『六』
その日のうちに麗子に会った。初めて会った日に、携帯電話の番号を走り書きしたメモを渡されていた。 彼女は、まるで私から連絡があるのを待っていたかのようだった。私から電話をしたというのに、時間と場所は彼女が決めた。 再び鎮守さんの境内へ足を運んだ。 すでに、百メートルあまり続く参道の両側の灯篭には明かりが灯っていた。人足も多い。私は人ごみをかき分けて、本殿の裏を抜け上社に上がった。 社殿の脇の、街灯に薄く照らされた東屋に、麗子は一人佇んでいた。 「私、田丸さんなら、きっと全部知ってる、て、ずっと思ってて」 会ってしばらく不自然なほど会話がなく、十分あまりもそうしていただろうか、唐突に麗子は言った。 「すいません」 なぜ私は謝ったりするのか? 「みんながお姉ちゃんのこと忘れていくように、あなたも忘れてた。それもすっかり、お姉ちゃんのこと、その存在とか、全部…、」 「俺にも、わかんないんだ」 「でもわかります。私もずっと忘れていたんです」 私は目を丸くして彼女を見つめた。淡い街灯に照らされた女の薄白い顔、なんだか凄艶な感じがした。 「どうして、二人して、ぽっかり穴が空いたみたいに、何もかも忘れてたと思います?」 私は首を傾げて、彼女に弱った顔見せていた。 彼女は、奥殿まで行く気はあるかと尋ねた。私は暗い石段を一瞥してから頷いた。 狭く古びた石段をゆっくりと登りながら、麗子は再び話し始めた。 「だけど私、田丸さんと違って、何も姉のこと全部忘れてたわけじゃないんです」 「そりゃあ、そうでしょ」 前を歩く私は、ちょっとだけ振り向いて言った。 「まあ、身内だから当然ですけど…、ちっちゃい頃、いつか姉が帰ってくるって、出かけてるだけって、ごく自然に思ってました」 「それ、どうして?」 石段が急になって息が上がる。 「なんとなく」 「お母さんとかが、そう言ってたとか」 「いえ」 彼女のその口調、強かった。 「私が、ただ、そう思っていただけです」 しばらく会話は途切れた。 奥殿に辿り着いた。ここに訪れるのは、二十年ぶり、あの日以来だった。 下界を見下ろす。二人が歩いてきた石段は、真っ黒に塗りつぶされていた。更に下の方に、賑やかな祭の明かりが点々としていた。 奥殿には、淡い青色した明かりが灯っている。私は大きく息をついた。汗をかいていたから、風が心地よかった。 「私も大人になって、それでふとね、姉がいなくなったことを受け入れていない、と、漠然と思っちゃったりして」 私は懐かしさもあって、周囲、見渡しながら、彼女の言葉に耳を傾けていた。 「そうしたら、すごく憤り感じちゃって、最初にね、お母さん、問い詰めちゃいましたよ」 「お母さん?」 「だって、だってそうじゃないですか」 少し離れた距離にいた麗子が、近づいてくる。 「捜索を打ち切りにしたの、なんでって、すごく責めて…、おかしいんですけど、二十年も経ってるのに、捜索またやってくれとか、そんなこと言って」 麗子が私を見ている。彼女の顔は私の肩くらいまでしかないから、表情は全て陰になってわからない。 「お母さんいっぱい泣いて、もちろん、私もいっぱい…、苦しくって、そしたら、ぼんやりとあなたの顔が浮かんできて」 「俺の、顔?」 「そう、幼い頃の」 二人で小さな祠の縁に寄りかかった。 私は煙草に火を付けた。薄暗い中で、ライターの火が一際大きく見えた。 「私、何度も一人でここまで来たんですよ。それで、懸命に思い出そうとして」 「頭痛がした?」 彼女、その問いには首傾げるだけで、 「そう、でも限界と思った。姉のことは、田丸さん、あなたの記憶な気がして」 「そんな…」 少し沈黙があった。 「さっきの質問、憶えてますか?私と田丸さんが、どうして二人して、記憶を無くしているのか?」 「はい」 脳の表面にかさぶたみたいにしてこびり付いているものを剥がしてやりたい。そうした思いで、私は知らず知らず頭を掻いていた。 「覚悟してるんです。なんか、とてつもない残酷なこと、そういうの、あったとしても」 人間は、自分の許容範囲を超える出来事に出くわすと、記憶や、その時の感情を封印するという。ちょうど激しい痛みに気絶してしまうみたいに。 私はそのこと、彼女に話してみた。 「だから、俺たちを守るために、記憶がないんじゃないかって」 私はまだ十分に残っている長い煙草を捨てて足で揉み消した。 「守るため?」 「まだ小っちゃかったから、俺たちさ。その記憶、成長の障害になったんじゃないかと、だから、自己防衛として…」 「自己防衛?」 「そう、俺の説明で、わかります?」 麗子、少し考えふけるみたいに俯いていた。 私は、彼女が話し出すまで、じっと待っていた。杉の葉に覆われた、せまい、黄昏時の空、見上げていた。 「それって」 麗子は、そう切り出した。 「思い出す、べきじゃないってこと、そういうことですか?」 「そうも、思うから」 私は答えながら、また立ち上がる。一本の杉の若木、目にとめていた。その木は、私たちの座る縁側の近い場所に、大きな幹、それはまるで大人たちに囲まれるようにあった。 「でも私、覚悟したんです」 信念のある強い言葉だった。 多分私は、自分がいまいち踏み切れないなにかに、一人では到底行けはしない、だから、道ずれが必要だ、そんなこと思っていた。 「覚悟、そうだよね…、」 私の声、掠れていた。
―全てを知らなければ、これからは、この先へ、進めない。
「麗ちゃん、大丈夫だよ、お家帰ろう」 振り向くと、幼い麗子がしゃくりあげながら涙していた。恵子が妹の髪を撫でている。 「孝市くん、お家に帰ろうよ」 恵子が言った。近くで彼女の顔を見たら、月明かりに照らされて涙の筋がはっきりわかった。私は彼女の泣き顔を見て、懸命に自らの涙を堪えていた。 「麗子ちゃん、お家に帰ろう」 私は麗子の腕を掴んで立たせた。 「虫かご、取りに行かなきゃ」 麗子は泣きはらした目で言った。 「そうだね、河原まで下りてこうよ」 「帰り道、わかるの?」 恵子が心配そうに聞く。 「大丈夫だよ、とにかく山から下りりゃいいんだから」 それは少し安易な考えすぎた。 どうやら私たちは、鎮守さんとは全く逆の方向へ山を下ろうとしたらしい。
大分、歩いた気がした。
月が雲に隠れ、闇が辺りを包むたびに、幼い子供たちは肩を寄せ合い震えた。一向に奥殿には辿り着けない。何の灯りも見つけることが出来なかった。 「ねえ、一度神の平に戻ろうよ」 恵子が私の腕を掴んだ。 「もう、戻れっこないよ」 私は彼女の腕を振り払う。 とうとう、麗子がもう一歩も歩けないとしゃがみ込んでしまった。私と恵子も、遂にその場にへたり込んだ。両親に叱られることなんて、どうでもよくなった。それは、会いたくて堪らない気持ちに変わっていた。 小声で「お母さん」と囁く。涙が目頭に溜まっている。いい加減蚊に刺された腕をかきむしりながら、意識が遠のいていく。 麗子を真ん中にして、私と恵子は腕を握り合い、そのまま眠りに落ちていった。
「おい、大丈夫か?」 妙にまのびした声がした。 誰かが私の体を優しく揺すっている。目が中々開かない。強烈な眩しさがある。 朝になっていた。 「おうい、大丈夫かよお」 また、のんきな声。ハッとして体を起こした。 「わっ!」 私は驚きに体を硬直させた。すぐ目の前に、へび男がしゃがんで様子を窺っていた。 「大丈夫かよお、探したんだぞ」 「うわあっ!」 私が叫ぶので、恵子と麗子も跳ね起きていた。麗子は起きしなにもう泣きはじめていた。 「あっち行ってよ!」 恵子が悲鳴をあげる。 その時、私は、へび男の寂しげな微笑を見た。そんなものは、決して子供たちに作れる表情じゃなかった。 彼の心奥深くにある、言い知れぬ悲しみを、ただ感じることができた。 「ごめんよ、別にびっくりさせるつもりはねえんだよ」 三人の子供は、固唾を呑んで、男から目を離せずにいた。 「昨日は、昨日は腹が減ってて、つい…」 「町村と河田は?」 私はやっとそれだけ言った。喉がからからだった。 「食べちゃったの!」 そう叫んだのは麗子だった。 「そんなことしねえよお!」 へび男は大きく手を振って笑った。 その笑顔が、意図も簡単に、子供たちの警戒心を氷解させていった。 「俺は、やっぱ見世物にけえりてえんだよ」 「でも俺たち、迷子になっちゃったんだよ」 「何とかけえるよ、山を降りよう」 へび男が私の肩をポンと叩いた。昨晩、神の平で私の肩を掴んだ彼とは様子が一変していた。
四人はけもの道を、下へ下へと歩き始めた。 「ねえ三ちゃん、帰ったらね、また悪い人に虐められちゃうよ」 おぶられた麗子が、へび男の背中で言った。 「しかたねえよ、でもよ、俺はあそこにいなきゃ生きていけねえんだから」 「どうしてえ、うちのお父さんみたいなお仕事したらあ」 「へへっ、」 麗子のくったくない言葉に、男は笑って、 「俺はよ、頭、わりいから、」と言った。 「お歌、唄いましょうよ」 恵子が言った。 何を唄ったか、憶えていない。ただ、へび男が歌詞もわからず、皆に合わせてハミングしていたのが印象的だった。 いつのまにか、麗子はへび男の背中で眠ってしまっていた。
―歩いている、四人は、ひたすら下界を目指して歩いている。
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