黒々と固まったかさぶたを剥がしてみたら、 まだ生傷が癒えていなかった。
そんな感じがあった。
『一』
晩夏の数日、三年ぶりに帰郷した。 東京の会社に勤めるようになって七年、私ももう三十になろうとしている。 小さな駅舎には、だだっ広い待合があった。 黒光りした長椅子が並んでいる。 照明はうす暗い。人もなくがらんとしていた。
母が車で迎えに来る予定だった。 列車が到着してから、二十分待っている。 駅の高い天井に立てかけられた時計が、午後十時を指していた。 もてあまして、待合ロビーをうろつく。 天井の蛍光灯に、粒のような虫けらが、弱弱しく群がっていた。 バスが何台も停車しては走り去っていった。 行き先が赤く灯されているバスが行ってしまった。
今のが最終だった。 私は軽く舌打ちした。
入り口から改札口へと、涼しい風が吹き抜けていった。背 の低い若い駅員が改札に立った。 もう、最終列車の到着時刻だった。 私は少しイライラして、十数人の降客が、改札を通り過ぎていくのを眺めていた。 一人、女が立ち止まる。 群れから取り残されたようで、すぐ目についた。 歳は二十五から三十くらい、事務仕事でもする会社員だろう。 細い瞳は少しきつく感じられたけど、目が悪いせいかもしれない。 目が合った。私は慌ててそれを反らした。 胸ポケットからタバコの包みを取り出す。 吐き出した白い煙が、高く暗い天井にくっきりと浮かび上がる。 煙草をふかしながら考えてみる。 女は、相変わらず突っ立ったままだ。 私を注意するつもりなら、残念ながら、長椅子の脇にでかでかと灰皿もある。 三度横目で盗み見て、三度とも目があった。ずっと見ている。 女の格好は垢抜けていたが、顔には妙な陰鬱さが漂っている。暗い構内が作り出す深い影が、彼女の形のいい鼻梁によく合った。 ジーンズの後ポケットに突っ込んでいた携帯電話が震えた。母だった。近所のおばさんを送っていて遅くなったのだと云う。あと十分もあれば着くそうだ。 電話を切ると、女が、すぐ目の前に突っ立っていた。 私は驚いて、一歩退いた。 蛍光灯に照らされた女の顔、青白く浮かび上がって見えた。 「田丸さんですよね?」 挨拶もなかった。 女は私を見上げ、唐突に言った。少し早口だった。 「どこかで?」 唾を飲み込んだ。女は、ただ俯いて答えなかったから、 「どこかで、会いましたっけ?」 続けて聞いてみた。記憶にない。 女は、僅かに首をたてに振った。 「結城です。結城麗子。小学校が一緒で」 私は首を傾げて笑った。 「憶えてませんか?」 「ちょっと、思い出せないな。同級生?」 彼女は地面を無心に見つめている。 「あの、恵子のことは?」 「恵子?」 「私のお姉ちゃん、結城恵子のことは?」 何か胸に引っかかる思いが、ほんの少しだけ沸いてくる。 「ケイコ、どうだろう、ユウキ、ケイコ」 私は自分の頭に擦り付けるつもりで、その名を反復してみる。 しばらくして、彼女は、とうとう残念そうな顔をした。 嫌な間だった。私は短くなった煙草を捨てに、長椅子脇の灰皿の方へと歩いていった。 「あの、田丸さん!下の名前…」 背中に響いた彼女の声は、がらんとした待合所に反響して、妙に大きく聞こえた。 「孝市ですけど…」 私は彼女の方に向き直り、そのままベンチに腰を下ろした。 「そう、みんな孝ちゃんって呼んでましたね」 彼女は言いながら、すぐ隣に浅く腰をかけた。 「そうだね」 私はポケットに両手を突っ込んで軽く笑った。母は今でもそう呼ぶ。 「姉さんは…」 「その姉さんが、俺の同級生?」 「そう、私はいつも姉について遊んでたんです、だから、田丸さんのことも憶えていて」 「だけど…」 私は彼女の言葉に割って入る。 「その目が」 今度は、彼女が私の言葉を割いた。 「その目が、子供の頃と同じ気がして」 彼女が、すっと手を上げた。まるで私の目の辺りに触れるみたいに。私は照れて笑う。その顔つきも、子供の頃と同じだと、彼女は言った。女の頬に、少し赤みがさした気がした。 「今は何を?」 「東京で、普通のサラリーマン」 「遠いですね」 「帰ってくんのも三年振りになるかな、えっと…」 「結城です」 「結城さんは?」 「銀行に勤めてます」 彼女は、町から四十分ほど電車で行った都市の銀行に勤めていた。 二人で暫く軽い身の上話を交わした。 何度も彼女の顔を、盗み見るふうにして窺ったけど、私には、その幼い頃を引き出す何も生まれてこなかった。 構内の蛍光灯の灯りが消えた。先ほど改札に立った駅員が私たちを一瞥して、何も言わず、そのまま奥の事務室に消えていった。 構内は、二台の自動販売機の灯りだけになった。 機械のモーター音だけが際立って聞こえてくる。 小さな羽虫が、ジュースの陳列に無数に群がっていた。 「ところで、結城さんは迎えを?」 「いえ、私、駅前に自転車停めてあるんです、田丸さんは?もうバスは無いですよ」 「俺は、母親が車で迎えに来るんだけど、何か遅れてて」 もう着いてもいい。 「そう…、それにしても田丸さん、本当に姉のこと憶えてませんか?」 すぐにはい、と答えたかった。それが事実だった。ところがどうだろう、口を開きかけると同時に、奇妙な不協和音が左から右の耳へと走った気がした。私は何も言わず、辺りを窺った。 静かだった。 自販機の灯りに群がる虫の羽音が聞こえる。 「恵子姉さんは…」 「ちょっと、やめて」 私は出来るだけ穏やかな口調で拒んだ。女は困惑の表情を浮かべる。 私の額に汗が滲んできた。 「大丈夫ですか?すごい汗が…」 随分涼しかったから、彼女が驚くのも無理はなかった。 「なんか、思い出そうとしたら…」 私が言い終わる前に、彼女の心理に軽い変化が生じた気がした。薄白い顔が、赤味がかって見える。 「姉のこと、思い出せませんか?」 「待って」 私は遮るみたいに、ゆっくりと手を上げた。彼女は従順にも見える態度で黙った。私の次の言葉をじっと待つ息づかいが聞こえる。
すーっ、すーっ、 彼女の呼吸音に、私は歩調を合わせて、自らの呼吸音でなぞっていく。
もう、母が来るはずだ。 もう、恵子という少女を思い出すはずだ。
二つの考えが交錯している。 眼を強く瞑ってみた。 薄っすらとした緑色の、少女の影がまぶたに浮かんだ。 恵子なんだろうか? 今、目の前にいる彼女の残像かもしれない。 「あの、君の姉さん、恵子さんは…」 「はい」 「恵子さんは、今は何を?」 そんなこと聞いてはいけない。急にそう感じた。 「本当に、全然憶えていないんですか?」 彼女の口調に緊張感がある。 「すいません、何も」 私は首を傾げた。 「姉さんはあの時、一人だけ帰ってこれなかったでしょ」 語調が強かった。 「帰ってこれなかった?」 「どうして?憶えていないんですか?冗談だったら私…」 彼女の瞳が明らかに潤んでいた。 「すいません」 私の声、消え入りそうだった。 クラクションの音と同時に、暗い構内にヘッドライトの灯りが射し込んできた。ドアの閉まる音。 「ごめんね孝ちゃん、あら、お友達?」 母が入口に立っていた。私は彼女に「それじゃあ」と言って会釈をすると、外に向って歩き出した。 「あの、田丸さん、いつまで?」 彼女が去り際に聞いた。私は五日後には東京に戻ると口早に言った。
「可愛い子ね、東京から連れてきたのかと思ってお母さんちょっとびっくりしたよ」 母がハンドルを握りながら言う。 「そんなんじゃないよ」 「お友達?」 「多分…」 「なにそれ?」 「いや何、今、急に話しかけられて、小学校の時同じだったみたいで」 「憶えてないわけ?」 私は母に、待合室での麗子との邂逅について軽く話した。 「母さん、結城さんって憶えてる?」 「結城?」 母は明らかな驚きをあらわして私を見た。 「ちょっと、前見て運転して」 家までの道のりに殆ど対向車はないが、よくイタチが引かれている。 「ごめんごめん、でも、確か結城さんって」 「憶えてるの?」 「憶えてるも何も、あんたたちが鎮守さんで遭難した時、一緒にいた子じゃない」 「…」 口中に苦味があった。無数に飛散していた羽虫が、口の中、踊っている、そんな想像をしていた。 【つづく】
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