翌日、即ち日米安保条約自動延長の日は、朝から愚図付いていた空からとうとう雨が落ちてきた。慎一は例の釣具屋で購入した白い百円のビニール製レインコートを着て、原宿駅から代々木公園へ至る道を歩いていた。事務所に出勤して任されている物件の図面を何とか書き上げた慎一は、そのまま昼過ぎに無断で事務所を出て来てしまったのだった。 昼休みに事務員の中島久美子に、途中で無断退社すると言った時の彼女の悲しそうな顔が、まだ鮮明な映像として脳裏に残っている。彼女は彼女でこれから作ろうとしている、建築産別の事を心配しているのだ。 (建築産別行動委員会の結成は、六月が終わってから本格的に動くべき事なんだ) もっとも突撃隊に志願した時から、逮捕されて事実上釈放されるまで、自分は参加出来ないと覚悟していたのが、ああいう惨めな結果になってしまったのだが。 (とにかくまだ二日、戦かう日が残ってる) 道の両側にはデモの参加者を見込んで、おでんやお好み焼、飲み物を売る露店が軒を連ねている。お祭り気分で参加している者も多いらしく、それなりに露店は繁盛していた。 (遅れてしまったが、演壇占拠は成功しただろうか?) 人でごったがえす中を、慎一は公園の奥に作られている演壇に向かって歩いて行った。近付くにつれて上部にはためく十万人集会と書かれたスローガンしか見えなかったのが、段々と演壇の上で犇めく人間まで見えるようになってきた。 (やった!演壇占拠は成功したんだ) 演壇の上には青ヘルを被った人間が百名近く、手に手に旗竿を持って並んでいた。慎一は雑踏の中を掻き分けるようにして演壇に近付いた。傍まで来ると演壇の下にも演壇を守るように、半円状に展開した青ヘル部隊が旗竿を立てて、集まっている組合員に正対していた。 青ヘルと組合員の間には三メートルくらいの空間が出来ている。慎一は迷わずその空間を越えて、青ヘル部隊の中に入った。すぐに慎一の姿を見付けた寛子が、ヘルメットと旗竿を持ってきた。慎一はそれを受け取ってヘルメットを被り、タオルで覆面をしながら関口を眼で探した。 「関口はどうした?」 「今日は来てないわ。反戦の事務所にいるかも知れないけど…」 言葉少なに語る寛子の様子を見て、慎一に心配をかけまいと関口の事を話したがらなかった、昨日の山城の表情を思い出した。 (やっぱり関口に何かあったんだ…) 中央に置かれた演説台のところでは、本村が何万となく集まっている総評傘下の組合員に対して、ともにゼネスト決起を呼びかける演説を行なっていた。 「抑圧の鉄鎖を断ち切り、工場の門を押し開き、学園の門を押し開いて、我々とともにゼネストを持って断固戦おうではないか。帝国主義的工場制度粉砕、産学共同路線粉砕の戦いを貫徹する中から、真の労農学共闘を産み出し、二重権力状態の輩出から帝国主義ブルジョア政府打倒、労働者政府樹立へ向け、安保粉砕のゼネストをその端初として…」 慎一は寛子から、申しわけ程度に赤い布の付いた旗竿を受取ると、演壇を守る部隊の最前列に出た。横を見ると旗竿のいき渡らなかった連中が、傍らにある木柵を壊して手頃な長さの棒を作っていた。 演壇の下にいる青ヘル部隊は約二百名だった。本村の演説につれ、各単産に入っている反戦派労働者から、盛大な拍手が湧き起こる。演壇の護衛部隊に正対している組合員も、鉢巻しかしていないのではっきり判らないが、手を叩いているのを見ると、どうやら反戦かそのシンパのようだ。 慎一が隊列に入って三十分も経った頃、上にいる連中から『防衛隊が来たぞ』と言う声が聞こえた。集まっている組合員を透かして眺めると、遠くに太い竹竿が纏まって移動しているのが見えた。どうやら参加者の背後を回って、こちらに近付いてきているようだ。その情報は瞬く間に全員に伝わり緊張感がみなぎった。 慎一は持っていた旗竿を握り直した。権力との戦いで癒されなかった強暴な血が、恐怖と背中合せに身内で騒ぎ始めている。人波に揉まれながらゆっくり動いていた竹竿の群は、やがて青ヘルを包み込むように散開して停止した。かなりの人数である。しかも彼らが手しているのは、慎一たちの持つ二本繋ぎの細い竹竿と違い、倍以上の太さがある一本竿だ。 慎一たち護衛部隊も彼らが停止したのに応じて、一斉に旗竿を前に倒して身構えた。だがまだ突きかかるわけにはいかない。最前列にいるのは先ほどまで拍手をしていた組合員なのである。その組合員が、背後に隠れるように立っている防衛隊と、激しく口論している。慎一たちは防衛隊が前面に出て来るまで、我慢強く身構えたまま待っていた。相変わらず本村の演説は途切れる事なく続いている。 駅に着いた時よりも小降りになったとはいえ、雨が容赦なく彼我を濡らしていく。青ヘル部隊のほとんどの者は、申し合わせたように白いビニールレインコートを着ているので、全身が濡れる事はなかった。 突然何処からかホイッスルが鳴り、一斉に喚声が起こって竹竿が周りから突き出されて来た。ガツン、ガツン、と音がし、身体のあちこちに相手の竹竿がぶち当る。太さを過信して上から叩かれる竹竿は、慎一たちにまったくダメージを与えなかった。むしろ細い二本繋ぎの旗竿を持っている護衛部隊の方が、叩かずに突く分だけ確実に相手にダメージを与えていった。針鼠のように凝縮された一点から突き出される護衛部隊の旗竿は、数の上で少数であるにも関わらず相手を圧倒した。 いつもなら調子に乗って相手を追うところだが、演壇の防衛線が伸び切ってしまうと反撃を食う恐れがある。相手が入れ替わり立ち替わりするのを、護衛部隊は辛抱強く演壇を守って戦っていた。慎一自身も眼の前の防衛隊と旗竿を交えていた。慎一の突き出す旗竿は的確に相手の顔を捉え、一撃で眼の前にいる敵は後退した。着ているレインコートは相手の繰り出す竹竿に引っかかって破れ、もう用を足さぬほどになっている。防衛隊といっても中身は社会主義協会向坂派である。この間の社民内分派闘争で、主として敵対してきた党派だ。誰に遠慮する事もなく、護衛部隊は次々に現われる相手を突き崩していった。思い通りに進まぬ戦いに業を煮やした防衛隊の一人が、社会党の宣伝カーに乗って護衛部隊に突っ込んで来た。 「何をするんだ。殺す気か!」 宣伝カーの前に鉢巻きをした組合員が立ち塞がり、やむなく運転していた男はブレーキを踏んだ。たちまち宣伝カーの窓ガラスは叩き付けられる折り畳み椅子で割られ、乗り込んだ護衛部隊によって運転していた男は袋叩きされた。 その瞬間だった。会場の外で成り行きを見守っていた機動隊が、社会党執行部の要請によって介入してきたのである。彼らは青ヘルと協会派の間に割って入ると、大盾を慎一たちに向けて並べ、一歩も外に出られないように完全封鎖した。慎一たちが機動隊に旗竿を構えて対峙していると、演壇の上にも機動隊が現われた。だが演壇の下で、機動隊に囲まれている護衛部隊にはどうしようもない。喚声と怒号が渦巻く混乱の中で壇上にいた青ヘル部隊は、飛び降りて護衛部隊に合流した者以外は全員逮捕されてしまった。 野党第一党として戦後君臨してきた社会党は革新などではなく、ただ単に自民党政治の補完物でしかなかった事を、九段会館に於ける社会党大会だけでなく、二度までも身を持って証明したのだった。 慎一たち演壇の下にいた護衛部隊は、機動隊に演壇を組んでいるスチールパイプに押し付けられていた。 機動隊の後ろにいる組合員から、機動隊を導入した社会党中央に対する非難の声が高まり、やがてそれはシュプレヒコールヘと変っていった。 <機動隊は帰れぇ〜> <機動隊は帰れぇ〜> 少しずつ険悪になっていく空気の中で、機動隊は下にいた青ヘル部隊を包み込んで演壇から離れた。中にいる慎一たちは移勤しながら六人縦隊の隊列を、腕を組むかわりに横にした旗竿を持って作った。厳重に両側を規制されて隊列は進んで行った。何処へ連れて行かれるのかまったく判らない。寛子の姿が見えなかったが、慎一は隊列の何処かに必ずいると信じるしかなかった。 <アンポ、フンサイ、オキナワ、カイホウ> <アンポ、フンサイ、オキナワ、カイホウ> 代々木公園を出た隊列は、NHK放送センター方向に向かった。公園を隔てた石垣の向こう側では、今しも演壇上で逮捕された仲間が一列縦隊に並ばされ、護送車に乗せられるところだった。 表通りを通って行く慎一たちの隊列に、気が付いた誰かが声の限りに叫んだ。 「七〇年安保フンサーイ。解放派は戦うぞぉ〜」 声を出した男が隣にいた機動隊から殴り倒されるのが見え、慎一たちの隊列から抗議の声が激しく沸き立った。奪還行動を起こさせまいと、四方から機動隊が大盾を慎一たちに押し付けてくる。 (あいつはこのあとの戦いを、俺たちに託したんだ) まるで石垣が仲間を断ち切る永遠の隔たりのような気がして、慎一は思わず目頭が熱くなった。やがてそれは雫となり、頬を伝わって雨に濡れたアスファルトに落ちていった…。
結局、慎一たちは二時間あまりかけて日比谷公園まで連れて行かれ、そこでようやく解放された。解放された直後に慎一は寛子の無事な姿を見付け、全身から力が抜けるほど安心した。その頃には雨はやみ、相も変らぬ夜の世界が光を押し除けて、自分の世界を創り上げつつあった。 噴水の前で総括集会が持たれたが、三分の一近くの仲間を逮捕されては盛り上がるはずもなかった。続いて各地区、各大学ごとの総括集会が行われたが、W地区の人間のあまりの少なさに慎一は驚いた。 「今日来てたのは何人?」 慎一の問いに寛子が力なく答えた。 「確か十六名…」 「ここには七人しかいないじやないか」 「山城さんと一緒に半分以上が演壇に上がってたから、きっと逮捕されちゃったんだと思う」 それだけ言うと寛子は俯いて鳴咽を漏らし始めた。重苦しい空気が集まっている、W地区反戦の上にのしかかっている。 「とにかくここにいても仕方がない。対策はあとで考える事にして、今日のところは帰ろう」 慎一の言葉に皆はノロノロと立ち上がり、街路灯に照らされて光る濡れた道を、地下鉄入口に向かって歩き出した。地下鉄に乗ってからも、言葉を交わす者がいない。組織を賭けた戦いとはいえ、敵に打撃らしい打撃も与えぬうちに、組織の維持が不可能になりそうなのである。いや、もう組織的対応は出来なくなっている、といった方が適切かも知れなかった。 『W地区反戦ニュース』、『W地域反戦ニュース』を発行している主だった者は、ほとんど逮捕されてしまったといっていい。特に産別ではない地域反戦は壊滅状態といってよかった。もともと個人加盟という事もあって、産別より人数は多かったのが次々に逮捕され、直接闘争に参加しない救対の友子を別としても慎一、寛子、関口の他は二十名に満たなくなっている。 慎一と寛子は誰もいない真っ暗な家に帰り着いた。しかしこれから明日の戦術の詰めが行なわれる事になっており、あとから逮捕されてしまった本村や山城以外の連中が来るはずだった。二人は急いでシャワーを浴びて服を着替えると二階に上がった。 途中で買ってきたパンと牛乳を食べて簡単な夕食をすますと、二人は膝を抱えた同じような格好で座り込んだ。やがて一人また二人と、人が階下に集まる気配がして、どうやら会議が始まったようだった。 「安本も逮捕されたのか?」 「博子さんは組合と一緒に参加するって言ってたから、演壇の近くにはいなかったと思う」 「だったらきっと大丈夫だな」 慎一は安心した。安本博子が勤める小学校は日共系の強い分会なので、彼女が逮捕されてもまともな救援活動は望めない。むしろトロツキスト排除を謳って、敵対してくる可能性の方が強い。 「本当のところ、関口はいったいどうしたんだ?」 唐突に訊いた慎一に、寛子は立てた両膝に顎を載せて黙り込んでいる。慎一は寛子の傍まで行くと両肩に手を載せて、もう一度同じ質問を繰り返した。 「関口に何があったんだ?」 「山城さんからあなたがこのところ消耗してるから、関口の事はしばらく言うなって言われてたの」 「どっちにしろ明日にでも反戦の事務所に行けば、すぐに判る事じゃないか」 「そうよね」 意を決したらしく、寛子がポツポツと話し出した。 「最後の突撃訓練があった帰りに、関口さんが友子の事が好きだって言ったでしょ。あの人、反戦の救対の会議があったあとで、友子にその事を言ったらしいの。そしたら友子が自分にはもう好きな人がいるって、はっきり答えたらしいのよ」 全然予期していなかった話である。 「それで関口さん。闘争では消耗しなかったんだけど、友子のショックが凄く大きかったみたい。次の日から闘争にも集会にも、まったく出て来なくなちゃった」 寛子はそれだけ言うと、立てていた膝に顔を埋めてしまった。 (あの関口が…) ぶっ叩いても消耗しそうにない関口が、友子の事でどん底の精神状態にあるという。一緒に過ごしてきた時間の長かった慎一には、痛いほど関口の考えが判った。彼は常にお互いの二十四時間を問題にしていた。彼は自分の心の中で、戦いかつ愛し合って生きていく二人の世界を、友子を対象にして創り上げていたのだ。 そんな関口にとって戦いがしんどくなればなるほど、友子の存在は大きくなっていったに違いない。人間が感情を持つ以上、そして男と女がこの世に存在する以上、誰も関口を責める事なんか出来ない。エゴと言われようと人は心の中に自分だけの世界を持ち、それを現実に反映さそうと努力するものなのだ。 その世界が外ならぬ友子によって突き崩されてしまった。勿論友子に罪はない。友子は友子で心の中に、自分だけの世界を持っている。それは関口にとっては残酷な事実だが、自己の寄って立つ立脚点を失ってしまった関口は今、暗黒の世界をあてもなく徘徊しているのだと慎一は思った。 親しかった三咲も反戦を辞め、ほとんどの者が獄中に捕えられている中、今また関口が活動不能になってしまった。 (こんな状態になってまで、何で俺たちは戦おうとするんだ?) もはや言葉や理論で形が付く状態はとっくに通り越している。慎一の中には言いようのない、もどかしさだけが渦巻いていた。慎一は傍らにうずくまっている寛子に眼を移した。 (寛子だけは誰にも奪われたくない。俺は関口とは違う…) 慎一はそっと手を伸ばすと寛子の髪に触れた。寛子は相変わらず顔を膝に埋めたまま、慎一の手が髪を撫でるに任せている。慎一は熱い感情が湧き起こるのに抗し切れず、両手でカー杯寛子を抱き締めた。 「やめて…」 抱き締められて苦しいのか、階下に集まっている人間を気にしてか、寛子の抗う声はか細く囁きに近かった。耳元で寛子の吐息に似た囁きを聞いた瞬間、慎一の中で何かが弾け飛んだ。 慎一は寛子を抱き締めたまま、ゆっくりと冷たいリノリュームの床に倒れ込んだ。しばらく二人は無言で揉み合っていた。しかしそれも慎一の唇が彼女の唇を捉えた時に終わりを告げ、寛子の身体から力が抜けていった…。
押し殺したすすり泣きが部屋に響いている。慎一は嵐のような一瞬が過ぎ去った直後から、猛烈に後悔していた。本来なら愛する者との愛の行為は二人の愛情を高めこそすれ、けっして気拙い疎外感に身を浸す事などないはずだった。だがその行為が一方的に行なわれた場合には、その疎外感がたちまち現実のものとなって襲いかかってくるのを、したたかに慎一は感じていた。 最初は一方的であったとしても、愛の生まれる場合もあるだろう。しかしそういう恋愛形態をたどるには、慎一はあまりにも若過ぎた。 (俺は何の為に突撃隊に志願した時に立てた誓いを、こんな形で破ってしまったんだろう。消耗?危機感?自暴自棄?もしそんなもので自分の一番大切なものを、この手で壊してしまったのだとしたら俺は一生救われない。俺は権力に焼き払われた荒野に、たった一本残っていた希望の花を自ら踏み倒してしまったのだ) 小さな肩を震わせながら身繕いをしている寛子を、慎一は茫然と見詰めていた。やがてその姿が陽炎のように揺れ、輪郭も定かでなくなった時、慎一は寛子の背中に抱き付き声を放って泣いていた…。
窓から見える景色が、日の光を一杯に浴びて後方に流れ去って行く。もうだいぶ前に突撃隊の出発点だった自由ケ丘を過ぎている。慎一は地域反戦に入って間もない星野と今泉を連れ、かつて(たった十日足らず前だが、慎一には遠い昔だったような気がした)関口が小盾を取りに行った、東横線某駅に向かっていた。
昨日、寛子にすがって涙が枯れるまで泣いたあと、慎一は放心したように一階に下りて、会議に出席していた労対(労働対策)の工藤に『俺に出来る事はないか?』と訊いたのである。二階で何があったのか知らない工藤は、慎一が消耗から立ち直ったものと思い単純に喜んだ。 「ほとんどパクられて、闘争経験者がいないんだ。海原君には防盾を二度目に本隊に渡す、兵站の責任者をやって欲しい」 工藤の言うには防衛庁で機動隊と衝突かる前に、トラック仕立ての兵站によって防盾が渡されるのだが、衝突で幾つか盾は奪われてしまうだろう。そうなるとアメ大(アメリカ大使館)と首相官邸で衝突かる時に足りなくなるので、何処かでもう一度防盾を補充する必要があるという事だった。 慎一は二つ返事で引き受けた。それからあちこちの地域反戦のメンバーに電話をかけ、星野と今泉が慎一に協力してくれる事になった。二人には午前十時に反戦の事務所に来るように伝えた。 「助かった。これで本隊が催涙弾の直撃を受けなくてすむ」 慎一は二階に戻って寛子と顔を合わすのが辛く、朝が早いという理由を付けて自分を納得させると、会議の終わった工藤と家を出て反戦の事務所に行った。自分のアパートに戻っているのか、関口の姿は見えない。 (地域反戦はもうボロボロだな…) 沈む心とは裏腹にわざと明るい表情で、工藤と茶碗酒をしたたかに飲んだ慎一は、寛子にも連絡せずに事務所に泊まった。一緒に暮らし始めてから、寛子に居場所も告げずに外泊するのは初めてだった。 翌日、無断で仕事を休んだ慎一は、事務所に顔を出した星野と今泉を連れ、バスに乗って渋谷に出た。 (今日は絶対あいつらの裏をかいてやる) 負け続け、自分にも負けてしまった慎一にとって、明け方考えた作戦が上手くいったとしても、それは刹那的な達成感に過ぎないかも知れなかった。しかしそれがどうだと言うのだ。今の慎一には『昨日のあの瞬間』を、僅かでも忘れさせてくれるものであれば、何でもよかったのである。 慎一が目指したのは、東急文化会館の並びにある画材屋だった。画材屋で慎一は変な顔をする店員に強引に頼み込み、その店の名が刷り込まれた一番大きな包装紙を十数枚買い込んだ。そして丸めた包装紙を持って、東横線に乗り込んだのだった…。
三人が東横線某駅に降り立ったのはちょうど昼時だった。駅前の猫の額ほどしかないロータリーには、付近の工場の工員らしき揃いの作業服を着た男女が、昼食を求めて溢れ出ていた。 慎一たちはバスが来れば店の軒先に入って、通過するのを待たなければならないほど狭い通りをしばらく歩き、工藤が渡してくれた地図にしたがって金物屋の角を右に折れ、急な坂を下って行った。 坂の下には幅がニメートルくらいの用水が道を横切り、手摺のないコンクリート製の橋が架けられている。慎一は橋を渡りながら用水を見下ろした。両側から競り出している草を透かして見る水は、赤黒く澱んで異様な臭いのする泡が立っていた。 (この橋を渡った時の関口は、元気一杯だったんだ…) 家庭菜園と言った方がいいような畑に面して、地図に記されている目的の家はあった。建ててから二十年以上経つだろうその二階家は、陽に曝されて薄墨色に変色した木肌を纏っていた。周囲を竹垣で囲んだ庭には、家の主人が丹精しているらしき鉢植えが、何段かの棚に載せられてその影を落している。 庇に丸い乳白の電灯が付いた玄関に回った三人は、慎一が代表して訪いの声をかけた。すぐに中から返事があり、格子戸のすりガラスに人影が浮かび上がった。格子戸を開けたのは意外にも、もうすぐ六十に手が届こうかという初老の男だった。 「すみません。海原と言いますが工藤さんから指示されて、預けてある荷物を受取りに伺ったんですが…」 半信半疑で言った慎一に、男は無言で中へ入るよう促した。玄関に入った三人が敲きで靴を脱いでいると、開け放たれた襖の向こうから呼ぶ声が聞こえてきた。声のした奥の部屋では既に押入れが開けられていた。 上の段には蒲団が積まれていたが、下の段には確かに重ねられた防盾が入っている。何で一人暮らし(らしい)の老人が預かっているのかわけは判らないが、とにかく防盾を持参した包装紙に包み込んでしまわなければならない。 慎一は持ち遅びも考えて四枚を一包みにする事にして、さっそく包装に取りかかった。持って行けるのは重さからいっても一人が一包み、全部で十二枚が限度である。 (あれ?この盾は去年の佐藤訪米阻止の時に、M美大の連中が作った奴じゃないか?) 防盾も使うほどに改良が加えられて、現在は板厚が十五ミリになっている。ここにある九ミリ厚の板で作った防盾では、距離にもよるが催涙弾の直撃を受けると、貫通してしまう場合があったのである。板厚だけでなく隊列が握る取手の取付け方法も、今は釘や螺子からボルトヘと改良されている。 そんな事は新しく入ってきた星野と今泉は知らない。思ったより早く梱包作業も終わり、三人が礼を言ってその家を辞去しようとすると、テレビを見ていた男が振り返って、ラーメンを頼んだから食べていけと言う。慎一は二人に眼で合図すると、立ちかけていた腰を落ち着かせた。 お尻の辺りがこそばゆくなるような時間が流れていく。隣に座っていた星野が小声で慎一に囁いた。 「このおじいさん、いったい何者なんでしょうかね?」 「俺にも見当が付かないけど、たぶん解放派のシンパか何かじゃないのかな」 初老の男は三人に渋茶を出しただけで、ちゃぶ台に肘を突いて相変わらずテレビを見ている。私語を交すわけにもいかず、仕方なく慎一たちもテレビを眺めていた。 やがて玄関の格子戸が開いて、出前持ちの威勢のいい声が聞こえてきた。男がラーメンを受取って戻って来ると三人の前に置き、伸びないうちに食えと言った。 口々に礼を言って食べ始めた慎一たちを、茶を飲みながら見ていた男が真顔で慎一に尋ねてきた。 「ところで倅の龍治の奴は、お宅らの組織では偉い方なのかい?」 (龍治って誰だ?) しばらく考えてやっと慎一は思い当たった。 (確か社青同東京地本委員長の、草刈さんの本名が若滝龍治だった。とするとこの人は、草刈さんの親父さんなんだ) 「ええまぁ、偉い方だと思いますけど…」 言い方としてはよくないかも知れないが、他の者より知られているといった意味では、親父さん流に言えば偉いという事になるんだろうと思い、慎一はそう答えた。 「そうですか。龍治は偉い方なんですか」 親父さんは笑みをたたえながら、満足そうに手に持っていた茶をすすった…。
大きな揃いの紙包みを下げた三人は、玄関まで送ってくれた親父さんに、ラーメンの礼を言って家を出ると、駅に向かって道を引き返した。 道すがら今泉が慎一に星野と同じ質問をしてきた。慎一は無理もないと思った。入ったばかりの反戦青年委員会で、社青同東京地本委員長のペンネームは知っていても、本名までは判るはずもない。(もっともペンネームを実名だと思っているかも知れないが…) 「あの人は中央本部専従の親父さんだったよ」 あえて名前を言わなかったが、二人は納得した表情で頷いた。三人は東横線に乗って中目黒まで行き、地下鉄日比谷線に乗り換えて六本木で降りた。地上へ出るとそこは六本木交差点の本屋の前だった まだ三時半を過ぎたばかりである。デモ隊が来るまで五時間近い時間が残されている。だがそれも計算のうちだった。機動隊がやってきて布陣を終える前に、何処か目立だない場所を見付けて、ジッと潜伏していようと考えたのだった。夜になれば活気を取り戻すこの町も、今は溢れんばかりの陽の光に色裾せて、紛い物の世界の正体を曝しながら惨めに軒を並べている。 (よし、機動隊の姿は見えない。気を付けなければいけないのは私服だけだ。それに俺たちが待機する場所は人目に付かず、しかも中から道路が見渡せる場所でなければ意味がない。何としてもそういう場所を探し出さなければ…) もう一度交差点付近に機動隊車両がいないのを確認した慎一は、星野と今泉を促して歩き始めた。なまじ真っ昼間なので人が少なく、大きな紙包みを持った三人は、傍目にも目立つはずである。慎一は条件に叶う店を探しながら、溜池方向へ坂をゆっくり下って行った。 (この店ならよさそうだ) 坂を途中まで下ったところで、慎一は開いている喫茶店を見付けた。お跳えむきに道路に面した部分は、ガラス張りの窓である。慎一は二人を連れてその店に入った。 「いらっしゃいませ」 奥の方で談笑していたボーイの一人が声をかけてくる。三人は包装紙に包んだ防盾を、入口扉のすぐ脇に立てかけて、窓際の席に陣取った。 「とりあえずレポセンに電話を入れてくる」 レポセンターに所在の電話をしようと、慎一がポケットの小銭を掴んで立ち上がりかけた時、背広姿の男が早足で店に入って来た。男はさりげなく慎一たちに一蔑をくれると、席にも座らず奥にある電話に歩み寄って、無造作に受話器を手にした。 (何か怪しいぞ、あの男) 慎一は男のかけている電話に耳を澄ませたが、狭い店内にも関わらず声がまったく聞こえない。 (私服かも知れない) 渋谷での出来事が脳裏に過ぎる。幸い慎一たちもボーイが水を持ってきただけで、まだ飲み物をオーダーしていない。男の電話が終らないうちに店を出た方がいいと判断した慎一は、緊張した表情の二人に合図し、防盾を持って店を飛び出した。 包装紙が破れないよう気にしながらも、ほとんど駆けるような足取りで、六本木通りを溜池方向に坂を下って行く。下り切ったところまで、何度も振り返りながら下りて来たが、男が店を出た様子はなかった。 (私服じゃなかったのか?) だが例え勘違いだったとしても、今日は念には念を入れて行動するのだと、改めて慎一は自分に言い聞かせた。こうした緊張の中に身を置いていると、寛子の事をのんびり考えている余裕がない。それが今の慎一には何よりもありがたかった。 たんす歩道橋という妙な名前の歩道橋が見える辺りまで来ると、さすがに防盾を持つ手が痺れてきた。四枚となるとかなり重くしかも持ち難いので、よけいな力を入れていなければならないからだ。星野と今泉の二人も疲れてきたらしく、何度も立ち止まっては持ち直している。ここまで来る途中にガラス張りの店は何軒もあったが、夜の営業がメインらしくどの店も閉っていた。 (拙いな。早く店を見付けて入らないと…) 確かに機動隊の姿は見えないが、昼間の六本木は驚くほど人通りが少ない。そこを派手な画材屋の包装紙で包んだ揃いの大きな荷物を、両手で抱えた三人が歩いていれば嫌でも目立ってしまう。 慎一は内心焦りながら歩道橋に近付いて行った。すると歩道橋の少し手前に、ガラス張りの小さな喫茶店があるのが眼に付いた。しかも道路に置かれた電飾看板には、営業中の札が下がっているではないか。まるで頼んだように窓には黒いレースのカーテンが引かれ、外からは店内が見えないようになっている。 「ここに入ろう」 「そうですね」 あとから歩いてきた二人も、ようやく開いている店が見付かって、ホッとしたような表情を浮かべている。 三人は『DUG』という木彫りの看板の付いたドアを開けて中へ入った。カウベルがガランガランと音を立て、同時にカウンターの奥に座って週刊誌を読んでいた女が、顔も上げずに『いらっしゃい』と怠惰な声で呟くように言った。店内は昼間なのに薄暗く、五人も座れば一杯のカウンターと、窓際に四人がけのテーブル席が二つあるだけである。三人は迷う事なく窓際のテーブル席に着いた。 「何にします?」 カウンターに一人でいた三十前後の女が、テーブルに水の入ったコップを、投げやりに置きながら訊いてくる。壁にかけられているメニューから慎一はコーヒーを頼んだ。星野と今泉も同意のしるしに頷く。 「ホットコーヒーを三つね」 女がカウンターに戻ってサイフォンに湯を入れ、コーヒー豆を挽き始めた頃を見計らって、慎一は荷物を奥に置いていいか尋ねた。 「別にいいけど。奥がトイレになってるから、邪魔にならないように置いといてよ」 慎一は二人に手伝わせて、防盾を奥に運び込んだ。ちょうどトイレの前の壁が遮蔽物になり、入口のドアを開けたくらいでは防盾が眼に付く事はない。 「いやぁ〜、今度の課題のイラスト。今月一杯で提出だろ?お前どんなもの書くか、もう決まったのかよ」 我ながら下手な演技だと思いつつ慎一は星野に言った。元東京写真短大のノンセクトである革命的写真家同盟にいた彼なら、こんな話題を振っても卒なく答えるだろうと踏んだからである。星野は最初怪訝な顔をしたが、すぐに慎一の意図を汲み、他の課題が遅れていてそれどころじゃないと答えてきた。 「あら、あなたたちデザイン学校の学生だったの?この辺にはデザイン関係の会社が意外と多いのよ。だからこの店にはそういう人たちがよく来るの」 女がサイフォンと傍にある砂時計を等分に見ながら、慎一たちの会話に割込んできた。コーヒー独特の鼻を擽るいい匂いが店内に漂い始めている。 「そうなんですよ。グラフィックの教授が次から次へと課題を出すもんだから、こっちはたまりませんよ。お陰で今日も渋谷の画材屋で、パネルを買って来た帰りなんです」 「何だそうなんだ。だから上松(上松画材店)の大きな紙包みを下げてたわけね。私はてっきり今日ここを通るデモに、あなたたちも関係あるのかと思ってたわ」 慎一は何気なく言った女の言葉に、一瞬顔が引き攣るのを覚えた。星野にしても今泉にしてもドキッとしたに違いない。慎一は声が上ずらないよう気を付けながら答えた。 「へえ〜。じゃ今度からこの店の常連になって、デザイン関係のお客さんと知り合いになっとけば、就職の心配もなくなるってわけですね」 「人柄にもよるけど中々そう上手くはいかないわよ。第一この業界はデザインセンスがなくっちゃね」 「人柄は自信あるけどデザインセンスはどうかなぁ」 会話はそこで途断れた。女は笑いを残しながら並べたカップにコーヒーを注いでいる。慎一は今泉に耳打ちすると、レポセンターにこの店の名前、場所、電話番号を伝えておくように指示した。頷いた今泉がカウンターにある電話に取り付くと、入れ代わりに女がコーヒーを運んで来た。慎一と星野が時間稼ぎに女と二言三言話している間に今泉の電話が終わり、センターがこちらの状況を了解したと、指で丸を作って合図を送ってきた…。
延々と三人はテーブル席に座り続けていた。最初のうちは女を交えて四人で話し、女が夜の仕込みを始めてからは三人で話した。もちろん反戦の話はタブーだったので、段々と共通の話題もなくなり、今は置いてある週刊誌を読んだりと、互いに一人の世界に浸るようになっていた。 慎一が自分の世界に浸るという事は、寛子に直面しなければならないという事だった。 (寛子は何をしてるんだろうか?きっと友子と一緒に、今日の集会に参加してるんだろうな) 順調に付き合いを深めていけば、男と女だから遅かれ早かれ結び付いていただろう。問題だったのは慎一が、寛子の思惑や感情を無視して、強引に征服してしまった事なのだ。確かに夢にまで見ていた寛子の身体を体感して、満足している部分がないと言ったら嘘になる。だが自分の中で失ったものも大きかった。 (独占欲?そうかも知れない。俺はあらゆるものが失われていく中であいつだけは、寛子だけは失いたくなかったんだ。例えそれがどんなに卑劣な手段であり、人に蔑まれようとも…) そう考えていると、もう一人の自分が囁きかけてくる。 (寛子は血の通ってる人間だよ。その彼女をお前は玩具としてあの時、扱ったんじゃないのか?) (違う!俺は彼女を愛してる) (愛してるから何でも出来るというのは、お前の思い上がりでしかないぞ) 居直りと後悔が錯綜し、今考えた事を次の瞬間には打ち消して、まったく反対の事を考えているという、支離滅裂な精神状態に慎一は陥っていた…。
「海原さん。そろそろもう一度レポセンターに電話を入れて、現在の状況を確認しておいた方がいいと思うんですけど…」 星野の声がして慎一は我に返った。気が付くと窓越しに見る景色はブルーに染まり、通りを走る車もヘッドライトを点灯している。 「そうだな。レポセンターから集会の状況をよく聞いてくれ。それから…」 慎一は星野の隣に座っている今泉に眼を向けた。 「君はまだ来ない友だちを探しに行くと言って店を出て、機動隊の警備がどうなってるか調べてきてくれ」 今泉は頷くとすぐに席を立ち、彼女に聞こえるように『ちょっと見てきます』と言いながら、カウベルの付いたドアを開けて出て行った。星野も立ち上がると、電話をかける為にカウンターに寄りかかった。 「あの子、どうしたの?」 カウンターの中で週刊誌を読んでいた女が、何事かと顔を上げて訊いてきた。 「さっき電話をかけて、ここで待ち合わせた友人がまだ来ないんで、付近を捜しに行ったんです。家を何時に出たか訊く為に、彼に電話をかけて貰ってます」 「何時に待ち合わせしたの?」 「別に時間は決めてないんですよ。いつもならだいたい二、三時間以内に来るんですけど」 「同じ学校の人なんでしょ?」 「えぇ。そいつの分のパネルも買って来てるんで、ここで渡す事になってます」 「それでずっとここにいたんだ。今時の学生さんて、ずいぶん時間にルーズなのねぇ」 呆れたように女は首を振った。何故慎一たちが長時間この店にいるのか、微かに疑念を持ち始めていたとしても、今の言葉でそれは氷解しただろうと思えた。 「すみませんがコーヒーを三つお願いします」 「いいわよ。だけど友だち付き合いも大変ね」 女は同情するように言って立ち上がると、新たなコーヒーを入れる作業に取りかかった。電話を終えて席に戻っていた星野が、会話が途断れるのを待ち兼ねたように顔を寄せてきた。 「明治公園で集会は既に始まってるそうです。全部で五万人くらい集まってて、青ヘルは労学合せて約四千五百だと言ってました。他の兵站部隊も配置を完了して待機してるとの事でした」 カウンターの上に置かれている時計を眺めると、もうすぐ七時になろうとしている。 (あともう少しだ。もう少しの我慢だ) カウベルが鳴り、慎一は今泉が戻って来たのかと振り向くと、入って来たのは三十年配の洒落たスーツを着た男だった。慎一は一瞬私服かと緊張したが、女の気安い口調から馴染み客であると判って安心した。 男はカウンターのスツールに腰かけるとキープボトルを出して貰い、慣れた手付きで水割りを作って口に運んだ。 「今日は早いのねぇ」 サイフォンのアルコールランプを消しながら女が言っている。 「明日締切りのプレゼンボードが仕上がったからね。たまにはこういう日もなくっちゃ」 「そうそう、あそこにいる彼たち。デザインを勉強してる学生さんなんですって。将来あなたの商売敵になるかもよ」 男が身体を回してこちらを向いたので、慎一と星野は軽く頭を下げた。 「この商売も入ってみると結構大変だよ。学校の課題と違って締切りに間に合わなければ、即おまんまの食い上げだから、毎日が真剣勝負なんだ。一度は胃潰瘍にならないと、一人前じゃないと言われてるくらい、ハードな業界だからな。まぁ気楽な学生のうちに、一生懸命デザインセンスを磨いとくのが一番だ」 親切そうに話す男の目に、蔑むような色が宿っている。 「はぁ、頑張ります」 慎一は真面目くさった顔で答えた。男は満足そうにカウンターに向き直った。カウンターから出てきた女が新しいコーヒーを置き、空になったコーヒーカップを下げていく。 「ところでママ。午前中パトカーが何度も回って来て、スピーカーから夜に大きなデモが通るから注意しろって言ってただろ?あれが煩くて仕事が手に付かなかったよ。ママのところもそうじゃない?」 男の言葉にカウンターの中で、下げたカップを洗い始めた女が同意した。 「あれは煩かったわねぇ。この辺はいつもデモが通るんだけど、今日のパトカーはしつこかったわ。やっぱり安保問題があるからなのかしら。お陰でこの学生さんたちをデモの時間待ちの人だと、最初は思っちゃったくらいなのよ」 男がグラスを片手にスツールを回転させて、もう一度慎一と星野の方を向いた。 「君たちは日米安保条約をどう考えてる?」 まさか粉砕の為に命がけで戦ってますと答えられるはずもない。返答に詰まって星野を見ると、顔を背けて笑いをこらえている。慎一がどう答えるのか興味津々といった顔だ。 「僕たちの学校にもそういう運動を一生懸命やってる連中がいますけど、はっきり言って僕はあまり興味が ないですね。それより今度の課題を、どう仕上げるかで頭が一杯です」 「ふ〜ん、そんなもんなのかねぇ。俺たちの若い頃はオマワリと見ると、食ってかかったもんだけどな」 男は軽蔑したようにそれだけ言うとスツールを回し、カウンターの中にいる女にその頃の武勇伝を得々と話し始めた。ようやく男の矛先をかわして溜め息を吐いていると、星野がテーブルの下から膝を突いてきた。その顔が笑っている。慎一は目立たないよう肩を竦めた。 それから十分ほどして今泉が偵察から戻って来た。 「探しに行った友だちは見付からなかったみたいね」 「そうなんですよ。かなり遠くまで探してみたんですけど…」 女の問いに要領よくそう答えた今泉は椅子に座ると、テーブルの上に追加注文してあった、冷めかけたコーヒーを一口飲んでから小声で状況を報告した。 「もうあちこちの道は機動隊で一杯です。特に六本木の交差点付近は細い路地にまで機動隊が隠れてました。警備状況をここから電話するのは拙いと思って、公衆電話からレポセンターにも報告しておきました」 三人が額を集めてデモの事を相談しているとも知らず、カウンターの男は日米安保について、とうとうと女を相手に述べたてていた。 「あいつらのやってる事は理解出来る。俺だって機動隊を見れば、石の一つも投げてみたくなるからなぁ。あいつらは純粋だよ。それに比べりゃ俺なんか世間の垢にまみれちまってる。いわゆる汚れちまった悲しみにって奴だ」 男の言葉は酔いが回るにつれて段々ボルテージが上がってきた。時々非難するような眼で慎一たちを見下ろすのだが、相手にならないよう三人は視線を逸らせて黙っていた。 しばらくして頃はよしとみたのか星野が席を立ち、レポセンターに電話をかけた。短い単語のやり取りで話はすぐにすみ、席に戻った星野が慎一に耳打ちしてきた。 「ちょっと前に隊列が明治公園を出たそうです」 「判った」 それから待っている時間が異様に長く感じられた。苛々と煙草に手を伸ばす機会が多くなり、灰皿には山のように吸殻が積まれた。段々と高まってくる緊張で、寛子の事を考える余裕がないのが救いだった。 (このまま突発的な、私服や機動隊の臨検がなければ何とかなる) 慎一は祈るような気持ちで時間の過ぎていくのを待っていた。やがてデモ用の車両規制が始まったのか、店の前を通る道に車の姿がぱったりと途断えた。 (もうすぐだ。もうすぐ隊列がやってくる) 三人は獲物を待つハンターのようにジッと息を潜めていた。待つうちにほとんど人通りのなかった歩道に少しずつ歩く人間が増えてきた。皆が申し合わせたように、溜池方向に向かって歩いている。隊列が近付いて来た証拠である。だが五万人という集会参加者の、長い長いデモの隊列のいったいどの辺に、反戦青年委員会は位置しているのだろうか。 先導のパトカーと機動隊の指揮車が、赤い回転灯を光らせながら通り過ぎて行く。しばらくするとホイッスルとともに『安保、粉砕。沖縄、奪還』という隊列の声が聞こえてきた。 (中核だ…) 新左翼諸党派で、沖縄奪還をスローガンに掲げているのは、革共同中核派だけである。やがて人波越しに白いヘルメットが垣間見えるようになり、辺りは急に騒然としてきた。 酔った男が外で見ようと言い出し、慎一たちもその言葉に便乗して外へ出た。カウンターにいた女も、慎一たちがパネルを置いたままなので、安心して一緒に出て来ている。 ホイッスルと隊列から出る声に合わせて、白いうねりのように隊列が進んでいく。歩行者を避けて一番車道寄りに立っているので、その音と迫力が凄い。もう歩道を歩いている人間も、休日の銀座と変らない。 だがこの一種心を沸き立たせるような光景を、慎一は沈んだ気持ちで眺めていた。何故なら前を通り過ぎていく中核派の隊列が、三列縦隊になった機動隊によって、サンドイッチにされていたからだ。いわゆる両側規制という奴である。 (これじゃ隊列に盾を渡す前に、こっちがパクられてしまう可能性が高い) パクられるのは覚悟の上であっても、三人並んでいる機動隊員越しに重い盾の包みを三つ投げ込むのは、かなり至難な事のように思われた。 「海原さん。この調子じゃどうにもなりませんね」 傍に立ってデモ隊を見ていた今泉も、同じ事を考えていたようだ。隣では酔った男が両手を振り上げ、隊列に向かって『安保粉砕、沖縄奪還』と叫んでいる。どうやら本人は激励しているつもりらしい。 「どうするもこうするも、本隊に防盾が少ないようだったら、俺たちが逮捕覚悟で何とか渡すしかないな」 「判りました。その時はやります」 そう答える今泉の声は、緊張の為か震えを帯びていた。しかしその心配も杞憂に終わりそうになってきた。 デモの隊列が進むにしたがって機動隊の規制が、車道側だけの片側規制に変わったからである。考えてみれ ば幾ら過激な新左翼のデモだからといって、同じ人数を(五万も六万も)動員出来るはずがなかった。 中核派が両側規制されていたのは、延々と続くデモ隊の最先頭だったからだろう。だが今度は別の心配が出てきた。なかなか青ヘルの隊列が来ないのである。全共闘や単産に入っている青ヘルは通るのだが、肝心の反戦の隊列がいつまで待ってもやって来ない。 (もしかしたらここにくる前の衝突で、隊列は四分五裂してしまったんじゃ…) 慎一は気が気ではなかった。今泉にレポセンターに電話を入れさせたが、新しい情報は入ってないと言う。ジリジリしながらガードレールにもたれて待っていると、歩道を歩いて来る反帝学評のヘルメットを被った男を見付けた。掻き分けるようにして近付いた慎一は、その男に反戦の隊列は無事か尋ねた。最初は慎一の剣幕にびっくりしていた男も、慎一が兵站部隊だと知ると『隊列は無事でもうすぐ来ます』と教えてくれ、人の流れに乗って去って行った。 慎一はガードレールの傍に戻ると、ポケットから出した千円札を数枚出して今泉に渡し、会計をすませておくように指示した。女と一緒に今泉が店内に入ったのを見届けた慎一は、星野を呼んで防盾の包みをドアの外に運び出して見張っているように言った。 その間にも赤ヘルの共産同や中大の全中闘、銀ヘルの日大全共闘、緑ヘルのフロントといった隊列が、片側規制されながら前を通り過ぎていく。赤地に白のモヒカンのヘルメットを被ったML派は、今までの安保決戦で文字通り組織を賭けて戦い、壊滅的な打撃を受けた為に組織的には参加していないようだった。 清算を終えて戻って来た女に、酔った男が前を通る各党派について、得意気に目茶苦茶な説明をしている。少しでも闘争に関わった経験のある者なら、彼の説明が如何に間違っているか判るのだが、女はフンフンと興味なさそうに頷いているだけだ。 慎一は街路樹を支えにガードレールの上に立って六本木方向を見詰めていた。やがて坂の頂上に今までよりもたくさんの旗が見え、辺りを覆うようにして坂を下り始めた。眼を擬らすと青いヘルメットを被っているのが判る。 (来た来た、やっと来た) 旗部隊に遮られてスクラム本隊にどれだけの盾が残っているのか見当が付かないが、とにかく渡す当の相手がやっと登場したのである。待ち焦がれて見る青ヘルは、この世で一番奇麗な色だった。 慎一はガードレールの上から振り返ると、ドアの傍にいる星野に防盾を指差し、ここに持って来るよう合図した。今泉も機敏に人波を縫って手伝いに飛んでいく。 (ほぼドッキングは成功したも同じだ) そうは思っても何処に私服が潜んでいるとも限らない。慎一はガードレールの上に立ったまま、歩道を 歩く人間に挙動の不審な奴がいないか、注意深い視線を投げかけていた。彼の足下には星野と今泉の二人が運んで来た、包装紙でカムフラージュされた防盾が立てかけられている。 慎一は渡してからの行動を幾つかのパターンに分けて考えたが、尾けてくる私服を見付けやすくする為に、隊列の進む方向とは逆行する事に決めた。そうすれば人波に逆らって、慎一たちと同じ方向に来る者を注意するだけでいい。 眼の前を旗竿部隊が通り過ぎて行く。旗が多いと思ったのは、学生部隊も混じっているからだった。どうやらここにくる前の衝突で、隊列は混成部隊になってしまったらしい。緊張する一瞬が刻一刻と近付いてくる。三人は固唾を呑んで、スクラム本隊が来るのを待っていた。 「この青いヘルメットを被ってるのは、社会党の青年部みたいな連中だ」 男が女に説明している。ようやくスクラム部隊がやって来た。幾つものホイッスルと『安保、粉砕、沖縄、解放』の声が快く耳を打つ。予想していたより防盾も奪われていない。 (まだだ。もう少し隊列が進んでからでないと、旗竿部隊との隙間から機動隊に回り込まれて、俺たちがパクられてしまう。もう少しだ…) スクラム本隊の先頭が三人の前を十五メートルほど過ぎた時、慎一はガードレールから降りて待機していた二人に声をかけた。 「よしっ。こいつを隊列に投げ込め!」 投げ込むといっても本当に投げるわけではなく、隊列の頭の上に載せるだけである。そうすれば隊列の連中が、機動隊に奪取されないよう注意しながら包装を破いて、前や側面の者に順送りしてくれるはずだ。 事は慎一の思惑通りに進んだ。頭に載せられた荷物の包装紙を何人もの手が破き、規制されていない歩道側の人間が、現われた防盾を次々と前に手渡していく。 その様子を酔った男がポカンとロを開けて見ている。今までデモとは何の関係もない、デザイン学校の学生だと思っていたのが実は過激派であり、パネルだと思っていたのが防盾だったのだから、彼が鷲くのも無理はなかった。慎一は無事に防盾が前に回されたのを確認すると、星野と今泉を促した。 「どうもご馳走さまでした」 驚いて声も出ない女に頭を下げてから、二人を伴なって慎一は隊列とは逆方向に歩き出した。人の流れに逆らって歩くのは困難を極めた。衝突かったあとに隊列に戻らず、救対や荷物係と一緒に歩道を歩いている者も多いからである。三人は何度も背後を確認しながら、六本木交差点まで戻って来た。慎一たちと同じ方向に歩く人間はおらず、どうやら私服は尾けていないようである。ヘルメットの色は変わったが、相変わらずデモの隊列は延々と続いている。交差点近くの公衆電話からレポセンターに、本隊とのドッキングに成功したと連絡すると、三人はまた隊列のあとを追いかけた。ずっと待機していた『DUG』という店の前をもう一度通ったが、既に二人は店に入ったらしく道路上にその姿はなかった。 「今日はあの男、酒の話題に事欠かないぜ」 慎一が言うと、 「いやいや。今日どころか会社の連中に話したりで、一週間は持つんじゃないですか」 とニコニコしながら今泉が答えた。星野も笑っている。慎一はとりあえず今日の任務はやり遂げたという喜びが、軽口になって出たのだと思った。三人は長く延びたデモ隊列に沿って、早く青ヘルに追い付こうと急ぎ足で歩道を歩いて行った。 ところが意外に早く青ヘルの隊列は進んでおり、日比谷公園に着くまで追い付く事が出来なかった。というのも部隊が首相官邸付近で衝突かった時、後続のデモ隊や歩行者が機動隊によって完全封鎖されてしまい、慎一たちもその中にいて合流する事が出来なかったのである。 かなり待たされてからやっと封鎖が解除されたが、三人だけで無人の官庁街に飛び出す事も出来ず、後続の隊列と一緒に日比谷公園まで歩いてきたのだった。三人がやっと日比谷公園に着いた時、公園に入るデモ隊と入れ違うようにして、青ヘルの旗竿部隊が出てきた。 (もう一度突っ込む気だ) 慎一たちは旗竿部隊をすり抜けて公園の入口に立った。そこには前面と側面の一部を防盾で覆った、反戦と反帝学評の混成部隊が横十二列のスクラムを組んで、旗竿部隊に続いて打って出ようと待機していた。 慎一が振り返ると中央分離帯によって区切られた、片側三車線の広い道路一杯に旗竿部隊が散開し始めている。あとから来た他党派の隊列が公園に入ろうと、待機する青ヘル部隊の横を通り抜けていく。まだ続いてくるはずのデモの隊列が見えない。旗竿部隊が再び公園から出てきたのを見て、機動隊が後続の隊列を遮断してしまったのだろう。じょじょに無人の空間が増えていく中で、ジュラルミンの大盾を煌めかせながら、緩やかな坂の上に機動隊が阻止線を構築している。旗を巻いた旗竿を前に倒した部隊が、ゆっくりと坂を上がって行く。まだ彼我の空間は四百メートル以上あるが、待機している混成部隊もすぐに出発しそうだ。 (俺たちもこうしてはいられない) だが慎一たち三人は、ヘルメットも軍手も持っていない。 「どうします?」 星野が焦った表情で訊いてくる。 「とりあえず中に入って、W反戦の荷物係がいたらヘルメットを貰おう」 「判りました」 三人は後続する隊列の脇から公園内に入った。植え込みのある一段高くなった盛り土の上に立って、待機している隊列の中に知った顔がないか見回す。反戦部隊の前から五〜六列目に、地域反戦の顔が四人ほど見えた。そのうちの一人は寛子だった。小柄な寛子は真剣な表情で、男の中に埋もれるようにして突撃を待っていた。 「寛子!お〜い、ひろこぉ〜」 入って来る他党派の隊列が邪魔になって混成部隊に近付けず、騒然たるホイッスルやスクラムの声で、慎一が幾ら声を張り上げても寛子には聞こえなかった。 (寛子、悪かった…。せめて怪我だけはしないでくれ…) 仕方なく慎一は心の中で寛子に呼びかけた。そんな心の声が聞こえるはずもないが、何故か顔を上げた寛子がこちらを見たのである。慎一は大きく手を振りながら、声に出さずに何度も詫びた。すると寛子が微かに微笑んだのが判った。青ヘルメットを目深に被り、鼻から下はタオルで覆われているにも関わらず、慎一には寛子が微笑んだのがはっきりと判った。慎一は不覚にも涙ぐみそうになった。 その時、喚声とともに催涙弾の発射されるバンバンという音が、公園の外から連続して響いてきた。ついに旗竿部隊の突撃が始まったのである。 ホイッスルが吹き鳴らされ、『安保、粉砕。沖縄、解放』という声とともに、前面を防盾で覆った十二列の隊列がゆっくりと動き出した。 「こうなったら三人がバラバラになって、W反戦の荷物係を探そう。もし見付からなかったら、そこらにいる戦わない奴から、青ヘルを取り上げて被ればいい」 慎一の叫ぶような言葉に頷いた星野と今泉は、思い思いの方向に駆け足で散って行った。 (これでいい。あとは戦うのも戦わないのも二人の自由だ) 救対の友子も来ているはずだし、慎一を見たら向こうから寄ってくるだろうと期待しながら、出て行く隊列の周辺を探し回る。突撃部隊に入らない青ヘルも結構いるので、知った顔を探し出すのは容易ではない。 (早くしなければ隊列が行ってしまう) ほとんど駆け足になっていた慎一に、図書館の暗がりに一人離れて壁にもたれている、見慣れた碇肩の青ヘルが眼に付いた。吸い寄せられるように近付いて行くと、思った通り関口だった。 「おい、関口。俺だ、海原だよ。今日は出てきたのか」 声をかけると関口は、物憂げに俯いていた顔を上げた。その反応が極端に鈍い。今日のデモに入っていたのか訊くと彼は首を縦に振った。 「そやけどもうあかんわ。ワシはもうデモには参加出来へん」 関口は死ぬのが怖いと言う。初めて見る関口のボロボロになった姿だった。あとは何を訊いても首を振るばかりで、さっぱり要領を得ない。 (こいつはお互いの二十四時間を常に考えてた。それさえあれば関口は、弾圧がどんなに過酷であっても笑って耐えられたのだ。そしてそんな関口の心の中にはいつも友子がいた) 慎一は『ワシはもう戦えへん。もう駄目や。役立たずは大阪へ帰るわ』と繰り返す関口を見下ろしながら立ち竦んでいた。 (人には誰にでも好悪の感情はある。そして好きと愛するという事も別だろう。関口が幾ら友子を愛しても、友子は関口を好きにしかなれない。でもそれは本人の自由なのだ。関口は如何に自分が消耗したとしても、相手を対等に扱うという最低限のルールは守った。俺にはそれが出来なかった。自分の中にある不安に負け、一方的に寛子を抱いてしまった) 慎一の脳裏に隊列の中に見た寛子の表情が浮かんできた。あの時、寛子は確かに微笑んでくれた。 (俺たちの求める自由っていったい何だ?。確かに権力は俺たちが模索しながら、懸命に創り出そうとした自由な空間を、片っ端から破壊してくる。だが俺たちは権力から与えられるのは、不自由な世界の中の自由でしかない事を知ってしまった。勿論俺だって不自由の対極にあるのが自由だなんて単純に考えちゃいない。権力に与えられたものではなく、自分たちで創り出したものならば、俺たちはどんな不自由な状態だって我慢出来るんだ) もう混成部隊の隊列は、公園から出て行ってしまっている。外からは催涙弾の発射音、喚声、ジュラルミンの盾に投石の当る音が、混然一体となってビルに反射し、増幅されて聞えてくる。 (これからなんだ。闘争も寛子との事もこれからなんだ。これから本当に始まるんだ…) そう信じなければ、この圧倒的な権力の弾圧に身を曝して、戦いの場に戻って行く気にはなれなかった。 「じゃ、俺は行くぞ」 慎一はしゃがみ込んでいる関口から、そっとヘルメットを抜がせた。そしてそのヘルメットを被ると、関口の肩に手をかけて言った。 「今日の戦いが終ったら、また酒でも飲んで話そうよ」 関口は座って俯いたまま返事をしなかった。慎一はその辺の石を拾ってポケットに突っ込むと、門柱の傍で青ヘルの戦いを見物している他党派をかき分けて外に出た。 公園の入口付近の中央分離帯には、早くも負傷して寝かされた仲間と手当する救対がおり、次々と白煙の中から負傷者が運ばれてきている。緩やかな坂の頂上は立ち込める白煙でまったく見えず、その中から火花を散らせ煙の尾を引いた催涙弾がいきなり飛んでくる。 寛子の入るスクラム本隊が何処まで進んでいるのか、既に四分五裂してしまっているのかも判らない。 (寛子。無事でいてくれ) 慎一はポケットから出した石を両手に握り締めると、人影の踊る白煙の中に飛び込んで行った…。
慎一が眼を落とすと、そこには手錠に締め上げられ、真っ白に色の変わった両手があった。 (寛子は無事だったろうか…) 脈々と流れていた血液が止まってしまい、今はもう自分のものとも思えなくなった手を見詰めながら、慎一はいつか寛子の言っていた言葉を思い出していた。 「もしかして私たちの戦いが敗北に終わるような事があれば、きっと革命や自由なんて夢想でしかなくなる『死産の季節』が始まるのよ」 何処へ向かっているか判らない護送車に揺られ、身体の痛みに耐えながら慎一は、その言葉を何度も何度も呟いていた。 一瞬、寛子の裸身が眼の前を横切った錯覚に捉われて慎一は顔を上げたが、見えたものは窓に取り付けられた金網に細かく区切られながら、後方に流れ去っていく街路灯だけだった…。 死 産 の 季 節 完
エピローグ
あれからどれだけの年月が経ったのだろうか。 『総領域からの叛乱』とも言うべき、数え切れないほどのあらゆる戦線に於ける戦いが次々と圧殺され、広範囲な権力に依る『人民管理機構』が完成してから、どれだけの時が流れたのだろうか。 『死産の季節』を体験し、挫折し、戦線からの撤退を余儀なくされ、身内に細々とした残り火を秘めながら生きている『我々』は、いったいどのくらいの人数に上るのだろうか。 既に『連帯』という言葉が使われなくなって久しい。『連帯』という僕らにあれだけ勇気と力を与えてくれた言葉は、風化してしまったのだろうか? 団塊の世代と言われ、マスプロ教育のプロトタイプとして没個性的な教育を受けてきた『我々』が、驚異的な復興を遂げつつあった権力の綻びに戦いを挑んだ時、当然の事ながら苛酷な弾圧に合わねばならなかった。『我々』はその戦いを通して『連帯』というものを文字通り体得していった。 しかしそれは一方では権力の弾圧に抗し、限りなく純化していく団結が、恐ろしい悲劇の種をも育てていった。権力に対するもっとも自由であり、もっとも平等であり、もっともアグレッシブであったはずの闘争組織が、いつしか少数の、強固な、幾つかの党派の、力の鬩ぎ合いの場と化してしまったのだ。 『我々』という一つの言葉で結ばれていたはずが幾つもの『我々』を生み出し、権力と戦う前のウォーミングアップだった内ゲバに憎しみが込められるようになった。 それは必然的に他党派との理論的差異を強調する事に結び付き、自党派理論の教条化へと一気に進んでいった。もっとも過激な方針を提起する者が、もっとも強固な意志の持ち主として賛美され、現実に即した方針を提起する者は思想的に未成熟、もしくは日和見主義者として蔑視されるようになった。 もはや戦いの中に於ける自由は失われ、自由を求めて集まった多くの『我々』は行き場を失ってしまった。参加するのに、身分を証明しなければならないような集会に、誰が行けるだろうか。 それでもかつて肩を組みともに戦った仲間が、権力とではなく他党派との戦いで倒れていくのを止める事も出来ず、『我々』は無力感に苛まれながらも黙って見ているだけだった。 そうして権力の圧殺と、自らの純粋さ故の自壊という形態を取って、党派性を強固に持った少数を残し、あの『自由な戦う組織』は壊滅してしまった。僕たちにいつまでも消えない、ノスタルジックな感傷と権力に対する不信感を残して…。
僕らの世代の人間は戦った者も戦わなかった者も歳が同じ、あるいは近いというだけで『共通の言語』を持っている。それが前後の世代には不可解に見えるらしい。しかし前の世代はともかく後ろの世代には、僕らの『共通の言語』の中身を伝える事が出来たはずである。例えそれが『敗北』という、自らに与えられる苦痛を通して語られねばならなかったとしても。 だが僕らはそれを充分に成し得なかった。僕らはそういう意味で『我々』として、後ろの世代に自己批判しなければならないと思う。 そして権力が一番信用せず危険視している僕らの世代に出来る事は、『我々』の限界を越えてくれるような世代が現われた時、絶対に彼らを孤立させない事である。かつての僕らが孤独な戦いをしていたが故に教条化し、自壊していったのを繰り返さない為にも…。
著 者
作 者 後 記
実を言えばエピローグを書いたのは、本文と同じ二十四年前である。二十四年後の今、そのエピローグを読んでみて、違和感を感じないのに作者自身が驚いている。むろんその間には共産主義の崩壊やバブルなどもあったが、現在の私たちを取り巻く情況は、表相はともあれ内実はまったく変わっていないという事だろう。
ま、それはともかく慎一と寛子、そして関口のその後を簡単に記しておきたい。 慎一は新しい建築設計事務所に入り、他地区の反戦の仲間とともに、建築産別行動委員会(以下、建産委と略)を正式に発足させた。その建産委は主要闘争課題として、三里塚空港粉砕闘争を掲げた。 戸村一作委員長(当時)を訪ねた建産委は、同じ建設産業に働く者として、現場労働者のサボタージュや反乱を誘発する闘争を行ないたいと訴えた。委員長は今まで反対同盟が手をかけてこれなかった領域なので、建産委の戦いに期待すると快諾を与えてくれた。こうして闘争の力点を建産委に移した慎一は、次第に寛子や友子のいるW反戦とは疎遠になっていかざるを得なかった。 寛子は兄が起訴されて東京拘置所に収監され、衣類や本などを頻繁に差し入れなければいけないのと、母親の戻って欲しいという希望も入れて、六月決戦が終わってから自宅に戻って行った。やがて寛子は兄の友人の一人と付き合うようになり、その彼と結婚した。兄の救対活動や裁判闘争で、友人と知り合ったのかも知れないが、詳しい経緯は判らない。 建産委は足繁く三里塚を訪れ、赤土を疾走するダンプカーの運転手だけでなく、ターミナルビル建設中の足場に上がって行ってまで建設反対のビラを配り、飯場を訪れては食事中の労働者と討論を繰り返した。 そうした地道な活動が功を奏したのか、第二次強制代執行では六つの砦を攻める機動隊に、周囲で見ていた現場労働者が背後から襲いかかるという事態が現出したのだった…。
実はその辺の経緯を主題にした『草莽の大地』という題の小説を、『死産の季節』を終えて半年後に書き始めたのだが、資料が思ったように集まらず、独立して始めた本業が忙しくなった事もあって、二十数年前から現在もなお第二章の途中で止まったままになっている。書き上げる予定は今のところない。 ちなみに十年近く前に八重洲ブックセンターで、拙文と同じ『草莽の大地』というタイトルの本が、書棚に並んでいるのを見てビックリしたが、もちろん偶然の一致である。 最後に関口のその後について軽く触れておきたい。傷心を抱いて大阪に戻った彼は、父親によって精神病院に放り込まれてしまった。ところがそこで彼は運命的な出会いをする事になる。 自閉症で入院していた女の患者が、彼だけには心を開いてくれたのである。活気を取り戻した彼は患者を組織して病院内をデモし、人間性復権の為に窓に付いた鉄格子を撤去させ、日本文学全集、世界文学全集といった書庫を充実させた。やがて相次いで退院した二人は新しい生活を始めている…。
『死産の季節』の登場人物は、当然ながらすべて仮名である。しかも資料に頼らず記憶だけに頼って書いたので、細かい部分で多少のずれがあるかも知れない。 だがこれは小説である。どんなに実体験に即して書き進めていったとしても、小説の宿命として多少のフィクションは混じってきてしまう。 この拙文は小説であって、決してドキュメンタリーではない事を、改めてここに明記しておきたい。
二〇〇九年 三月 著 者
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