20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:死産の季節 作者:ぱんぷ亭

第3回   part-3
 ようやく朝のセレモニーが終わって、二人はテーブルの上で湯気を立てているコーヒーを飲んだ。
「喫茶店のコーヒーをブラックで飲むのは判るけど、インスタントまでブラックで飲むなんて、お前も変わってるな」
「あら、慣れると案外美味しいものなのよ」
「そんなもんかね」
 寛子に言われて一度試した事があったが、慎一には寛子が言うほど美味いとは思えなかった。
「この凄い臭いも明日までの辛抱ね」
「あぁ。明日の夜には兵站部隊の連中が、トラックで取りに来る予定になってる。そのまま何処かで徹夜で待機するらしいぞ」
「ふ〜ん。兵站の人たちも大変なのね。うまく戦闘部隊とドッキング出来るといいけど…」
「出来なけりゃ大変だよ。俺たち突撃隊だって素手で戦わなければならなくなるし、機動隊に催涙弾を狙い撃ちされて全滅しちゃう」
 話している間にもこもっていた臭いはじょじょに薄れ、代わって朝の爽やかな空気が溢れ始めていた。
「今夜は全国反戦総決起集会の、ステ貼り(ステッカー貼り)がある予定だったよね?」
「そうよ。七時までに反戦の事務所に集まるよう、私にも連絡が来てるわ」
「俺は昼から社文(占拠中の社会文化会館の事)で突撃隊の訓練があるから出かけるけど、お前も一緒に行くかい?」
 空になったカップに、二杯目のコーヒーを作りながら寛子が答えた。
「そうね。手の空いてる人間はなるべく占拠の応援で、社文へ詰めるように言われているものね」

 ここで社会文化会館で行われている、日本社会党東京都本部占拠闘争について、若干触れておいた方がよいように思われる。
 七〇年安保粉砕闘争という一大高揚期を迎え、反戦青年委員会は『戦う組織』として急成長を遂げていた。
『体制内左翼』として形ばかりの反対闘争を戦おうとしていた既成左翼にとって、その指導から逸脱して戦いを開始した『鬼っ子』反戦青年委員会は、正に『眼の上のたんこぶ』になっていた。
しかも同じ『体制内左翼』である共産党から、病的なまでの『トロツキスト排除』要求にも窮した社会党本部は、極左狩りともいえる処分を断行した。その処分対象は都本部青年対策部長を始めとして、解放派を始めとする反戦派で占められている、各地区の社会党支部の専従たちであった。
 この反戦の中心メンバーが一挙に党籍を抹殺されるという事件に端を発し、党中央との社民内分派闘争が全国規模で表面化した。党の青年組織である日本社会主義青年同盟の中にも、解放派を主体とする反戦派は多数存在しており、反戦派の強い都道府県の同盟は一斉に抗議声明を発した。 
しかし同じ同盟内でも反戦派排除に肩入れをする地方本部もあって、この協会派を先頭とするグループと反戦派との闘争も激化し始めた。
 こうして揺れに揺れている状態の中で、都本部実力占拠は敢行された。一階のロビーに成田社会党委員長を引き出し、数時間に渡って反戦派排除の弾劾集会が持たれた後、都本部はそのまま反戦青年委員会や全学連、反戦派社会党員によって実力占拠が続行されていたのである…。

簡単な朝食をすませた慎一と寛子は家を出てN駅へ向い、そこから地下鉄に乗った。霞ケ関で丸の内線に乗り換えて国会議事堂前で降りると、二人は手近な出入口を見付けて地上に出た。
 実を言うと慎一も寛子も、国会議事堂前で降りたのは初めてだった。いつも赤坂見附駅から歩いていたのだが、山城からこちらの方が近いと教えられたので降りてみたのである。しかし複雑に入り組んだ地下道のどの出口が、一番社会文化会館に近いのか判らないので、地上に出た場所は当てずっぽうだった。
 古ぼけた赤レンガのビルや、ガラス貼りの近代的ビルが建ち並んでいる周囲を見廻すと、見覚えのあるビルが眼に入った。そのビルは子供の頃、一生懸命集めた切手の図柄にあったはずである。
(あれは国立図書館だな…)
 通行人に社会文化会館が何処にあるか訊こうと思っても、走っているのは車ばかりで歩いている人間の姿はない。しばらく立ったまま煙草を吸っていると、横にいる寛子が脇腹を軽く突いた。
「とりあえずこの坂を上ってってみましょうよ」
「そうだな」
 二人は広い道路の中央に、申しわけ程度の緑が分離帯となって続く坂を上って行った。緩くカーブしている坂の中ほどまで来ると、二名の機動隊員が立っていた。一人は若くて背が高く、もう一人は白く塗られた指揮棒を杖代りにしている中年の機動隊員である。彼らのトレードマークでジュラルミンの大盾は、傍の街路樹に立かけられていた。道路が曲がっていたので、直前になるまで機動隊員に気が付かなかったのだ。
 昼前の官庁街を歩いている人間はほとんどおらず、たまに通り過ぎる人間もすべて背広姿である。そんな中で慎一と寛子のジーンズにスニーカー、そしてジャンパーという服装は否応なしに人目を引いた。
(こりゃあ絶対何か言われるぞ)
 といって急に引き返すのも、よけい怪しまれてしまう。慎一は寛子の背中に手を回して、そのまま歩き続けた。機動隊員の粘り着くような視線を無視して前を通り過ぎようとすると、予想していた通り中年の機動隊員が声をかけてきた。
「おい、お前たち。何処へ行くんだ?」
 覚悟していた事とはいえ、その尊大な言い方に慎一は腹が立った。
(売られた喧嘩は買うっきゃない)
 慎一は前方を指差し、短く『あっち』と答えた。唇を歪めて薄笑いを浮べた中年とは異なり、若い隊員が顔色を変えて二人の前に立ち塞がった。
「どっから来たんだ?」
「そっち」
 詰め寄ってきた若い隊員に、今度は寛子が噛み付いた。
「いったい何の権利があって私たちの行く手を遮るのよ。私たちが何処へ行こうと勝手でしょ!」
 慎一はロを尖らせて抗議している寛子の横顔を眺めていた。可愛い容姿とは裏腹の激しい言葉の洪水に、若い隊員はまともに反論する暇も与えられず、怒りの為に顔を真っ赤にしている。
 その頃には少ない人通りとはいっても、何人かの見物人が周りを取り巻いていた。確かに一歩離れて見れば、可愛い小柄な女の子が詰め寄り、大きい乱闘服の男が後ずさりしているのは面白い見物であったろう。
 ちょうどその時、中年の携帯していたトランシーバーが鳴り出した。応答している隙をみて二人は坂を上り始めた。しつこく付きまとうかと思っていた若い隊員も、寛子の激しい剣幕に辟易としていたのだろう、中年の話すトランシーバーに聞きいったふりをして追っては来なかった。
「この坂を上ると何処へ出るんだ?」
「判らないわ。この辺は歩いた事がないから…。でも坂の上から見渡せば、社文のある方向くらい判るんじゃないかしら」
 歩くにしたがって坂の頂上から、ゆっくりとあの特檄のある階段状の屋根が見え始めてきた。何の事はない、国会議事堂の正面入口へと向う道路を、二人はそれと知らずに歩いていたのだった。
「何だぁ。これじゃ警備の機動隊がいるのも当り前ね」
「でもそれにしちゃ警備の人数が少な過ぎると思わないか?この道に二人しかいなかったもの」
「きっと昼休みだったんじゃない?」
「まさか!」
 議事堂正面の鉄扉の周辺にも機動隊の姿は見えない。数人の守衛が出入りする車や人間をチェックしているだけである。交差点に立って周囲を見回すと、右手に社会文化会館のビルが見えた。
「俺たちの言ってる国会内人民集会なんて、社文から突撃すれば数分で実現出来るじゃないか」
「ほんとね」
 実際の話、反戦や全学連によって都本部が占拠された後も、社会党側は左翼の体面を思って排除に警察権力を導入しない為、今でもそのまま占拠状態が続いている。
 しかも社会文化会館ヘの反戦や全学連の出入りは自由だったので、時として数百名に達する反戦派で、廊下にまで人が溢れてしまう事もあったのである。
(ここからなら国会へすぐ突っ込めるのに、何故そうしないんだろう?突撃隊をもってすれば不可能じゃないし、その政治的波及力にも測り知れないものがあるのに…)
 もっともそれは成功したとしても、権力の隙を付いたゲリラ的集会に過ぎない。目標として掲げている国会内人民集会とはまったく違うような気もする。
 ともあれ二人は議事堂正面で右に折れ、社会文化会館へと向った…。

 社会文化会館の前までくると、反戦や全学連と書かれた青ヘルメットを被った五〜六名の男女が、ビルに入ろうとする人間を検問していた。協会派を始めとする『反・反戦派』を発見した時には、階上で都本部を占拠している仲間たちに急を知らせる為、各人がホイッスルを首から下げている。
 正面入口の両側にはあの独特な文字で、安保決戦を回避する社会党指導部を弾劾する抗議文の書かれた看板が立てられ、彼らはその立看板を防衛する任務も兼ねているようだった。
 見上げるとビルの五階の中央付近のベランダから、幾本もの赤旗が突き出されて風にたなびいている。そこが現在もなお反戦派が占拠している社会党都本部である。
 見張り番をしていた顔見知りに軽く挨拶をして二人は玄関に入り、ロビーから続いている階段をゆっくり上がって行った。五階までくると、廊下の端に机が簡単に組み上げられ、数人が短い旗竿を持って検問をしている。その中に顔見知りは一人もいなかった。
「W反戦の海原と糟谷だけど…」
 検問を通ると右へ折れて続いている廊下を歩いていく。長く続く廊下には何十人もの青ヘルを傍らに置いた連中が、思い思いに寝そべったり座り込んだりして談笑していた。今も交代で泊り込みをしているせいか、廊下の片側に蒲団代りに使う段ボール箱を広げた紙が敷かれている。
(まだ段ボールを使ってるのか。だけどあれは意外と暖かいんだよな)
 慎一も占拠当初に三日ほど、この廊下に泊り込んでいたのだった…。

 半月ほど前、事務所で図面を書いていた慎一に、突然関口から電話がかかってきた。受話器から聞える彼の声は弾んでいた。ついに社文への突入を敢行したというのである。突入時期が未定であった為に、その日慎一は事務所に出勤していた。
「突入は絵に書いたように上手くいったで。今、ちょうど本部にいた委員長の成田をロビーに引きずり出して追及集会をやっとるとこや。都本部占拠を貫徹する為に動員がかけられとるんや。そやからお前も会社が引けたら、すぐにこっちに来て欲しいのや。道順は赤坂見附から…」
 たぶんロビーからかけているのだろう、彼の声に混じって怒声や歓声が聞えてくる。退社後慎一は社会文化会館に直行した。既に追及集会は終わっており、宵闇の支配しはじめた正面玄関のシャッターは降ろされていた。十人ほどの人数が防衛している横の潜り戸を抜けて、慎一は五階へ駆け上がった。
 同じような指令が各地区の反戦や大学に出されていたのだろう、都本部の部屋へ続く長い廊下はヘルメットを被った人間で溢れていた。全員が手に手に三メートルに少し欠ける長さの、申しわけ程度に赤い布の付いた旗竿を持って座り込んでいる。慎一は林立する旗竿の中を、あちこちよろけながら奥に向かった。
(どうせ関口たちは奥の方にいるに違いない)
 慎一の思った通り、今日の追及集会の経過報告をしている、社会党の青対部長だった佐々木のすぐ傍に皆は座っていた。関口の横に無理矢理座ると、待っていたようにヘルメットと旗竿が渡された。
「…以上で追及集会の報告を終ります」
「異議なーし」
 廊下に響き渡る拍手の中を、中央本部の本村が入れ替わりに立ち上がった。
「たった今レポから入った連絡によりますと、現在我々の占拠しているこの都本部を奪回しようと、二百名の協会派が乃木坂駅ホームに集結しているという事であります」
「ナンセーンス」
 打ち付けられる旗竿で、リノリューム貼りの廊下がゴンゴンと音を立てる。
「そこで都本部の占拠を断固貫徹し、かつ防衛していく為にも、あらかじめ社文周辺にある彼らの武器になりそうな物を、撒去しておきたく考えます。各地区反戦、各大学ごとに五、六人単位の部隊を編成し、社文周辺の捜索に当って欲しいと思います。敵のレポや先発隊が潜伏している事も予想されますので、各隊ごとにホイッスルを持参して、敵と遭遇した時にはそれを吹いて、他の同志に知らせるようにして下さい」
 慎一たちも地域反戦で一隊を作り、旗竿を持って社会文化会館の周囲を歩き廻った。まるで子供の頃の、宝探しか探偵ゴッコでもやっているような気分だった。
 捜索を終えて五階に戻ると、他の捜索隊によっていろいろな物が持ち込まれていた。大小の石や棒は言うに及ばず、何とマンホールの蓋まである。
 マンホールの蓋を運んで来たN地区反戦の連中に、関口が首を傾げながら訊いた。
「こんなもんどっから持って来たんや?」
「社文の裏からだよ」
「誰かが落ちたらどないすんのや」
訊かれた男が悪戯っ子のような眼をして答えた。
「俺たちは裏になんか行かないだろ?。だから落ちるとすれば、協会の連中だから構わないじゃないか」
「そらそやな」
 周りで二人のやり取りを聞いていた連中がドッと笑った。集めてきた物は一括して非常階段の踊場に置かれた。しばらくして用のある者は帰っていいという指示が出たが、帰る人間は思ったよりも少なく、襲撃に備えて約百五十名ほどが泊り込む事になった。勿論慎一や関口、遅れてきた寛子もその中に入っている。
 この人数がどうやって寝るか皆で相談していると、誰かが捜索で行った地下に段ボール箱が積んであったと言い出し、それが五階に運び上げられた。
 箱を壊して廊下に敷詰めると歩哨の順番を決め、タオルを載せたヘルメットを枕に各々が、適当に横になって寝る事にした。上の方の階であったせいか思ったより寒くはない。それに段ボール一枚とはいえ、冷たいリノリュームの上に敷いたのがよかったのだろう。意外と快適に慎一は寝る事が出来た。
 結局懸念されていた襲撃は起らず、勇んで泊り込んだ連中は当てが外れたようだった。それから三日間、慎一は事務所と社文の間を往復して暮したのである…。

日本社会党東京都本部と書かれたドアは開け放たれていた。二人は別に挨拶もせず部屋に入って行った。
ソファーセットが手前に置かれ、その奥に大きなベランダヘ通じる窓を背にして、幾つかの事務机が並べられている。ソファーの中央に元青対部長の佐々木が座り、彼を取り巻くようにして何人かが談笑していた。 W地区専従の山城の姿もそこにあった。彼は入って来た慎一と寛子を認めると、二人の傍へ寄って来た。
「今日は仕事じゃなかったのかい?」
「そうなんだけどね。でも今日は突撃訓練のある日じゃないか。だから事務所は休んじゃったよ。もう突撃の日までずっと休むつもりだ。それで逮捕でもされれば、その後も休む事になるけどね」
「そうか、とにかくよく来てくれた。今日は来ないもんだと思ってた」
 W地区の人間二人が来たので、山城は本当に嬉しそうだった。
「私もしばらくアルバイトを休む事にしたの。だからなるべくここに来るようにするわ」
 山城の喜びが伝染したのか寛子も笑顔だ。
「占拠が長引いてるのと個別闘争の煽りで、ここに詰める人数が少なくなって困ってたんだ。助かるよ」
 突撃隊のメンバーが集って来るまでまだ少し時間があった。その時間を慎一と寛子は、部屋の中で過ごす事にした。ベランダに通じる窓からは、六月の爽やかな風が室内を通り抜けてゆく。時々バタバタと音がするのは、ベランダから突き出された旗が風に鳴っているのだろう。
 慎一はベランダヘ出てみた。足元には数百本の竹竿が置いてあり、遠く近くに霞んで大小のビルが見える。 明後日には歴史に残るであろう一大闘争が控えているとは、とても思えないほど長閑な風景だった。時の流れさえも大河のように、ゆったりと感じられる。
(こんな気持ちは何処かで感じた事がある。あれはいつの事だったか…)
 慎一は空に浮かぶ白い雲に眼を遊ばせているうちに、段々とその記憶が蘇ってきた。
(そうだ。小学生だった俺が春休みに、同い年の従兄弟の家に遊びに行った時だ。畑の傍の草っ原に寝転んで凧を上げていたんだ。打込んだ棒っ切れに凧糸を結んで、ブーンと鳴っている糸の音を聞きながら、空を眺めていた時と同じ気持ちなんだ)
慎一は一瞬あの時浴びていたのと同じ陽の暖かさ、同じ草の匂いを嗅いだような気がした。しかしいったん背後を振り返って室内を見れば、部屋の隅に立かけられた旗竿といい、廊下を往き復するヘルメット姿の男たちといい、そこは慎一たちにとって正しく戦場だった。
「海原君。こっちへ来て差入れのおにぎりを食べないか。まだ昼飯を食ってないんだろ?」
 山城が手招きしている。慎一は中央のテーブルに今しがた置かれたばかりの、パン屋が使っているような木箱に近付いた。
「今日は何処の反戦からの差入れだい?」
「B地区反戦からだよ」
 占拠当時は炊き出し体制が確立しておらず、立てこもる連中の食糧事情は最悪だった。一日に小さな握り飯が一個という日もあり、慎一たち仕事帰りの人間が食糧を持ち込まなければ、到底占拠が維持出来ないほどだった。それでも日が経つにつれ、各地区反戦の持ち廻りによる炊き出しは、上手く回転し始めていた。
「お〜っ。中に梅干が入ってるし、塩もちゃんと付いてるじゃないか」
 慎一の言葉に、傍らにいた見知らぬ男が答えた。
「塩味もしなかったのは最初の頃だけだよ。最近は昼と夜の二回、食料の差し入れが来るんだぜ」
「へぇ〜、たいしたもんだ」
 話している間にも幾つもの手が箱に伸びる。廊下で屯していた者も、代わる代わる部屋に入って来ては、両手に握り飯を掴んで出ていく。
「おーい。誰かおにぎりを、入口で見張ってる連中に持ってってくれんか」
 山城の大きな声に廊下から返事が聞こえ、二人の男が例の地下から持ってきて、まだバラしていない段ボール箱を携えて入ってきた。そして無造作に幾つかの握り飯を入れると出て行った。
「あんな汚い箱におむすびを、じかに入れて大丈夫なのかなぁ。雑菌が付着してお腹を壊しちゃうんじゃないかしら」
 その言い方が如何にも寛子らしいので、慎一は思わず可笑しくなった。
「お前、三里塚の強制測量阻止に行かなかったろ?」
「うん。アルバイトが休めなかったんだ」
「俺たちが立てこもった団結小屋には、ドラム缶に汲み置きした水しかなかったんだ。ゴミとか虫とかが浮いているその水が、大事な飲料水だったんだぜ。そいつを柄杓で回し飲みしたんだ。不思議と汚いという意識はなかったなぁ。あん時に比べりゃ綺麗なもんだ」
「そうかなあ。清潔に出来る状況にある時は、なるべく清潔にしておいた方がいいと思うけど…」
 なおも言葉を足そうとする寛子を、佐々木が笑いながら手で制した。
「君の言う事が正しい。革命を志す者はすべからく健康に注意すべし。なあ、皆もそう思わんか?」
 清潔を巡る雑談が続いた後、慎一は佐々木が話題を党大会の事に移したのを汐に、再びベランダに戻った。 ほんのしばしでもいい、慎一はもう少し子供の頃の感覚に浸っていたかったのである…。

「各地区反戦の突撃隊は、廊下に集合してくださ〜い」
扉の外を移動していく声に、慎一は現実の世界に引戻された。どのくらい時間が経っているのだろうか。
ソファーでまだ握り飯を食べている者がいるところを見ると、ベランダに慎一が独りでいた時間は、思ったより短い時間のようだった。
 そういえば慎一はもうずっと腕時計を身に着けていなかった。闘争の中ではなくす危険が多く、事実機動隊と揉み合っているうちに、腕時計をなくしてしまった仲間が何人もいる。もっともあの混乱の中で、逆に時計を拾って来たという強の者も何人かいたが。ともあれ駅や店頭にある時計で大雑把な時間が判るので、慎一の腕時計は引出しの奥にしまい込まれたままになっている。それに何より誰にも止められない時の流れであったとしても、必要最小限以外は束縛されるのが嫌になっていたのである。
 外を眺めて動こうとしない慎一が心配になったのか、ソファーに座っていた寛子が立ち上がると、慎一に近寄って来た。
「今の声、聞えたでしょ?」
「あぁ…」
 寛子越しに部屋の中を見ると、山城の姿は既に部屋から消えていた。
「じゃ行って来る」
 見詰めている寛子に目で頷くと、慎一は部屋を横切って廊下に出た。扉の右手、ちょうど廊下の突き当たりに人が集まっている。慎一はゆっくりと奥の方に歩いて行った。
 山城たち三人の専従を中心に、輪を描くようにして突撃隊に選ばれたメンバーが座り込んでいる。見知らぬ顔も半分くらいはいただろうか。しばらくしてあらかた突撃隊が集ったと見たのか辻が立ち上った。
彼は慎一よりも十歳近く年長かも知れない。T大出身で慎一たち解放派の理論家の一人として、機関紙に情報分析や闘争方針を書いている男である。
「同志諸君。突撃隊として七十年安保粉砕闘争を最先頭に立ち、もっとも果敢に闘い抜こうと決意している同志諸君。僕も兼ねてから表明していた通り、突撃隊の一員として諸君と最後まで行動を共にする決意です」
 盛大な拍手とともに『異議ナーシ』という声があちこちから上がる。
「今日の訓練について、具体的な事は山城君から説明があると思うが、知っての通り我々突撃隊は一度出撃したら退却は許されない。又、退却をしない。一人になっても最後まで闘うという決意を持った部隊である。我々一人一人は『個』でしかないが、まさしく我々は今『類』として存在している。『類的存在』としての人間の復権と感性の全面解放を目指して、我々はその最先頭に立って戦い抜かなければならない。不幸にして我々の同志が闘争の狭間に倒れたとしても、いや、今までにそ数え切れないほどの同胞が、権力の弾圧の前に倒れて来た。しかし『個』としては倒れたとしても我々は『類』として生き抜き、戦い抜いていく事が出来る。我々が人間として真の解放へと向かう、その重要な一環としてある七十年安保粉砕闘争を、政府中枢権力に迫る戦いを、ともに断固戦い抜いていこうではないか!」
「異議ナーシ!」
 ひときわ大きな拍手と声が湧き起こる。運命共同体という意識がそうさせるのか、奇妙な一体感と熱気が全員にみなぎり始めている。辻と入れ替わりに山城が立ち上った。
「同志諸君。我々は今までの戦いの中で多くの事を学んで来た。十一・十八、十九の佐藤訪米阻止闘争に於て、我々は防衛的武器として盾を登場させた。今回の闘争に於ても我々は、本隊に大盾を持たせるべく準備している。敵権力も我々を、カンパニアに流れていく多くの党派の中にあって、唯一戦う部隊として徹底的にマークしている。敵権力が本隊の大盾を見たならば、本気で容赦ない弾圧を仕かけてくるだろう。その本隊の前にあって、我々突撃隊は決路を開く戦いを展開するわけだが、本隊のように大盾を持っていては動きが鈍くなり、充分な戦果が期待出来ない。かと言ってゲバ棒だけでは丸腰も同然で、迫兵戦に持ち込む前に催涙弾の水平射撃によって殲滅させられてしまう。そこで我々は新たにこのような物を、突撃隊には持って貰いたいと思う」
 山城が取り出しだのは縦が五十センチ、横が三十センチくらいのベニヤ板であった。厚さは十五ミリはあるだろうか。しかも上下五センチ程度のところに、同じ十センチくらいの間隔で穴が二つずつ開けられている。ちょうど真上から見ると、穴が四つ開いた鼻緒のない下駄のような感じだった。
(何に使うんだ?あんな物…)
 座り込んでいる者たちの間にざわめきが広がる。
「それではこいつの使い方を見て貰いたい。今はまだこれ一つしかないが、明日までには人数分が届くから、明日の訓練は全員にやって貰う」
 彼は横に座っていた辻から、五十センチくらいの長さに切った晒し布を二本受け取ると板の穴に通した。 それから板を左腕にあてがうと一本を肘のところで縛り、もう一本の晒し布を掌の中で握り締めるような形で縛り付けた。
「まるで中世の騎士の小盾みたいだな」
 誰かの声に山城は頷いた。
「まさにその通り。そこからヒントを得て作った物です。そこでこれの使い方だが…」
 彼は短めのゲバ棒を両手で持つと腰を落して身構えた。
「通常のゲバルトは従来通りだが迫兵戦になった時は…と。すみません、辻さんちょっとお願いします」
 呼ばれた辻が立ち上がって、山城に殴りかかる真似をした。彼は左手をくの字に曲げたまま顔の前にかざし、これを見事に受け止めて見せた。
「こりゃいいや」
 また誰かの声が響き、ドッと笑い声が湧き上った。山城と辻もつられて照れたような笑顔を見せた。
「他に迫兵戦に持ち込むまでの敵の水平射撃から、最小限の部分を守るという利点もあるがとにかく明日、皆でもっと効果的な使い方があるか一緒に工夫してみようじゃないか」
 小盾に対する品評会が始まり少し騒がしくなった。慎一はいつの聞にか関口が、隣りに座っているのに気が付いた。
「当日ワシがもう一人連れて、あれを運ぶ事になっとるんじゃ。そうさっき山城がワシに言いよった」
「ふーん。それじゃ集合するまでは別行動って事になるな」
「そういうこっちゃ」
 それから当日の具体的行動予定が全員によって確認された。集合場所は自由ケ丘東横線渋谷行きホーム。時刻は午後二時。突撃地点は機関紙によって何回も予告されている通り渋谷であった…。

太陽が沈み、やがて暗闇が辺りを溶かし始める頃、慎一と寛子、関口の三人は社会文化会館を後にした。 一様に紙袋を手に下げている。その重い紙袋の中には、帰りがけに渡されたステッカーの束が入っている。今夜はこれからこのステッカーを貼らなければならないのである。
 三人が事務所に帰り着くと既にステ貼り作業の為に十数人が集っていた。地域反戦のメンバーは一人も来ておらず、十時半に別の場所で落ち合う手はずになっている。全員が集まって作業出来るほど事務所は広くないのである。早速持ち帰ったステッカーが紙袋から出され、幾つかの束に分けられた。習字に使われる半紙を二枚縦に繋げたくらいの大きさのステッカーは青と赤の二種類があり、文字はすべて白抜きだった。
 皆思い思いの格好で紙の束を前にして座り込む。むろん慎一も寛子も例外ではない。これから現場で素早く貼れるよう、ステッカーを一定方向に巻き上げるのだ。
 まず最初に鉛筆を芯にして、一枚目のステッカーを下の方から巻いていく。それから二枚目の巻き始めと一枚目の終りを、少し重ねるようにして巻き重ねていく。これを何回も繰り返して、五十枚程度巻いたところで、輪ゴムで止めておくのである。
 しばらくするとあちこちからトントンという音が聞こえ始めた。斜めに巻いてしまったステッカーを揃える為に、筒口を床に打ち付ける音だ。やがて太い花火のようになって、輪ゴムで止められたステッカーが、一ヶ所に積み上げられた。作業の目途が付く頃になると何人かが洗濯糊を買いに、下のスーパーマーケットに降りていった。
 最初の頃は小麦粉を溶かして糊を作っていたのだが、糊を入れたバケツと刷毛では緊急時の処分に往生するので、最近はもっぱら大きなポリエチレンのチューブに入った、半透明の洗濯糊を使うようになっている。
それをなるべく目立だない紙袋に入れて、あたかも買物帰りのような顔をして持ち歩く。そしてもう一つの紙袋には、巻き上げたステッカーを入れておく、これでステ貼りセットの出来上りである。
 社文から遅れて帰って来た山城が、ステ貼りに参加する人数の確認を行なっていた。
「最終的には地区反戦が十五人、地域反戦が八人集まるから、ステ貼り部隊は三隊作れるな。地区は全逓部隊と、全電通、水道、都職の合同部隊に分けるから、各々責任者を決めて行動してください。開始予定は十一時。なお六月決戦に突入して以来、官憲の巡回が厳しくなってるので充分な注意が必要です。それじゃ今夜のステ貼りルートを打ち合わせるので、地図の周りに集まってください」
 彼がW区の地図を広げるのに合わせて、幾つもの顔が地図の上に影を落す。その地図には交番、消防署、防衛施設等の要注意地点が、赤丸で小さく囲まれていた。
 山城が指で示した自分たちのルートを、各自が頭の中に叩き込む。といっても幾つかある決められたルートを選ぶだけなので、それほど難しい事でもなかった。細い路地ではなく通勤路などの、昼間は人通りの多い道を貼って歩くからである。それだけに巡回中のパトカーや、自転車で警邏中の警官に出くわす確率も高い。そういった場合に備え、各隊ごとに非常の場合の集合場所が決められた。
打ち合わせがすんで慎一が紙袋の準備をしていると、関口がビールを持って入って来た。顔が見えないと思っていたら、近くの酒屋へ買いに行っていたらしい。
「おいおい、これからステ貼りだって時に、ビールなんか飲んでいいのか?」
「だから飲むんやないか。見張りをしとってパトカーに職質されたかて、酒臭い息で宴会帰りだとでも言えばええ。酔い醒ましの散歩が即ステ貼り闘争になる、一石二鳥やないかい」
「そんなもんかねえ。しかしステッカーを貼る役目の俺たちまで飲んじゃまずいだろうなぁ」
「当たり前やないか。ワシと違うてステッカーみたいな証拠品を持っとる連中は、現行犯でパクられない為には逃げなあかん。酒を飲んどったら、すぐに息が上がってしもうてアウトや」
 話を聞いていた地区反戦の連中もそれに倣おうと、何人かが立ち上がって酒を買いに出て行った。今回はさすがに地区のステ貼り部隊も、酒の飲める見張り役志願が多く、大騒ぎでジャンケンを始めた。
「大の大人がまったくもう…その真面目さが闘争に生かされたらなぁ」
 誰かのおちょくった声に、ジャンケンに勝った連中が、照れたような苦笑いを浮かべている。慎一は全電通の一人が気を利かして、酒を飲めない連中に買ってきた缶ジユースを受取った。
 ついでに買ってきた渇き物まで出され、時ならぬ宴会が始まってしまった。酔うほど飲む者は一人もいないように見えたが、その割には空になったビール瓶の数が多く、本当のところは慎一にもよく判らない。
 地区反戦のステ貼り部隊は、十一時を過ぎた頃から私服の張込みを警戒して、目立たぬように数人ずつ組になって、三々五々事務所を出る予定になっている。事務所を出てからは右や左へ分かれたり、タクシーに乗ったりして、あらかじめ決められた各コースの出発地点まで行く事になっている。
 慎一と寛子は後から行くと言う関口を残し、十時過ぎにステッカーの入った紙袋を下げて事務所を出た。 アベックを装って腕を組んで歩いた二人は大通りへ出ると、地域反戦の集合場所に近いG駅へ行く為にタクシーを停めた…。

 薄暗い店内にクラシック音楽が流れ、大仰な模様の織り込まれたクロス張りの椅子に座って、頼んだアイスコーヒーがあらかたなくなる頃、ステ貼りに参加する地域反戦メンバーの顔が全員揃った。
慎一と寛子、渋川友子、安本博子、栗田、そして新しく地域反戦に加入して来た稲葉大介、木下順、そして最後に赤い顔をして入ってきた関口という顔ぶれである。
 ステ貼りに初めて参加する稲葉と木下に、慎一は紙ナプキンに簡単な図を書いて、彼らが見張る時のポジションを説明した。
「さて、ぼちぼちいてこましたろうやないか」
「そうだな」
 喫茶店を出た八人は、商店街を通り抜けて住宅街に入った辺りで、喫茶店で決めた所定の位置に散っていった。一つ先の交差点まで歩いていった関口が、四方の道路を見張り始める。
 慎一が頷くのを見た栗田が、紙袋から取り出した糊のチューブを押して電信柱にこすり付け、軍手をはめたもう片方の手で糊を塗りたくる。塗り終わった栗田が反対側の電信柱に移勤するのを待って、慎一は糊に濡れて光る電信柱に近付いた。固く巻かれたステッカーの上端を押えて巻物を広げるように下に降ろし、ステッカーを手早く撫で回して貼り付ける。少し離れた位置ではステッカーの入った紙袋を下げた寛子が、素知らぬ振りで周囲を見回していた。
三人のいる交差点を挟むように、左右の一つ離れた交差点でも稲葉と木下が、それぞれ道路の四方向を見張っており、後の交差点でも友子と博子が立って、車や人が来ないか警戒している。
 ステ貼りしている様子を上から見れば、八人が十字の形をした編隊を組んでいるように見えただろう。その『口ザリオ』編隊は、ゆっくりと決められたルートにしたがって進んで行った。
 人通りの絶えた道路で、街路灯に照らされ浮かび上がる関口の姿は、暗闇に囲まれ逡巡する小動物のようにも、暗黒の舞台上でトップライトに照らし出された、演劇の主人公のようにも見えた。
(きっと向こうからも、こっちがそう見えるんだろうな)
 暗闇の中を移勤している時の孤独感が、次の交差点に立って前後左右を見渡した時、光の輪の中に慎一たちを包み込むように浮かんでいる仲間の姿は、言い知れぬ安堵感を与えてくれた。
 予定のルートの半分を消化した頃だろうか、ちょうど次の交差点に移動している時、慎一は遠くで微かに口笛が聞こえたような気がした。隣を歩いている寛子に口笛が聞こえたかどうか尋ねようとした瞬間、車がすぐ横を音もさせずに通り抜けて行った。よく見るとヘッドライトを消したパトカーである。昼間はあれほど目立つ白黒のパトカーも、夜の闇に溶け込むとまったく目立たなくなってしまう。
 急いで前方を歩く関口に口笛を吹いて知らせていると、背後から駆けて来る足音がした。友子と博子の二人である。寛子がちょっと気色ばんだ。
「ちゃんと知らせてくれなくちゃ駄目じゃないの!」
「急に横道から現れたもんだから、二人で一生懸命吹こうとしたんだけど、焦っちゃって上手く鳴らなかったのよ」
 友子の言葉に相槌を打つように、博子も大きな眼を見開いて首を振っている。
「仕方がないよ。それにたまたま次に移動中で、何もしてない時だったんだし…。そうだ。これから地域の勉強会に、口笛の練習も加えるってのはどうだ?」
 慎一の言葉に友子と博子が小さく笑い、頬を膨らませていた寛子もつられて笑い出した。左右に離れていた稲葉と木下も、皆が集まっているのを見て何事かと走り寄って来た。
「どうしたんや?口笛が聞こえた思うたら、すぐパトカーが通って行きよった」
 関口がのんびり歩きながらやって来る。栗田が笑いながら答えた。
「いやその事で海原が、勉強会に口笛の練習も加えようと言ったんですよ」
「いったい何のこっちゃ…」
 用意して来たステッカーが残り少なくなった頃、慎一たちはW川の岸に沿って貼って歩いていた。ほんの数ヶ月前は夜桜見物で賑わった側道も、今は行き交う人の姿はない
「こういうところが一番危ないんだ。両側に側道があってしかも見通しがきくから…」
 慎一が糊を塗っている栗田に話し終わるか終らないうちに、前方の橋の中央に立っている関口のところに、スーッと車が近寄って停車するのが見えた。ヘッドライトを消している。橋の上に浮かび上がったシルエットには回転灯が付いている。明らかにパトカーだった。
(まずい。後ろの連中に知らせなければ)
 慎一が振り返ると、後ろを歩いていたはずの友子たちの姿がない。目立つ橋の上の出来事なので、すぐに気付いて身を隠したに違いなかった。目を凝らすと関口が、パトカーの窓を覗き込んで何か話をしている。
「おい、荷物を隠すぞ」
 小声でそう囁いた慎一は、寛子からステッカーの入った紙袋、栗田から糊の入った紙袋を受け取ると、低いブロック塀越しに見知らぬ家の庭に置いた。
 パトカーが橋を渡ってこっちに向って来た時は、酔っ払って吐いている真似でもしようと、三人で役割りまで決めて見ていると、関口との話が終ったのかパトカーはそのまま行ってしまった。
 一人で息を潜めていた稲葉や木下を含め、全員がゆっくりと辺りに注意を払いながら、橋の中央で欄干にもたれている関口のところに集まった。
「アカン、さっきと同じパトカーや。酔っとる振りして話しといたけどな、かなり疑っとるようやった」
「そらそうだ。歩いて来たとこ全部ステッカー貼ってあるんだからな。どっちに向かってるか証拠を残して歩き回ってるようなもんだ」
 関口に一本抜かせてから、慎一はくわえた煙草に火を点けた。
「この調子だと、ずっと付き纏われるかも知れないわね」
 寛子の言葉に栗田が被せるように言った。
「そうだな。応援のパトカーとか派出所のおまわりを呼ぶ可能性もあるしな。そうなるとやっかいだ」
「ステッカーはどのくらい残っとるんや?」
「ちょっと待ってろ」
 慎一は庭に隠した紙袋を取って来て、中を覗き込んだ。
「残ってるのはあと三本だ」
 既に持って来た四分の三は、貼り終わっている計算になる。
「ほなら今日はこの辺でやめとこか。こんなんでパクられても消耗なだけや」
「そうするべぇ、そうするべぇ。あとは事務所に戻って酒でも飲まへんか」
「誰や今のは。ちっとも大阪弁になってへんで」
 時計の針が午前三時に近くなる頃、慎一たちは事務所に帰り着いた。他の二隊は既に帰っていて、予想通り酒盛りが始まっており、今がたけなわである。慎一たちも割り込むようにして車座の中に入った。
 話題は自然と今日のステ貼りが中心になった。他の部隊も何度となくパトカーに出会い、全逓の部隊に至っては、もう少しで捕まるところだったらしい。
「いやもう焦ったよ。あいつらの車、エンジンの音が全然しないだろ?何となく後ろを振り返ったら、ライトを点けてない車が近付いて来るんだ。怪しいぞって思ってたら、急に赤いライトが回り出したんだ。誰かが『逃げろ!』て怒鳴ったもんだから、慌ててバラバラになって逃げたよ。そしたらヘッドライトを点けて俺を追い駆けて来たんだ」
 大袈裟な身振りで話す一人を、酒を入れた茶碗やらコップを手にして、皆が真剣な顔で見詰める。
「だけどちょうどあの辺りは、俺が毎日配達してる区域だから、裏道は全部知ってんだ。路地に逃げ込んだら、パトカーから降りた一人が追いかけて来たけど、簡単に撒いてやったよ」
 笑い過ぎて酒にむせ背中を叩かれる者、転げ回って茶碗をひっくり返す者までいて、事務所の中は大騒ぎになった。やがて明日の仕事の為に帰る者は帰り、残った者がしばしの眠りに付いた頃、片隅で関口が背中を丸めるようにしてガリ版に向かい、早朝撒くビラをカリカリと切っている姿があった…。

第 四 章

 慎一の周りに濃い霧が立ち込めている。光源の所在は判らないが、何処からか洩れてくる薄明りを通してそこここに、黒い塊が転がっているのがぼんやりと見える。脱力感がひどく、辛うじて立っているだけの慎一がなおも眼を凝らすと、それは人間の形をしているようだった。
(ここはいったい何処なんだ?)
 重い身体を引きずって慎一はその一つに近付いて行った。ようやく顔が判別出来るほどに近付き、その顔を覗き込んだ時、慎一は鷲きのあまり声にならない叫び声を上げ、崩れるように座り込んだ。
(これは俺じゃないか!)
 慎一は這うようにして、一つ一つ顔を確かめて回った。うつぶせに倒れている者、身体を丸めるようにしている者、仰向けに倒れている者、そのすべてが慎一だった。
 何処まで行っても際限なく、霧の中からその慎一のような物体は現れてきた。何人もの慎一が、考えられる限りの格好をして、延々と倒れている。
(いったいこいつらは何なんだ!俺は何処にいるんだ!)
 その世界には無数の動かない慎一と、たった一人だけ動いている慎一がいた…。

ガラーンという大きな音がして慎一は眼を開けた。すべては夢だった。蒲団に接している背中が異様に火照っており、気持ち悪いほど湿気を帯びている。よほど寝汗をかいたに違いなかった。
 昨夜、酔ったあげくに雑魚寝したほとんどの者は既に出勤しており、事務所の中は閑散としていた。いるのは慎一を起こした原凶である空鍋を拾っている寛子と、まな板に向かって何か切っている友子、そして早朝ビラを撒いて来て眠ている関ロだけだった。
「今は何時だ?」
「もうすぐ十一時になるわ。起こしちゃってごめんね」
 拾い上げた鍋を棚の上に戻しながら、寛子が慎一を振り返って答えた。たった今まで見ていた夢の話をしようと、出かかった言葉を慎一は危うく呑み込んだ。
 多かれ少なかれ誰もが自分の中にある不安感(それは権力に対する恐怖とかいったものよりももっと単純な、自分の肉体を傷付けあるいは死に至らしめる場所に自分を置かなければならない、という本能的な不安)を押し殺して闘っているのだ。今更それを助長するような話をしたところで何の意味もない。慎一のロをついて出たのはまったく別の事だった。
「相変わらず大きい鼾だなぁ。関口の奴」
 確かに窓を通して入ってくる町の騒音や、寛子たちが食器を揃える音を圧倒する関口の鼾である。
「本当。横になって五分もしないうちにあの鼾ですもん。よく今まで寝てられたわね。感心しちゃうわ」
 味噌汁の具である大根を切りながら友子が笑った。
「確かにこの鼾の中で寝てられたなんて凄い事だと思う。大物になって来た証拠かね」
 おどけた調子で言った言葉に笑う二人の声を聞きながら、慎一は起きる直前に見た夢の事を考えていた。 何故あんな夢を見たのか、慎一には思い当る節が一つだけあった。
(あれはいつ頃だったろう。そう、あれは半年くらい前の、地域反戦の集まりだった…)

 定例のマルクス『賃労働と資本』の勉強会が終わり、ホッとした雰囲気の中で雑談になった。話の内容は自分たちの革命に於ける位置付けについてだった。
 勿論革命の本隊がどの部分を具体的に指すかは別にして、労働者階級である事に全員異存はなかった。
「俺たちはその先兵である」
「労働者階級が総体として階級決戦に起ち上がるまでは、我々が不断に問題提議しつつ、敵権力と闘っていかなければならない」
 などと、最初は決意表明だか何だか判らない勇ましい話が続いた。そしてしばしの沈黙の後、誰かが『しかし本当に革命って奴は起こるんだろうか?』と呟いたのである。
「そら起こるに決まっとるがな」
 関口が断言するように言い、続いて寛子が、
「そうよ。敵より一日だけ長く生きられれば革命は起こるのよ」
 と言い添えた。昨日の慎一の決意表明にもあった『敵より一日長く』というのは、いつ始まるとも知れない革命に向けて戦う、慎一たちの唯一の心の支えでもあった。
(しかし本当にそうだろうか?戦前は非国民とののしられながらも節を曲げずに生き抜き、今は良心派として認められている人たちも、時の経過による身体の衰えに勝てはしない。今は物理的に戦う事が出来ずに俺たちの戦いを支持し、あるいは集会で講演しエールを送るだけになってしまっている。それはそれで凄い事なのだろうが、現実に傷付きながら戦っている俺たちに比べれば、否応なく脇役に甘んじているのは確かだ。それはとても悲劇的な事で、何十年か経って自分がその位置におかれた時、俺は脇役に甘んじていられるだろうか?まして少ない確率の上に立って革命が起ったとしても、俺たちが永続革命という以上、三世代くらい過ぎなければ、権力の残滓は完全に振り払えないだろう。その頃にはどう転んでも俺は…)
「無理だろうな」
 自分の考えが思わず口に出てしまった。それを聞いた寛子が顔色を変えて何か言おうとしたが、一瞬早く関口がそれを抑えた。関口には慎一の考えていた事が、それなりに判ったらしい。
「海原の言いたい事も、何とのう判るような気がするわ。運よく革命が成就したとしても、その頃にはここにいる人間のほとんどは、権力との闘争に倒れてこの世におらせんじゃろ」
「だけど全員が死ぬとは限ってないわ」
 感情の昂ぶり始めた寛子が怒ったように叫んだ。
「そら生き残る奴もおるやろな。しかし革命の第一段階である敵権力を倒した時には、先頭で戦ったワシらは満身創痍や。同志もたくさん死んどる思う。だがほとんど無傷の者がおる、日共の連中や。彼らは鳶に油揚げのように、革命の中身を簒奪するやろ。その過程でワシらの仲間は残らず粛清されると思うわ」
「俺もそう思うな。どっちみち俺たちは、前からか後からか殺されるんだと思う。それが何年先になるかは判らないけど…」
 重苦しい空気が辺りを支配し始め、各人は互いの顔を見合わせたりしている。戦いを続ける限りどちらが先かは判らないが、倒されていくかも知れない仲間の顔を。
 関口が勤めて明るい声を出した。
「だからと言うて今更やめられへんやないか。もうワシらは気が付いてしもうたんや。ここで闘争をやめてしもうたら、肉体的物理的に生きてはいけても、精神的には死んだも同然になってまう。どうせなら自分の信念にしたごうて、精一杯生きた方がええんとちゃうか?人間は生れてきた以上、一度は死ななければならへんのや。たった百年後でも、ここにおる連中の誰が生き残っておるというんや。だからワシは結果はどうあれ、自分は解放の為の捨て石で構わんと思うとる」
「それで行こう。捨て石って奴で」
「誇り高き捨て石だ」
 慎一の考えていたプロセスとは違ったが、関口の出した結論も同じようなものだった。変な言い方だが明るい悲壮感が身内に湧き立っているのが、勉強会に参加している仲間の顔から見て取れた。外ならぬ慎一自身もそうだった…。

後にも先にもこの話は、この時一度しか勉強会の場では出なかった。しかし皆の口から出た捨て石という言葉は、一種不可思議な光芒を放ちながら、今も慎一の心の奥深くに沈んでいた。
(少しずつ突撃の日が近付くにつれて、自分でも気の付かないところで緊張してるのかな。それが夢の中で、捨て石のように転がってる自分を見させたのかも。あははは…俺は自分で思ってるよりも、本当は気が小さい人間なのかも知れん…)
「さぁ、そんな事より今日も社文へ行くんでしょ。朝昼兼用になったけど早くご飯にしましょうよ。寛子は関口さんを起こして。私もピアノ店のアルバイトがある日だから、あまりのんびりしてられないのよ」
 友子の声に急かされるように、慎一は蒲団を抜け出て立ち上がった。事務所の入口である鉄製の扉のすぐ横に、何故か陶製の洗面器が付いていて、慎一はそこへ行って顔を洗い始めた。変な部屋の造作だなと最初の頃は思っていたのだが、当の慎一を含め今では誰も不自然だとは感じなくなっている。
「早く起きてよぉ」
 寛子の大きな声に、慎一は眼の前にある鏡越しに部屋の中を窺った。懸命に関口の身体を揺すっている寛子の姿が映っている。関口はかけ蒲団を両手両足で、抱きかかえるようにしてその中に頭を突っ込んでいた。
 何か言っているらしいのだが、蒲団に潜もって寛子にはよく聞き取れないようだ。ともあれ慎一の見る限り、その様子ではもっと寝ていたいのだろう。揺すり疲れたのか寛子はしばらく眺めていたが、矢庭に傍に転がっていたヘルメットを手に取ると、ところ構わず叩き始めた。
 むろん本気ではないにしろこれは相当に痛い。たまらず関口は蒲団から飛び出した。
「何や無茶苦茶しよるなぁ。たまらんわ」
 胡座を組んで座ったまま、ヘルメットの角でも当ったのか頭を撫でている。
「あなたもこれから社文に行くんでしょ。いつまでも寝てたら時間がなくなっちゃうわ」
 口を尖らせて弟に説教するように喋りながら、寛子はせっせと蒲団を畳んでいる。歳からいえば関口の方が四つほど上なのだが、気が強くそれでいながら憎めない寛子にあっては、関口も苦笑せざるを得ない。
関口はもそもそといこいを手に取ると、一本抜き出して吸い始めた。
「何をやってるの。早く顔を洗っちゃいなさいよ」
「あかん。怒られてもうた」
 子供が悪戯を見付けられた時のように、関口は慌てて煙草を揉み消した。飛ばっちりがこっちにも来そうなので、慎一も急いでロをすすぐとタオルで顔を拭った。流し台に向かっている友子が、懸命に笑いを噛み殺しているのが鏡に映っていた…。

 食事を終えて簡単に部屋を片付けてから四人は事務所を出た。アルバイトに行くと言う友子と別れた三人はタクシーに乗り込んだ。最近タクシーを使う機会が多く、ちょっと贅沢だなとも思ったが、どちらにしろ明日(そう、もう明日なのだ!)突撃するまでなのだと、慎一は思い直した。それに昨日のように機動隊員に出くわして、つまらない論争をする羽目になるのはごめんだった。
(関口が一緒では、昨日程度ですむはずもないしな)
 車はW通りを経て青山通りを走っていた。
(もう何度この青山通りをデモしただろう…)
 いつも赤坂見附の交差点を無理矢理右折させられ、日比谷方向へ流されてしまうデモ隊と違い、タクシーは悠々と架橋を渡り三宅坂へ直進している。右手にパジャマの柄のような東急ホテルが見えた。
(この前のデモで負傷したML派の男はどうなったかな?)
 慎一は運んだ時の男の顔を思い出そうとしているうちに、いつの間にか自分の顔がオーバーラップしているのに気付いた。不思議と不吉だという思いはなく、ある種の説得力を持ってそれは現われてきた。
(いよいよ明日か…)
その日が確実に一日ずつ近付いて、もう二十四時間を切っているのに今更ながら驚いている。
(ゆっくりと見られるシャバの景色も、これで最後かも知れないな)
 そう思って見る街並みは、それを構成している色の一つ一つがくっきりと感じられ、初めて訪れた街のような感動を与えてくれた。ふと慎一は横に座っている寛子の、身体の温もりが伝わってくるを感じた。寛子はじっと前を見詰めている。
(こいつの体温を感じ取れるのも、これが最後かも知れないなぁ)
 その向こう側にいる関口はドアにもたれて眠っている。三宅坂を下る辺りからあちこちに灰色の警備車が停まり、ジュラルミンの大盾をきらめかせた濃紺の一群が屯しているのが視界に入ってくる。
(明日はこいつらと一戦しなければならない)
 ウインド越しに後方に流れ去っていく彼らの姿を眼で追いながら、慎一は身内に一段と彼らに対する憎しみが、苦い胃液と共に浮かび上がってくるのを感じていた…。

 社会文化会館は昨日と同じで特に変化はなかった。相変わらず立て看板が並び、青いヘルメットを被った男たちが玄関を固めている。三人は五階へ昇っていった。廊下にいる人数が昨日よりもずっと増えている。
「さすがに明日が決戦ともなると、突撃隊も全員集まるらしいな」
 冗談めかして言ったつもりだったが、寛子は口元を少し緩めただけだった。それはここにいる反戦の仲間が、明日にはほとんど権力の手に渡ってしまっており、最悪の場合、この中から死者が出ているかも知れないという思いが、寛子に笑顔を作らせなかったのかも知れない。
 そしてそうした思いは、ここにいる突撃隊以外の人間が、多かれ少なかれ持っているはずだった。しかし当事者の突撃隊の連中はといえば、存外明るい表情をしている。突撃隊を決意するまで全員がさまざまな問題で悩んだに違いないが、今日を迎えるまでに諸々の事はふっ切れてしまったからだろう。
 慎一にしても今の気持を例えて言えば、生まれた時から延々と続いてきた道が今立っているところで途絶え、しばらく先にまた遙か彼方まで道が続いているのが見える、そんな時に覚える感覚に似ているような気がしていた。
過去に戻る事は出来ない。見えるのは向こう側へ渡ろうとするのを拒む空間(敵)だけだ。あるのは如何にその空間(敵)を越えて前へ進むかでしかなく、頼むのは空間(敵)の存在に気付き、共に選ばれ、志願し、戦おうとしている突撃隊の仲間たちだけである。戦う事でしか空白の谷を越えて、対岸(未来)に到達する事は出来ない。
(知らぬ間に空間から落ちて、絶望という谷間を徘徊するのはまっぴらだ)
 そう思うと突撃隊に選ばれた連中すべての顔が、優しく微笑んでいるように見えてくるから不思議だった。
(こいつらだったら何でも許せる)
 男と女の愛情でもなく、男同志の友情とも少し違う妙な感情だった。もっとも明日になれば、こんな事を悠長に考えている暇も余裕もないに違いない。
 三人は廊下を通り抜けて都本部の部屋に入った。テーブルの上には無雑作に全学連とか反帝学評と書かれたヘルメットが投げ出され、顔見知りの学生のキャップが四、五人、ソファに座って話をしていた。
聞くともなく聞いていると、どうやら昨日の総括討論らしい。慎一は反戦に動員はかからなかったが、東大と日大全共闘主催の集会とデモがあり、学生部隊が全国動員をかけて参加していたのを思い出した。
(いかんいかん。昨日学生が少なかったのは、集会とデモがあったからなんだ。すっかり忘れてた…)
 安保自動延長を間近に控え、明日が慎一たちの党派にとって大きな意味を持つ闘争という事もあって、かなり戦闘的なデモであったらしい。話が一段落したところで、全学連の委員長をしている小柄だが精悍な顔をした男が、周りの者に訊いた言葉が面白く意外だった。
「昨日の集会で東北A大の旗が立ってただろ?あの大学には俺たちの組織は、登録されてないはずなんだ。東北A大って書いた旗の傍に、青ヘルを被った連中が二十名くらいいたんだが、誰か彼らを知ってるか?」
 誰も気が付かなかったようで、互いの顔を見回している。無理もなかった。よほどの偶然でもなければ数百本も林立している旗の中から、見知らぬ旗を見付け出すのは容易ではない。
 まして各党派全国動員の集会ともなれば尚更だった。ヘルメットにしても党派ごとに、何千という同じ色のヘルメットが集まるのである。いちいち背後に廻って後頭部に書かれている、大学の名を見て回るわけにもいかない。それに最近は大学とか地区名よりも、プロレタリア統一戦線を略したプロ統という文字を書いている者が多くなっているから、ヘルメットの横もなければならない。
 他に誰も見た者がいないので、錯覚ではないかとしばらく討論が続いたが、絶対に確かだと彼は主張し続けた。結局、東北T大の学生班(といっても明日の決戦に向けて大半が上京してきているので、留守部隊の家なのだが)に確認を取る為に、一人が立ち上がって電話の受話器を手に取った。
 彼は何回か電話の向こうとやりとりをしてから振り向いて言った。
「T大の連中も知らないって言ってるぞ」
 たまたま同じ部屋にいて、固唾を飲んで成り行きを見守っていた、反戦の連中がドッと沸いた。むろんその中には慎一も寛子も混じっている。
「それはきっと独立反帝学評だぜ」
 反戦の一人がしたり顔で言った。
「いやいや私服が隊列を組んで、堂々と情報収集に来たのかも知れへんで」
 と、関口が真面目くさった顔で混ぜ返したものだから、
「二十人もおまわりが変装して来だのなら傑作だ」
 とか、
「権力側の人間をこちら側に引き込んだのは一定の成果だ」
 などとわけの判らん声があちこちから上がって、部屋の中は蜂の巣を突ついたようになった。あまりの騒ぎに廊下から事情を知らない者が、何事かと部屋を覗き込んだほどだ。結局この問題はT大学生班にA大の連中に連絡を付けて貰うのと、明日に向けて東大駒場を始め幾つかの大学に分かれて泊り込んでいる部隊の中に、委員長の見た彼らがいるかどうか探すという両面作戦で行くという事でようやく決着した。
 話の余韻が残り、部屋の中はなおざわついていた。学生から昨日のデモの様子を聞いていた、慎一の脇腹を寛子が軽く突いてきた。
「ねぇ、笛の音が聞える気がしない?」
 そう言われて学生と慎一も話を中断し耳を澄ませた。よく聞こえない。
「皆ちょっと静かにしてくれ。下から笛の音が聞こえるみたいなんだ」
 途端に部屋の中は物音一つしなくなった。ベランダに向かって開け放たれた窓を通して、突き出された旗が風に鳴る音とともに、確かにか細くホイッスルの音が聞こえてくる。一人がベランダに走って階下を見た。
「誰か捕まえて揉み合ってるぞ!」
 叫び声が終らないうちに慎一たちは、先を争うようにして部屋を飛び出した。廊下にいた連中がびっくりして腰を浮かせる。部屋にいてさえやっと聞こえたホイッスルが、廊下では聞こえるはずもなかった。
「外で笛が鳴ってるんだ!」
 慌てて彼らも立ち上った。
「エレベーターより階段の方が早いっ」
 階段室の中は幾つもの足音が乱れ、まるで雷の真っ只中に入り込んだようだ。他の階へ昇って来たとおぼしき人間が、大拠して駆け降りてくる慎一たちを見て、突き飛ばされないよう手摺にしがみ付いている。
 ロビーを抜けて玄関の外へ駆け出てみると、見張りの四、五人と一人の男が揉み合っていた。その傍らで全学連のヘルメットを被った女の子が、一生懸命ホイッスルを吹いている。
 周りから男を取戻そうとしていた数人の男が、飛び出してきた慎一たちの姿を見るや、蜘蛛の子を散らすように逃げ散った。瞬く間に青ヘルメットの壁が、その男を幾重にも取り囲み、一部の連中が逃げた相手を追って行く。
 捕えられた男は慎一にとって見た事もない顔だった。眼鏡をかけ、茶色のスーツ、同系統のネクタイを締めている。身長は慎一と同じ百七十センチくらいだろうか、年齢も三十にはなっていない感じだ。
(何だこいつ、民青みたいな顔付きをしてるじゃないか)
 本当に民青によくあるタイプの顔や目付きをしている。その男は両側から腕を捻じり上げられ、襟首を掴まれていた。
「こいつは向坂協会(社会主義協会向坂派)のキヤップなんだ」
 向坂協会といえば反戦派の党除名に絡んで常に正面に立ち、敵対行為を繰り返してきた党派である。社会党大会のどさくさに紛れて拉致され、肋骨を折られた解放派の理論的中心であった滝山氏を始めとして、彼らの為に傷を負わされた仲間は全国で数え切れない。
協会派の名前が出た事で、わけも判らず周りを取り巻いていた連中が、一気に険悪な雰囲気になった。怒りの為か、人垣越しに殴り付けようとする者までいる。
 中央本部の本村が手を出そうとする者を制した。
「ここで手を出すのはやめろ」
 社会文化会館に向けて彼が顎をしゃくったので、慎一たちは振り返ってビルを見上げた。するといつの間にか窓という窓やベランダから、見物人が鈴なりになって事の推移を見守っていた。
「とにかく都本部へ連れて行こう。そこでこの間の敵対行為に対する自己批判書を書いて貰う」
 奪還に協会派が来るのに備えて見張りを二十人に増員し、その全員に旗竿を持たせたせてから、ヘルメットの一団は捕えた男を中心に据えて階段を昇って行った。最初はもがくように抵抗していた男も、この人数では逃げられないと観念したのかおとなしく歩いている。男はそのまま五階廊下の突き当たりに連れて行かれた。
 さっそくスチール製の事務机が一つ運ばれ、スリガラスのはめられたパーテーションが、男の姿を遮蔽するように立てられた。突き当たりにある天窓から光が射し込んで、今は小さく見える男の影を、スリガラスの上に浮かびあがらせている。
 自己批判書を書かせる役として、中央本部の専従たちがパーテーションの向こうに残った。念の為に十人くらいの学生が、旗竿を持ち出してきて階段の踊場に待機している。万が一玄関の防衛隊が突破されて協会派が突っ込んできても、彼らが第一波の攻撃を防いでいるうちに、慎一たちが本部の中やベランダにある旗竿を手にして、迎え撃つ準備が出来るからである。それによほどの事がない限り、上を占めている反戦や全学連の方が有利であり、まず負ける気遣いはなかった。
 慎一が廊下の中央付近で寛子や関口と雑談をしていると、同じW反戦で全逓から突撃隊として参加した赤迫久が近付いてきた。
「今日は運よく早出だったから、どうやら訓練には聞に合ったみたいだな」
 ぶ厚いレンズの眼鏡をかけた赤迫は、人懐こそうな笑みを浮かべて関口の横に座り込んだ。彼は背も低く痩せているので普段は目立だない存在だが、マル生(生産性向上運動)粉砕闘争でW郵便局に支援に行った時、最前列で職制とやり合っている時の迫力たるや、何処からこんなパワーがと思うほど凄いものだった。
 廊下の奥から男を糾弾しているのか、本村の怒鳴り声が響いてくる。
「何かあったのか?」
 けげんな顔をして訊いてきた彼に、関口がかいつまんで事情を説明した。
「協会だって!俺の集配課にも奴らは結構いやがるんだよ。いつもいつも俺たち反戦に敵対してきやがって。よぉ〜し、ちょっと面を見てくる」
 彼は立ち上がって奥の方へと歩いて行くと、パーテーションの向こう側に消えた。慎一たちにはガラス越しに、座っている男の傍に立った赤迫が、短く話しかけるのがシルエットになって見えていた。
バシィッ。
 何事かと男が顔を上げたところに、赤迫の力一杯の平手打ちが炸裂した。男の眼鏡がふっ飛んで、廊下の壁に当たって床に転がる。周りにいた専従たちも、止める暇がないほどの早業だった。
 赤迫は何事もなかったような表情で三人のところに戻って来た。彼の背後では机に突伏している男に、辻が眼鏡を拾ってやっている。
「俺の知らない顔だった」
 平然と言う彼の言葉に慎一は呆れた。と同時に胸のすくような思いがあったのも確かである。慎一に限らず、その思いは誰でも同じであっただろう。皆がこういう感情を持つに致ったのは(現実に協会派がいない職場にいる者まで)、いろいろな経緯があったのである…。

 社会党全国大会が九段会館で開催された時に、反戦青年委員会排除を呼号して反戦派代議員を入れないよう、玄関前にピケットを張ったのも彼らであったし、その最先頭にM炭鉱の労組員を立たさしめた(労働者の先進的戦いを潜り抜けた彼らに対して、それを規範とし更に激烈に戦おうとしている反戦青年委員会が、何で実力行使に出られるだろうか)のも彼らの策動だった。
 しかも構内で抗議集会を行っている反戦派を、事もあろうに『左翼』を自称する社会党が、機動隊の導入をもって排除したのである。(この一連の戦いの中で、滝山氏が彼らに拉致され肋骨を折られた)
 また都下のK公会堂に於る社会党地区大会の時には、大量の投石代りに使う牛乳瓶に砂を詰めた物、角材やヘルメットをあらかじめ用意しておき、素手でやって来た反戦派に襲いかかってその多数を負傷させた。
 更に組合、ことに大単産に於る労働運動を反戦派であるというだけで、日常的に闘争妨害を策してくるのも彼ら協会派だった。彼らにも彼らなりの理論や行動があるのだろうが、反戦青年委員会の一員として戦いの中に身を置けば置くほど、敵対行為を繰り返す協会派に対する憎しみは濃く深くなっていく…。

 そうした背景の中で、男は自己批判を要求されているのである。男の前に紙が置かれ、本村が筆記用具を握らせているのが、ガラス越しに窺えた。
「赤迫の殴ったのが効いたみたいじゃないか」
 慎一はくわえた煙草に火を点けながら言った。手にしたロングピースに、関口が手を伸ばしてくる。
「ほんまや、ほんまや。一本貰うで…」
 しばらくすると自己批判書を書き終えた男が、赤迫に殴られて脹れ上がった頬を押えながら慎一たちの前を横切り、廊下や踊り場にいた連中の罵声を浴びながら階下へと消えて行った…。

 男が自己批判書を書いて解放されるまで、延期されていた突撃訓練がついに始まった。八十名近い人間が廊下で三列に並んでいる。今日は全員が配られた小盾を腕に着け、ベランダに置いてあった旗竿を持って、突いたり受けたりの基本動作を辻の号令に合わせて行うのである。
 皆が真剣な面持ちでしているのも当然だった。なにしろ明日、自分の身を守りながら敵を打ち倒す為の訓練なのだ。
 結局一時間近く、ほとんど休みも取らずに身体を動かす訓練は続いた。風のほとんど入って来ない廊下という事もあって、全員が水を被ったように汗まみれになり、終った時にはその場にへたり込んでしまう者がかなりいた。
「ふぇ〜、こないしんどい訓練を、あと十分も続けたら死んでまうわ」
 激しく息を喘がせながら言う関口に慎一もまったく同感だった。
(確かにこの体たらくでは、明日の本番が思いやられる)
 寸時の休憩のあと、明日に向けた最後の打ち合わせが行なわれた。盗聴を避ける為、廊下の中央に突撃隊のメンバーが折り重なるように密集し、反帝学評の学生が要所要所に見張りに立つという物々しさだ。
 明日は学生部隊と反戦部隊は各々別行動を取り、決戦場の渋谷で合流する手はずになっている。人の輪の中心に辻が片膝を着き、昨日と同じように打ち合わせが始まったが、さすがに緊張感に格段の差がある。
 ここにいる人間が次に集まる時は、生死を賭けた戦いに臨む場なのである。全員が無事でいる事はあり得ず、負傷しあるいは死ぬ運命にあるのは、私の隣にいる彼かも知れないし、他ならぬ自分かも知れない。
 そう考えなければならないほど、仲間の死や後遺症の残る負傷が日常化し始めている。
(今になってこんな事を考えてもしょうがない。俺たちは開演を前にして、舞台の袖に立っている役者みたいなもんなんだ)
 慎一は辻の話に耳を傾けた。
「…と思われるので、明日は全員腹部に晒し布を巻いておくように。そして必ず背と腹の部分には週刊誌を巻き込んでおく事。これは内臓と脊髄に対する敵からのダメージを、最小限に食い止める為だ。なお小盾は集合地点に於いて、ゲバ棒と例のビンは途中の通過駅の何処かで、兵坦部隊の手によってドッキングされる予定。最後にもう一度繰り返すが、集合場所は東横線自由ケ丘駅の渋谷行きホーム。時間は午後一時から十分間。これ以上長引くと権力の集中を招くので、全員が階級的革命的自覚を持って時間を厳守してください。打ち合わせは以上。では全員起ち上がってください」
 ワラワラと周りにいた人間すべてが立ち上がった。
「シュプレヒコール。ナナジュウネンアンポフンサーイ」
 本村の声に全員が唱和する。
「七〇年安保フンサーイ」
「ナナジュウネンアンポヲ、フンサイスルゾー」
「七〇年安保を粉砕するぞー」
「ハンセンセイネンイインカイハタタカウゾー」
「反戦青年委員会は戦うぞー」
「プロレタリアトウイツセンセンデタクカウゾー」
「プロレクリア統一戦線で戦うぞー」
 拳を高々と突き上げるシュプレヒコールが繰り返され、大きな声が廊下を響き渡っていく。やがてシュプレヒコールが終わって隣りにいる者と肩を組み、身体を左右に揺らしてワルシャワ労働歌の合唱になった。
『暴虐の雲、光を覆い、敵の嵐は荒れ狂う、怯まず進め我らが友よ、敵の鉄鎖を打ち砕け…』
歌は時によってインターナショナルであったり、ワルシャワ労働歌だったりするのだが、慎一はこの瞬間が一番好きだった。見知らぬ者と(といっても同志なのだが)肩を組んで歌っていると、背中を痺れるような感覚が走り抜け、感情が激してやる気になってくるのである。
 いつも歌が終ると恒例の一拍子の拍手になる。何で一拍子なのか判らないが、とにかく慎一が闘争に参加した頃からずっとそうである。きっとこの場にいる誰に訊いても、その正確な理由は判らないだろう…。

やがて前もって決められた都本部の守備隊を残して、突撃隊のメンバーは少しずつ帰って行った。慎一が寛子や関口と共に社会文化会館を出た頃には、周囲はすっかり暗くなっていた。三宅坂を登って赤坂見附へ向かう道を三人はゆっくり歩いた。昼間あれほど溢れていた機動隊員と警備車の群も、今はすっかり姿を消してしまっている。林立しているビルもそのほとんどが、明りを消して夜の闇に溶け込んでいる。相変わらず車だけはかなり走っているのだが、慎一の目に映る範囲での人間は自分たち三人だけである。
 こういった環境は、人間をかなり感傷的な気分にするらしい。いつも楽天的で明るい、関ロにしてからがそうだった。段々と交わされる言葉が少なくなり、少し前から三人はそれぞれの思いに沈んで、無言のまま歩いている。
(明日がどんな日になるか、誰にも見当が付かないのだ)
 時の流れは誰にも止める事など出来ず、明日もまた無限に積み重ねられる時の中で、すぐに過去として時の彼方に流れ去ってしまう…。
 万が一、明日が(俺たちの闘いが)日本史の一ページに記録されたとしても、たった一行の記述ですんでしまうような事柄だろう。まして闘いに決起した諸個人の思いなど、歴史の日の当る場所に出る事は永遠にないはずである。
 しかし闘う意志を持った諸個人にとって、明日という日が個人史の中で占める割り合いは、測り知れないものがあった。何故なら諸個人が積み重ねた闘いの頂点として、明日は存在していたからである。
 そして予定通りに運べば、明日は過去に経験したどの闘争よりも、激烈なものになるはずだった。その明日に参加する以上、個人史が権力によって中断される可能性を、自分自身の中で認めなければならない。
 であるからこそ、
『何かやり残した事はないか。それで悔やむような事はないだろうか…』
 そうした思いがあの関口をして、無言にさせているのは想像に難くない。むろん慎一自身がそうだった。黙々と俯き加減で歩いている寛子にしても突撃隊ではないにしろ、今まで一緒に闘い、笑い、あるいは泣いて来た仲間が、明日には確実に何人かいなくなってしまうのだ。言葉を代えて言えば、一緒にではなく、残されてしまう苦しみを抱えているのである。
(突撃して引かない以上は必ず逮捕される。そこで運よく死ななかったとしても、何らかの負傷は免れまい。武器を持って捕まったからには確実に起訴されて、最低半年間の東拘での独房暮らしを覚悟するしかない)
 そして権力の手によって延々と続けられる、裁判に対する闘争もやり抜く決意をしなければならず、日々衰えていく自らの肉体を鞭打ち、冷酷に過ぎていく時間とも戦わなければならない。
「ワシはなぁ。今まで態度にも出さへんかったし、誰にも話した事あらへんのやけど…」
慎一は呟くような声につられて、足元に落としていた視線を関口に移した。少し遅れて歩いていた寛子も、
関口の顔を見詰めている。
「ワシは…渋川友子に惚れとるんや」
 それが精一杯だったのかあとは何も言わず、関口は二人に顔を見せないよう歩みを速めた。
(そうか。関口は友子が好きだったのか…)
 渋川友子は寛子と同じ十九歳で、高校入学の時から一緒に行勤している親友である。反戦に入って来た当
初は、オリーブと渾名されたほど痩せぎすの身体をしている。もっとも痩せている原因が内臓疾患にあり、今も医者に定期的に通っているのが知られるようになってからは、誰も渾名では呼ばなくなった。
 身体が弱い為に友子はずっと、地域反戦の救援対策や弾圧対策を受け持っている。戦う意志を人並以上に持ちながら物理的に戦えない、そういった苦しみを決して表に出さず、いつも優しい微笑を浮かべている。

 慎一が寛子や友子と出会ったのは、ほんの偶然からだった。去年の4・28沖縄反戦デーに友人二人と、ノンセクトのヘルメットを被って戦いに参加した慎一は、東京駅で戦いの最中に反帝浪人と書いたヘルメットを被った三咲たちと出会った。訊くと三咲たちはW区に住んでいて、W反戦と一緒に行動していると言う。同じW区に住んでいる慎一は、迷わずその場で友人二人とともに、W地区反戦青年委員会に加盟した。
常日頃から反戦青年委員会に入りたいと思いながら連絡先が判らず、やむなくノンセクトで戦っていた慎一にしてみれば、同じW地区の反戦青年委員会と出会った事は、まったく歓迎すべき僥倖だった。
そして友子と寛子も三咲と一緒に、反帝浪人のヘルメットを被って、その場にいたのである。慎一たち三人がW反戦に加盟したのに合わせ、三咲たち三人も正式にW反戦に加盟する事にしたのだった…。

 友子に関しては面白い逸話がある。去年(一九六九年)の10・21国際反戦デーが終わって間もないある日、彼女が家を出てアパートに移り住む事になった。
当然三咲を始めとして同じ地域反戦の慎一や関口が、その引っ越しを手伝う為に出かけて行った。アパートはG駅から歩いて十分くらいのところにある木造二階建てで、ギシギシときしむ階段を上がるとすぐ右に共同便所があり、その前を通った突き当たりが友子の借りた部屋だった。
 部屋は四畳半に申しわけ程度の、小さな流し台があるだけの簡素なものだったが、何とそこに友子はグランドピアノを持ち込んだのである。その大きさときたら到底ベッドなどの比ではない。
 大汗をかいて運び込んでから、不思議に思って慎一たちは友子に訊いた。
「いったいお前は何処に寝るんだ?」
 友子は顔色も変えずに答えた。
「ピアノの下に寝るのよ」
 今も友子はそのアパートからピアノ店のアルバイトに通い、反戦の活動に参加して来ている。



← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 1837