『二』
鎮守の森で毎年盆祭がある。
例年、晩夏の涼しい夜だった。 本殿へと続く百メートルあまりの参道の両側に、 石製の灯篭が並んでいて、 祭りの間だけ火が灯った。
その参道を、九歳であった私が、友人の町村と河田、三人で走っている。 手には小銭が握り締められていた。 額は憶えていないけど、きっかり見世物小屋の入場料だったと思う。 ごった返した人ごみの中をかき分け走っている。 青いビニール製の天幕が、いかにも急ごしらえといった粗末な見世物小屋の前には、すでに人だかりが出来ていた。 「さあさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。現代医学じゃ解明できない謎!紀伊山地の更に奥、奥の奥地で見つけましたはこの兄妹でございます。見たところ人間に違いない。しかしどうも違う。彼らに人間の言葉は通用しません。ローマの王様も腰を抜かした、衝撃の真実。この兄妹、二人して山奥で大蛇に育てられたというんだからびっくりだ!義父か義母かは知らないが今日は三人ならぬ、二人と一匹揃ってご出演にこぎつけた。眼に入れても痛くないとは言いますが、兄妹の鼻から口へあらま大蛇がスルリスルリと通り抜けていきます。さあさ、一度見ておけば孫の代まで語り草、押さないで押さないで、順番にお入りください…」 恐ろしくしゃがれた声が、スピーカーからの割れた音で連呼される。 カラオケ装置から騒々しく演歌が流れている。 小屋の天井あたりには極彩色で描かれた奇妙な絵がいくつも掲げられていた。 油彩だろうか。 絵は左から話仕立てになっていて、まず、山中に始まる。 密林を探検するような出で立ちの男が、黒々とした洞窟に懐中電灯の光を向ける。 長い先割れの舌を垂らした大蛇がとぐろを巻いている。 探検隊は驚愕の表情を見せるが、蛇の大きな目は丸々として、何だか剽悍だった。 二人の子供がとぐろに巻かれている。 髪の長さだけが男女の違いで、眉も凛々しく、顔つきは恐ろしく整っている。この二人が、見世物だというのだろう。 絵額の更に上に掲げられた大看板に、過剰な装飾文字で、へび女へび男と書かれていた。 「本物?」 背の低い町村が、人垣で懸命に背伸びをしながら言った。 「良夫が見たときには、鶏の血をすすってたって言ってたよ」 河田が、ストローを啜る仕草をして答えた。皆興奮していた。 口の中に鉄の味、広がるようだった。 雑踏に押されながら小屋の中へと入っていった。 天井が異様に高い。 鉄パイプ製の梁が剥き出しになっている。 小屋全体をブルーシートが覆っているから、通風が悪くて、蒸れた空気が充満していた。みな汗ばんで、たくさんの客の顔、裸電球の光彩に照らされてらてらしていた。 大人たちが前に陣取り、とても見えなかった。 どよめきが頭上に上がる。 それはすぐに大きなうねりのような笑い声に変わった。 「もっと前へ行こうよ」 私の気持ちがはやった。 大人たちの腰の間、かきわける。汗でぬるっとした手が私の肩を掴む。するりとぬけて前へと進んだ。 「あっ!」 私が最初に声を上げたと思う。 町村も河田も絶句していた。足が震える。子ども三人、手に手を取り合っていた。
目に飛び込むのは、大きな蛇、黒いしみのいっぱいある板床。
ほとんど裸にちかい格好をした男女が、つったっていた。 彼ら、大きな蛇と一緒に、舞台の中央、檻の中にいた。 額絵のとおりじゃ、全然なかった。 大蛇といっても、それは人間をくるみこむような大きなものではなかった。 それに檻の中の男女、けして美男美女じゃない。 むしろその顔つきは醜く、この世に恨みを持つような斜視して、どこか中空を見上げていた。 「さあさあ!」 真っ赤な着物はおった老婆が、 扇子を机に打ち付ける音、 マイクを通して、二重に室内に響きわたる。 「末代までの土産話にとくとご覧あれ!人類の奇跡がみなみなさまの目の前に!彼らはへび語を操りますから、勿論人間の言葉なんてわかりませぬ…」 「さっきから何にも喋らねえじゃねえかよ」 赤ら顔した、半纏の客、野次を飛ばす。 「へびの言葉は、へびの言葉」 老婆が慣れきった口調で切り返す。 「しゃべれよお!」 また別の客。両手を口の前、筒にして、大声はりあげる。 「長い舌を口からにょろおっとのぞかせてえ、白い息がそろうり、そろうり。つむぐ言葉は獣のささやき」 擬態語のくりかえし、その老婆、何度も何度も、同じ言葉繰り返す。語尾が、かすれて消え入りそうな、特徴的な口上。まるで、呪文のようだ。かすれた声音、まぶたの上に覆いかぶさる錯覚をした。
やがて場内が静まり返った。 檻の中の男女が、べろを出した。 蛇のような、二又の舌じゃない、ただその舌細く尖らせた。 口々に「シューッ」と息の音を出した。 二人は寄り添って、檻から出てくると、舞台の前方に進んできた。 こすれる靴音がいっせいにする。みな、後ずさりした。 だけど、それはほんの一瞬だった。 へび語、とてもとぼけて聞こえた。 一斉に大笑いする大人たちの声が湧き上がった。 へび男の額から頬にかけて、見る見る赤くなっていくのを見ていた。 町村が握っている手がきつくなった。 一度檻の裏へ下がったへび女が、戻ってきた。 両手に暴れる鶏をたずさえていた。 鶏は羽をもがいて、体をさかんにくねらせていた。 あまりにも躍動的に、あからさまに、生きていることを群集に伝えていた。 掠れたもどかしい鳴き声が途切れ途切れに上がる。 観客がどよめいた。 「さて、そろそろ食事の時間でございます」 老婆が扇子を何度も机の縁に叩き付ける。甲高い音が場内に響いた。 「あれ、食べんのかな?」 河田の声が掠れていた。私はつばを飲み込んだ。 へび女は鶏の小さな頭を手のひらに包み込むと、 「きえっ!きえっ!きえっ!」 という奇妙なかけ声を上げ、 一息に、その細首をひねった。 けたたましい鳴き声が場内の壁にぶつかって、異様な反響音があたりをつつんだ。 搾り出すような、生命の最後の声だった。 白い羽が、大粒なぼた雪みたいにあたりに散った。 騒がしかった板敷きを踏む靴音、ぷつっという感じで止んだ。 無駄口も、奇声も喚声も全て飲み込んで、場内はどよめきに包まれた。 へび女は、もうぼれきれみたいになった鳥の首を執拗に捻り続けた。 赤い血が滴り落ちてくる。それ、床に流れていった。 女は、鳥の足を掴み、頭上高く胴体を掲げた。 裸電球に照らされた流血、不自然なほど鮮やかな濃い赤色を見せ、 肉片から床へと、とめどなく落ちていった。 床には、真っ黒なかたまり、それは、さっきまで鳴き叫んでいた鳥の頭、転がっていった。 「本物?」 「そりゃそうだ、さっきまで動いてたよ」 背後で大人たちが囁きあっていた。 だけどその戦慄の余韻、それほど長く続かなかった。 また、大人たちのささやき笑いが起こる。 へび女が、血をすする姿が、滑稽だった。 目をまんまるに見開いて、口の周り、口紅おばけみたいに赤くなっている。 ニスの張られた床を、電球に照らされ艶光した血が這っていく。 手を伸ばせば届きそうだった。 好奇心が、私の右手を上げさせた。触れた血、ひやりとしていた。 「どう?」 町村が聞く。 「あったかくない」 私は答えて、その手、ジーンズのお尻のあたりにこすりつけた。
へび女、汚れた布切れみたいな、形をとどめない鶏の肉片を、後方で佇んでいたへび男に手渡そうとしている。 ライトと、蒸せるような場内の熱気のせいだろうか、男の目に潤みがあった。頬のあたり、痙攣みたいに震えていた。 へび女は肉片を振って、強引に男に手渡す。 男は、今へび女がしたように、それを頭上に掲げた。女が顎をしゃくって見せた。 一瞬のためらい、私はそう感じた。 へび男は鶏の細い首を口に咥えた。 「あいつ肉まで喰うぞ!」 誰かが言った。少し持て余し始めていた観客から、再びどよめきが上がった。大勢の床板を鳴らす足音、地鳴りのように響いた。 へび男の目から大粒の涙が溢れていた。頬を伝って流れ落ちる涙、顔中にこびり付いた血に交じり合って、薄赤くきらきらして見えた。 へび女、男の前に仁王立ちしていた。 男は、嗚咽とも叫びともつかない荒い息を吐きながら、真っ赤になった細い肉切れをむしゃぶり続けた。 観衆は、一度のどよめきの後、また笑った。 子供たちは、ただ震えていた。 「うげっ、もうだめだあ!」 へび男が、突然咥えていた肉片を吐き出した。 観衆が一瞬静まり返る。 「どういうことだ!」 「へび男が喋ったぞ!」 「にせもんだ!」 罵声が数珠繋ぎに始まった。 舞台に空き缶や紙くずが投げ込まれる。 「物は投げないでくだせえ」 さっきまで胸を張っていた羽織の老婆、頭を抱える。 舞台の中央にはへび姉弟がうずくまっていた。放り投げられた空き缶が、へび女の小さな頭に当たって、亀のように頭をすくめた。 それを見た観客に、またドッと笑いが起こる。 男の方、苦しそうな顔を観客に向けて、呆然と突っ立っていた。 口の周りは赤黒く縁取られ、体中に羽毛をくっつけていた。 何かを、必死に言っているようだった。 口が小さくぱくぱくしてるのがわかった。 やがて目を細め、眩しそうな顔をして、場内を隅から隅まで見渡し始めた。 ボール紙が男のこめかみのあたりにぶつかる。 しかし男、首を左右に振る動作を止めなかった。 外に出てしばらく、子供らは黙りこくっていた。 三人は参道を出口の鳥居へと向って歩いた。 「あいつらさ、へびの子どもなの?」 町村が、灯篭に照らされた朱色の頬を私に向けた。 「違うんじゃないかな」 私は即答した。 「そうだよね、へびに子どもなんて、」 町村は立ち止まった。三人は参拝の人波を避けて灯篭の脇に入り込んだ。 「だけど、あいつら何ものなんだろう」 町村は、へび女へび男とは言わない。彼らは化け物でもなんでもなかった。ただ、彼らが、人間であるのに、何故、学校へも行かず、普通の食事をするわけでもなく、あんな場所で鳥の生き血を啜っているのかが、子どもなりに不可解でならなかった。 「のぞきにいかね?」 河田がいたずらっぽい目をした。 「見世物小屋が閉まってからさ、行ってみっか」 私と町村、すぐに賛同した。 その場にしゃがみ込んで、額を寄せ合った。 見世物小屋が何時に閉じるかは判らなかったけど、ともかく、それまで待つことにした。
囃子の音が途切れる。 屋台の裸電球、ひとつひとつ落とされて、しだいに辺り、ほの暗くなっていった。
人通りが目に見えて減り始めた。 見世物小屋の前、ほとんど人がいなくなった。 頭上の絵を照らしていたライトの電源が落とされる。 黒々とした絵の中の大蛇の目だけが、白く光って見えた。
そして、誰もいなくなった。
三人は目を見合わせた。背の低い町村の目が興奮で潤んでいた。 「裏に、まわってみよう」 私は乾いた咽喉から声を出した。 芝居小屋の裏口はすぐに判った。厚手のブルーシートをそっと捲る。中には簡単に侵入することが出来た。観客のいた板敷きのあたりは、真っ暗になっていたけど、舞台の上、まだ明かりが灯されていた。 こちらから舞台は一望できて、舞台上からは何も見えないはずだった。 私たちは忍び足で、舞台のすぐ下まで近づいていった。 「この、うす馬鹿野郎が!」 小屋の前で口舌をたれていた、おそらくこの見世物の団長らしき男が、うずくまる人影を蹴飛ばしていた。 「すいやせん、すいやせんったらあ」 頭を抱え哀願していたのは、さっき見たへび男に違いなかった。 「あん、なんで喋りやがった!」 「すいません、俺あ、ダメなんだあれあ、気持ち悪くって」 「うす馬鹿が!」 男はよろめきながら、へび男を再び蹴り飛ばした。 私の足、竦んで動けなくなっていた。 「さあ、へび語やれ!」 団長がしゃがんだ。 「へび語やれっつうんだよお!」 団長が拳を振り上げる。 「三次、やりなったらあ!」 へび男の背後にしゃがんでいたへび女がばさばさの髪を振り乱して、彼の肩を揺さぶった。 へび男は、這いつくばって、舌を出して、 「シューシュー」と声を出しはじめた。 へび女、一緒になって、へびの鳴き声はじめた。 私たちは、目で合図しあって、その場を、するりと抜けていった。
神社の境内は、すでに静まり返っていた。 灯篭は消えてしまっていたけど、夜通し灯すのか、裸電球を入れた吊ボンボリだけが、さびしげに煌々と照っている。
―記憶が霞んでいる。
その後で、どうしたんだろうか? 遅くに帰宅をして、 両親には叱られなかった気がするけど、あまり憶えていない。
だけど判っている。
この直後に、私たちは山中で遭難したんだ。 【つづく】
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