そんな友子に関口は惚れたと言う。とても茶化したり、冷やかしたり出来るような話題ではなかった。まったく同じ問題を慎一も抱えているのだ。勿論寛子に対してである。ほとんど慎一と一緒に行動している寛子が、その思いに気付いていないはずがなかった。 それでいながら二人でいる時にも、その事は話題になる事がなかった。一緒に暮しているにも関わらず、いや、だからこそあえて二人とも、その話を避けているといった方が正しいかも知れない。 慎一は明日(そう、もう明日なのだ…)帰らぬ決意で闘争に出て行くのである。 (そういう決意をしてる男から愛を打ち明けられたら、同じ戦う者として寛子は『諾』と言うしかないじゃないか。でもそれは一時的な感情の発露であって、彼女の本当の返事じゃない。明日が終わり、生きて闘争を貫徹して帰って来た時こそ、寛子とはただの男と女として話す事が出来る。そうでなければゴルゴダの丘を登るキリストのように、寛子は俺に打ち明けられた重荷を、一人で背負っていかなければならなくなる) 慎一は関口に触発された自分の感情を、懸命に押し殺していた。赤坂見附から地下鉄に乗っても三人の沈黙は続き、渋谷で慎一と寛子は事務所に帰る関口と別れた。別れる間際になってようやく関口は、『明日はとことん戦こうてやろうで』とだけ言い残し、反戦の事務所に向かうバス停へと歩いて行った…。
自宅に帰り着いた慎一は、玄関脇の植木の根元を探った。大盾を取りに来る兵站部隊の為に、玄関の鍵を隠しておいたのである。指先に硬い物が触れ、元に戻されていた鍵はすぐに見付かった。 扉の鍵を開け、寛子を促して家の中に入る。靴を脱いだ慎一が壁にかかっている時計を見ると、針はもうすぐ九時を指そうとしていた。 「疲れただろ?先にシャワーを浴びちゃえよ」 慎一は脱いだ靴を揃えている寛子に声をかけた。 「うん…」 寛子の口数が少ない。友子が好きだという関口の告白を聞いたので、突撃を明日に控えた慎一も何か言うのではないかと、寛子なりに緊張しているのだろう。寛子が二階に着替えを取りに行っている間に、慎一は引き戸を開けて四畳半に入った。自分の背丈よりも高く積み上げられていた大盾は跡形もなく消えており、ダイニングキッチンの明かりが差し込む四畳半はとてつもなく広く感じられた。 眼に沁みるほどではないが、まだかなり濃い酢酸の匂いが漂っている。カーテンを開いて窓を一杯に開けていると、着替えとバスタオルを抱えた寛子が部屋に入ってきた。 「綺麗になくなってるね」 「あぁ。しばらく開けとけば酢酸の匂いも消えるんじゃないかな。寛子がこの部屋で寝ようと思えば、寝られない事もないと思うぞ」 「いいよ。今日も二階で寝るから…」 思いがけない言葉に思わず慎一は寛子を見たが、電灯の点いていない部屋でシルエットになった、寛子の表情を見る事は出来なかった。 「じゃ、先にシャワーを浴びちゃうね」 身体を反転させて寛子が出て行く。一人残された慎一は、ゆっくり煙草をくわえると火を点けた…。
慎一は熱い湯を頭から浴びていた。先にシャワーを終えた寛子はダイニングキッチンで、遅い夕食の支度をしている。 身体中にこすり付けた石鹸が、頭上から降り注ぐ湯の飛沫によって滑り下り、タイルの上で踊りながらついには排水口から消えていく。湯気で曇った視界を通して、慎一は飽く事なく泡の流れを見詰めていた。 (人生は流れに浮かぶ泡の如し…だったか。自分が生きて来た証しを歴史の上に残そうとして果たし得ず、消えていった人間の何と多い事か。それに比べれば明日の俺は、少しはましというくらいのもんか) これから食事をして蒲団に入る。そして眼が覚めればもう否応なく、戦いの真っ只中に飛び込んでいかなければならないのだ。 その瞬間が一刻、また一刻と近付くにつれて、慎一は自分の感情を持てあまし始めていた。心の中にあって普段はあまり表に出て来ないはずの、いろいろな自分が幾つも出て来て勝手に歩き廻り、先を争うように好き勝手な事を発言する。その度に慎一の心は揺れた。 ある瞬間には勇み立ち、次の瞬間には死の恐怖に震え、子供の頃から印象に残っていた情景が、次々と眼の前をよぎっては消えていく。 慎一は一人歩きを始めた思いを断ち切るように、勢いよくシャワーの栓を締めた。パジャマを身に纏い、濡れた髪をタオルで拭きながらダイニングキッチンに戻ると、テーブルの上には質素ながらも大小の器に料理が盛られ、その向こうにパジャマを着た寛子がちょこんと座っていた。 「おっ、美味そうじゃない」 「買物して来なかったでしょ。冷蔵庫の中を見たんだけど、あまり大した材料がなかったから、こんな物しか出来なくて…」 「いやぁ〜、これだけあれば文句ないよ」 寛子は心底すまなそうな顔をしていた。確かに予定通りに明日の闘いが終われば、この食事が慎一が自宅で食べる最後の夕食になるはずだった。 「冷蔵庫にビールが入ってたけど飲む?」 「うん、いいね」 寛子は傍にある冷蔵庫を開け、二本だけ残っていたビールを取り出した。 「何に乾杯しようか?」 注いでくれるビールをグラスで受けながら慎一が訊くと、しばらく小首を傾げて考えてから寛子が答えた。 「じゃ、明日の為に…」 ビールの満たされた二つのグラスが鳴った。 (特攻隊が水盃を飲んだ時の気持もこんな感じなのかな…) 慎一はずいぶん昔に見た記録映画を頭に描いた…。
白い傷の無数に飛び交う赤茶けたフィルムの中では、秩序よく並べられた零式戦闘機をバックに、日の丸の鉢巻を締めた若い隊員が茶碗を持ち、司令官とおぼしき中年男の持つ一升瓶から注がれる酒を、畏まって両手で捧げた茶碗に受けていた。やがてまだ幼顔の残る彼らは一気に酒を飲み干すと、振り向きもせずに駆け足で零戦に乗り込み、ゆっくり振られる軍帽の見送りを受けて、帰る事のない飛行に出発していった。 一転して画面は米艦船からの画面へと切り変わった。空を真黒に染める弾幕の中をただ一機、蚊のように小さな零戦がよたよたと飛んでいる。無数の弾丸が光跡を描いて零戦へと集中し、すぐに火を噴いた零戦はバラバラになってきりもみしながら、海面に落下して小さな水柱を立てた。 (あの瞬間に一人の人間が『国』という名の下に確実に死んでるんだ) しかしフィルムには乗っているはずの人影が映る事もなく、もう飛行機とは呼べなくなった残骸が、海へゆっくり落下していく様子を何度も何度も映し出していた。 残っているビールを一息で胃の中に流し込む。こんな味だったかと思うほどにビールは苦かった。グラスを置いた慎一は、眼の前に座る寛子に視線を戻した。湯上がりの為なのかビールのせいなのか、上気した肌が灯りの下で輝いて見える。 (奇麗な素顔だ) 心底慎一はそう思った。寛子はいつもの寛子ではなかった。普段二人でいる時は笑い声や会話が絶えないのに、今夜の寛子はビールを飲み始めてから、ずっと無言のままだ。寛子はテーブルの上に置かれているグラスに、そっと触れている自分の指先を見詰めている。 沈黙が続けば続くほど寛子に対する思いが、息苦しいまでに慎一の中で激しく膨らんできた。 (このままでは寛子を抱き締めてしまう) 抱き締めればたぶん寛子は、悲しそうな眼をしながら慎一を受け入れてくれるだろう。 (しかし明日からはどうだというのだ) やっと絞り出すように慎一のロから出た言葉は、 「明日は頑張るから…」 という一言だけだった。ようやく顔を上げた寛子は、慎一を見詰めて小さく頷いた…。
蒲団に潜り込んでからも、慎一はなかなか寝付けなかった。心臓の動悸が速くなり、身体の中を血液が駆け巡っているのが感じられる。上のベッドで寛子はもう寝てしまったのか、寝返りを打つ音すらしない。 蒲団に横になってから何度上のベッドを見上げ、寛子の一糸纏わぬ肢体を思い描いただろう。慎一にしても女性経験がまったくなかったというわけではない。むしろ同じ年令の者と比べれば、早い部類に入るだろう。だがそれは好意を持ってくれた相手に恥をかかせまいとした結果であり、今まで自分が本当に好きになった女とそういう経験をした事が一度もなかった。 それが寛子に対する逡巡となって現れているのかも知れなかった。 (そうなのだ、俺は恐がっている。例え九分九厘大丈夫だと思っていても、残りの一厘が不確定要素として存在する限り、俺は寛子に愛を打ち明ける事は出来ないだろう。傷心を抱いての独房生活なんか続けられっこない、だからなんだ。だけど…) 慎一は意を決してベッドを抜け出ると、そっと立ち上がった。ちょうど眼の高さに寛子が寝ている。明り取りの小窓から入る月の光が、寛子の顔の輪郭をくっきりと浮かび上らせている。 (寛子の顔を、この眼にしっかりと焼き付けておきたい) そうすれば闘争と逮捕に続くであろう長い独房生活にも、あるいはもっと最悪の場合に遭遇しても、寛子の面影を糧にしていれば耐えられそうな気がした。慎一は飽きる事なく寛子の横顔を見詰めた。ゆっくりと規則正しく、寛子の身体を覆う掛け蒲団が上下している。 (奇麗だ…) 無意識のうちに慎一の手が伸び、そっと寛子の頬に触れた。寛子は眼を閉じたままである。指先はゆっくり頬から唇へと移勤していった。手に暖かな寛子の寝息がかかってくる。そこで慎一は危うく自制した。 傷付いた心を抱えて戦いたくはないという、自己防衛の為だけかどうかは知らず、寛子を抱き締めては駄目だというのが、今の慎一にとっては一つの強迫観念になっていた。 慎一は静かに手を離すと、物音を立てぬよう注意しながら、再び自分のベッドヘと戻った。しかし慎一は気付いていなかった。寛子の瞼に涙が浮かび、ゆっくりと弧を描いて枕に落ちたのを…。
第 五 章
暗黒であったはずの空が、いつの間にか気が付かないほどの緩やかさで群青に変り、その色が加速度的に薄白色に変化していくのを、浅い眠りから覚めた慎一は小窓から見詰めていた。 やがて空の変化に呼応して目敏い一羽の雀が鳴き声を上げると、それまで静寂に覆われていた辺り一帯が、みるみるうちにかびすましい雀の声に占領されていった。 太陽の光は空全体を埋め尽くした薄い雲に遮られ、地表に降り往ぐ事も出来ぬまま中空を彷徨っていた。 (また新しい一日が始まる) そしてその一日は慎一にとって(同じ党派の同志にとっても)、一生忘れられぬ一日になるはずだった。 (ドピーカンでないのが、如何にも俺たちの門出らしいか…) 作り付けの二段ベッドに横だわったまま、慎一は外界の音に耳を澄ませていた。窓の外をガチャガチャと瓶の当る音を響かせて、牛乳配達の自転車が通り過ぎて行く。立ち止まりながら駆け過ぎて行く足音は、栗田と同じ新聞配達だろう。時折聞えていた表通りを通過する車の音も、じょじょにその数を増していく。 夜が明けるとともに、死んだようにベールを被っていたはずの生活が次第に動き出し、慎一たちの思惑とは別のところで昨日と変らぬ日常が、したたかに活動を始めているのに慎一は軽い恐怖を憶えていた。 (この国には一億以上の人間が住んでいる。例えそのうちの新左翼全部が決起したところで、大勢はまったく変わらないかも知れない) しかも今日突撃して戦うのは、千人に遙かに満たない者たちだけなのだ。いったいそれだけの人間で何が出来るというのだろう。 (しかしやらなければならない。俺たちは革命に続く捨て石なのだ) かくめい、カクメイ、革命…何と心地よい響きを持った言葉だろう。だがそれは同時に絶望へと向かう、大きな危険を孕んだ言葉でもある。有史以来、どれだけの人間がこの言葉に魅せられ、踊らされ、生き方を狂わせ、死んでいった事だろうか。 (偉そうな事は言えない。俺もその魅惑的な言葉に魅せられた一人なのだ。確かに仲間はいても俺はたった一人の為の革命ー外ならぬ自分自身の為の革命ーを目指しているのだ。たぶん参加するすべての者が、自らが創り上げた革命のイメージを追い求めて戦うのに違いない。戦いの場では大衆の存在など、意識の彼岸に追いやられてしまうのだ) 革命に続く為の捨て石と自分一人の為の革命、あとに続くであろう労働者階級への期待と、決起せぬ労働者階級への憎しみというパラドックス、コミュニストであろうとする自分とアナーキストでありたい自分、二つの極の間で大きく振れながらも、とにかく今日まで戦って来た。 (突撃隊に参加する事を受け入れた俺は、いったいどっちの俺だったんだ?) 慎一は明るさを増した朝日を横顔に受けながら、寛子の寝ている上のベッドの板裏を見詰めていた。覚え込んでしまったはずの板目模様だが、時によって思いもかけない形が見えてきたりして飽きる事がない。 だが今朝の慎一は眼だけ板裏に遊ばせながら、まったく別の事を考えていた。 (どっちの自分がやる気になったにせよ、自分には変わりがないんだ。要するにやるっきゃないって事か…) 日によって強気になったり弱気になったりが、バイオリズムのせいか多少ともあるのだが、今日は強気の方らしいのがせめてもの救いだった。 (まぁ、あとで後悔するような戦いだけはしたくない) 慎一は大きく身体を反らせて伸びをしてから、音のしないようにベッドから抜け出した。ゆっくり着替えて階下で顔を洗っていると、二階で目覚まし時計の鳴る音が聞こえた。それにつれて寛子の起き出す気配も伝わってくる。ポストから新聞を取ってきた慎一が大盾もなくなって、自由に使えるようになった四畳半で読んでいると、二階から下りて来た寛子が顔を覗かせた。 「おはよう。顔を洗ったらすぐに朝食を作るわね」 「まだ時間はたっぷりあるんだから、あんまり急がなくてもいいよ」 「うん、わかった」 新聞には一面から、日米安保条約に関する記事が載っていた。このところどの新聞も大阪万博ではなく、安保関連の記事で持ち切りである。自動延長が近付くにつれ段々と記事のボルテージも上がってきている。 社会面を見ると今日一部の新左翼が、渋谷を目標に過激な行動を起こすと書いてあった。下の方を読んでいくと、対応策に追われる地元商店街の様子が、写真とインタビュー入りで掲載されていた。 (何処か他でやってくれだと!自分の眼に見える形で被害が及ばなければ、何が起ころうと関係ないとでも言うのか。こんな連中ばっかりだから、自民党にとっては政治のやり易い国だろうよ、日本て国は…) 慎一が新聞を破り捨てたい衝動に駆られた時、ちょうど寛子が部屋に入って来た。湯気の立つコーヒーカップを二つ手に持っている。一つを慎一に手渡しながら、寛子は隣に座って新聞を覗き込んできた。 「何か面白い記事載ってる?」 「いや、毎度お馴染のちょうちん記事だけだ」 読み終えた新聞を寛子に渡すと、慎一はコーヒーを飲むのに専念した。僅かに甘い味がする。インスタントをブラックで飲むのが苦手な慎一の為に、寛子がちゃんと砂糖を入れてくれたのだ。 (ペンは武器より弱い事が証明されたってわけだ。幾つかある俺たちに好意的な大衆誌も、読者を当て込んで右翼が金を出してるって話だし、学校で教わった三権分立にしても今から考えれば嘘ッパチだったし、ここまで四面楚歌だとかえって気が楽だ) 「ひっどい事が書いてあるのね」 「現体制を維持する為に、新聞だって政府に肩入れしているんだから、そんなもんじゃないか」 新聞から顔を上げた寛子と眼が合った時、慎一は頬に触れた感触が指先に蘇ってくるのを感じた。窓から吹き込んで来る朝の風は、およそ曇空に似つかわしくないほど爽やかで柔らかかった。 朝食にとせっかく寛子が作ってくれたハムエッグだったが、テーブルの上に並べられた食べ物を見ているだけで、慎一はどうしても喉に通す事が出来なかった。 (緊張のあまり胃が縮まって食い物が入らないんだ。俺も土壇場に来て案外と気の小さい男だったんだな) 慎一の顔に一瞬浮かんで消えた自嘲的な笑いに気付かず、寛子は食の進まない慎一を本気で心配していた。 「ねぇ。ちゃんと食べておいた方がいいわよ。それじゃないと…」 「あぁ、判ってる」 寛子が何を言いそびれたのか訊くまでもなかった。 (今のうちに食事をしておかないと、あとはいつ食べられるか判らないものな。寛子がどんな気持で作ったのか考えると、何とか少しでも食べなければ…) それでも朝食の終わったテーブルの上には、かなり多くの惣菜が残ってしまった。いつものように会話も弾まず、食の細い慎一を見ていて、寛子は不安になってきたらしい。 「大丈夫?身体の調子が悪いんじゃないの」 「そんな事ないよ。ただちょっと緊張してるだけさ」 「本当に大丈夫なのね?」 「心配するなって。それより今日はお前の分まで、頑張って戦うから期待してていいぞ」 一本抜き出したロングピースに火を点けながら慎一は言った。その言葉を聞いてやっと寛子は安心したのか、微笑んで食器の片付けを始めた。キッチンに器を運んでいる寛子の後ろ姿を見ながら、いつまでもその場に座っていたい衝動を断ち切って、慎一は勢いよく立ち上がった。 眼には見えないけれど、椅子には実体が立ったのにも気付かず、女々しく怯えている自分自身が、いまだに座っているようだった。 慎一は洗い物をしている寛子に声をかけてから二階へ上がった。とりあえず支度の第一段階として、新しい下着に着替えておこうと思ったのだ。普段のコットンパンツを穿きかけて思い直し、破れ難いジーンズを穿いた慎一は、Tシャツの上にデニムの長袖シャツを着ると、同じデニムのジャンパーを羽織った。 (青ずくめになっちゃったけど、この方が動き易くていいか) 綿の白いソックスを穿き、最後にタンスを引っ掻き回して、ようやく晒し布を奥の方から見付け出すと、それを持って一階に下りた。 キッチンに寛子の姿は見えず、四畳半に入っていくと彼女は、テーブルの前に座ってテレビを見ていた。 画面の中では男女二人のレポーターが、何やら大仰な身振りで話をしている。注意して聞いていると、慎一も名前だけは何度か耳にした事のある、アイドル歌手の恋愛問題だった。 昼過ぎだけだろうと思っていた主婦好みの番組が、こんな朝からもう始まっているのだ。 (誰と誰が付き合おうと関係ないじゃないか、ばかばかしい…) 一方では生死を賭けた闘争が始まろうとしており、一方では相も変らず怠惰な日常が続いている。そしてそのしたたかな日常を支えている膨大な数の主婦層。自分を怠惰な日常の中に置き、他人のスキャンダラスな話題を、鵜の目鷹の目で漁っている猛禽類のような一群。 (本当の敵は機動隊などではなく、彼女たちの精神に巣食っている怠惰の中にこそある。例えそれが権力の意図によって蝕まれ、洗脳されたものであろうとだ) まさに世の中の『常識』という巨大な怪物を育て、支えているのは彼女たちではなかったか。かつて『常識』というものが、人民の側に立った事があっただろうか? 否!断じて否! 人が『神』を産み出した瞬間から『常識』は生まれ、『神』は人間の究極的偶像として外在化され、悪しき双子のように『常識』は諸個人の中に、深く重く沈み込んでいったのではなかったか。 そして『神』は常に権力の陰の味方であり続け、『常識』はそれを外側から支え続けてきたのだ。 (すべての物を焼き尽くし、荒野にしてしまう事によってしか、真の人間の再生は勝ち取れないじゃないか?そう、破壊こそ唯一の建設的行為なのだ。そして俺たちはようやくその端緒に手をかけようとしている) 一言も喋らずに突っ立っている慎一が心配になったのか、流し台に向かっていた寛子が振り返った。 「どうしたの?さっきから少しおかしいわよ」 「どうもしない。ただ、やっとここに来て俺たちの本当の敵が、少しずつ見えてきたような気がするんだ」 「本当の敵って、いったい誰の事なの?」 「俺の考えがもう少し纏まったら、そのうち寛子にも話すよ」 確かに今までも『日常』という言葉が何度も語られ、『日常性からの脱却』と言われてきた。しかし突撃する今という今になって、やっと言葉の本当の意味が理解出来たように慎一は感じていた。 (敵は大きい。あまりにも大きい。そしてその敵は程度の差こそあれ、自分の中にも住んでいる。罪の意識も感じずに。だからこそ戦わなければならない、戦いの中で権力と自分を対置する事によってしか、本当の自分は発見出来ない) まるで風車に挑むドンキホーテのように、それは果敢ない戦いなのかも知れない、しかしドンキホーテが相手を風車だと知っていて、虚無感に苛まれながらもなおかつ戦っていたのではないとは、誰にも言い切る事は出来ないのだ。 (ドンキホーテはたった一人だったが俺は一人じゃない。そうなのだ。こちらには万余に及ぶドンキホーテがいる。しかもまだまだドンキホーテは増えていく。俺たちの戦いを通して増やしてみせる。権力がこの世に存在する以上、俺たちもまた存在し続ける。今の俺たち全員が死に絶えても、次の俺たちが現われて戦いを引き継いでいくだろう。そしていつの日か権力は、俺たちの手によって倒される日が来るのだ) 「何か今日はちょっと力んでるみたいだ」 「えっ、何?」 「いや、何でもない。それより寛子、こっちに来て晒し布を巻くのを手伝ってくれないか」 「いいわよ」 濡れた手を拭いた寛子が傍らに着て膝を着き、手渡した晒し布を巻こうとするのに合せて、慎一はシャツを捲り上げた。 「そうだ、週刊誌を入れておかなきゃ。そこら辺に適当なのが転がってない?」 「ちょっと待ってて」 晒し布を置いた寛子が、週刊誌を見付けて戻って来るまでの間、慎一はなす術もなくシャツを捲り上げたまま待っていた。四畳半に置いてある母の鏡台にそれが映っている。我ながら実にみっともない姿だった。 「お〜い、どんなのでもいいから早く持って来てくれよ」 ようやく寛子が週刊誌を二冊持って来たが、シャツを上げたままの慎一を見て笑いをこらえている。 「頼むから早く巻いてくれ」 慎一は照れ臭さも手伝って、持って来た朝日ジャーナルが読みかけであるのにも関わらず、早く巻込んでくれるよう催促した。 「まるでヤクザの出入りみたい」 慎一の周囲を回って晒し布を締めながら、寛子がポツリと呟いた。 「命を賭けて喧嘩するって意味じゃ、ヤクザの出入りと同じようなもんだ」 腹に何かをきつく巻くというのは気分が引き締まるものだと、慎一は何か新しい事を発見したような気持ちだった。シャツをジーンズに突っ込んでベルトを締めてから、朝日ジャーナルの入った辺りを少しきつく叩いてみたが、鈍い衝撃を感じる程度でなるほど痛くはない。 「本当に気を付けてね」 膝を着いたまま見上げるようにして言った寛子の言葉が、慎一の心の中に深く染み込んでいった。 「あぁ、気を付けるよ」 寛子の視線に耐えられなくなった慎一は、顔を背けるようにしてやっとそれだけ答えた。そうでもしなければ、蘇りつつある昨日の夜の感情に、また溺れてしまいそうだった。 (今が自分の心を打ち明ける、最後のチャンスかも知れない) 寛子もそれを期待しているのではと心の何処かで思いながらも、慎一はついにその一言が言えなかった。 (俺も相当なエエカッコシイだな) 自虐的な気分が心を占めていくのに逆らいもせず、慎一はただその場に立っていた…。
時折床の軋む音が頭上から聞ごえてくる。二階で寛子がデモ用の服に着替えている音だ。突撃隊が自由ケ丘を出発するまで見ていたいと言う寛子の希望を入れて、一緒に集合地点へ行く為の支度が出来るのを慎一は待っているのだった。 ダイニングキッチンの椅子に腰かけて、つい今しがた飲み終わったばかりのコーヒーカップが、向い合って並べられているのを慎一はぼんやりと眺めていた。頭の中では今日の大雑把な行動予定が、目まぐるしく回転していた。 (全学連と反帝学評の部隊は、今頃東C(東大教養学部)で決起集会をしてるはずだ。それから決められた時間に東Cを出て渋谷に突っ込む。反戦の部隊は突撃隊を除く全国動員での集会が、もうすぐ渋谷の宮下公園で始まるはずだ。突撃隊は自由ケ丘から一気に渋谷に出て、学生部隊と戦っている機動隊を背後から挟撃してこれを殲滅する。それからは何処まで進撃出来るかだ…) もうすべての部隊が戦いに向かって各所で動き始めている。それが第一目標である渋谷を目指して集結しようとしている。戦いは相手もいる事だし予定通りにいくわけもないが、突撃隊や学生部隊が費え去るまで今日の戦いは続くに違いなかった。 戦いの瞬間が刻一刻と近付くにつれ、慎一の神経は異常なほど鋭敏になってきていた。それはまるでコロシアムから聞こえてくる歓声を聞きながら、自分の出番を待っているローマ時代の戦士のよう気分だった。 慎一は現存するすべての権力、すべての制度、すべての常識、すべての上下関係、すべての差別、そして戦いに敵対しようとする、すべての人間を憎悪していた。その憎しみは自分のはやる気持を、戦いまで待つ時間があればあるほど、強く深くなっていった。 (俺は今、寛子が下りて来るのを待っている。それから突撃の時間を待ち、逮捕されたあと釈放されるのを待ち、裁判が終るのを待ち、革命が起るのを戦いながら待つのだ。いや、俺は子供の頃からいつだって何かを待っていた。ある時は母の買ってきてくれるプレゼントだったし、ある時は何の為になるかも判らない試験の結果だったりした。そうしていつも誰かが…そうだ、決して自分ではない誰かが、何かしてくれるのを待つように慣らされてきたのだ。君の為だという言葉を信じて。だがもう俺は騙されないぞ。すべてを待つよう馴らされていく世の中に抗する事に決めたのだ) 感情が激した自分をもう一人の自分が見ていて、冷静にならなければまともに戦えないぞと耳元で囁く。 (確かにこのままの気持で闘争に出てってはまともに戦えっこない。怒りの感情に搦れていては、権力に効果的な打撃を与える事が出来なくなる。何とか気分転換しなければ…) 慎一は立ち上がって四畳半に置いてあったナップザックを持ってきた。今日の闘争に必要な物が入っているのだが、もう一度それを点検しておこうと思い立ったからである。 チャックを開けて中に入っている物をテーブルの上に広げる。まずヘルメットがあった。それも普段使っている工事用のヘルメットではなく、突撃隊用にとW反戦の連中がカンパし合って買ってくれた、オートバイ用のヘルメットだった。皮の耳当てが付き、顎の下でベルトで締めるようになっている、頑丈なヘルメットだ。それから数回洗って糊が取れたばかりのタオルが三枚、いつもより一枚多いのは、自分に限らず誰かが負傷した時の応急手当用である。それにバンドエイド、ティッシュが少し。ナップザックの中身はそれだけだった。 (パクられたら絶対に完全黙秘。救援センターの弁護士に連絡してくれるよう、しつこく何度でも要求する事。接見があったら弁護士にだけ住所氏名を言う。出られるチャンスは三泊四日、十三日目、二十三日目。それでそ出られない時は起訴された事になる。救援センターの電話番号は591−1301、ゴクイリイミオーイ。弁護士名はS弁護士を依頼する事。オッケー、全部覚えてる) 暗唱しながらテーブルの上にある物をナップザックに戻していると、階段が軋んで着替えを終えた寛子が 下りてきた。ジーンズに白いコットンジャンパー姿で、下げたチャックの間からピンクのシャツが覗いている。慎一の視線を浴びて、寛子はちょっとはにかんだような表情を浮かべた。 「これじゃ少し目立ち過ぎるかなぁ」 「完全なデモスタイルより、隊列が崩れた時にはその方が、見物人の中に紛れ込めていいんじゃないか」 「今日は私、あんまり逃げ回りたくない。皆と一緒にとことん戦いたいのよ」 「今になって無理言うなよ。そんな事されたら逮捕された連中を、外から支えていく人間がいなくなっちゃうじゃないか」 慎一は寛子が獄中に繋がれているのを、想像するのもいやだった。 「でも…」 「残された方が実際の話大変だと思うよ。今度の闘争が過ぎれば権力の嵐のような弾圧が、俺たちの党派にかけられてくるのは眼に見えてる。そんな中で獄中の被告を支援し、権力とも戦っていかなければいけないんだ。俺たちが戦線に復帰するまで、どんなにしんどくても寛子たちは戦わなければならないんだぞ」 「判ってる。判ってるわよ」 「だったら…」 「私だってそんな事は判っているのよ。でもね、何故女が突撃隊に入って戦っちゃいけないの?」 慎一を始め社青同解放派に属している労働者や学生に取って、明暗を分ける(であろう)一日とあっては、普通の精神状態でいろという方が無理だった。 寛子にしてもその例外ではない。 「体力的に同じ動きが出来ないくらい判るわ。迅速な行動を要求される今日のような日は特にね。女性差別だなんてトンチンカンな風には考えてないし、自分たちに大切な任務がある事だって判ってるけど、やっぱり最前線で戦いたいと思っちゃうのよ」 「俺は反戦青年委員会っていう組織は、絶対残していかなきやいけない組織だと思ってるんだ。俺みたいなどっちかというとコミュニストというよりアナーキストに近い人間まで、一緒に戦える組織なんて他にないよ。確かに党派の一つだけど、一番全共闘みたいな体質を持ってるもの。学生にだって感性派ってヘルメットに書いて戦ってる奴がいるし。俺たちの戦いをプロパガンダして、もっと戦いの輪を大きくしていく人間がどうしても必要なんだ。その一人がお前なんじゃないのか。寛子は決して日和っているわけじゃないんだぞ。一番しんどい戦いをしなくちゃいけない部隊の一員なんだ」 眼にうっすらと涙を溜めて、弱々しく頷く寛子の肩に慎一は手を載せた。小さく華奢な肩だった。 「少し早いけど自由ケ丘へ行って、何処かで待機してようか。何せ午後一時から十分間しか集合時間はないんだからな」 勤めて明るい声で言い、元気付けるように肩を軽く揺すると、寛子はやっと笑顔を見せた。 「じゃ、私も荷物を持って来る」 二階へ行った寛子が自分のヘルメットの入った、赤いナップザックを持って下りてくる来るのを待って、二人は外へ出た。扉の鍵をかけると、慎一は自分のキーを寛子に渡した。受け取る寛子の表情が複雑だ。 (どうせまた表通りには、機動隊員が立ってるんだろう) そう思いながら紬い路地を通ってK通りに出ると、案の上反対側の歩道に濃紺の乱闘服を着た機動隊員が一人立っていた。路地から出て来た二人を認めると、彼は肩に下げていたトランシーバーをロに当てて交信を始めた。丸く膨らんだナップザックを持った軽装の男女(それも男は長髪だ)となれば、これからデモに行くと見当を付けるのは当然だった。そして彼の推量は当っていた。 K通りは都心に向う幹線道路という事もあって、五十メートルくらいの間隔を取って機動隊員が配置されていた。初めて彼らがK通りに立っているのを眼にしたのが、去年の10.21国際反戦デーの時であり、それ以来大きなデモがある前日から彼らが立つようになったのである。それは慎一の家で党派の秘密会議が行われたり、デモのレポセンターに利用されるようになって、半年も経った頃からだった。ほとんど同時に電話にも、おかしな雑音が入るようになった。かかってきた電話を取って少し話すとカチャッと音がして、急に相手の声が小さくなってしまうのである。 (これは絶対に盗聴されてる。何処かで分線が繋ってるはずだ) 全電通のメンバーを合む反戦の仲間で、何度か自宅から続いている電話線を、電柱から電柱へと探してみたが、巧妙に隠されたそれを発見する事が出来なかった。ついには全共闘の理工学部の者まで呼んで調べたが結果は同じだった。 しかし逮捕された秘密会議に出席していた人間が取調べの席で、刑事から会議に出た者しか知らないはずの電話の内容を言われた事から、盗聴されているのは確実だと判明した。 それ以来W地域反戦では、電話で使用する個人名はすべて暗号に変えた。五人ごとの幾つかの班に分け、それぞれにギャップを決めてA班、B班という具合にし、一から五番までの番号を付けたのである。 最初のうちこそ多少混乱したが、この頃は何とか人と番号が一致するようになっている。ちなみに慎一はBの一、寛子はAの一である。 二人は機動隊員の粘り付くような視線を感じながら、K通りを横切って駅へ向かった。駅の構内にも五、六人の濃紺の一団が、ニケ所に立って改札を出入りする人間を見張っていた。その中の一人が慎一と寛子を認め、近付いて来ようとしたが何故か年長の者に止められ、二人は無事に改札を通過する事が出来た。 この駅にまで機動隊が配置されている事と、二人を顔色も変えず通過させた事に、権力の並々ならぬ自信を感じて、慎一は多少の気後れを抱いた。 (こいつらは俺たちの戦いなんか屁とも思ってない。せいぜい来るべき戒厳令の時の演習くらいにしか、こいつらは感じていないのだ) 怒りと屈辱感に苛まれながら、慎一は自由ケ丘方面へ向う電車のホームに上がって行った。ラッシュアワーを過ぎてかなり経っているせいか、ホームにたたずんでいる人間は疎らである。横浜方面へ向う電車を待ちながら、慎一は知った顔がいないか見回してみたが、さすがにこの早い時間では誰もいなかった。 (あのベンチに座っているのは私服だ…) まったくテレビに出てくる刑事のような、トレンチコートを着た二人組がベンチで新聞を広げている。目立だないはずの格好がテレビによって類型化され、またそれによって本物の刑事がその格好に成り切っていくという、コマーシャル渦の典型的なサンプルがベンチに座っていた。たぶん通り過ぎる電車に乗っているかも知れない過激派や、地下鉄に乗り換える連中を求めて、彼らはずっとそこに腰かけていなければならないのだろう。油断のならない眼付きで、電車を待つ素振りも見せず辺りを窺っている。 「見ろよ。あいつら絶対私服だぜ」 「本当。テレビに出てくる刑事にそっくりね」 階段の手摺に凭れてそんな話していると、横浜行きの電車がホームに滑り込んで来た。二人はドアが開くのを待って電車に乗り込んだ。慎一と寛子が乗ったのを見届けた一人が、独り言のように口を動かしている。 「今日の警備は凄いわね。いたるところにオマワリがいるもの」 後方に去っていく私服を見詰めながら寛子が言った。 「それだけ俺たちの党派が、権力に評価されてるって事じゃないかな」 移りゆく景色を眺めながら慎一はそう答えたが、実際のところは俺たちの闘争に名を借りて、戒厳令のテストをしているように思えてならなかった。慎一の聞いた話では今日は中核派やブンドといった党派は動かないが、フロントと若干のノンセクト・ラジカルが、同調して決起するという事だった。しかしほとんど解放派独自の戦いになるといって過言ではない。 (二十三日自動延長の日では遅過ぎる。今日の十五日でなければ俺たちの戦う意味がない) やがて電車は自由ケ丘に着き、降りる人々と一緒に二人は吐き出されて改札口を出た。駅前のロータリー中央には丸い花壇が設えられ、何台かのバスと客待ちのタクシーがいるだけで割りと散開としていた。 不思議と機動隊の姿は見えなかった。彼らに情報が入っていないはずはなく、集合時間にまだ間があるからだろうと慎一は思った。時間があるという意味では慎一たちも同じである。家にいたたまれず早く出てきたからといって、慎一と寛子に自由ケ丘でする事は何もなかった。 二人は駅前ロータリーの反対側にある不二家の脇の道に入った。とりあえず喫茶店でコーヒーでも飲んで、少しでも時間を漬そうと思ったからだった。脇の道を入ったすぐ右側に三咲と何回か入った事のある、ファイブ・スポットというジャズ喫茶があったのを覚えていた慎一は、寛子を促すと店へ続く階段を下りて行った。土日はジャズのライブがある為か、階段の壁には色とりどりのバンド紹介のポスターが、ところ狭しと貼り巡らしてある。自動ドアを抜けて店内に入ると、あちこちに散在するテーブル席の中央に、グランドピアノが置かれていた。 二人は万一に備え、入口が見えなおかつ非常口に近い奥の方の席に着いた。席に着くのを待ち兼ねたように、ボーイが注文を取りに寄って来た。まだ開店したてのせいか客よりボーイの方が多い。 コーヒーを二つ注文してから、慎一は改めて店内を見渡した。吹抜けになっているのか、アルミサッシ越しの中庭に、弱いながらも日の光が射し込んでいる。その光が慎一の前に腰かけている寛子の横顔を、くっきりと浮かび上らせている。 (よく光が回ってるし、ポートレートを撮るには、理想的なレンブラントライトだ) 流れている音楽はジャズだというのが判るだけで、ジャズに興味のない慎一には何の曲か判らなかった。 ただ閑散としている店内に相応しく、スローなナンバーではある。それが眼の前に座る寛子のイメージによくマッチしていた。日吉にある綜合写真専門学校に通う友人が多かった慎一は、それに触発されてカメラに非常な興味を持っていた。そのお陰で今年の始めには寛子を横浜まで連れ出して、山下公園や三渓園でポートレートを撮り捲くったほどである。出来上がった写真を見た地域反戦の連中は、普段の戦闘的な寛子とはかけ離れた、素直で自然な表情を浮かべている寛子に、誰もが感嘆の声を上げたものだった。 (ここにカメラがあったなら、この寛子の表情を永遠に写し撮っておけるものを…) だが手にあるのは、これからの戦いに必要な、ヘルメットやタオルだけである。幾ら望んでも寛子の写真が撮れるはずもなかった。 (いつか寛子の写真を、ゲップが出るほど撮り捲くってやる。そして…) 慎一の思考は、ボーイがコーヒーカップをテーブルに置く音で中断された。ジッと慎一の様子を見ていた寛子が、微笑みながらカップに砂糖を入れてくれた。スプーンに一杯半。慎一の適量である。他の仲間から可愛い顔をして男勝りと言われている寛子の、時折見せるさり気ない繊細さは、慎一だけが知っているものかも知れない…。
当り障りのない言葉を交わしながらコーヒーカップが空になる頃、時計の針は十二時少し前を指していた。 そろそろ軽い食事をしておいた方がよい時間である。二人はレジで金を払うと階段を上がって外へ出た。 駅前のロータリーに戻ると、その風景は一変していた。何台もの警備車が花壇を取り巻くように停まり、幾つもの分隊に別れた機動隊が、あちこちの路地に向かって小走りに移動している。改札口は既に機動隊で埋まり、厳重な検問が始まっている。まるで自由ケ丘駅周辺が、機動隊によって占拠されたようだった。 「凄いな」 権力といつも渡り合い、見慣れているはずの彼らの機動力に、二人は今更ながら圧倒されていた。 「とにかく食べるものを食べましょうよ」 「そうだな。腹が減っては何とやらと言うからな」 駅には向かわず慎一と寛子は、むしろ逆行するように裏道に入り込んだ。さすがにそんな細い路地まで機動隊はいなかったが、路地を通して見る大通りには、小隊ごとに駆け抜けて行く隊列があった。あまり歩き回っていると、よけいな職質(職務質問)を受ける可能性があるので、二人はとある交差路の角にある、軽食&喫茶と書かれた店に滑り込んだ。 慎一は出されたお絞りで手を拭いながら、無意識に同じ言葉を繰り返した。 「凄いな。これは極地的な戒厳令そのそのだぜ」 下り立った時ののんびりとした風景と、今見た風景とのギャップがあまりにも大きいせいか、寛子も慎 一に劣らずショックを受けているようだ。 「機動隊が出て来ただけでこんななんだから、自衛隊が出て来る時なんて想像も付かないわね。これじゃホームに集まるだけでも大変じゃない。それどころか突撃隊全員が集まれるかどうかも怪しいわよ」 確かに寛子の言う通りだった。しかし闘争はもう動き始めてしまっている。何号も前から解放派の機関紙『解放』は、何処からとは言わないまでも渋谷がターゲットだと、堂々と紙面で謳い上げている。闘争そのものが、一種のプロパガンダ的性格をも併せ持っている以上、ここにきて闘争目標の変更は絶対出来ない。 どんなに困難な戦いになるとしても、やり抜くしか残された道はないのだった…。 慎一と寛子が二軒目の軽食喫茶で息を潜めている頃、関口亘もまた同じ自由ケ丘駅周辺の大衆食堂で、どんぶり飯をかき込んでいた。足元には二つの紙袋に入れられた小盾が三十人分納まっている。 東横線で多摩川を越えてしばらく行った某駅近くにアジトがあり、小盾は昨日のうちに兵站の手によってそこに運び込まれていた。今朝十時、それを電車の乗客に紛れて三々五々自由ケ丘に運ぶ為に、関口たち各地区反戦から選ばれた運搬部隊が集合したのである。 誰かが自由が丘に辿り着けない場合も考慮して、必要数よりも多めに集められた運搬部隊は、十一時を廻った頃から目立だないように、一人ずつ紙袋を提げてアジトから出て行った。勿論午後一時に必着という以外、自由ケ丘に至る経緯は各個人の裁量に任されていた。ある者は一旦途中下車して時間を待つだろうし、ある者は自由ケ丘で乗り換えて他の駅のホームにいたりするだろう。 だが関口はダイレクトに自由ケ丘に出て、近くの喫茶店で時間を待つ事にしたのである。そうすれば電車が遅れたりといったアクシデントにも、適切に対応出来ると考えたからだった。 その時集まった人数が幾ら少なくても、自分も突撃隊の一員である以上、その人数で渋谷へ突撃しようと関口は決意していた。関口が自由ケ丘の改札口を出た時、ちょうど何台もの警備車が停まり、中から機動隊が吐き出されて来るところだった。彼らは駅から出てくる関口には眼もくれず、羊飼いの杖に追われる羊のように、小隊長と覚しき男の振る指揮棒にしたがって、アタフタと整列しようとしていた。 駅のロータリーとは反対側にある、パチンコ屋沿いの裏道に足を踏み入れた関口は、軒を寄せ合うように建っている小汚い喫茶店に腰を落着けた。ずっと大阪で暮らしてきた関口にとっては、変によそよそしい純喫茶よりこういう店の方が性に合っていた。 「おばはん、コーヒーを一つ持ってきてんか」 カウンターの奥にいた年配の女にそう声をかけると、関口はこれからどう行勤しようか考えた。 (とりあえず駅を降りるところまでは滑り込みセーフや。そやけど今度は乗る時が問題やな。まあ小盾が登場するのんは始めてやし、咎められても何とかなるやろ) 本来が楽天的な性格の関口は、情況をある程度楽観視していた。やがて集合の時間が迫り、関口は店から出るとすぐ隣にある大衆食堂に入り、カツ丼を注文したのだった…。
「そろそろ時間だ。行こうか」 レシートを掴むと慎一は立ち上がった。そのレシートを寛子はもぎ取ると、自らレジに向かった。小さな財布から出した金で勘定をすませながら、寛子は照れたように慎一を振り返った。 「何かあった時にお金がないと困るから、あんまり使わない方がいいわ」 パクられた時に金がないと留置場で日常品が買えず、非常に不自由だったと逮捕された者から慎一も聞いた事がある。寛子はそれが言いたいらしかった。 「ありがとう」 こういう紬かい神経を使ってくれる寛子の存在が慎一には嬉しかった。しかしそんなところに入ってまでも、金がなければどうにもならない権力のしたたかさには腹が立つ。パクられそうな奴は事前に、相応の金を身に付けていなければならない理屈になるからである。 (貧乏人ほどあらゆる点で、損になるように出来てる国だな、日本は…) 二人は店の外に出ると、ガード下に並んでいる飲食街に沿って駅に向かった。既に配置が完了してかなり経つのか、機動隊がいたるところで大盾を並べ、その上に肘を突いて通行人を眺めている。人通りも少なく、その数少ない通行人も、街に溢れた機動隊を恐れてか、小走りに通り過ぎて行く。 どんよりと空一面に厚く澱んだ灰色の雲が、一雨降らせそうな様子を見せている。ともすればその雲の上には、燦燦と光輝く太陽があるのだという事実まで、忘れてしまいそうな濁った雲だった。二人はその雲の下を、ことさらゆっくり駅へ向かって歩いた。そうしなければ周りを威圧している機動隊の無言の圧力に、自分が負けてしまいそうだったからである。 慎一は自分が特別勇気がある方だとは思っていない。自分がどうかは別にして、むしろ闘争に関わっている人間は、心優しい者が多いと思う。ただほんのちょっと、他の人間より自分の正義感に忠実だっただけなのだ。小難しい理論はどうあれ、それが恐怖を乗り越えて万能の武器を持つ権力に、戦いを挑ませるバネになっているのだと慎一は信じていた。 「おい、そこのアベック。何処行くんだい、いいとこじゃないの?」 道端に並んでいた機動隊から、二人にそんな声が裕びせられた。見ると一人がひょうきんな仕草で手招きをしており、他の者はニヤニヤ笑っている。明らかにデモに行く二人連れを怒らせ、泡よくば予防検束してしまおうという魂胆が見え見えだった。 無気になって近付こうとする寛子を、慎一は抱き寄せるようにして制した。 「相手にするんじゃない。こんなところでパクられても仕方がないだろ」 「でも…」 「いいから」 無視して通り過ぎようとする二人を見て、急に真顔になった一人がトランシーバーで、何処かに連絡を取っている。案の上、駅に近付くにつれ改札ロ付近に屯している機動隊員が、慎一たちを待ち受けるようにこ ちらを見詰めている。 (もうあと戻りは出来ない。一かハか行ってやれ) 慎一の腕を掴んでいる寛子の手に力が入っているのが判る。切符売場に行こうとする前に、二人は機動隊に取囲まれた。十人近い人数である。それが口々に大声で何か喚き立てている。その言葉を聞いているうちに、慎一は不思議なほど緊張がほぐれてきた。 (こいつらも俺たちが何をやるのか判らないんで、内心は恐がってるんじゃないか?) 一人一人の顔を余裕を持って見回している慎一に当てが外れたのか、しばらくすると年長の一人が進み出てきた。 「荷物を見せたまえ」 改札口の上に下がった時計が、もうすぐ一時を指そうとしている。愚図愚図していると集合時間に遅れてしまう。 「ほら」 別に武器を忍ばせているわけでもないので、慎一は素直にナップザックを渡した。寛子もそれに倣った。 引ったくるようにナップザックを受け取った隊員が、皮の手袋をはめた手でチャックを開く。先ほどの隊長らしき男がそれを横から覗き込んだ。 「ほう、青ヘルか。今日は何かどえらい事をやるそうじゃないか。いったい何をやるつもりなんだ?」 訊かれて答えるはずもない。慎一は周りにいた隊員に、身体検査をされながら、黙って立っていた。寛子も同じように身体検査をされているのが気懸かりだったが、どうやら一生懸命耐えているらしい。不穏な物が見付かるわけもなく、ヘルメットの入ったナップザックも、そのまま突き返された。 「これですんだと思うなよ。何かやったら必ず捕まえてやるからな」 彼らの捨てセリフを聞き流した二人は、切符を買うと改札口を通って構内へ入った。駅構内に機動隊の姿は見えなかった。 「悔しい。本当に悔しいわ」 慎一の腕を掴んでいる寛子が、押し殺したような声で呟く。屈辱感にまみれているという点では、慎一も寛子と同じだった。この思いは今日の闘争で絶対に晴らしてやると、ホームヘ続く階段を踏み締めながら慎一は誓った…。
関口が改札口の傍までガードを潜って来ると、ちょうど慎一と寛子が改札口を入るところだった。声をかけようとする前に、関口は進路を機動隊にふさがれた。そんな関口に気付かず、二人はホームヘの階段を上がって行ってしまった。 「何するんや、ワレェ」 「いいから持っている紙袋の中身を見せなさい」 「ちっともええ事あるかい。こらっ、その手を離さんかいっ」 揉み合っているうちに紙袋が破れ、中に入っていた小盾が道路に散乱した。もっともそれが小盾だとは、当事者以外判るはずもない。 「何だこいつは。何に使う物なんだ?」 「そんな事お前らに関係あるかぁ。それより早よう代わりの紙袋を持ってこんかい」 段々騒ぎが大きくなり、遠巻きに成り行きを見守っている人数も増えだした。突撃隊のメンバーも何人かその中にいたが、全員が手薄になった改札口を抜けてホームに向かった。集合時間なのである。 駅頭での騒ぎを聞き付けて、駅前交番でお茶を飲んでいた私服が傍に寄って来た。 「何だ、W反戦の関ロじゃないか。お前、こんなところで何やってるんだ?」 関口に取って運の悪い事に、就労闘争で工場の門前で何度か顔を合せた事のある、W署の私服だった。ヘルメットなどの闘争に関係する物は持っていないといっても、わけの判らない穴の開いたベニヤ板を多数所持している以上、黙って見逃すはずもなかった。ましてや解放派と言えば、催涙弾防けの大盾を作ったり、スクラムを亀の子型にしたりと、いつも戦い方を研究している党派だからである。私服が穴の関いたベニヤ板(小盾)を新兵器では?と怪しむのも無理はなかった。 「ちょっと来て貰おうか」 「アホゥ。お前らの遊びに、いちいち付き合っていられるかい」 「いいから。やましいとこがなけりゃ、すぐにすむ話だ」 関口は小盾ごと無理矢理パトカーに乗せられ、管轄のS薯へ連れて行かれてしまった…。
渋川友子は東横線代官山駅へ続く緩やかな坂を急ぎ足で下っていた。二時間あまり前から友子は、一人で各駅の警備状況を調べては、レポセンターに報告を入れていた。ハードな動きを医者から禁じられている友子の役目はレポだった。自由ケ丘、都立大学、学芸大学、祐天寺、中目黒、各駅ごとに電車を降りて、駅周辺を調べて回る。何処にどのくらいの機動隊が配置されているか、電話でレポセンターに逐一報告していくのだ。そして今は渋谷の一つ手前の代官山駅周辺を調査しての帰りだった。 (もしかしたら『あれ』がまだ残ってるかそ知れない) その思いが駅から五分以上離れた銭湯へと友子を向わせた。だいたい何処の銭湯も午後三時に店を開く。 友子が行った時、その銭湯も例外ではなく、ガラスの扉は閉ざされたままだった。友子は裏へ回ってみた。 最近は重油が湯を沸かす主な燃料になっているのだが、ここの銭湯は昔ながらの古木材を使っており、裏の広場には友子の背丈の二倍を楽に越える古木材が、ぎっしりと積上げられていた。 簡単に仕切られているだけの柵を潜って、友子はその中に入った。勿論家人に見付かれば咎められるに違いない。しかしそんな事はさしたる問題ではない。友子は辺りを見回しながら少しずつ奥に進んで行った。 (あった!) 思わず小さな声を上げた友子の足元で、それは他の古木材の下から形の一片を覗かせていた。ようやくの事で覆い隠していた古木材を取り除くと、何枚も重ねられたそれが姿を現わした。 (盾のドッキングに失敗したら、これが役に立つわ。急いでレポセンターと突撃隊に知らせなきゃ…) 足早やに去って行く友子の捜し出した物は、去年の10.21国際反戦デーで反戦青年委員会が使用した防盾だった。闘争終了後、証拠になる盾の処分を至急しなければならず、この風呂屋の燃料置場に捨てたのである。それが半年以上経た今も、まだ燃やされずに残っていたのだ。 代官山駅近くの公衆電話でレポセンターに連絡を取った彼女はこの事実を突撃隊に知ら せる為にホームでなかなか来ない電車を待っていた。 時間はとうに一時を過ぎている。 (間に合うかしら・・・。)
ホームの中央付近のベンチに慎一と寛子は腰かけていた。Y字型の鉄骨で支えられた、スレート板の天井から吊下げられた時計の針が、一時五分を指していた。既に渋谷行き一・二番線ホーム全体に渡って、突撃隊のメンバーが散在していた。お互い素知らぬ顔をして二、三人ずつ固まって立っている。どのくらい集まっているかは、渋谷行きの電車が発車したあと、ホームに残っている人数で概算出来るのだった。しかし少な過ぎる。まだ半数近くしか集まってはいなかった。W反戦でいえば関口も全逓の赤迫もまだ来ておらず、肝心の小盾の運搬部隊も三人しか来ていない。 慎一は背伸びをして、離れたベンチにいる辻と山城を見やった。明らかに焦燥しているのが判る。残された時間は予定通り決行するとして五分しかないのである。 (この人数で渋谷へ行ったら駅を出る前に殲滅されるな) 「遅いわね。皆どうしたのかしら?」 横に座っている寛子が、不安な表情を露にして慎一に言った。 「このままじゃどうしようもないよ。この人数じゃ動くに動けない」 実際あの検問体制を通り抜けて、ホームに出てくるまでも大変なのである。しかも上下のホームに電車が着く度に、一人二人と突撃隊が集まって来るので、出発のタイミングがなかなか掴めないのである。 それでも何とか五十人くらい集まった頃だろうか。一時十分を過ぎて秒針が6という数字に重なった時、階段の脇に立っていたB反戦の人間が、階段下に整列を始めた機動隊の姿を認めた。 「おい、機動隊が構内に入って来たぞ!」 瞬く間にその情報は、ホームに点在している突撃隊全員に伝わっていった…。
友子が自由ケ丘駅に着いた時、反対側のホームのベンチに座っている、慎一と寛子を見付けた。ホーム全体に広がって他地区の反戦の人間もいる。友子は急いで階段を駆け降りた。改札ロに続く構内へ出ると、そこは機動隊で溢れかえっていた。 「すみません。ちょっと通してください」 彼女は隊列の中を縫うようにして、渋谷行きホームの階段に近付いて行った。レポの為に如何にもお嬢さんらしい服装をしているせいか、気を利かせた機動隊員が前を小突いて通り易くしてくれた。隊員の隙間を通り抜ける友子の耳に、『いいか。少しでも抵抗したら、即逮捕するんだ』と言う声が飛び込んできた…。
ちょうどその時、渋谷行きの各駅停車がホームに入って来た。これからどうするのか善後策を、辻や山城が協議しているはずである。 「おい、この電車に乗れ!」 声がした方を慎一が振り向くと、一人が乗るように手で合図をしていた。ホームの後方にいた突撃隊のメンバーが、次々と電車に乗り始めている。慎一と寛子も慌てて扉の中に身体を滑り込ませた。何気なく階段を見た慎一は、駆け上ってきて辺りを見回している友子の姿が眼に入った。 「友子、どうしたんだ?」 慎一の声に気付いた友子が走り寄って来る。出発のブザーが鳴り響く。慎一はドアが閉まらないよう手で押えた。車内に飛び込んでからも、友子はしばらく喘ぐだけで言葉が出てこない。そうこうしているうちに、ドアが閉って電車は動き出した。ホームを見ると辻や山城たちを含む、半数近い突撃隊が残っている。全員集まっていなかった突撃隊が、また二つに割れてしまったのである。 (まいったな。これからどうしよう…) とっさにはいい考えが浮かんでこない。 「駄目よ。途中の通過駅は機動隊で一杯よ。渋谷も同じだけど渋谷が目標だから、渋谷まで行くしかないわ。宮下公園で集会をしてる全国動員された反戦の部隊と、合流出来れば何とかなるかも知れない」 ようやく話せる状態になった友子が、途切れ途切れに言った。その話を聞いているのは慎一と寛子、そして隣のドアから乗って傍に来た、他地区の突撃隊のメンバー四人だけである。あと何人がこの電車に乗っているのか判らないが、部隊が二つに割れたのを見ているだけに、不安は拭い去りようもなかった。 「あ、それから代官山で降りれば、並木橋の下にある銭湯の燃料置場に、10.21で使った防盾が残ってるわ」 しかしこの小人数では、駅を警備している機動隊を突破して、銭湯まで行き着けるはずもない。 「とにかく友子は、この電車に乗ってる突撃隊のメンバーに、その事を知らせてくれ。それから渋谷に着いたら、目立だないようにホームにいて、後続の部隊を待つようにって」 こうなったら自由が丘のホームに残ったメンバーが、次の電車に乗ってくるのを期待するしかなかった。 「判ったわ。皆に知らせてくる」 この電車にいったい何人の突撃隊が乗っているのか慎一にも判らない。立っている乗客に紛れて見えなくなっていく友子を眼で追いながら、慎一はどうしたらいいか迷っていた…。
「おい、これは何に使う物だ。聞えないのか?何に使う物だって訊いてるんだよ!」 若い私服が思い切り机を叩く。 「えぇ、関口。今日、本気で戦かおうとしてるのは、お前たち青ヘルだけなんだ。どうせお前らの事だから、これもわけの判らん武器なんだろ?どう使う武器なんだ?」 グレーの事務机の上に積まれた小盾を一枚手にして、関口を見付けた私服が顔を寄せてくる。関口は折り畳み椅子に座らされたまま腕を組み、無言で部屋の天井を眺めていた。 部屋は逮捕された者が尋問を受ける、通常の取調室ではなかった。三階のいつもは何かの講習にでも使われているらしい、割りと大きな部屋の一角である。それでも幾つかある窓のすべてに、外から鉄格子が打ち付けられていた。天気が悪いせいか天井の蛍光灯が、関口の座る付近だけ点けられている。関口はもうかれこれ一時間近くも、この調子で質問され続けているのである。 彼は突撃隊の一員として、戦いに参加するのをもう諦めていた。今すぐ釈放されたとしても、自由ケ丘の突撃隊はとっくに出発してしまっているはずだった。 (こうなったら根比べや。こんなもん、こいつらの頭じゃどう使うか判らへんに決まっとる。武器だと言わせて凶準(凶器準備集合罪)で引っ張ろうとしたかて、そうはいかへんで) 関口は机に置かれたいこいに手を伸ばすと、ゆっくり火を点け悠々と吸い込んだ。立っていた若い私服が、苛付くあまり手近にあった椅子を思い切り蹴とばした。椅子はもんどり打って大きな音を立てて転がった。 「うるさいのう。静かにせんかい」 「この野郎。ここを何処だと思ってやがるんだ!」 「何やワレ、喧嘩を売っとるんかい。だったら桜の代紋外してから来んかい!」 「何だとぉ〜」 今にも関口に飛びかかりそうな若い私服を、前に座っていた中年の私服が抑え付けるように言った。 「まぁいいだろう。今回はこれで終りにしておこう。もう帰っていい。だがこのベニヤ板は、今日のところは預かっておく。明日にでも署の方に取りに来るんだな」 「でも係長。こいつを放してしまうと…」 「確たる証拠がないんだから仕方ないだろ。それにこの関口が簡単に口を割るはずもない」 中年の私服にしても穴の開いたベニヤ板が、武器に転用出来るとは思っていなかった。 「ほなら、帰して貰うで」 歯ぎしりをして侮しがる若い私服と、それをなだめる中年の私服を部屋に残して、関口はゆっくり扉を開けて部屋を出た。安っぽいPタイルの貼られた廊下の途中にある、幅の広い階段を下りて行くと受付の喧騒 が響いてきた。交通課の前では違反でもしたのか、何人かの男女が長椅子に腰かけて順番を待っている。少年課では母親らしい女が、中学生らしい少女を連れてカウンターにたたずんでいた。それらの背後を抜けて、関口は正面玄関のドアから外へ出た。玄関脇の駐車場には何台かのパトカーが駐車していた。 改めて振り返ると、玄関の左側に『極左暴力取締本部』と、墨も鮮やかに書かれた看板がかかっていた。 「なぁにが極左暴力取締本部や。アホゥ」 (もう今から自由が丘に行ったかて間に合わん。仕方があらへん、とにかく渋谷に行って突撃隊がいなければ、宮下公園に行くしかあらへんな) 関口は唾を吐き拾てると、最寄りのG駅に向かって歩き出した…。
電車は最後の代官山駅を過ぎ、渋谷へ向かう高架をゆっくりと走っていた。代官山に着くまでに、何度そこで下車してこの人数だけでも、殲滅覚悟で盾を取りに行って渋谷へ進撃しようと思っただろうか。しかしもし残りの突撃隊が後から渋谷に来たとしたら、ただでさえ少人数の部隊は次々に各個撃破され、権力に有効打を与える事もなく突撃隊は雨散霧消してしまう。迷った挙句に慎一は残りの突撃隊が、次の電車で渋谷に来る方に賭けたのだった。 四番線ホームに到着した電車から次々と乗客が吐き出され、一つの流れになって改札口へと向かって行く。 (まずい。どうにかしないと危ないぞ) 慎一たちが立っているのは降車専用ホームなのだった。どんどん減っていく乗客に混じって、手持ち無沙汰に残されているのが突撃隊のメンバーなのである。慎一は我を忘れて大声で叫んだ。 「早く他のホームに回れ!ここは目立って危険だ」 ホーム中ほどにあるもう一つの改札ロに通じる階段を、何人かが降り始めたがすぐに引き返してきた。 「駄目だ。下の改札もマルキ(機動隊)で一杯だ」 そう叫ぶ声を聞いて慎一は辺りを見回した。このホームにはもう突撃隊の他はいないはずなのに、中年の男が何人も素知らぬ顔で立っている。ここにいる突撃隊のメンバーは、三十人に満たないだろう。降りたばかりの電車のドアも既に閉まっている。慎一は自分たちが袋の鼠だという事を覚った。 その時、正面改札口から雄叫びとともに、無数の機動隊員が雪崩れ込んで来た。慎一たちのいる降車ホームだけでなく、幾手かに別れて全部のホームを走っている。突撃隊のメンバーは一人も逃がさない体制なのだ。乗車専用ホームでは避け損なった客が、機動隊員に突き飛ばされて転倒している。 「逃げろ!線路を伝って逃げるんだ!」 すがり付いている寛子の手を引いて逃げようとした慎一の前に、それまで素知らぬ顔をしていた三人が立ちふさがった。近付いてくる機動隊の足音を聞いた慎一は、思わず寛子の身体を抱くようにして庇った。 ホームの端にいた仲間は逃げ延びられたかも知れない。しかしそれは慎一には判らなかった。中ほどの階段を駆け上がってきた機動隊と、ほとんどのメンバーが挟み打ちに合い、取り囲まれてしまったからである。 むろん慎一と寛子もその中にいた。他の乗客の眼を意識したのか、手ひどい暴行を受けなかったのが、不幸中の幸いだった。 「よ〜し。こいつらを一列縦隊にして連れて行け」 三倍以上の機動隊員に小突き回されながら、突撃隊のメンバーは一列に並ばされた。それまで慎一の腕に掴まっていた寛子も、乱暴に引き剥がされて慎一の前に立たされた。捕まった女は寛子一人だけである。 「こいつだ。こいつが他の者を指揮していたぞ」 慎一は挟んでいる機動隊員越しに、折り畳み傘でいきなり顔を殴り付けられた。傘の飛んで来た方を見ると、先刻慎一の前に立ちふさがった私服だった。勝ち誇ったような薄笑いを口の端に浮かべている。 別に慎一にしても傘で殴られたくらいで、大した痛みを感じているわけでもない。それよりも自分たちがどの電車に乗ったかまで、細かい情報が筒抜けになっている方が重大だった。 (このままでは後続部隊も同じ運命だ。何とか出来ないものかな) しかし慎一たち全員が十重二十重に、機動隊に包み込まれている状態ではどうしようもない。隊列が正面改札口に向かって動き出した時、何気なく降りた電車に眼をやった慎一は、新たに乗り込んだ乗客に混じって、友子が心配そうにこちらを見ているのに気が付いた。 両腕を機動隊員に掴まれて引きずられながらも、一生懸命首を動かして後続部隊に知らせるよう合図した つもりだったが、どれだけ友子に通じたかまったく自信は持てなかった。 突撃隊を囲んだ機動隊の群は、改札を抜けると国鉄や東急文化会館への連絡通路、東横デパートの入口などと結んでホール状に広くなった場所で停止した。この異様な一団は、通行人の好奇心を刺激するのに充分過ぎるほどで、周りはすぐに黒山の人だかりになった。 (こんなところで止まるのは何故なんだ?それにあれから何台か電車が来たのに、後続部隊が乗って来た気配もない。友子は俺たちと一緒だったから、代官山に盾があるのも知らないはずだ。いったいどうなってるんだ?) 訝しんでいる暇もなく、徹底的な身体検査が始まった。突撃隊一人に付き三人くらいの機動隊員が、寄ってたかって調べるのである。指揮者と目された慎一には、傍に私服まで立っている。ナップザックを取り上げた一人が、中からヘルメットを引っ張り出した。 「へえ〜、いいヘルメットを持ってるじゃないか」 「…………」 「あとはタオルとティッシュとバンドエイドだけか。大したもん入ってねえな」 「…………」 その間も他の隊員が、ジャンパーやシャツのポケットを引っくり返すようにして、徹底的な所持品の検 査をしている。ジーンズの裾を捲り上げたり、バスケットシューズを抜がせて、その中にメモでも入っていないかと覗き込んでいる。そのうち一人が慎一の腹に触って妙な顔をした。 「何か固いな。おい、シャツのボタンを外してみろ」 「…………」 自由ケ丘での身体検査は、かなりおざなりだったので見付からなかったが、さすがにここでは見付かってしまった。隊員も見物人の視線を感じているせいか、あまり強引な事はやり難いらしい。慎一の前で身体検査を受けている、ただ一人の女性である寛子などは、機動隊員の方が身体に触らないよう気を使っている。 黙って突っ立っている慎一に、業を煮やしたのか私服が横からロを挟んだ。 「構わないからお前がボタンを外すんだ」 前に回ってボタンを外そうとしている機動隊員の顔を、慎一は無表情に見詰めていた。銀縁眼鏡をかけた、まだ童顔の隊員である。分厚い皮の手袋をしているせいかなかなか外れない。真っ赤に上気した顔で、ボタンを外す作業に没頭しているのを見ていて、慎一はこの男が哀れに思えてきた。やっとの事でボタンを外し、Tシャツを上げると晒し布が巻いてある。 「中に何か巻き込んでおります」 「いいからお前がそいつを出してみればいいんだよ」 苛々して怒鳴り声を上げる私服に急かされるように、銀縁眼鏡は晒し布の中に手を突っ込んだ。 「朝日ジャーナルが出てきました」 私服が見ていると女(寛子)を除く全員が、何らかの週刊誌を腹に巻いているのが判った。 (こいつらは何か特殊な任務を帯びた、特別部隊に違いない) だが戦前なら予防検束も出来ただろうが、凶器もなく具体的な罪も犯していない以上、無闇に逮捕する事は出来ない。私服は中隊指揮官のところまで行くと、こめかみに血管を浮き上がらせながら言った。 「こいつら全員を、宮下公園で集会をやってる連中の中に放り込んどけ」 慎一たちにとって幸運だったのは、小盾を持った者が一人もいない事だった。もし誰かが持っていれば強引に武器と見做されて、全員が逮捕されてしまっていただろう。ともあれ私服と中隊指揮官の間で、そんな言葉が交わされたのを慎一たちは知る由もなかった…。
友子は慎一たちが捕まって連れて行かれるのを見ると、この事を知らせようと乗って来た電車で折り返し自由ケ丘に戻った。窓ガラス越しに見た慎一の仕草が思い出される。 (海原さんもきっと、渋谷は危ないと知らせて欲しかったんだ) 自由が丘ホームには辻や山城の姿はおろか、他地区の反戦の人間も誰一人いなかった。念の為に階段を下りて構内に出てみたが、あれほど溢れていた機動隊もそっくりいなくなっている。 (どうしよう。全員パクられてしまったのかしら。もしそうじゃないとしたら、突撃隊はいったい何処に行ってしまったんだろう…) 友子は思い立って改札の傍にある公衆電話に飛び付いた。慎一たちが捕まったのを知らせるのと、他の突撃隊が何処に行ったか判るかも知れないと思ったからである。今日レポセンターに、電話をかけるのは何度目だろうか。顔こそ知らないが、受話器を取る男の声ももう覚えてしまっている。慎一たち突撃隊の一部がが捕まったのは初耳らしかったが、残った突撃隊から連絡が入ったらしく、その行方を教えてくれた。 「えっ、銀座!突撃隊は銀座に行ったんですか?」 機関紙に銀座なんて言葉は一度も載った事がなく、寛子や慎一にも第二目標が銀座なんて聞かされた覚えがない。友子の頭は混乱した。 (全学連も反帝学評も、反戦の部隊も全部渋谷にいるのに、何で突撃隊だけが銀座に行ったの?) とにかく自由が丘にいても仕方がないので、友子は反戦の集まる宮下公園に行ってみる事にした…。
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