『五』
上社では殆ど人は見られなかった。建物の中に、ぼんやりとした青い光が灯っていた。 息を荒げ、額から汗を噴出しながら、私たちは奥殿へと続く石段を登っていった。 「上には誰もいないよ」 待ちきれず河田が石段を駆け下りてきて、皆と昇り始めた。へび男はもう驚きは見せなかった。何を考えているのか、無表情で、ただ子供たちの成すがままに、少し遅れ気味についてきていた。
とうとう、奥殿までやってきた。
へび男は大汗をかいて、息を荒げていた。その呼吸音が、何か人間ではなく、動物のように感じられた。 「へび男さん、もう大丈夫よ」 恵子が言った。 「脱出成功だ!」 河田が音頭をとって皆がわあわあ拍手したりする。その中心で、へび男だけが黙って辺りを窺っていた。 「俺は、へび男じゃねえよ」 大きな舌打ちして、 「ちゃんと名前がある、三次だ」 と言った。 「じゃあ三ちゃんね」 恵子が握手を求めた。彼ははにかんで、恵子の小さな手を恐る恐る握り返した。 「三ちゃんは学校は行ってないの?」 町村が聞く。男が答えるまでには少し間があった。考えているんだろうか、その視線、虚空を仰いで、 「ああ、今は行ってない。昔は行ってたよ」 「じゃあ算数とか勉強した?」 ずっと恵子の後ろにいた麗子が尋ねる。また、少し間があった。 「勉強したよ」 「何が好き?」 「何って?」 「学校の勉強で、一番何が好き?」 麗子は次第に前に出てきていた。 「ああ…」 へび男はまた天を見上げた。やっぱり考えている風ではなかった。 「私は理科が好きよ」 麗子は自分の質問に自分で答えた。 「りか?」 「虫とか動物について勉強するの」 「ああ、それか、それなら勉強したよ」 へび男は笑いながら答えた。初めて見る笑顔だった。
叢林の隙間から、参道が見えた。見下ろすと、すでに蟻道のように人が行き来しているのがわかった。お囃子の音が聞こえてくる。そろそろぼんぼりにも火が灯るだろう。 「なあ、どこへ行くんだ?」 さっきからもう何回同じことを聞いただろうか?へび男は五人の子供をまんべんなく見回しながら尋ねた。 顔にはあからさまに不安感があった。 「神の平に行こう」 そう最初に言い出したのは、確か河田だったと思う。 奥殿よりさらに山上にあるという神の平は、当時の子供たちにとって好奇心の絶頂点にあったといっていい。
ここは、地元の総鎮守とされるお宮だった。古くから一山が神であると崇められてきた。 本殿では、盆に祭がある。境内一体に出店が所狭しと並ぶ。その本殿の裏から石段を上がると上社にたどり着く。ここまでは子供たちの行動範囲だった。
さらに上社の境内の奥に苔むした細い石段がある。
石段は急で、所々石が崩れている。つまり、ここから先、めったに人が入る場所じゃなかった。苦労して登りつめた場所に、小祠がある。 それが私たちが今いる奥殿だった。 神の平は、さらに上に行く。 鎮守山の頂上だった。名の通り大地はまったいらで、古代、神が舞い降りたという伝説があった。泉が湧き、祭祀の際、そこで汲み上げられた水が、御神水として振舞われた。 神の平は禁足地だった。神の墳墓だと聞いていた。一歩でも足を踏み入れれば、足は萎えて、見る見る木の根と化してしまう。そう、大人たちは言っていた。 「でも、足が萎えちゃう」 麗子が言う。 「勇気ないものは去れ!」 河田が飛び跳ねながら弾みのある声で叫んだ。 「そこには、食いもんはあんのか?」 へび男が聞いた。私と眼が合った。私の目は、そんなものないと言っていた。多少の軽蔑、感じていた。 「あると思うよ」 町村が曖昧に答えた。あるわけないだろう。あったとしても、どうせ干乾びたお供え物くらいだ。 「じゃあ行こうよ、俺あ、腹減ってしょうがないんだ」 へび男は満面の笑みを浮かべた。
大人の背丈ほどしかない小祠の後背に、竹薮が広がっている。注意して見ると、幾本かの竹に、白い布切れが巻かれている。それが、山頂へと続く道しるべだった。 竹薮の前に、粗末な木柵が張られている。朱色で大きく、「禁足地」と書かれたたて看板があった。柵は子供の胸くらいの高さだった。最初に河田と町村が競って越えた。 「うわっ足があ!」 竹薮に着地した河田が大げさに足を抱え込んで見せた。 「どうしたの!」 恵子は慌てて柵にかけた足を戻す。 「うそだよお、大丈夫」 いつもの冗談だった。 私は、多少驚いていたかもしれない。ちらっとへび男の顔を覗き込んだ。彼は相変わらず、何を考えているのか見当もつかぬ無表情で、女の子たちが柵を越え終わるのを待っていた。 一番最後に、私が禁足地に入った。 それは何も臆病から遅れたわけではなくて、「しんがり」という、訳の判らない役目をおおせつかったからだった。 竹薮に入ると、ひんやりとした空気を感じた。遠くに聞こえていた境内のお囃子の音が、不思議なほど聞こえなくなっていた。 しきりに風に揺らぐ笹の音だけがあった。遠く波音を聞くようだ。外界と、隔絶した気分だった。へび男の背中を追いながら、最後に後を振り向いてみた。小祠の背中が、淡い橙色に照らされていた。 ―私たちは、こうして遭難した。
一行は、途中で、白い布切れが巻かれた道しるべを見失っていた。最初のうち、それを心配するものは誰もなかった。とにかく、ことは単純に、山頂に上がれば、そこが神の平であると思っていたから。 竹林はやがて雑木林に変わった。日の翳りだけではなく、急に辺りが暗くなった。天上に見える隙間の空は、すでに青黒かった。多少の焦りが、じんわりといった感じで、子供たちにのしかかってきていた。 へび男は、私たちの気分を敏感に感じ取ったのか、押し黙ったままだ。私は彼の大きな背中と、その先にちらつく皆の後ろ姿を追いながら歩いた。 「おい見ろ!」 河田が声を張り上げ急に走り出した。私たちも後に続いた。 「見ろよ、石垣がある」 子供の背丈くらいの、苔むした牛蒡積みの石垣が、道の先のほうへと続いていた。道しるべを見失ったこと、彼なりに気にしていたみたいだ。自らに言い聞かせるみたいに喜びを露にした。 「もう神の平は近いぞ!」 白い布切れに変わる、新たな道しるべだった。一行の足取りは多少軽くなった。石垣伝いに歩を進めていく。 山中に入り込んで一体どれくらいの時間が経っただろう。足が重くなってきていた。一番幼い麗子が、足が痛いと言ってぐずりはじめていた。恵子は、大げさに足を引きずってみせる麗子の背後に回り、背中を押してやったりした。 「俺があ、負ぶってやるよ」 山中に入ってから、ずっと黙っていたへび男が言った。麗子はこくりと頷いて、しゃがんだ男の広い背中に飛び乗った。 「もう少しだよう、カミノタイラに着いたら、腹いっぱい美味いもんが食える」 そう言いながら、少女を負ぶった男が立ち上がった。そのセリフに、私はひやりとした。恐る恐るへび男の顔を見上げた。すぐに目が合った。 「な、頑張れば、食べもんがあるよな」 私は急いで目を反らして、後方を窺っていた町村と河田の方を見た。暗くなってきていて、彼らの表情よくわからなかった。 へび男の太く節くれだった腕が、麗子の太もものあたりを抱えている。それを眺めながら、ひんやりとした汗を背中に感じていた。 石垣が途切れ、大きく口を開いている場所があった。入り口に違いなかった。再び白い布切れが巻かれた雑木を発見する。皆一斉に走り出した。思わず目を見張る。
そこだけくり貫いたように、木々のない、小さな草原が広がっていた。
突然開けた光景に、しばらく誰もが騒ぎ合った。 麗子も、へび男の背中をするりと抜けて、姉と手を取り合って飛び跳ねている。 私とへび男が、遅れた足取りで皆の輪に入る。見上げれば、夏の空は、満天の星を湛えていた。月明かりが、子供たちの頬を青白く照らしている。瞬きしている間にも、流星が中空を通り過ぎていった。 それ以外、何もなかった。 風がやんでいた。周囲の木々は黒々とした影絵のように押し黙り、微かな摺れ音さえたてない。静寂が、かえって、木々を意志のある生き物のように思わせた。日中唸るように耳鳴りしていた蝉音も聞こえない。耳をすませばやっと、草虫の鳴き声をくみ取ることができた。 無だった。何も無い。 私たちは、下界とは完全に隔絶されてしまっていた。もっと早く気付くべきだった。私の頭には、さっきからずっと、昨晩の父親の声が響いていた。 「なあ、ひとまず何か食べようぜ」 私のそばで突っ立っていたへび男が言った。間の抜けた声だ。皆の喜悦とも、私の焦燥感とも違う。私は何の気なしに腹が立った。 「そんなもんあるわけないじゃん!」 「どうして?」 へび男の大きな腕が私の肩にのしかかった。体重がかかっていく。 「どうして!食べもんあるって言ったじゃないか!」 男はいきなり両手で私を突き飛ばした。皆が一斉に振り向く。私は驚いたまま地面に腰をつき、そのまま硬直してしまった。 「馬鹿じゃないのか!食べもん食べもんって、お前なんか連れてこなきゃよかった」 河村が叫んだ。 「そうだそうだ!お前なんか鶏食べてりゃいいんだよ!」 町村が続く。 「なんだとお!」 へび男は震えた拳を突き上げて、二人の前に立ちはだかった。 「みんな逃げろ!」 誰かが叫んだ。町村と河田が背中を向けて走り出した。そのすぐ後を、へび男が何か喚きながら、追いかけていく。 町村たちの背中が、影絵みたいな木の、その舞台裏に消えていった。 へび男の雄叫びも遠のいていった。 全ては、ほんの一瞬の出来事だった。私はようやく立ち上がったところだ。
「河田とさあ、とにかく夢中で山ん中走ったよ、なんか、化けもんに追われている感じだった。あいつ、もの凄い雄叫び上げて追っかけてきたんだ。すげえ怖かった。で、気付いたら、道に迷ってた」 私と町村は参道を抜け、いつしか河原まで歩いてきていた。 「ようやくここまで辿り着いて、釣り竿を手にして、そしたら、何か騒ぐ音がして、いっぱいの懐中電灯で照らされてた」 二人の少年は、遭難したその日のうち、夜中の二時頃にこの河原で救助された。 「俺が知ってんの、ここまでだけど…、」 当然、町村が知っているのは、へび男から逃げるまでの話。 その後を知るのは、私と、あと一人、麗子だった。 「なあ、孝市、あの後、どうしたんだ?」 「わからない」 私は彼の方を見ずに、流れの速い川足をじっと眺めていた。 「怒ってる?」 「何を?」 「あの時、俺たち、お前らおいてったから」 「そんなこと…」 私は軽く笑いながら振り向いた。そんなこと、蘇る記憶のさなかに思いもしなかった。あの場を逃げなければ、きっとへび男に殺されている。
殺されている…、
「どうした?」 町村が走り寄る。私は水べりにへたりこんでいた。膝が濡れてしまっている。 「どうしたんだよ?」 町村が背後から肩を掴んでいた。 「あの場を逃げなければ、へび男に、殺される、そう考え出したら、また頭が痛くなってきた」 私は目を瞑り、一言一言を区切って口に上げる。 「恵子ちゃんは、殺されたっていうのか?」 私の肩を掴んでいた町村の力が強まった。 「わからない、」 頭の中、わんわんうねり上げる音、まるで記憶を掘り下げていくこと、強烈に拒んでいるようだ。 「全然、思い出せないんだ!」 私は拳を振り下ろす。川面を弾いて、水しぶきがあがった。 真空パックにして、紙袋で包んで、さらに新聞紙にでも包んで、それをダンボール箱に入れて、木箱に入れて、南京錠をおろして、地中深くに埋めてある。それを無碍に手荒く掻きだそうとしたら、頭が痛いに決まっている。頭蓋骨にひびが入って、堪えられないに決まっている。 空が回っている。黄色い太陽を中心にして渦巻いていく。 蝉の鳴き声が重なり合って、遠くなり近くなり耳元に響いている。私は頭を抱え込んで、あの夜を思った。 何も知らなかったあの夜だ。 一人の女が現れて、こんなことが始まった。判で押したように時間に几帳面な母が、あの日に限って中々現れなかったの、なぜなのか? 私は、麗子に会おうと決めていた。
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