てっきり囲まれたまま渋谷駅を出た時は警護車へ乗せられるか、すぐ傍の渋谷警察署に連行されるものと覚悟していた慎一だったが、予想に反して突撃隊を警護する列は明治通りを左折して原宿方向に向かった。 (ん?これはもしかすると…) 腕を取って歩かされている慎一に希望が湧いてきた。考えてみればヘルメットを持って東急渋谷駅に降り立っただけで、官憲が犯罪と認めるような事は何もしていないのである。 宮下公園の周辺は機動隊によって、厳重な警戒網が敷かれていた。その間を縫うようにして、突撃隊を挟んだ機動隊の列は、宮下公園に近付いて行った。宮下公園は山手線に沿うように細長い形をしており、一階はすべて広い駐車場になっているので、公園に入るには何ヶ所かある階段を上がらなければならない。つまりその階段をすべて封鎖しまうだけで、公園にいる者は一歩も外に出られないという、警備する側にとっては至極都合のいい公園だった。 突撃隊を挟んだ列が近付くにつれて、ハンドスピーカーから流れるアジテーションが、段々大きく聞えてくる。公園から明治通りにかかる歩道橋には何本もの赤旗が揺れ、青ヘルメットを被った人間が何人も行き来している。その頃にはもしかしたら釈放されるかも知れない、という慎一の予感は確信へと変わっていた。 わざわざ逮捕した連中を仲間の近くに連れて行って、ことさら相手を刺激するような真似を、機動隊がやるはずがないからである。公園内にいた連中が眼敏く連行されてきた慎一たちを見付け、歩道橋や公園内から機動隊に罵声を浴びせ始めた。 「ナンセーンス」 「同志を奪還するぞぉ〜」 罵声に呼応するように、メイン階段の上に旗竿部隊が現われた。実力で慎一たちを奪還しようと階段を下りてきた旗竿部隊と、下で大盾を連ねて身構える機動隊との間に小競合いが起こった。 「早くこいつらを、一番遠くにある階段から中に放り込め」 騒ぎが大きくなるのを恐れた指揮官が叫んでいる。何しろ中には数千人の反戦派労働者がいるのである。両側から腕を引かれて小走りになった慎一たちは、原宿寄りの三差路にある脇階段まで連れて行かれると、次々と押し上げられるようにして解き放たれた。上から成り行きを見守っていた青ヘルの集団から、階段を上がり始めた慎一たちに向けて拍手と歓声が上がった。 何とも妙な気持だった。九死に一生を得たような気がするし、突撃隊としては何とも中途半端な感じである。あれだけ決意を固めて家を出て来たのに、肩透かしを食わされたような気分だ。他のメンバーも自分がどんな顔をしたらいいか迷っているようだ。慎一は階段の上で立ち止まると、ナップザックを開けてヘルメットを被った。隣にいた寛子や突撃隊のメンバーも、それに倣って一斉にヘルメットを被った。 自然発生的にスクラムが組まれる。こうなったら公園で行なわれている集会に参加しながら、もう一度状況を再把握する以外に道はない。 <アンポ、フンサイ、オギナワ、カイホウ> <アンポ、フンサイ、オキナワ、カイホウ> 二十数名で作られた小さな隊列は、ジグザグデモを繰り返しながら旗が林立し、アジテーションが聞える方向へと進んで行った。 集会はちょうど公園の中間にある、二坪くらいの電気配電室の屋根を中心に行われていた。アジテーターがその上に立ち、ハンドスピーカーのマイクを二つ握りしめて叫んでいる。 その下には座り込んだ反戦派労働者に正対するように、百本近い全国各地の反戦名を書いた旗が林立していた。赤地に白い縁取りをした青文字で、社青同と染め抜かれた旗もかなり混じっている。集まっている人数は、ざっと見ても二千人近い。その中に緑ヘルのフロントが百五十、解放派シンパの黒ヘルノンセクトが五十ほど参加している。 慎一たち突撃隊の隊列は一番メイン階段に近い、集会の後方に座り込んだ。勿論東京反戦もこの集会に参加しており、その傘下にある突撃隊のメンバーが所属する各地区反戦も来ている。だが一種近寄り難い雰囲気を漂わせている突撃隊のメンバーに、話しかけてくる者は少なかった。異様な雰囲気を醸し出している原因は、『どうしてこんな事態になってしまったのか』という事である。突撃隊メンバーの頭を占めているのはそれだけだった。例え違う地区反戦だといっても、今は一人一人が同じ突撃隊の一員としてここにいる。 (意志一致もしないうちに、いったい誰が電車に乗れと合図したんだろうか?) 慎一は傍にいるメンバー全員に訊いて回った。だが誰もが手を振る合図を見て乗った者ばかりで、合図をした人間が誰なのかついに判らなかった。突撃隊全員が一堂に会したのは、社文に於ける訓練が二回、それと突撃当日である今日の三回だけであり、誰もが全員の顔を知っているわけではないので、これ以上ここでは調べようもなかった。 (もしかしたら権力が、隊を分断する為にやった事じゃないか?) 三里塚で出会った私服の中には中年男だけでなく、長髪で年格好もよく似た連中が多くいだのを慎一は思い出した。渋谷駅で逮捕された者(例を上げれば線路に逃げて鉄道法違反で捕まったとか)がいるのか今は確認出来ないが、隊を分断させた犯人としてはその推理が当を得ているように思われた。 ずっと傍にいた寛子が始めて口を開いた。 「ねぇ。自由が丘には関口さんも来てなかったし、赤迫さんも見なかったわ。いったいどうしたのかしら」 そういえば自由ケ丘に集まった時も、隊が二つに分かれてしまった瞬間も、二人の姿を見かけなかったような気がする。それにもし二人があの場にいたら、彼らの方から寄って来たはずだった。 (だとしたら関口と赤迫は、何処に行ったんだろう?) 渋谷の改札口を出た友子は、宮益坂下の交差点を渡ろうとしていた。東横デパートと東急文化会館を結ぶ、連絡通路の橋桁付近に、十台あまりの警備車が停まっている。それを横目で見ながら信号が青に変るのを待っていると、突然道玄坂方向から喚声が聞えてきた。 (きっと学生部隊が到着して攻撃が始まったんだわ) 喚声に催涙弾を打つ音が混じっている。宮益坂下の交差点にいた機動隊が、急ぎ足で道玄坂方向に移動していく。機動隊員を避けながら交差点を渡った友子が、洋画専門の全線座の前まで歩いて来た時、後ろからドタドタ走って来る足音がして呼び止められた。 「お〜い。前を行くのんは友子やないかい?」 聞き覚えのあるダミ声と大阪弁、すぐに関口であると判った友子は慌てて振り返った。確かに手ぶらで走り寄って来るのは関口だった。 「今頃こんなところで何してるのよ。あなたも突撃隊だったはずでしょ。それに小盾はどうしたの?」 寛子や慎一が捕まったと思い込んでいるだけに、友子の言葉は思わず詰問調になった。 「そないポンポン言いなや。順を追って話したるさかいに」 友子の剣幕に押されながらも、関口はこれまでの経緯をかいつまんで話した。折り返し友子が突撃隊の様子を喋っているうちに、二人は宮下公園のメイン階段に着いた。 「そうかぁ、そないしんどい状況になっとるのか。もしかすると海原や寛子は、そのままパクられとるかも知れへんな。しかしそれにしても判らへんなぁ。何で銀座なんかに行きよったんやろ」 潮のように道玄坂の喚声が大きくなったり、小さくなったりしながら響いてくる。集会中の反戦部隊が公園を出て学生部隊に合流するのを防ぐ為に、メイン階段を警備していた機動隊の一人が、無造作に入ろうとする関口の肩に手をかけた。彼も遠くから聞えてくる喚声に神経が昂ぶっていたのだろうが相手が悪かった。 「何さらすんじゃワレェ。人の身体に気易う手ぇかけるんやない!」 関口の激しい言葉に一瞬気後れした機動隊員が、気を取り直して胸ぐらを掴んだ。 「何だとこの野郎、でかい面しやがって。お前なんかいつでもパクれるんだぞ」 「おもろいやないかい。パクれるもんならパクってみぃ。先に仕かけてきたのはお前の方やなんやど」 鼻先で起こった騒ぎに、集会に参加している者が気付かないわけがない。喚声を聞いて気持が昂ぶっているのは、機動隊ばかりではないのだ。たちまち階段上から旗竿が突き出され、歩道橋からは公園に転がっていた石を持って来て投げ付ける者まで現われた。 メイン階段に一番近い場所にいた慎一たちも、何事かと立ち上がって駆け付けた。見ると騒ぎの中心にいるのは関口と友子ではないか。慎一は傍にいた男から旗竿を奪うと、階段を駆け下りて機動隊に突きかかっ た。それがきっかけになって旗竿部隊が一斉に突進し、メイン階段を警備していた機動隊を瞬く間に追い払った。機動隊を追った旗竿部隊が明治通りを占拠するように扇状に広がり、集会を中断した反戦部隊がスクラムを組んで公園の外に出て来ると、エアポケットのように空いた明治通りでジグザグデモを始めた。 いったん退却した機動隊がメイン階段を両側から挟むように、旗竿部隊から三十メートル近く離れた位置に、大盾を並べて厚い壁を作り始めた。その背後に手回しよく警備車がやって来ると、屋根に乗った男がスピーカーからかん高い声を上げた。 「路上に出て違法な行為を行なっている青ヘル諸君。君たちに許可されているのは、公園内に於ける集会だけです。いつまでもそのような違法行為を行なっていると、東京都公安条例違反で全員逮捕します。繰り返します…」 機動隊に対峙して旗を突き出している部隊の中に慎一もいた。だが宮下公園に集まっている反戦派労働者は、逮捕も辞さずという覚悟で戦いに参加してきたわけではない。じょじょに包囲の輪を縮めてくる機動隊に、旗竿部隊もジリジリと後退していき、ついにはスクラム部隊も含め全員が公園内に戻った。 旗竿を借りた男に返して慎一が息を整えていると、寛子が関口と友子を連れて近付いて来た。 「お、何とか二人とも無事だったか。旗竿の突っ込みに巻き込まれたかと心配したぞ。それにしても関口、突撃隊のお前が何でここにいるんだ?まぁ、俺も人の事は言えんけど…」 「ワシもえらい目におうたんや。友子から渋谷でパクられたて聞いて、お前たちの事心配しとったんやど。他の突撃隊がどうなったかは、友子から聞いてえな」 「渋谷に着いた突撃隊が全部捕まったでしょ。私は残りの突撃隊がどうなったか心配になって、自由が丘に引き返したのよ。そしたらホームには誰もいなくって…」 慎一と寛子が友子の話を聞いていると、自然と周囲に突撃隊のメンバーが集まり始め、友子が語る最新情報を全員で聞く形になった。友子がレポセンターから、残りの突撃隊が銀座に向かったと聞かされた段になると、期せずして全員から溜息とも戸惑いとも付かない声が洩れた。 友子が話し終わるのを待って、関口が一番最初にロを開いた。 「銀座に向かった連中は、もう無事な状態ではおらへんやろ。だからワシらがこれから銀座に向かったかて無駄な事や。さて、問題はここからなんやが、残されてここにおるワシらはどうするかいう事や。誰でもええから意見のある奴は、遠慮のう言うて欲しい」 すぐには返答する者がいない。慎一はそれも無理はないと思った。何せここにいる突撃隊は三十名に満たないのだ。この人数でやれる事といったら高が知れている。 「とにかくそういう話をここでするのは拙い。人がたくさんいるから、私服が紛れ込んでるかも知れない。 周りに人がいないところで今後の方針を決めよう」 「それもそうやな」 慎一の提案にしたがって、皆は再会された抗議集会の外周を回り、最初に解き放たれた公園の端まで移勤した。結果的に突撃隊と同一行動になってしまった寛子も、集会に参加しているW反戦の中には入らず一緒に付いて来る。 「ここならいいだろう」 周りに人のいないのを確かめてから、全員が車座になって座り込んだ。厚く垂れ込めた雲のせいか宵闇が早くも忍び寄り、公園内に点在する水銀灯がポツポツと点灯し始めている。 気が付くと先刻はあれほど騒がしかった、道玄坂に於ける学生部隊の喚声もほとんど聞えなくなり、散発的に催涙弾の発射音がするだけになっている。 (学生部隊も今は正規軍戦ではなく、ゲリラ戦になってるな) 慎一たち突撃隊の今後の闘争方針は、大雑把に言って二つに別れた。今すぐ学生部隊とともに戦おうという者と、ここにいる反戦本隊と一緒に最後まで統一行動をとろうという者の二つである。どちらにしろ取り残されて、宙に浮いてしまった挫折感が、全員を覆っているのは否めない。 慎一にしても今日まで寛子への愛を自分の中だけで押し殺し、ただひたすら突撃隊たらんとして自らを作り上げてきただけに、身体の中心にポッカリ穴が開いたようだった。といって誰を責めるわけにもいかない。自分の感情の持って行き場がないだけに、よけい挫折感が大きくなっているように慎一は感じていた。 ここに残された者にとって救いがあるとすればたった一つ、まだ今日の戦いは終わっていないという事だった。討論の結果、学生部隊の戦いはその様子からいって、既にゲリラ戦化しているだろうという事と、友子が集会責任者から仕入れてきた、公園から隊列を組んで無届デモを敢行する予定(もっともそれは集会参加者の盛り上がり次第だそうだが)との情報によって、もう少しここで事態を静観する事になった。夜のとばりが支配し始めた公園を、突撃隊は集会場所に戻った。 入れ替わり立ち替わり、演壇代わりの屋根に各都道府県反戦の代表が上がって、地元に於ける戦いの報告と、七〇年安保粉砕へ向けての決意を述べている。その間にも集まって来る人数は増え続け、もう優に二千五百は超えただろう。 いつもの慎一であれば他府県の闘争報告に、喜々として耳を傾けていたはずである。だが今の慎一たち突撃隊にとっては、どんなに感動する映画であっても決っしてのめり込めない、そんなもどかしさ感じるだけだった。いつ果てるともなく続く集会は、身の置きどころのない突撃隊にとって、身体をそこに留めておくだけでもかなりな根気を要求された。段々と残り少なくなってゆく今日という時間を気にしながら、異様に静かな集団として突撃隊は会場の一角に座り込んでいた…。
寛子は今朝から慎一と行動をともにしていた。渋谷から突撃して行く慎一たちの戦いを、自分の眼でしっかりと見届けたかったからである。だが戦いは思惑通りには進まず、はぐれた慎一たちだけが宮下公園に連れ込まれ、他の反戦と馴染む事も出来ずに会場の隅に座っているのである。寛子はずっと一緒だっただけに、誰よりも慎一たち突撃隊の苦悩を理解していた。 (横顔を見てるだけで、慎一さんたちの侮しさがよく判る。半分以上の突撃隊が、あくまで渋谷への進撃を追及もせずに、方針になかった銀座へ行っちゃったんだから。そのお陰でここにいる慎一さんたちだけが、中途半端な状態で放り出されてしまったんだ。一緒に暮しながら彼が突撃隊を決意したあと、私に何か言いたそうにしては黙って小さく笑っていた顔が、何だか今になって何度も浮かんでくる。慎一さんが私に言いたい事は判ってたんだ。ここにいる他の隊員の皆にしたって、慎一さんと同じような経緯をたどって、突撃隊に参加してきてるのに違いないのよ。それなのに…) 寛子は慰める言葉を探し出す事が出来なかった。今の彼らにはどんな真摯な言葉であっても、ちょっと表面を上滑りしたくらいにしか感じられないだろう。戦いは今度だけではないとは間違っても言えない。 解放派にとってもっとも重要な闘争が今日であり、慎一たちはその戦いの突撃隊に選ばれた者たちであったからである。きっと今の彼らを慰撫出来る者は、この世に存在しないと寛子は確信していた。 寛子の眼は何気なく演壇代わりの配電室の下で、中央本部の専従本村と話している友子に注がれた。 (友子ったら今日はあちこち動き回ってるけど、身体の方は大丈夫なのかしら。高校の頃から少し動くとすぐに熱を出して、何回も倒れてるのに…) 心配そうに見ている寛子の視線に気付かず、友子は時折身振りを交えながら本村と話し合っている。しばらくして友子は頷くと早足でこちらに戻って来た。 「ねぇ皆、ちょっと聞いて」 友子の声が聞こえ、慎一は足元を動き廻る蟻を追っていた視線を上げた。頬を少し紅潮させた友子が、スカートの裾を翻して立っている。座っていた突撃隊員が一斉に顔を上げて友子に注目した。 「どうしたんだ?」 本村と話していたのを知らない慎一が、他の者を代表するような形で尋ねた。 「どうやら集会が終わったら、実力で無届デモをするらしいわよ。そんな事を本村さんが言ってたわ」 「本当か!」 頷く友子を見てどの顔も、やっと自分たちの出番が来たという、安堵にも似た明るい表情が浮かんでいる。だが突撃隊の誰かが行って、直接確かめて来るのに越した事はない。 「よっしゃ。ワシが本村んところに行って訊いて来るわ」 胡座を組んでいた関口が立ち上がると、ゆっくり集会をしている方へ歩いて行った。当の本村は十人近い反戦代表と、額を寄せ合って何事か話し込んでいる。突撃隊のメンバーは固唾を呑んで関口の動きを追った。 関口は本村たちの中に入ると、身振りを交えて話を始めた。待っている時間がひどく長く感じられたが、実際は五分とかかっていなかっただろう。やがて関口は輪から一人抜け出ると、こちらへ向かって歩き出した。いつもなら気にも留めない彼の歩みが、ずいぶん遅いと感じたのは慎一だけだったろうか。 傍に来て座り込んだ関口を中心に、待ち兼ねた突撃隊の輪が出来上がった。 「要するにこういうこっちゃ」 関口の仕入れてきた情報を整理すると、だいたい以下のように纏める事が出来た。 結論から言えば無届デモは敢行する。その理由として、 一 直接戦闘部隊ともいうべき学生部隊の戦いが、現在は散発ゲリラと化している事。 二 反戦の戦闘部隊である突撃隊も二つに分断してしまい、その大多数はレポの報告によると、既に銀座に於いて壊滅してしまっている事。 三 カンパニア部隊として全国動員された反戦部隊の多くが、集会だけでなく戦う決意を固めている事。 四 間もなく道玄坂から宮益坂を通る総評のデモ隊を、巻き込むような実力闘争を展開したいという意見が多い事。 一喜一憂しながら突撃隊のメンバーは関口の言葉を聞いていた。特に銀座へ出た突撃隊が、既に壊滅してしまっているのを聞かされた時の衝撃は大きく、ほとんどの者が声にならない呻きを洩らして黙り込んでしまった。本当に取り残されてしまったという思いと、現存する突撃隊は少数ながらも自分たちだけだという思いが、誰の胸にも交錯しているのは想像に難くなかった。 慎一の脳裏に社文で突撃隊を前に、決意表明をしていた辻の顔が浮かんで消えた。 (本来なら俺たちの手にあるはずの、小盾も火炎瓶もゲバ棒もない。しかしこうなったからには最後に残った突撃隊として、やれるところまでやってみるしかないのだ) 感傷という言葉で片付けるのは簡単だった。だが今の慎一の心を占めている感情は、明らかに寛子に対する感傷とは異なっていた。ともに戦う仲間を失ったという、極めて根源的な怒りの成せる技なのだろう。 「そこでや。本村の言うには、ワシらもそのデモに入ればええ言うんやけど、どないする?」 関口の問いかけに、どうせなら俺たちが最先頭でスクラムを組もうという声が、突撃隊メンバーの中から出てきた。誰も否やを言う者がない。慎一も同じ思いだった。むしろ皆の眼の輝きが増したように思える。 「よっしゃ、判った。ほならもう一度本村んところに行って、そう伝えてくるわ」 関口が立ち上がるのを潮に和やかな空気が流れた。これで宙ぶらりんな立場から、とりあえず戦う場を確保したという安堵感だろう。隣り合った者同志が笑みを浮かべて何か話し合っている。 「私も突撃隊と同じところで戦いたい」 横に座る寛子が突然言った。デモ隊の最前列といえば、逮捕される確率の高い場所である。これからやろうとしている無届デモとなれば、その確率はなおさら高くなる。 「やめとけ。さっきも言ったろ?」 にべもなく強い口調で答える慎一に、寛子が不満そうに黙り込む。慎一はこれでいいのだと思っていた。寛子を無闇に危険な場所に曝したくないのだ。例え差別だと言われようと、これだけは絶対に譲らないつもりだった…。
道玄坂からの喚声はすっかり途絶え、明治通りでは公園の警備を増強する為に倍増された機動隊が、装備をガチャガチャいわせながら動き回っていた。昼間から延々と続いていた集会も終わりに近付き、何となく参加している反戦派労働者が騒めき立っている。どうやら各反戦の参加者に公園から打って出る方針が、ロから口へと伝えられているかららしい。 夜のとばりの中でますます厚くなったように見える低い雲が、街の灯りを反射して薄明るくなった下面をゆっくりと蠢かせている。 やがてスピーカーから流れ出る女性の声に合わせて、間延びのしたシュプレヒコールが聞えてきた。どうやら渋谷駅前を、総評のデモ隊が通り始めたようだ。配電室の屋根には、最後のアジテーターである本村が立っていた。簡潔に集会の総括を述べ、今後の方針提議が終わると、シュプレヒコールからインターナショナルの歌へと、議事は淡々と進んでいった。 (さぁ、いよいよ俺たちの出番だぞ) 慎一は関口や他の突撃隊のメンバーと肩を組み、歌を唄いながら身の引き總まってくるのを感じていた。 「各地区反戦は十二列に隊列を組め!」 公園内は沸き立つような騒ぎになった。旗竿部隊が急速にメイン階段の方へと移勤して来る。慎一たちも急いでスクラム本隊の前に移動した。 「寛子。お前はW反戦の中に入れて貰え」 頬を膨らませている寛子の背中を押して、W反戦が隊列を組んでいる場所まで連れて行く。といってもW反戦は戦闘的な部隊なので、最前列から七、八列目くらいだ。それでも機動隊の振るう警棒が届く距離ではないので、慎一と一緒にいるよりは遙かに安全である。寛子が十二列の真ん中付近に入ったのを見届けた慎一は、急いで最前列に戻るとスクラムを組んで、腰の辺りに渡された竹竿を掴んだ。先頭にこの竹竿がないと、隊列の動きが安定しないのである。残っている突撃隊では横十二列となると、前の二列を占めるのがやっとだった。慎一は最前列の左側、関口は最前列の右側である。二人とも一番パクられる確率の高い位置だ。 公園内をデモした隊列は、歩道橋横のメイン階段の上で止まった。その両脇には二手に別れた旗竿部隊が、階段の隙間を埋めるように立っている。隊列に相対して肩車された本村がハンドスピーカーでアジッているのだが、最前列にいる慎一たちには音が割れて聞こえ、何を言っているのかよく判らない。下では反戦部隊の突撃に備えて、階段幅一杯に大盾を並べた機動隊が、数百人の壁を作って待機している。明治通りは完全に封鎖されたようで車は一台も通らず、停まっているのは機動隊車両ばかりだ。機動隊の壁の後ろでカメラを抱えて走り回っているのは、マスコミではなく私服だろう。 張り詰めた沈黙が周辺を支配している。睨み合う彼我の緊張が頂点に達した瞬間、一度長くホイッスルが鳴った。両脇の旗を巻いた旗竿が一斉に倒される。 <アンポォ、フンサイ…> 慎一は後から押される圧力を背中に感じながら、階段を下りる第一歩を踏み出した。下にいる機動隊が大盾に隠れるようにして身体を低くし、スクラム本隊の衝突に備えて身構える。カメラのフラッシュが頻繁に焚かれ、ネガとポジの世界がめまぐるしく入れ替わる。隊列の力を蓄え衝撃力を高める為に、慎一たち最前列は背後に寄りかかるようにして、一歩一歩スクラムを固めながら下りていった。 ピッ、ピィ〜ッ、ピッ、ピィ〜ッ…。 隊列を鼓舞するように、幾つものホイッスルが吹き鳴らされている。 <アンポ、フンサイ、オキナワ、カイホウ> <アンポ、フンサイ、オギナワ、カイホウ> 段々と声が大きくなり、スクラム本隊があと数メートルに近付いた時、両側の旗竿が大盾に突き立てられ た。ガツッ、ガツッと幾度も突き立てられる旗竿に、慌てて顔を引っ込めた機動隊にスクラム本隊が激突した。慎一は機動隊の警棒に殴られないよう頭を下げていたが、大盾にぶつかる衝撃とともにそんな事は無駄な努力なのを思い知った。 公園から出すまいと大盾で支える機動隊と、強い力で押してくる本隊との接点にいる慎一たち突撃隊は、大地に足が着いていなかった。ちょうどぶつかり合った波が盛り上がるように、接点にいる敵も味方もまったく身動き出来ないまま、百人近くが完全に浮き上がっているのである。 「ウッ、ウゥッ、ウゥ〜ッ」 慎一に限らず周辺は呻き声だけが支配していた。辛うじて動かせるのは頭だけであり、巨大な力に押し潰され肺が圧迫されて呼吸すらままならない。慎一は身体中から体力が、急激に抜け落ちていくのを実感していた。眼前にいる機動隊員の顔は蒼白で、瞬く度に黒目が上がりかけている。 (このままでは俺だけでなく、この辺にいる全員が失神してしまう) だが慎一の思いは、辛うじて杞憂に終わった。続々と階段を下りて来る反戦部隊の圧力に抗し兼ねたのか、じょじょに機動隊が下がり出したのである。急速に身体を圧迫する力が弱まり、慎一はやっと足を着く事が出来た。だがここで機動隊と隙間が出来ると、最初に危惧していた警棒の雨が降ってくる。身体はふらふらだったが、慎一たちは最後の力を振り絞って、機動隊を押しまくった。 <アンポ、フンサイ、オキナワ、カイホウ> <アンポ、フンサイ、オキナワ、カイホウ> スクラムは正面の抵抗力がまったくないか均一な時は直進するが、不均等な抵抗の場合は隊列の意思とは別に曲がってしまうという弱点がある。スクラム本隊の正面にいた機動隊が下がった為に、旗竿部隊と対峙していた両側の機動隊だけが残り、十二列あった隊列は公園を出たところで、花が開くように二つに別れてしまった。十二列を横に渡すほど長い竹竿がなく、二本の竹竿を使っていた結果でもある。 関口の入っている隊列は明治通りを渋谷駅方向に進み、慎一たちの隊列は原宿方向に流された。慎一たちの隊列が先ほど解放された階段のある三差路から、Uターンして渋谷駅方向に向かおうとした時、機動隊から一斉に催涙弾が発射された。火の粉を派手に飛び散らせ、煙の尾を引いた催涙弾が慎一たちの頭上を飛び越え、直撃を狙った催涙弾は跳弾となって左右を通り過ぎていった。 これはあとから聞いた話だが、関口たちの隊列が渋谷駅方向に進み始めた時、ちょうど通っていた総評の隊列から国労の部隊が左折して、機動隊を挟み打ちにしようとしたらしい。全線座付近でデモ隊の間に挟まれる形になった機動隊がパニックに陥り、ありったけの催涙弾を関口たちに向けて撃ってきたという。 慎一たちの隊列も渋谷駅に向かった隊列と合流しようとして、立ち塞がる機動隊との衝突を何度も繰り返していた。衝突かる度に機動隊の大盾や警棒によって仲間が倒され、スクラムを組む人数は眼に見えて減っていった。今は旗竿部隊も数人ずつに散開して、目の前の機動隊と白兵戦を展開している。機動隊と反戦部隊の双方がお互いの間に入ってしまい、催涙弾の飛び交う中で段々と収拾が付かない状態になってきた。 見ると渋谷駅に向かった隊列がバラバラになって(大量の催涙弾を撃たれた結果だ)、出て来たメイン階段から公園内に退却している。慎一たちも機動隊に阻まれ、どうしても三差路から渋谷に向かう事が出来ない。左右に別れた時は六列あった隊列も、今は四列程度に減ってしまっている。 (このままではジリ貧で、いずれ全員逮捕されてしまう。それより公園に戻って合流し、隊列を立て直した方がいい) 「いったん公園に戻るぞ!」 慎一が残り少なくなった突撃隊の連中に叫ぶと、最前列にいた全員が頷いた。 <アンポ、フンサイ、オキナワ、カイホウ> <アンポ、フンサイ、オキナワ、カイホウ> 機動隊に囲まれるような形でジグザグデモを繰り返しながら、慎一は三差路にある階段から公園に入ろうとスクラムを向けた。だが機動隊の阻止線を突破して、無事に公園に入るのは至難の技だろうと思えた。 少し前からバラバラにされた突撃隊の一人が、戻ってきて慎一の左腕にすがり付いていた。大盾を並べた機動隊の阻止線に衝突かる寸前、前にいた機動隊員が大盾を振り上げて、彼に水平打ちを食らわせた。 ガッと不気味な音がして、ヘルメットか肩に直撃を受けた彼は力なく崩れ落ちた。その瞬間に隊列は阻止線に衝突かり、意外と簡単に隊列は阻止線を通り抜けた。スクラムを組んだ腕を離すまいとする慎一の努力も虚しく、軟体動物のようになった彼の身体はそのまま倒れ、階段に向かう隊列の後方に残されていく。 振り向いた慎一の眼に不自然な格好で地に伏している彼と、彼を取り巻いて立っている何人かの機動隊員が映った。スクラムを組んだまま階段を上がりながら、慎一は倒れた男が被っていたヘルメットの文字を何とか思い出そうとしたが、何処の反戦だったのかどうしても思い出す事が出来なかった。今日一日だけとはいいながら、運命共同体として行動をともにしてきた仲間が、権力に倒されてしまった怒りと悲しみが、慎一の胸の中一杯に広がってくる。 (いつの日か絶対にこの落とし前は付けてやる) 気が付くといつ頃からか澱んだ雲から霧雨が降り出しており、着ていた服がしっとり濡れてきている。催涙弾の鼻をツンと突く臭いが立ち込め、いまだに涙が止まらない。慎一はそれを拭いもせず、半分以下に減ってしまった旗竿の林立する場所に、隊列を近付けて行った。 公園に帰り着いている人数は千名に満たなかった。明治通りに於ける衝突でバラバラになって逃げ、機動隊の取り巻く公園に戻れない者がかなり出ているのだ。まして大部分は他府県から来ている反戦派労働者である。渋谷の地理に暗いのも無理はなかった。慎一たちの隊列も、公園に戻った時は二百名を切っていた。 僅か何十分かの戦闘で、戦力が四分の一に激減してしまった計算になる。もっとも全員が逮捕されたわけではなく、大部分がヘルメットを投げ捨てて見物人に紛れ込んでいるだろう。 慎一たちの小さな隊列は、先に戻っていた連中に拍手で迎えられた。 (とりあえずここまでは無事だったか…) ようやくスクラムを解いた慎一は、周囲の突撃隊のメンバーと言葉を交わしながら、煙草に火を点けた。 (後ろにいた寛子は無事だったろうか?それに関口たちW反戦の連中は?) だが突撃隊のメンバーを残して、慎一だけが寛子を探して歩き回るわけにもいかない。慎一は吸い込んだ煙を、虚空に向かって思い切り吹き出した。 「お〜い、海原」 呼ぶ声に振り向くと、S地区反戦の水島が駆け寄って来た。水島は測量事務所に勤めており、これから作ろうとしている産別行動委員会の、重要なメンバーの一人である。 「これから道玄坂でゲリラ闘争をやるから、五人単位になって目立だないように公園を出て、道玄坂上に集合するようにとの指示が出てるぞ」 「判った」 散発的なゲリラ戦となれば、もう突撃隊として纏まっている意味はなかった。 「もう突撃隊として出来る事は何もないから、皆は自分の反戦に戻ってゲリラ戦を戦ってくれ」 頷いたメンバーたちが、自分の反戦を探しに散っていく。突撃隊の後ろにいた他府県の連中も、自分の反戦を探す為に思い思いの方向に散っていった。 (さてと。地域反戦は何処にいるかな?) 慎一が探しに行こうとするより早く、スクラムの先頭で戻って来た慎一を見ていたのか、人を縫うようにして寛子と関口が寄って来た。 「寛子、無事だったか。怪我はしなかったか?」 「うん、大丈夫。最初に衝突かった時は息が出来なくて、死んじゃうのかと思ったけど…」 互いに無事だった事をのんびり喜んでいる暇はなかった。慎一と寛子、関口の三人に、自分の反戦に戻らなかった突撃隊の生き残り二人を加えた五人は、ヘルメットを脱いでナップザックにしまうと、公園の裏にある鉄骨階段から脱出した。そこは戦前からあると思われるバラック建ての飲み屋が、山手線のガードに沿って犇めくように軒を連ねる一角で、催涙弾とは異なる酸えたような臭いが漂っている。 幸い辺りに機動隊の姿は見えなかった。むろん警備する機動隊は鉄骨階段の所在を知っているだろうが、あまりにも狭い路地なので警備の対象外にしているのだろう。 (その分だけ表通りを警戒してるって事だ) 五人は表通りに出るのを避け、ガード下にあるトンネルを潜って大盛堂書店の横に出た。眼の前には数年前に出来たばかりの西武百貨店が、左右に分かれて聳え立っている。慎一はこの広い道路を横切って、西武百貨店の間の道にさえ入ってしまえば、道玄坂まで何とかたどり着けるだろうと考えていた。左を見るとハチ公前の交差点には警備車が、バリケードを築くように停まっており、幾つもの赤い回転灯が乱舞していた。 時折ギラッと光るのはジュラルミンの大盾だろう。 「こりゃ職質されないで道玄坂まで行くのは、奇跡に近い話だぜ」 突撃隊の一人が小さな声で呟いた。A地区反戦の男である。慎一や関口にとって、社文の占拠闘争や三里塚で何度も顔を会わせ、軽い挨拶程度は交わす仲だった。 「大丈夫だ。俺は渋谷に子供の頃から来てるから、結構細い路地には詳しいんだ」 「私も知ってるわ」 慎一と寛子の言葉に、突撃隊の二人から不安の色が消えた。 「それじゃ、お二人さん。あんじょう頼んまっせ」 大阪弁というのはどんなに緊張している時でも、何となくリラックスさせてくれる言葉だなと思いながら、大盛堂前の大通りを信号に合わせて目立たぬように渡り、慎一たちはセンター街へ通じる道に飛び込んだ。 夜になって降り出した雨のせいか、渋谷で過激派が暴動を起こすというキャンペーンが効を奏したのか、道を歩く人の数は少なかった。とはいっても都内有数の繁華街なので、並の商店街より人出は多いだろう。 五人はヘルメットを入れたナップザックを下げ、濡れ鼠になりながら道の隅を小走りに道玄坂を目指した。 「よし。ここら辺を左に折れて、丸山町のホテル街を抜ければ道玄坂の上に出るぞ」 慎一たちが道を曲がろうとすると、傘を差して角に立っていたアベックが不意に声をかけてきた。 「ここを曲がるとマルキがいるぞ。もう一つ先の細い道を曲がるんだ」 傘を差し女の肩を抱いて、如何にも恋人風に立っていたのはレポだった。 「判った。ありがとう」 礼を言った慎一たちが一つ先の脇道に向かったあとも、二人は何事か話しているような仕草で、続いて来るだろう反戦派労働者を待ち受けていた。 五人は軒から垂れる雫をまともに受けながら、ぬかるんだ路地を飛石伝いにヒタヒタと抜けて行った…。
丸山町は道玄坂を分岐点とする丘にへばり着くように出来た料亭や芸者の置屋、それに安直な愛を貧る連れ込みホテルを核にして作られている。慎一たちは丘の裾に当る場所にいた。 その辺は古くからある商店街で、既に多くの店はシャッターを下ろし、電柱に施された夏の飾りが雨に打たれて、よけい安っぽく惨めな姿を曝している。時折無人の商店街を水飛沫を上げた車が、風圧でシャッターを鳴らしながら走り過ぎていく。 慎一たちはなるべく細い道を選んで、クネクネと曲がった坂を上がって行った。上がり切ったところは、渋谷百軒店の奥にあるジャズ喫茶の前だった。その頃には似たような服装をした連中が、段々と周りに多くなってきていた。一目でそれと判るのは、相手も五人くらいで傘を差していないからである。 「百軒店から出るとまだ坂の途中よ」 困惑したように言う寛子の言葉に、慎一もしばらく考えていたが、すぐに名案が浮かんだ。 「ここから行こう」 五人が傍の駐車場の鉄柵を乗り越え始めたのを見て、他の連中も鉄柵に取り付いた。ガシャガシャと金網が鳴って鉄骨が大きくたわむ。無人の駐車場なので誰に咎められる事もなく、二十人近くに膨れ上がった慎一たちはそこを通り抜けた。 道玄坂の頂上、元は玉川線が走っていた道との三差路には、既にかなりの人数が集まっていた。といっても最初から比べると、ずっと数が減っている。ざっと見たところ三百名くらいだろうか。他府県の連中が多いので途中で職質に引っかかったか、見知らぬ路地に入り込んで迷っているのかも知れなかった。 集まったほとんどの者がヘルメットを被っている。被っていないのは私物を預かっている荷物係だ。苦労してたどり着いた慎一たちも、さっそくヘルメットをナップザックから取り出して被った。 覆面をするとタオルがぐっしょり濡れていて気持が悪い。夏に近いとはいえタオルが肌に触れた瞬間、背中を悪寒が走った。すぐ下に交番があるが、警官は避難してしたあとで無人だった。ガラスの割れた中を覗くと、机が引っ繰り返され書類が散乱していた。学生部隊ではなく野次馬の仕業だろう。 ゲリラ闘争をするといっても武器がなければ戦う事は出来ない。皆は周辺を歩き回って、棒や石ころを探していた。緩やかに右に曲がりながら下っている道玄坂には人っ子一人いなかった。動く物といえば点在する街路灯に照らされて、白く光る雨の糸だけである。 慎一はそれをぼんやりと眺めていた。ヘルメットに当る雨の音がポツポツと耳に聞こえ、時折水滴が彼の視界を遮るように、バイク用のヘルメットの庇から落ちていく。 (今日の戦いはいったい何だ?俺は一日何をやってたんだ?これが突撃隊なのか?) 問うたところで結論の出る問題ではなかった。自分の力ではどうにもならない諸条件が重なって、こういう結果になってしまったのである。それが判っているだけによけい腹立たしい。 「あら?あそこで何か動いてる」 いつからか隣に立っていた寛子が前方を指差した。慎一は指差す方向に眼を凝らした。確かに坂の曲がって消えようとする接点に動く物がある。よく見るとそれは人間だった。早足で坂を上がってこちらに向かって来る。男に気付いた他の連中も、動きを止めて彼に注視している。 男の顔が判別出来るところまで来ると一人が声を上げた。 「あれはうちの反戦から出てるレポだ」 レポだと確認された男は、傍まで来るのが待ち切れないらしく、歩きながら大声で叫んだ。 「機動隊だ!マルキが散開して坂を上がって来るぞっ」 全員が視線を坂下に移すと、早くも機動隊が見え隠れし始めている。やがて機動隊は巨大な濃紺の流れとなって、ゆっくりと確実に坂を逆流してきた。だがこちらにはまだ武器が整っていない。素手では完全装備の彼らに対抗する術もない。慎一たちがほとんど素手なのを見て、余裕を持って笑っている奴までがいる。 まるで津波のように彼らは雲霞の如く続いてくる。それに比べてこちらは圧倒的に少数だ。早くどうするか決断を下さなければ、最悪の結果を招く事になってしまう。 「よし。ここは一旦解散して、改めて東急プラザの裏に集合しよう。すぐにだ」 誰かの声に他府県から来た者に場所を詳しく説明している暇もなく、その場にいた全員はヘルメットを脱ぎながら駆け散った。慎一は寛子の手を引き、他の連中が付いて来れる速度で走った。 この頃から雨足が強くなり、容赦なく渋谷の町を徘徊する反戦派の身体を濡らし、体温を奪っていった。 戦う準備が出来る前に現われた機動隊の為に移勤し、移動する事によって人数が減るという悪循環が繰り返され、満足に戦えぬまま確実に戦力(と言えば聞えがいいが)は落ちていった。 東急プラザ裏に集まったのは百五十人に満たなかった。その大部分が東京反戦傘下の顔見知りだ。中に数人反帝学評と書いたヘルメットを被っている者がいる。学生部隊の生き残りだ。というより本隊が東C(東大駒場)に引き上げたのも知らず、迷子になって今まで何処かに潜んでいたのだろう。 もうまともな戦いが出来ないのは誰の眼にも明らかだった。幸い東急プラザ前のロータリーに、機動隊の姿はない。そういった諸条件や精神状態が、慎一たちに最後の行動を取らせた。武器のないままスクラムを組んだ隊列はロータリーに出ると、井の頭線のガードを潜ってハチ公広場に向かおうとした。 駆け足のスクラムは、やがて両手を広げたフランスデモヘと変わり、その直後に待機していた機動隊と衝突かった。強固に組んだスクラムでこそある程度の効果を発揮するが、人数も少なく両手を広げたフランスデモでは自殺行為のようなものだった。衝突かった瞬間に隊列は崩れていた。あとは手当たり次第に捕まえられるしかない。慎一は東急プラザの横に駆け込みながら、寛子が心配になって背後を振り返った。寛子は東急プラザの壁に、数人の機動隊員に押し付けられている。 (寛子…) 一瞬走力の鈍った慎一は、視界の外の脇道から出てきた機動隊員に、いきなりタックルされた。走って来た勢いそのままに慎一は激しく転倒した。耳元を駆け抜けて行く、機動隊の乱れた足音が聞こえる。 (タックルを外して立ち上がったところで、機動隊の中に取り残された以上、何処にも逃げ場所はない) もう一人の自分がそんな事を冷静に考えている。不思議に転倒した痛みは感じなかった。すぐに何人かの機動隊員が慎一の周りに群がってきて、何本もの警棒や蹴りが飛んできた。慎一は身体を丸めて腹を守り、両手で後頭部を守りながら必死に耐えていた。 「もういいだろう」 機動隊員の一人が言い、慎一は両腕を掴まれて引き起こされた。見ると同じ場所で捕まった仲間が十数人いる。よろよろとロータリーヘ連れて行かれる間も、周囲に立っている機動隊員から拳や蹴りが飛んでくる。 (どうやら俺はパクられちまったらしい…) ロータリーに出ると同じように機動隊員に挟まれた仲間が、既に四、五十人並ばされていた。その最後尾に並んだ時、やっとまともな思考能力が戻ってきた。慎一は前の方を見たが、寛子の姿は見当たらない。 (おかしいな。寛子が捕まるのを見た気がするんだが…) 「動くな!」 脇に立っていた隊員が慎一の頭を小突く。その拍子に慎一はいつの間にかヘルメットを取られ、彼の手に握られているのに気が付いた。その機動隊員は慎一の腕をしっかりと掴んで、意気揚々として笑みまで浮かべている。きっと逮捕した事で成績でも上がるのだろう。 (本当にこいつらは『犬』だな) 警備車が来て乗せられるのを待っているのだ、と考えていた慎一にとって思いがけない事が起こった。並んでいる前の方から、順に釈放され始めたのである。何故なのかいろいろ考えて、やっと一つの結論が出た。 (俺たちをここで逮捕しても、今の容疑では道交法違反でしか引っ張れない。素手だったから凶準も付かないし、私服も周囲にいなかったから証拠写真もないはずだ。だから起訴は無理だと判断して釈放するんだ) やがて慎一の番が来た。 「おい、ヘルメットを返せよ」 腕を振り払って言う慎一の言葉に、傍の隊員がいまいましそうにヘルメットを突き返してくる。ホッと安心した慎一の眼の前に、二列に機動隊の並んだ細い道が現われた。慎一の前にいた仲間が、両側から殴られ蹴られしながらも、必死に通り抜けようとしている。慎一も覚悟を決めて細い道に一歩踏み出した。 突き飛ばされる度に身体が両側の機動隊員に当たり、休む間もなく拳で殴られ固い戦闘靴で蹴りが入る。 見ている通行人が極端に少ないせいか、どの拳や足にも渾身の力がこもっている。 (これじゃまるで西部劇に出てくる、インディアンのリンチじゃねえか) やっとの思いで壁を抜けて一息吐いている慎一に、傍に立っていたレインコート姿の男の傘が、いきなり横殴りに飛んできた。傘は油断していた慎一の顔をしたたかに直撃した。男はあらぬ方を見て知らん顔をしているが、明らかに二人組の私服だった。もしかすると東急渋谷駅の降車ホームにいて、慎一の顔を覚えていたのかも知れない。殴られたこめかみを押えて数歩行くと、今度は傘を差した若い男が近付いて来た。 「大丈夫か?」 慎一が頷くと、男は並んで歩きながら言葉を続けた。 「反戦部隊は品川駅山手線ホームで総括集会をしてる。学生部隊は五反田の山手線ホームだ」 それだけ言うと男は慎一から離れて、次に解放された仲間に近付いて行った。井の頭線ガード下の横断歩道を渡り、東横デパートに沿ってハチ公前広場の横にある切符売場まで慎一が来ると、柱の影に寛子が心配そうに立っているのが眼に入った。 濡れた髪が幾筋かの束になって額に貼り付き、家を出る時には真っ白だったジャンパーも、あちこちに薄黒い染みを浮き上がらせている。こちらを見詰めている眼があまりにも可憐だった為に、慎一は恋愛映画の主人公になって再会のワンシーンを演じている錯覚に陥りそうになった。 慎一は寛子と向かい合った。 「捕まったのを見て心配してたんだ。怪我はしなかったか?」 「うん。東急プラザの横で捕まったんだけど、女だと判ったらその場でほっぽり出されちゃった。それで大井の陰に隠れて見てたら、どんどん釈放され始めたんでここで待ってたの」 「関口はどうなった?」 「私はすぐ捕まっちゃったから判らない。でも捕まった人の中にはいなかったわよ」 「俺と一緒に捕まった他の連中は?」 「釈放されるとすぐに切符を買って品川に向かったわ」 「そうか。じゃ俺たちも品川へ行こう」 二人は券売機で切符を買うと、改札を通って品川方面行きのホームに続く階段を上がった。天井から吊られた時計が十時半を指している。ホームに人影は少なく、濡れそぼった二人は否応なく人目を引いた。 酔った三人連れのサラリーマンが、立っている二人に奇異な視線を向けながら通り過ぎていった。 「きっとあいつらは暴力学生だ。俺は暴力は嫌いだぞぉ。暴カハンタ〜イ」 一番酔って真ん中で支えられていた男が、呂律の回らぬ口で怒鳴った。男の声がホームに木霊している。 (冗談じゃない。俺たちだって暴力なんて大嫌いだ。だけど巧妙に仕かけられた一番大きな暴力は、小さな暴力の積み重ねで倒すしかないんだ) 一歩外へ出ると建前と本音、腹芸の横行する社会であり、その半面圧倒的なマイホーム主義者の洪水に出会う。いつも人混みの中で慎一は疎外感を感じていた。それは多かれ少なかれ、戦いの中に身を置いている者であれば、誰もが体感しているはずだった。 肉親を筆頭とする常識の崇拝者に抗して戦いを継続していく為には、自分をそして仲間を信じていなければとても出来る事ではない。例えそれが『暴力学生』という言葉で一括りにされてしまったとしても。 だがその道の何と遠い事か。今日のような未熟な闘争をプロの戦闘集団と繰り返し、負け続け、思考錯誤しながら我々の能力を体得していかなければならないとしたら、いったいどれだけの犠牲者を出せば、この戦いに勝利する事が出来るのだろうか。 二人は無言で電車を待っていた。やがてグリーンに塗られた電車がホームに滑り込んで来た。車内はガラガラにも関わらず慎一と寛子はドアにもたれて、ガラス窓をのた打ちながら落ちていく水滴越しに、後方に去っていく渋谷の灯を眺めていた…。
電車が品川に着くと、ホームの五反田寄りは人が溢れていた。といっても宮下公園の集会に比べると驚くほど少なく、五百名もいればいい方だろう。W反戦の連中が何処にいるのか判らず、捜す気力もなかったので、二人は適当な隙間を見付けてしゃがみ込んだ。雨がホームの外れに座った二人に容赦なく降り注いでくる。慎一と寛子は濡れて色の変ったナップザックから、ヘルメットを取り出して頭に被った。 長かった一日もようやく終わろうとしている。慎一は精神的な疲労と肉体的な疲労が一つの塊になって、身体の真ん中に重く沈み込んでいるような気がした。前方では本村が両手をロに当て何か叫んでいるが、熱心にそれを聞く気力もない。慎一は首をうなだれて、ホームのアスファルトに出来た水溜りに、雨の雫が作り出す波紋を見ていた。 突然ドンと思い切り背中をどやされて、慎一は我に帰った。振り向くと関口が顔一杯に笑みを浮かべて立っていた。寛子も無事な関口を見上げて顔をほころばせている。 「無事だったのね。よかったわぁ」 「それがあんまり無事でもないのや。ほんまにえらい目に会うたわ」 そう言って関口が、沖仲士のように頭に巻いているタオルを指差した。額を覆っている辺りにうっすらと血が滲んでいる。 「頭を怪我してるじゃないか。機動隊にやられたのか?」 「違うがな。もっとしょ〜もないわけがあるんや」 関口の語ったところによると最後にガード下で衝突かったあと、ヘルメットを拾てて機動隊からは逃げ切ったが、その直後に寿司屋から飛び出して来た板前に、履いていた下駄で頭を殴られたという。ここで喧嘩騒ぎを起こすのはやぶ蛇だと、ひたすら逃げるのに専念しているうち、偶然知っているレポに出会って品川まで来たという事だった。 「な、くだらんやろ?まったく消耗するわぁ」 三人で話していると全員の立ち上がる気配がした。総括集会が終ったらしい。慎一と寛子も立ち上がった。 シュプレヒコールがすんでインターの合唱になった時、慎一は寛子の小さな肩を抱きながら、闘争に参加して以来もっとも惨めな気持で歌っている自分を発見した…。
家に帰り着いた時には日付けが変っていた。二人は交代でシャワーを浴びて熱い湯に浸かり、濡れて芯まで冷え切った身体を温め、悪夢のようだった一日の汚れを落とした。青医連に加盟している医者に、治療して貰ってから事務所に帰るという関口とは、解散地点の品川駅で別れていた。 ダイニングキッチンのテーブルに腰かけてから、慎一は自由ケ丘で昼食を食べて以来、何も胃に入れていないのを思い出した。だが不思議に食欲が湧いてこない。前でコーヒーをすすっている寛子に尋ねても、食べたくないと言う。コーヒーで暖を取ったあと、二人は早々に疲れた身体をベッドに横たえた…。
それにしても…、とベッドの中で慎一は考えていた。 (長い時間をかけてあれだけの決意をしておきながら、今日の戦いはいったい何だったんだ?圧倒的に不利になっていく状況の中で、それなりによくやったとは思う。だが相手がいるからどう変わるか判らないとはいえ、戦術を立てる段階で既に俺たちは負けていたのだ。彼我の力量評価は厳格に下さなければならず、その上に立って戦術は決定されるべきものなのに、そういった作業が徹底して行われたのだろうか?もしそうだとしたら、あんな安直な集合場所や闘争目標の設定は行われなかったはずだ。俺たちが決意していたのは突撃隊として、文字通り突撃する為であってそれ以外の何者でもない。確かに何故集合が予定通りにいかなかったのか、徹底的に究明されなければならないとしても、敵の裏をかく兵站とのドッキング、万一の場合の第二目標、第三目標の設定、残存部隊の集合場所、そういったあらゆる考えられる事態に、的確に対応出来る体制を作り上げないまま戦ってしまった事は、これからの闘争に重大な総括課題を残したといえる。俺たちは選ばれた突撃隊だったのであって、渋谷をウロチョロしていただけのピエロではなかったはずだ) 本音を言えば慎一は自分が思いをかける女性を残して、死地に赴いて行く悲劇の主人公を演じ切りたかったのかも知れない。しかし現実は悲劇として完結する事はなく、ピエロを演じさせられてしまったも同様だった。一度走り出してしまった車を停める事も出来ず、その上で悲劇の主人公がピエロに転じていく様を、慎一は一日かけて演じてきたのだった。 それを笑う者は党派には一人もいないに違いない。だが他ならぬ自分自身、一生自分の人生の主役を演じ続けなければならない自分自身が、そしてその人生のもっとも辛辣な観客である自分自身が、今日の出来事を納得していないのである。 (生き様に美学があるとしたら、今日の俺は今までで最大の生き恥を曝してしまった。しかも寛子の見ている前で…) 蒲団の中で何度も寝返りを打ちながら慎一は煩悶していた。夜半を過ぎて屋根を叩いていた雨音もいつしか途絶え、静けさの忍び寄る気配とともに、ようやく慎一も眠りに落ちていった…。
最 終 章
『突撃の日』から既に一週間が経過している。その間、慎一がした事といえば、翌日から重い身体を引きずって事務所へ出勤して無断欠勤を謝り、上司の田中にブツブツ言われながら図面を書き、夜は夜で連日のように行われる集会に形ばかり顔を出してデモには入らず、自宅に戻って小説を読み耽る事だけだった。 本村たちが戦術会議を行なっている階下を避け、二階でベッドに寄りかかりながら高橋和己の小説を手にする時だけが、昼間から機械的に身体を動かしてきた慎一が、やっと自分を自分として意識出来る唯一の時間なのだった。慎一はこの一週間というもの、自己嫌悪、消耗の極に達していた。虚無感に苛まれ、慎一は消耗した時の癖である高橋和己を貧り読んだ。まるで寛子の存在すらも忘れてしまったかのように。そのせいか消耗の深さを象徴してか、何度目かの日本の悪霊を驚異的な速さで読破していた。 寛子は慎一の邪魔をしないよう、下の部屋で会議に出席している連中の世話を焼いている。慎一は今しがた読み終ったばかりの憂鬱なる党派を床に放り投げ、大きく四肢を伸ばして寝転んだ。 リノリュームが貼られた床の、ひんやりとした感触が妙に心地いい。ブロックと杉板で作られた本棚に並ぶ、本の背表紙に眼を遊ばせながら、慎一は一つの事を考えていた。 (要するに俺は心の中で『俺たちがこれだけやるのだから、もしかしたら何かが起る』という、ある種の期待感を持っていたのだ。希望通りにいくのだったら既に革命は成就してるはずなのに、過度な期待を待っていたのだ。そして期待は見事に裏切られ、今は挫折感と消耗の中にいる…) まったくほとんど初歩的といっていいミスの積み重ねが、当初の予定を大幅に変更せざるを得ない闘争展開になって、十五日の戦いは満足な結果も得られないまま、権力の圧倒的な弾圧の前に費え去ってしまったのである。期待の大きかった分だけ慎一の消耗の度合いも深かった。 そんな今の慎一に、もし罪深い人間を一人だけ上げろと言えば、慎一はためらいもなくパンドラの箱を二度も開いた少女を上げただろう。
彼女の罪は好奇心にかられて箱の蓋を開き、『不安』『狂気』『絶望』『不信』などを飛び散らせてしまったあと、中から聞える声にもう一度箱を開けて、『希望』を解き放してしまった事だ。もし罪の深さに怯のき、中から聞える声に耳を貸さなかったならば、彼女はまだ救われただろう。だが直前に犯した罪を忘れ、愚かにも同じ罪を繰り返した事によって、彼女の罪は救われぬほど深いものになってしまった。 『希望』のないところに『絶望』はなく、『希望』のないところに『不安』もない。彼女に与えられるもっとも大きな罪は『希望』を出してしまった事なのだ。 その『希望』に有史以来、どれほどの人間が苦しんできた事だろうか。『希望』が種を蒔いた『理想』に胸を踊らせ、その戦いに敗れてはまた、少女のようにその痛みを忘れ、同じ事を人間は繰り返してきたのだ。 まさに真の意味で人間を堕落させていくのは、唯一『希望』なのかも知れない。『希望』が人間の本来持っている『忘却』と手を組んで人間に立ち向かう時、人間はそれに抗すべき何物をも持ってはいない。 それが新たな『挫折』や『絶望』へ向かうものだという事が判っていたとしても…。
(あれからもう一週間経つのか。明日は安保自動延長の日だから、社会党主催の十万人集会に強制参加する日だ。俺もそろそろ動き始めないと…。いつまでも寛子に心配させてるわけにもいかない) 実際しんどい一週間だった…。
銀座で逮捕された山城が予想に反して三泊四日で出て来てから、すぐに開催されたW地区反戦の集会で銀座の一件が報告された。その経緯は以下の通りだった。 誰が指示したのか、慎一たちが渋谷行きの電車に乗ってしまったあと、ホーム上がって来た機動隊から職質と強制的な身体検査をされ、持っていた小盾を不審物として取り上げられた。 なおも機動隊と小競り合いをしていると、日比谷線直通の北千住行きが入線して来たので、とりあえず機動隊を振り切って全員それに乗り込んだ。 車内で辻や山城たち主立った者が集まって相談した結果、渋谷突入を断念して銀座から国会へ向かおうと決まり、日比谷線銀座駅で降りた突撃隊は地上に出る階段を駆け上がった。 そこは日劇と和光を結ぶ線の中間辺りだった(彼はついに正確な出口が何処だったか思い出せなかった)が、山城が先頭で地上に飛び出した時には既に機動隊が待ち構えていて、彼を含めて先頭集団が十人ほどアッという間に逮捕されてしまった。幸い細い階段を連なって上がっていた辻や他のメンバーは、あと戻りして他の出ロヘ向かい、そこから銀座通りを進んで阻止線を敷いている機動隊に、勇敢にも素手で白兵戦を挑んで全員逮捕されてしまった。 山城は同室になった突撃隊の一人から、自分が逮捕されてからの展開を聞いたと言う。結局山城たち先頭で飛び出したグループは、何もしないうちに逮捕されたので三泊四日で釈放されたが、素手とはいえ白兵戦を挑んだ辻たちのグループは、いまだ拘留されたまま一人も出てきてはいなかった。 関口や慎一の『何故、銀座へ行ったのか?』という問いかけに対して、山城は『銀座から国会へ進撃するのが、一番いいという結論が出たから』としか答えられなかった。慎一たちにしても正確な状況判断が出来ないうちに誰かの指示で渋谷へ行き、十全な戦いが出来ないうちに闘争が終了した事もあって、感情的にはどうあれ山城を責める事は出来なかった。 (結論を言えば、圧倒的な彼らの情報収拾能力と機動力、戦闘力に成す術もなく、徹底的に敗北を喫したという事だ。もう一つ言えば俺たちは闘争相手が人形ではなく、我々が考えるように相手も考え、我々が動くように相手も動けるという事を、充分検討もせずに自分たちの力を過信していたのだ。言葉で語るだけではなく冷静に、彼我の力関係を計算に入れていれば、もう少しましな結果が出ていたはずなのに…)
慎一は一週間かけて、どん底まで落ちた消耗状態から、少しずつやる気を取り戻していた。『忘却』が敗北の傷を和らげ、それに連れて『希望』が次の戦いへの勇気を掻き立てようとしている。慎一はパンドラの箱を開けた少女を呪いながら、苦笑いをして立ち上がった。 ギシギシと階段を軋ませて下の部屋に顔を出すと、寛子や会議をしていた者の眼が慎一に集まった。彼らの中央には東京都の地図が置かれている。下の八畳ある板の間に集まっていたのは、反戦の代表と学生部隊の代表だった。地図を覗き込むと、明後日のデモルートが赤い線で引かれていた。その赤い線にあちこちから引かれた青い線が、何ヶ所かで交わっている。どうやら六月決戦最後の戦いの、細かい戦術を検討していたらしい。慎一は会議の邪魔をしないよう、彼らの背後にいる寛子の横にそっと座り込んだ。 「明日からちゃんと闘争に出るから」 小声で寛子に囁いた慎一の声が、前に座っていた山城にも聞えたらしく、振り返ると嬉しそうに慎一の肩を軽く叩いた。 「助かるよ。明日は演壇占拠を予定してるから、少しでも人数が多い方がいいんだ。産別反戦の連中は各単産の部隊に入っちゃうだろ。だからあんまり人数が動員出来なくて、正直困ってたところなんだ」 「俺一人が参加したくらいじゃ、あまり力にならないかも知れないぜ」 「そんな事ないって」 「私も行くのよ」 やっと元気を取り戻した慎一を見て、寛子の声も弾んでいる。 「明日は関口の元気な顔が見れるな」 何故か山城と寛子の表情が曇ったのを見て、慎一は不思議に思った…。
|
|