何か虫を探してた…」 麗子の人影が私の眼前の地面を黒々と覆っていた。 「夏休みの自由課題のこと?昆虫採集に行くとこだったから」 「何を?」 「昆虫採集」 「そうじゃなくて…」
時が形のある物体みたいにして、 私の脳裏を飛散する。 まとまりのない絵の修復作業みたいだ。 色彩は大分鮮明に蘇っている。 夏の日差しの中の空色だろう。あとは時間軸だ。
―最初に奥殿に気づいたのは、私だった。
私は竹薮を抜け、歓喜の声を上げた。後に麗子を負ぶったへび男と、恵子が続いていた。皆の顔も安堵している。 へび男は眠ってしまっている麗子を小祠の縁に静かに横にすると、柱に寄りかかってへたり込んでしまった。私と恵子も、その場にしゃがみ込んだ。 「腹減ったなあ」 へび男の、あの、まのびした声。彼はまた鶏の血を啜り、肉にむしゃぶりつくというのだろうか。 「ねえ、孝市くん、見て」 気づくと、恵子が祠の下に入り込んで手招きしている。 「どうしたの?」 私は這いつくばって彼女のそばにいった。 「ほら、アリジゴク」 「アリジゴク?」 「ほら、これ」 彼女が指差す地面には、小さなすり鉢状の穴が幾つか散見できた。 「これね、穴掘って、罠作ってんだよ。それでね、ありんことか来るの待ってるの」 「へえ!」 私は頭を地面すれすれに近づけて、小さな穴を覗き込んだ。何も生き物らしい気配はなかった。指を差し入れてみる。 「駄目よ!」 恵子が私の腕を押さえ込んだ。 「取っちゃ駄目!これ、ウスバカゲロウの幼虫なんだから」 「嘘だあ」 「ほんとだもん、麗子と図鑑で調べたんだから、もう少ししたらきっと、ウスバカゲロウになるんだから」 「おうい、お前ら、何してんだ」 へび男の大きな顔が、私たちが入り込んだ縁の下を覗き込んでいる。 「アリジゴクを見てたんだよ」 這い出して尻をはたきながら私が言う。 「そりゃあ、食えるか?」 「ははっ、違うよ、虫だよ」 私は笑って答えた。 「虫かあ」 演技ではなく、へび男は本当にがっかりして肩を落とした。ほのかな緊張感、私の中に甦る。
私には最後まで、彼が大人なのか子供なのか不可解でならなかった。
「アリジゴクはね、大人になったら、ウスバカゲロウになるんだよ」 私は、たった今、恵子に聞いたばかりの知識を、誇らしげに彼に言った。 「へ?ウス…、バ…」 「ウスバカゲロウよ」 遅れて這い出してきた恵子が、私の変りに答える。 「俺か?」 そう言いながら、へび男の両の拳は強く握り締められ、小刻みに震えだした。 「すごく綺麗なトンボなの、薄っすらとした羽で、音もなく飛ぶの、アリジゴクは醜いけど、やがて大人になって、ウスバカゲロウになるの」 恵子は両手を広げ、羽ばたくみたいな振りをする。 「もう一度、言ってみろ」 おそろしく低い声が、私と恵子の頭上に響く。 私たちは、彼の変化に、すぐには気付けなかった。 「ウスバカゲロウよ」 恵子はまた両手をいっぱいに広げ、ふわふわと宙を舞うみたいにして、 「ウ、ス、バ、カ…」 そして、本当に空中に飛び上がっていく。ふいに、少女の姿が、私の視界から消えていった。 「俺は、俺は、俺はあ!」 ほんの一瞬の出来事だった。 へび男はその太い両腕で少女の首を掴み、自分の頭上へと上げていった。 恵子に、声はなかった。 私の前で、少女の小さな足、ピンク色の運動靴が、プランと揺れている。 「俺は、違うう、違う!」 男の、野獣のような荒い息づかい、蝉時雨、木々の葉の、こすれ合う音。 光線のように降り注ぐ夏の日差し、真っ白な、名前も付けてもらえない、小さな小さな羽虫が、無数に飛び交っている、意志もなく、生きる意味も考えず、ただ無心で、中空を舞っていく。
瞬きの間の静寂、その後で、ドサッという物音。 大地に張り付いてしまった私の前に、白目を向いて、口から細く赤い血の筋を出した、幼い少女が横たわっていた。 また、寄せては返す蝉の鳴き声、男の息づかい、汗がとめどなく流れ落ちる。見上げれば、黒くぼんやりとして輪郭を失った人影と、黄色く丸い太陽。
それで、どうしたんだろうか?よく、憶えていない。
気を失っていたような時間、断片的な、会話が聞こえてくる。
「お姉ちゃん、どうしたの?」 気の抜けた声だった。 「どこかに、どこかに隠さないと…、」 「隠すの?」 麗子と男は、縁の下に潜り込む。 へび男が、柄の長い、スコップを握り締めている。なにかかけ声のような、息づかいが聞こえる。 少女は手を泥だらけにして、へび男に笑いかける。 ピンク色の靴、黒点をいっぱいつけて、徐々に、心の奥深くに消えていった。
足が萎えて、やがて少女は、芽をふいた。 了
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